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番外 指に絡まる一筋さえも 13


 カグラの墓は共同墓地の一角にある。貴族の中でも血縁者がいないものに対して与えられる眠りの場。林の奥に秘匿されるように存在する空間に並び立つ墓標は、白い石で出来ている。それを見るたび、エイは頭の骨が並んでいるような錯覚を覚える。規則正しく並ぶ、白き躯と。
「しばらく、顔を見せずにいて、申し訳ありませんでした」
 カグラの名前が刻まれた、墓標の前に膝をつき、花を添えて、エイは呟いた。彼女の死は都で聞いた。あの、牢獄のような彼女の部屋での再会が、エイが彼女を見た最後だった。
「不思議ですね。こうやって訪ねてくるたびにいつも思うのですが、貴方がどこからか現れるのではないかと、思えて仕方がありませんよ」
 カグラはいつも神出鬼没だった。学館からの帰り道も、意表をついて現れては、エイを驚かせたものだ。思い返せば、それは町に入り込んだ城の人間の目を欺くためだったのかもしれない。窒息するような不自由さの中で、それでも自分に会いに来てくれていた彼女の苦労を、エイは思った。
 コリューン経由で彼女の訃報を聞いたとき、エイはそのあまりの現実感のなさに驚いたほどだった。彼女の死を、直視していなかったからだろう。死んだことは判る。こうして墓もある。それでもまだ、どこかで彼女が生きているような錯覚を、時折覚える。
 時と多忙さに流されて、カグラの存在は埋もれていく。遠方に暮らす友人の存在と同じだ。連絡を取らぬ友人の存在は、ふとした拍子に話題に上ったり思い返したりすることもある。しかしいくら親しかった人々でも、遠方で暮らす、それだけで、現実から消失していく。
 そうしなければ、人は生きていけない。大勢の存在を抱えて生きていけるほど、人は――少なくとも、エイは、強くはなかった。しかし、忘れられたものにとっては、残酷だろう。特に死者は――生者を、忘れない。
「貴方を忘れてしまっていたことを、怒っていますか? カグラ」
 土に返ったかつての友人が、エイの問いかけに答えるはずなどない。無意味な質問は風に流され虚空に溶ける。
 イルバの話を思い出す。魔力の粒子に記憶が宿るのだという話を。ならば肉体から解き放たれたカグラのそれは、今も自分を取り巻いているのだろうか。その魔力が、エイにカグラを見せしめたのだろうか。だとしたら、一体何の暗示だろう。
「もう、長い間」
 本当に、長い長い間。
「貴方を、忘れていた」
 母と同じ。師と同じ。
 かつての自分を導いた存在ではあれど、カグラは今、エイの現実に生きるものではない。フベートに寄れば墓を参る。しかしそれだけだ。こんなに長い間、カグラがエイの胸中に『棲む』ことは久しくなかった。そういう意味では、彼女を忘れていた。
 思い出さなかった。
 彼女の言葉。
 瞼を閉じて、エイは最後のカグラの微笑みを思い返した。父の歪んだ愛に囚われ、自由に羽ばたくことを許されず、さらには、愛した男――今でも、笑えてしまうのだが、自分のことであるらしい――から想いを掛けられることなく。
 平和な御世を見ることもなく。
 病に没した、女の。
 カグラの、全てを諦観したような寂しげな微笑は、遠い昔、自分が殺してきた年端もいかぬ少女達のそれを思い起こさせる。檻に囚われて死んでいった少女たちの微笑は、共通していた。
 男の欲望に人生を歪められ、土へと還っていった彼女らの微笑は、皆、不幸だった。死を至上の幸福、この世からの解放と見なす、陶然とした微笑は、あまりにも傍目に不幸だった。
「貴方は言いました。私を愛した女は、私の檻の中に入れなければ、不幸だと」
 檻に入れられた少女たちの末路はあまりにも凄惨であるのに、カグラはエイにそれをしろと言う。
 そして一体誰をその檻の中へ入れるのかと、彼女は問う。
「貴方は、いまさら貴方の最後の問いを、私に思い出させて、一体どうしようというのですか? カグラ」
 か細く紡がれた質問の答えは、やはり墓に詣でた程度では、見つからなかった。


 墓参りをしたところで、カグラが亡霊となって現れてくれると期待していたわけでは決してない。夢の意味を教えてくれると、思ったわけではない。
 それでも何か、原点に戻れば、見落としていることに気づくことができるのではないかと、そう思ったのだ。
 結果は、いつも期待を裏切る。


「こっちには長く滞在するのか?」
 母と師とカグラと。本当に墓参りだけしかすることがないなと苦笑していたエイを、コリューンが夕食の席に招いた。町の郊外にある彼の屋敷で、秋の味覚を並べた食事に舌鼓を打っていた中、彼が何気なく問うてくる。
「いいえ。明日の午前中に軽く町を視察して、昼過ぎには帰ります」
「なんだ。つまらないな」
 酒の入った杯を置いて、コリューンは口元を歪めた。
 そうはいっても、エイだけではなく彼にもまた仕事がある。エイと長く旧交を温めているわけにもいかないだろう。自分との別れを惜しんでくれることはありがたいが。
「館出身のやつらとは、連絡を取っていないのか?」
「何人かとは」
 とはいっても、片手の指で数え切れてしまう程度には違いない。指を折りながら、エイは言葉を続ける。
「一人は今、マジェーエンナで真珠の工芸職人をしています。あちらに妻子がいるので、こちらに戻ってくることもないようですし。私も外交にかかわることが少なくなってあちらに出向かなくなったので、滅多に会いませんね。時折手紙が来る程度です。一人はフベートの端で、教師を。文字の読み書きを教えているそうです。ほか二人は、この近くで農夫をしていますが、ちょうど出かけているようでして会えませんでした」
「ふうん」
 エイの言葉に耳を傾けていたコリューンは、空になった杯を振りながら言った。
「なんだ。老師の弟子で政治に関わっているのは、結局お前だけなんだな」
「……の、ようですね」
 師は、以前は領主に勤めていた有能な官吏だったという。それゆえにカグラとも親交があったのだろう。自分の恩師の素性を、エイは都へ移動してから知ったのだ。あの老人から政治の手解きを受けた少年は大勢いたのに、結局この畑で生きている男は、知れているかぎり自分ひとりだった。
「それだけ会える人間がいないなら、確かに長く滞在していても仕方がないな。……あ」
 何かを思い出したのか、突如呻いて動きを止めたコリューンを、エイは瞠目して見つめた。
「……どうしました?」
「いや、お前そういえば、ヒノトはどうしたんだ? 元気してるのか?」
「あぁ……はい」
 コリューンの問いに、エイは先日彼女から来たばかりの手紙を思い返しながら、微笑んだ。
「元気にしているそうですよ」
 コリューンとヒノトは、面識がある。一度だけ、エイは彼女をこのフベートに連れてきたことがあるのだ。あれは確か彼女が学院に入学する前の年の、ちょうど今頃の季節だった。フベートの紅葉は格別に美しい。それをヒノトに見せるために、彼女を連れてこちらを訪れたことがあった。
 共に出かける約束はまさしく文字通り、星の数ほど交わしたが、叶えられたことは皆無といっていい。そんなエイに、約束が反故になるとわかったときには文句を口にこそすれども、肝心の休みが取れた際にはエイの休養を優先するのがヒノトだった。
 そのヒノトが、あのときばかりは、どこかへ出かけたいと言って引かなかった。そしてエイが彼女を連れてきた場所が、この、生まれ故郷だったのだ。
「元気にしているそうだって……なんだその言い方は?」
「学院というのをご存知です?」
 エイの問いに、怪訝さから顔をしかめている友人は、否定の意を示した。
「いいや」
「ガラン地方にある、全寮制の学校なのですが……医療専門の」
「あぁ悪い。思い出した。聞いたことがある」
 眉間に手を添え、開いた手を左右に振りながら、コリューンは呟いた。
「なんだ、そっちに行ってるのか。確かに医者の卵だったもんな」
 この友人とヒノトをエイが引き合わせたときにはすでに、ヒノトは学院の入学試験に合格していた。その他の手続きも、出立の準備も、宰相の手によって全て整えられていた。
 どうしても出かけたいと、せがんだヒノト。都を出る前に、彼女は何か思い出を作りたかったのかもしれないと、今になってエイは思う。
「学院生活は順調なのか?」
「そのようです」
「じゃぁ卒業した暁にはあのヒノトも、押しも押されもせぬ、最高峰の医師の仲間入りだなぁ。厳しいんだろう? あの学院って」
 三国の協定によって設立された学院。国の実験的研究も数多く手がける。三国それぞれから、定期的に監査が入り、教育水準の確認を行う。入学の試験自体はそこまで厳しくはなくとも、定期的に行われる考査などに合格していかなければ、すぐに落第の烙印を押されて追放となる。
 他者を生かす人だけを、生み育てる学び舎。
 その学院で、ヒノトは主席の成績を収めている。御殿医たちに引けをとらぬ腕と知識を身につけていることの証左だ。それを誇らしげに思うと同時、寂しさにも似た苦しさが、エイの胸を占めることがあった。
「奥方がそんな遠方で、お前も寂しいだろう」
 酒に口をつけながら、笑ってコリューンが放った言葉に、エイは首をかしげた。
「奥方……?」
 エイの様子に、コリューンは意外そうに眉をひそめる。
「なんだお前、まだ結婚してなかったのか?」
「いえ……」
「確かに言われてみれば、俺のところに知らせが来てないのもおかしな話だよな。じゃぁ、戻ってから祝言をあげる?」
「いえ、コリューン、違います」
「……何が違うんだ?」
 唸るかのような彼の問いかけに、エイは慌てて首を横に振った。
「ヒノトは、私の恋人でもない」
 エイの発言に、コリューンは息を詰め、これ以上ないほどに目を見開いて叫んだ。
「おま……冗談だろう!?」
「いえ、冗談もなにも……なんでそんなに驚くんですか?」
「だって、お前、そんな……」
「コリューン、何を根拠に私とヒノトが恋人なのだと勘違いしたのかは知りませんが、それではヒノトがかわいそうでしょう」
「かわいそうなのは、むしろヒノトの方だ」
 卓の上に手をついて、身を乗り出すようにしながら、声を低めてコリューンが問いかけてくる。
「お前、本当に、わかってないのか?」
「……判って……何を、ですか?」
「あぁ……なんてことだ」
 椅子に再び腰を下ろし、この世の終わりとでもいうように彼は手を額に当て項垂れる。
「……あぁ、だからか。だから……」
 ぶつぶつと何事かを呟く友人に、エイは眉をひそめた。
「コリューン、意味がわかりません」
「お前、自分の胸に手を当てて考えろ。俺が教えることじゃない」
 盛大なため息と共に、コリューンは吐き捨てるように言う。エイは呻いた。
「……何だっていうんですか?」
「本当に……わからないのか?」
 頬杖を付き、上目遣いに呆れた視線をこちらに寄越して、コリューンは問い返してくる。
「判らないっていうなら、お前はなんて残酷なんだ。お前は、彼女に対して、あまりに残酷すぎる……」
 心からヒノトに対して同情している様子の、コリューンの言葉に、カグラの言葉が重ねて聞こえる。
 ――お前はこんなにも優しく……そしてあまりにも、残酷すぎる――……。
「私の何が、一体、残酷なのだというのですか……?」
「それは俺が答えていいもんじゃない」
 コリューンは、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて言った。
「もし答えていいなら、俺ではなくお前の周りの誰かが、もっと早くにお前に答えを伝えているはずだ。誰も、そうしていない。お前は自分でそいつに気付く義務がある」
「……義務」
 唇を微かに震わせて、コリューンの言葉を反芻する。彼の表情は、ひどく厳しかった。彼は無言で、杯の酒を呷っている。
「……コリューン、一つ、訊きたいのですが」
「……さっきの話以外ならな。なんだ?」
 憤然さすら滲ませるコリューンに、エイは神妙に言葉を選んだ。
「檻に入れられた女は、不幸になると思いますか?」
「……なんかの比喩か? それは」
 エイは唇を引き結び、コリューンの問いに沈黙を返した。彼の言うとおり、比喩といえば比喩だろう。しかしこの意味をうまく彼に伝える術を、エイは持たなかった。エイもまた、明確な意味を捉えているわけではなかったからだ。
 何故、檻について彼に尋ねてみようと思ったのか。それはきっと、彼の言葉がカグラの言葉と重なっていたからだろう。何か、彼なら思い当たるものもあるかと、エイは思ったのだ。
「……檻に入れられたその後の結末によるんじゃないか?」
「檻に入れられた、後の結末?」
「あぁ」
 コリューンは、とん、と杯を卓の上に置いて頷いた。卓の上に落ちた彼の手の影が、蝋燭の明かりに照らされて揺れる。
「例えば、怪我をした小鳥がいるとしよう。男がその鳥を拾い上げ、鳥かご、つまり檻の中に入れて手厚く看護したとする。小鳥の怪我が癒えた後、それを保護した男は、鳥かごの扉を開けた。しかし、鳥は籠の中に留まり続けた――鳥にとっては、檻の中が幸せだったから」
 籠から出た鳥は自由に羽ばたくことができる。けれど、また怪我をするかもしれない。鳥は、檻の中が幸福だと定めたのだ。
 しかしそれは、籠の外のほうが厳しい場合だ。
 籠――檻の外のほうが、幸福の場合は?
 檻の中に閉じ込められた少女の姿が、ふとエイの脳裏に浮かんだ。
 檻の中で、エイに殺されるのを待つばかりの、顔の見えない、少女。
「エイ、ヒノトは、いつ学院を卒業するんだ?」
 コリューンによる不意の問いかけによって、エイは思考の海から急な浮上を余儀なくされた。
「ヒノトですか? ……もう、半年ほどすれば。いえ、そんなにないですかね」
「半年? じゃぁ今年は三年か」
「はい」
 腕を組んで何か考え込んでいる様子の友人に、エイは情報を付け加える。
「実は来月、勤め先を決めるまえに、相談のために一度戻ってくるのです」
「来月?」
「の、頭ですから……そうですね。もう、十日ほどで、一度帰省してくることになります」
「十日か……」
 十日。
 そう、もう半月もないのだ。ヒノトが、帰ってくるまで。コリューンに対して答えながら、エイは改めて月日の早さを認識せずにはいられなかった。
 今回、ヒノトの手紙を受け取ったその日に、エイは返事を書いている。彼女の旅の安全を祈って書いた手紙は、もう届いただろうか。
「エイ、俺も一つ、質問していいか?」
「……はい。なんですか?」
 頷きながら、エイはコリューンに向き直った。彼は卓の上で両手を組み、険しい表情で沈黙している。やや置いて、彼は躊躇を見せながら、エイにその質問とやらを口にした。
「お前にとって、ヒノトは、一体どんな存在なんだ?」
「……私に、とって? それは当然」
「お前が後見する女」
 コリューンは、事実を述べたに過ぎない。
 しかしエイは奇妙な生々しさを覚えた。コリューンが、ヒノトを、『女』と表現したからだろうか。
「そいつはわかる。だが、本当にそれだけか? 何の意味もなく、お前は妻を娶ることもなく、ただ、あの子を支援し続けたのか?」
 どんな意味があって、お前は彼女を保護したんだ。
 コリューンの問いに、当惑しながらエイは唇をどうにか動かした。
「コリューン。それは」
「お前にとって、彼女は何だ?」
 しかしコリューンはエイに答える暇を与えず、矢継ぎ早に質問を投げかけてくる。
「お前にとって、彼女はどういう存在なんだ?」
 どう、答えれば、よいのだろう。
 ヒノトは自分にとって、どういう存在なのか。そのようなこと、改めて考えてみたことなどない。
 だが、ただ一つ確かなことはある。
「……ヒノトは、私の……」
 意味。
 政に携わる意味。身を粉にして昼夜問わず働き、この国を、平らかにするために、心身を捧げる。
 意味、そのもの。
 守りたいと思った。養母の血に手を濡らし、彼女を救えなかったことを嘆き悲しみ、天に己の存在の意味を問うていた少女の小さな手を、守りたいと思った。あの手は自分の手と異なり、人を救うためだけに存在する手だ。あの手を、守りたかった。あの手が、何かを奪うことのない世界であってほしいと思った。
 だがそれを口にすることは躊躇われた。簡単に他者に口にしてはならない、秘め事のように思えたのだ。
 一度口にしてしまえば、決定的な何かとなって、『それ』はこの世界に現出する。
 頭痛が、した。
「そのことを、もう一度自分でよく確認するんだな」
 嘆息し、まるで予言のように、コリューンはエイに宣告する。
「さもないと……お前、あの子を失うぞ」


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