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番外 指に絡まる一筋さえも 14


「もういーいー? 荷物積んだー?」
「積んだー!」
 学院を出発する当日は、季節の変わり目らしく厚い雲が空を覆い、あまり恵まれた天候とは言えなかった。雨は降っていないが、体の芯を冷やすような風が吹いている。帰省のために都に向けて出発する数人は、ヒノトを除いて皆すでに馬車の中に乗り込んでいた。
「それじゃぁ、皆、特に子供らとじい様たちを、よろしく頼むな? また月末前までには戻ってくる」
 留守中に面倒を見てもらう患者について、ぎりぎりまでアリガと話し合っていたヒノトは、そう会話を締めくくった。
「うん、ちゃんと診ておくから」
 見送りに来たアリガは、上着の前を合わせて、呼気を白く染めながら微笑んだ。
「今日は急に寒いね。これから徐々に寒くなっていくんだろうな」
「うん。そうじゃなぁ」
「ヒノトも、体調に気をつけて。温かくして都に帰るんだよ」
「うん」
 判っている、とヒノトは上着の襟元を引き上げる。ここから都までは、馬車で整備された街道を夜通し走り、うまくいけば四日。雨にでも引っかかってどこかに滞在しなければならなくなると七日は掛かる。その間、旅暮らしだ。
 それじゃぁ、と馬車の方へつま先を向けかけたヒノトを、アリガの言葉が引き止めた。
「ヒノト、一つ確認しておきたいんだ」
「なんじゃ? アリガ」
 彼女に向き直り、ヒノトは首を捻る。患者の懸案事項についてはもう散々、確認を繰り返したし、彼女たちのためのお土産を箇条書きにするところまで終わっている。もう確認することなど、何一つ残っていないはずだった。
 腕を組み、薄く笑って、アリガが尋ねてくる。
「もし、『賭け』に負けたとしたら、君はこの国を出て行くのかい?」
「ヒノトー!」
 アリガの質問に、思わず沈黙したヒノトの耳朶を、馬車から呼びかけるリンの声が震わせる。
「いつまでアリガと立ち話してんの! そろそろ出発するわよー!」
「……この国から、出たりなどせんよ」
 ヒノトは馬車から顔を出すリンに、少し待つように、身振りで示しながら答えた。
「都からは離れると思う。しかし、この国から、出たりなど、しない」
 馬車からリンに続いて、ツツミまで顔を覗かせる。待たされている二人は、不満そうな表情だ。
 彼女らに謝罪の意味で手を合わせながら、ヒノトは決然と言った。
「決して、出たりなどしない」
「……それを聞いて安心したよ」
 ヒノトの回答に、アリガは表情を緩め、肩を落とした。
「他の国にでも行かれたりしたら、会うのが難しくなるからね。せっかくできた親友と、なかなか会えなくなってしまうなんて、寂しすぎるじゃないか」
「アリガもこの国から出ないのか?」
「うん。私もこの国で生きるよ」
 アリガの口調からも、ある種の決意が滲んでいる。顔を見合わせ、微笑みあった後、アリガは、ヒノトの背をとん、と軽く押し出した。
「ほら、がんばって行っておいで。賭けに負けたときは一緒に田舎の病院にいこうか。君との勤務なら楽しそうだ」
「縁起でもないことを口にするでない」
 呆れに口先を尖らせながら、ヒノトはアリガに言った。一方のアリガは、そんなこちらの表情がおかしかったのか、軽やかな笑い声を立てる。
「大丈夫。君は、よくがんばったんだから。胸を張って」
「アリガ」
「いってらっしゃい、ヒノト。いい報せを待っている」
「ヒノトぉお! もう! おいてくわよー!!!」
 そろそろ、我慢の限界が来たのだろう。馬車のほうから、友人の金切り声が上がる。
「すまん! 今行く!」
 リンに叫び返したヒノトは、アリガを振り返った。
「ありがとう! 行ってくる!」
 そういって駆け出したヒノトは、アリガが手を振り見送ってくれる姿を、馬車が出発して学院の門が消えるまで、視界の隅に捕らえ続けた。


 記憶する限り、枠組のみであったはずの街道が、いつの間にか石畳が敷き詰められ、きれいに整備されている。真新しい街道を馬車から眺めながら、ヒノトは、都を離れてからの月日を思った。
(二年半も経てば、いろいろ変わるものじゃな)
 最後にこの道を通ったのは、学院に入学するため、都を離れたときだった。それ以後、友人達との旅行や学院の研修行事のために学院を離れることはあっても、都への道を踏むことは、一度たりともなかったのだ。
 変わったのは街道だけではない。道すがら点在する村や町の様子も変化していた。以前は単なる平野であった場所が開墾され、村が作られている。かつて、農夫の家族数組が暮らすのみだった村が、小さな町となっている。長らく人の手が入らず、休耕田だったはずの場所は、穂を刈り取り終えられた稲の跡が碁盤目の模様を描き、二毛作の準備に取り掛かる人々の影がちらほらと見える。
 確実に、復興の道を歩む国の姿。
(わたしがいきる、くにのすがた)
 誰がなんと言おうと、この国が自分の国だ。エイの生きるこの国が、自分の生きる国だった。きっと彼が自分を見放しても、それだけは変わらない。彼が心血を注いで、皇帝や宰相、冢宰、数多くの人々と共に、平らかにしようとしているこの水の大地が、ヒノトの生きる場所。彼がこの国のために働くというのなら、自分もそうしよう。この国で病に苦しむ人を、一人でも多く助けよう。
 そう、決めている。
 もう、ずいぶん前に。
 ヒノトは窓枠に頬杖を付きながら、目を閉じた。馬車の振動は、転寝を誘う。
 友人達は札遊びに興じていて、馬車の中は当分の間、賑やかそうだった。


*


 エイが来訪して二月ほど経った後、一度、母国であるリファルナを訪ねたことがある。他の大陸を回って医療現場を視察する、学院の課外研修の一環だった。北の大陸へ行ったものもいれば、西の大陸へ渡ったものもいる。諸島連国を覗きにいったものも。
 そんな中、ヒノトが南大陸を研修先に選んだ理由は一つだ。
 この機会を逃せば、もう二度と、自分はあの土地に足を踏み入れないだろうということを、予感していたからだった。


 帰郷というよりは、巡礼のようだ。
 同じ南大陸を研修先に選んだ友人達と無補給船に乗り、海の上を移動すること五日。まず降り立った場所はウル・ハリス。砂礫が国土の大半を占める、歴史ある絶対王政の国だ。女王は外交に出ていて不在とのことで目通りは叶わなかったが、一週間程度、王宮や都の医療施設を見聞した。
 南大陸随一の帝国である、アハカーフと、内戦中の国々だけは研修先から外され、ウル・ハリスの後に続けていくつか小国を回る。そして南大陸最後の研修先として足を踏み入れた国が、榕樹の小国リファルナ――ヒノトの、生まれ故郷だった。
 ちょうど雨季も半ばの頃合。昇り立つ水蒸気に、太陽が揺らめいて見える。
 水の帝国の都と似て、水路が張り巡らされた王都。しかし下水設備があちらほど整っておらず、巨大な樹木の根が都の所々を侵食していて、草いきれにも似た生々しい匂いが充満している。そのためだろうか。母国の空気に、ヒノトは違和感を覚えていた。
 港は、ヒノトが国を出たときよりも設備が整い、出入りする船の数も増えていた。町も、土作りのひび割れた建物の多くはそのままだったが、道という道がきちんと整備され、雨の排水のための水路が整えられているようになっていた。以前は踏み抜きそうだった腐りかけた桟橋も真新しく、商人達の小船が水路をよく往来している。
「懐かしい?」
 小船で水路を移動中、くじ引きで同じ南大陸の視察組に割り振られていたアリガが、ヒノトに尋ねてくる。ヒノトは曖昧な微笑でもって返答とした。
 懐かしさというよりも、ただ、痛みを覚える。それは家族を失ってしまったときの過去が呼び起こす痛みでもあったし、この国に『戻ってきた』という感覚がヒノトから欠落してしまっている、そのことに対する寂寥から来る痛みであった。それを、アリガに説明するための言葉を、ヒノトは持っていなかった。
「わぁ! 見てすごい!」
 城を目前にして、船から歓声が上がる。
 巨大な樹木、榕樹に侵食された古い城は、見るものを圧倒する。それは、今も昔も変わらない。
 物珍しいものを見て騒ぐ友人たちとは裏腹に、ヒノトの心中は徐々に沈んでいった。
 なぜか。
 それはおそらく、ある種の、警鐘のようなものかもしれなかったと、ヒノトは思う――呪いに、対しての。
 この、榕樹に抱かれた城に、足を踏み入れてはならないという、警鐘。
 この国には、一つの呪いがある。
 一つの壺に蟲を込める。
 蟻、蜘蛛、蛇、蛙、蚯蚓、百足。
 やがて互いを喰らいし蟲は一つとなりて。
 血で贖いし、玉座に座する。
 王家に生れ落ちた兄弟は互いを殺しあって、生き残ったたった一人だけが、玉座を温める。殺し合いなど演じたくはない。たかが呪いだと、一笑すべきだとも、判っている。
 それでも、身体の中に流れる血が、ざわざわと、蟲が皮膚の下で蠢いているかのように、騒ぐのだ。
 まだ、生きている。まだ、生きている。
 たった一人ではない。
 ころさなければ、いけないよ――……。
 そのことを知っているものは、この国にさえ、数少ない。
「ヒノト、何だいそれは。色眼鏡?」
「うん」
 案内人に促され、小船が城に入る前に、ヒノトは予め用意していた眼鏡を掛けた。
「似合うか?」
「似合わないことも、ないけどね。どうしたの?」
 アリガの問いに、ヒノトは微笑んで答える。
「太陽がまぶしい」
「なるほどね」
 友人は、納得したのか大きく頷いた。
「確かに、ここの太陽は、目に痛い」
 しかしそれなら、船から下りてすぐにつけるべきだろうと、日ごろ聡い友人は指摘しなかった。


 昔、ある男に教えられたことがある。
 この瞳の、鮮やかな緑は、証だと。
 この呪われた国の、王の血族である、証だと。


 かつて少年だった王は、成長して凛々しい青年となっていた。そのことに驚くと同時、当然だとも思う。自分もまた、少女から、女になったのだ。対面した王は、ヒノトと目を合わせて微かに笑った。その、人懐こい微笑だけが、昔と変わらなかった。
 国王は丁寧に、水の帝国からやってきた若い医師の卵たちを労った。到着した当日、王の好意によって開かれた小さな宴の席で、彼は一人ひとりの手を握って、ヒノトの友人たちに、歓迎の言葉を掛けたという。
 ヒノトは、体調不良を理由に、その宴に参加しなかった。
 一つ不思議だったのは、以前は赤の他人もいいところだった顔の造作が、もしかして、と何も知らぬ者に対して匂わせる程度に、成長して似通うようになってしまっていたことだった。
 他大陸の民族的特長は、判別しにくい。ヒノトにとって東大陸の平凡な造作の人々の特徴を、判別することが難儀であるのと同じように、ヒノトの友人達にとっては、ヒノトの顔も、王の顔も、ひっくるめて南大陸の民の特徴を残す顔にしか見えないだろう。そのことは、幸いだった。ただ一人、歓迎の宴から戻ってきたアリガだけが、ヒノトの顔を見るなり、王様って、ヒノトに似てない? と声をかけてきたのだが。
 まさか本当に、片親の血つながった兄妹であるとは、思わなかったようである。
 ヒノトのリファルナでの研修は、その後、つつがなく進んだ。ヒノトが王に声を掛けるなどと、不敬なことはできなかったし、王もヒノトに言葉を下すようなことをしなかった。顔を見ることもほとんどなかった。
 サブリナという名の女一人を后として娶る彼は、世の権力者の多くがするような女遊びに興じるようなこともなく、腐敗した国を立て直すために堅実に仕事を行う、実に多忙な王だった。
 淡々としながらも刺激的な日々に変化が訪れたのは、リファルナで過ごして七日目。
 翌日の夕刻には、船にのって東大陸に戻ろうかという、研修最後の日だった。


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