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番外 指に絡まる一筋さえも 12


 頭痛が、ひどい。
(なんなんでしょうかね、これ)
 倒れる寸前にも覚えた頭痛は、医者に言わせれば、身体のどこにも異状らしいものは見当たらず、精神的ないし肉体的疲労からくるものだという。とはいえど、文字通り一日寝て過ごした後も、この頭痛は治まる気配を見せない。ひどくなるばかりだ。
 この頭痛は、遠い過去に覚えがある。
 これはそう、空腹のときに覚える頭痛に似ている。極限の空腹に近づくと、意識が朦朧として耳鳴りと頭痛がひどくなる。それを通り越すと、指一本動かせなくなってしまうのだ。まだ、この国がどの国からも見離されるほどに荒れていた頃、幼い時分に常に覚えていた飢餓感――そこから来る頭痛に似ている。
 奇妙なことだった。今、自分は食うに困ることはないというのに――何かを渇望しているという感覚がある。飢えている。
 しかし、何に飢えているのかは、判らない。
 だから、頭が痛い。
「エイ!」
 背後から呼び止められ、エイは立ち止まった。エイが今しがた来た道を駆けてくるのは、イルバである。驚きに瞬いて、エイは彼に向き直った。
「どうなさったんですか?」
「あぁいや。時間に余裕があるなら、今のうちに仕事の話の続きしておいたほうが楽だと思ってな。お前の具合が悪いなら、やっぱ後日にするけど」
「いいえ、構いませんよ」
 一人でいるよりも、誰かと会話していたほうが、気が紛れるのは確かだった。イルバの提案をエイが承諾すると、彼は安堵したような表情を浮かべ、廊下の先を指差した。
「それじゃぁ、俺の部屋にいこうぜ。立ち話もしんどいだろ?」


 エイもイルバも、大抵、ラルト達と共にあの部屋で仕事を行うことが多い。しかしながら、本殿内部にいくつか、個人的な他の部屋も与えられていた。
 イルバがエイを招いたのは、執務棟と呼ばれる、文官たちが業務する棟のほうに存在する彼の部屋だった。書斎的な意味合いの強い部屋だ。広さはさほどでもなく、執務用の部屋と、仮眠室で成り立っている。
 見張りは立っているものの、冢宰の私室だからといって奥まった場所に存在するわけではない。執務棟の中でも女官や武官、大勢の人間が往来する、どこか雑然とした一角にある。ちなみに、エイの部屋も似たような区画に存在した。位置は真反対だが。
「そこに座っててくれ。飲み物果実水でいいか? 茶葉がねぇんだ」
「お構いなく」
 戸棚から、茶色の瓶と高杯を二つ取り出したイルバに、エイは遠慮に慌てて手を振った。しかしイルバは意に介した様子もなく、ここん、と音を立てて高杯を卓の上に置くと、手馴れた様子で瓶の中身を注ぎいれる。淡い、紅色の果実水だ。
「何の果物水ですか?」
「イチゴ」
「……イチゴ……」
 別に偏見ではないが、どちらかというと強面の類に入るイルバの口から平然と可愛らしい春の果物の名前が飛び出し、エイは少々面食らった。が、イルバはエイの呻きを、別の意味としてとったらしい。
「珍しいだろ、今の季節に。春に作ったやつを、保存庫で寝かしておいたやつなんだとさ。シノが持ってきた」
「あぁ、シノ様が?」
「酒の間で飲むんだよ」
 女官長シノ・テウインとこの冢宰は、年の離れた兄と妹のようにひどく仲がよい。仕事が終わった後、よく二人で晩酌をしていて、エイも時折、そういった席に呼ばれることがあった。
「そんな貴重なものを戴いてもよかったんですか?」
「かまやしねぇさ。そんなことで、シノも怒りゃしねぇだろうよ」
「……そうですか。では戴きます」
「おう」
 少し酸味のある甘い果実水は、頭痛のせいで霞がかった意識を明瞭にする。思いがけず美味だ。できることなら、ヒノトにも飲ませてやりたいと、エイは思った。
「頭痛のほうは大丈夫か?」
 対面の長椅子に腰を下ろしたイルバが、高杯に口をつけながら尋ねてくる。そういえば、彼はエイのこの頭痛のことを知っているのだ。苦笑しながら、エイは正直に答えた。
「実のところをいうと、あまり。今も痛いです」
「あんまよくねぇなそれ。変な病気じゃなきゃいいけどよ」
 冗談とは到底思えない彼の深刻そうな声に、思わず顔を引きつらせる。
「医者にもきちんと診てもらいましたよ。怖いこといわないでくださいよ」
「わりぃわりぃ」
 口ではそういいながらも、ちっとも悪びれた様子はない。しかしそれでも不快感を与えないところが、イルバの魅力だった。
「話を始めるまえに、すこし気になったんだが、いいか?」
「はい? どうぞ」
「お前、どうして突然里帰りなんかしようって思ったんだ?」
「……何か問題でも?」
「いや。……なんつうかその。あまりに急だったからよ。あんま故郷に執着があるようにも、お前は見えなかったし」
 勘違いだったら悪いと、イルバは付け加える。エイは首を横に振った。故郷に執着がない。イルバの言う通りだったからだ。便宜上、『帰省』という言葉を使ってはいるものの、あの土地に『帰る』という感覚は、エイからとうの昔に失われてしまっている。
 仕事の際はラルトの好意に甘んじて一日余分に滞在させてもらっている。とはいえど、それを自ら望んだことはあまりない。フベートに戻ったところで、かつての同胞は皆妻子を得て方々に散り、中にはエイのようにフベートで暮らしていないものもいる。かつてエイが学び暮らしていた館は他人の手に渡っている。フベートですることといったら、墓参りがせいぜいだ。
 しかし、今回はその、墓に詣でるために、フベートを訪ねてみたかった。
「故人となっている知り合いが、夢枕に立ちまして」
 手元の高杯に視線を落として、エイは呟いた。
「たまには墓掃除しろってか?」
「いえ、そういうわけではないのですが……。なんといいますか、夢を見たのです。……昔の、夢です」
 エイ自身も、久しく思い出すことのなかった。
 女の、夢。
 カグラ。
「イルバさんの言うとおり、墓を掃除ぐらいしに来いという、暗示なのかもしれない」
 面を上げて、エイは努めて明るく言った。
「忘れて、いたのに」
 カグラの存在は忘れていたわけではない。フベートに立ち寄る際には、必ず彼女の墓に詣でている。
 忘れていたのは、彼女が自分に残した言葉のほうだ。
 知らぬ間に、じわじわと、深層意識を侵食していた、錆のようなそれ。
 彼女が自分に打った、楔。
 ――エイ、お前は……。
「知ってるか? エイ。こんな話がある」
 長椅子の背に腕を回し、秋晴れの空を窓越しに眺めながらイルバが話を切り出した。
「西大陸の、古い魔術師の研究だ。人間っていうものは、見聞きしたものを忘れたりしない。なぜなら人に宿る、魔力の粒子が記憶するからだ。内在魔力と呼ばれるそれは、肉体が死しても記憶を持ったまま世界を循環する。だから、時に亡霊なんてものが存在する。人は、本当は神話の時代からの記憶を、受け継ぐ器なのだと」
 聞いたことのない話で興味深くはあったが、なにぶん話の筋がよく読めず、首をかしげる。そんなエイに、イルバは笑って話を続けた。
「俺が言いたいのは、人は忘れることなんざできねぇ。できるのは、思い出さないことなんだっていうことだ」
「……思い出さない、こと、ですか」
「あぁ」
 イルバは頷き、高杯の中身を呷った。
「新しいことを学んだり、人と出会ったり、仕事に没頭していたり。そうすることで、思い出さないようにすることができる。それが、人だと。魔力が受け継ぐ膨大な記憶によって、気が狂わないようにするための安全装置っていうやつか。忘れてしまっていたはずの出来事を、人を、言葉を、思い出す。夢に見る。それは、思い出さないように記憶が押さえつけることができねぇほど、余裕がねぇって証なんだとよ。……俺は、あながち間違ってねぇんじゃねぇかって思うぜ。この説」
「……余裕がないように、見えますか?」
「さてな」
 イルバは意味深に微笑んで、エイの問いに答えることをしなかった。
「……失礼ですが、イルバさんが、お亡くなりになられた奥様たちのことを、今も思い出されますか?」
「ナスターシャたちは常にここにいる」
 そう言ってイルバは、己の指先でとんとんと胸を叩いて見せた。
「忘れることはねぇさ。あれらは俺にとっての罪の証で、生きる意味だから」
 イルバが浮かべる表情は、苦悶しているようにも、愛おしんでいるようにも見える複雑なものだった。
「……けど、そうだな。あいつらが死んだ頃のことを思い出すときは、俺に余裕がねぇ時かなぁ。仕事で精神的にキツイ時とかな」
「……嫌な思いをさせてしまって、申し訳ありません」
「いいさ。かまやしねぇ」
 彼がこの国で働くことを決めたのは、ひとえに、国も主君も妻子も、すべて失った彼の手にたった一人残った『家族』を、生かすためだった。彼が右僕射として着任し、四年月日が流れた今となっては、彼もまたこの国を愛する人間だと、エイは信じている。それでも引き攣った傷のようなものは、いつまでも心に残るものだ。
「そんな顔すんなって。……本当に、なんともないんだ」
 イルバは微笑んだ。
「忘れることはない。けど、思い出すこともあんまねぇな。俺が言うのはそういう意味だ。よく出来た君主に部下、お前を含めた気のいい仕事仲間。やりがいのある仕事に、地位。こんだけ恵まれて、過去を嘆いて文句たれてたらあの世のナスターシャに殴られらぁな。この国で生きることができて、俺は幸せだ」
「……イルバさん」
「ただまぁ……ナスターシャたちに関して辛いのは、死ぬ間際のあいつらの顔が思い出せないってことぐらいか」
「……顔?」
 何気なく呟かれたイルバの言葉に、エイはぎくりと身を強張らせた。
 エイの脳裏を過ぎったのは、ヒノトのことだった。倒れる寸前に覚えた、自らに対する疑問。
 何故、自分はヒノトの顔を、思い出せないのだろう――……。
「あぁ」
 大きく頷いて、イルバは言った。
「昔のことはよく思い出せるんだ。娘が生まれたときの女房の誇らしげな顔。小さい頃の娘の顔。生意気になってきた頃の、俺に説教する娘の顔。娘と共謀するいたずらっぽい女房の顔」
 懐かしさからか緩んでいたイルバの口元は、すぐさま引き締められた。
「けどな。思い出せねぇんだ。セレイネが死ぬ前の顔。セレイネが死んだ後の、ナスターシャの顔。俺は確かに、あいつらと言葉を交わしたんだ。会ってないわけじゃない。なのに思い出せない」
「……それは、どうして……?」
「結局、向かい合ってなかったっつうことなんだろうな」
 イルバは嘆息を零しながら、エイの問いに応じる。
「あいつらと、正面から向かい合ってなかった。だから、顔だけが、抜け落ちてる」
 その言葉に、エイは吐き気を覚えて思わず口元を押さえる。身体中の温度という温度が、地につけている足から、床に吸い取られてさえいるような錯覚を覚えた。
「エイ? 大丈夫か?」
 エイの様子を感じとったのか、イルバが腰を上げて顔を覗き込んでくる。エイは喉の奥を焼きながら競り上がってきたものをどうにか嚥下して、イルバに頷き返した。
「はい……。大丈夫です」
 笑顔を取り繕って頷く。血の気も指先の感覚も、徐々に戻ってきた。それでも、イルバの先ほどの言葉が、痛みと共にエイの脳裏に反響し続ける。
 顔だけが。
 記憶から欠落している。
 向かい合っていなかったから。
 では、ヒノトの顔を思い出せない自分は、彼女と向き合っていなかったとでもいうのだろうか。
 だとしたら、彼女の何と向き合っていなかったのだろう。
 ますますひどくなる頭痛に閉口しながら、エイは顔の思い出せぬ少女のことを思って、目を閉じたのだった。


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