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番外 指に絡まる一筋さえも 11


 フベート地方は水の帝国の中でもとりわけ水田の多い土地だ。田園風景が地平の果てまで続く。今年の秋の収穫はすでに終わっているらしい。遠くに広がる茶色の田畑が、整然と並ぶ石畳か何かのように、エイの目には映った。
「エイ」
 窓の外を眺めていたエイは、呼びかけに振り返った。
 部屋の入り口に立っていた男を視認し、エイは微笑む。
「エイ……久しぶりだ!」
 そういって握手を求めてきた男の手を、エイは歩み寄って握り返す。学者肌だというのに、武人然としている男の握力は、エイの手を痺れさせるに十分だ。まったく、年を経ても変わらない。
「コリューン」
 コリューン・タクト。現在、フベート地方の領主の補佐を担う男である。黒髪に薄い茶の瞳をした、無骨な印象を与える壮年の男。年は、確かイルバと近い。
 フベートの前領主の交代劇を指揮した男。
 カグラが引き合わせ、そして今も交流の続く、エイの数少ない朋友の一人だった。
「あぁ、しまった。毎度のことながら、左僕射殿と呼ぶのを忘れてしまうな」
「そして毎回のことですが、そんな風に呼ぶ必要はありませんので」
「それを聞くたびに安心するよ。久しぶりだな。兄上に聞いたときは驚いたぞ。待たせて悪かった」
 城外視察に出ていたコリューンよりも先に、彼の兄、つまりこの地方の領主には挨拶を済ませている。城の客間で待たせてもらっていたのは、ほんの僅かな間に過ぎなかった。
「気にしないでくださいよ」
 エイの言葉に微笑んだコリューンは、部屋の長椅子を勧めた。
「まぁ座れ。本当に久しぶりだ。いつ振りだよ?」
「最後に来たのは一昨年ぐらいでしたね」
 エイが長椅子に腰を下ろすと同時、女官が一礼して部屋に足を踏み入れてくる。彼女が押す台車には、茶道具と乾果の詰まった皿が乗せられていた。
「修繕の終わった水路の視察に来たのが、確か最後です」
「あぁそうだった。そんなに長い間ご無沙汰だったとは」
 長い月日を思ってか、旧友は目を細める。
「……忙しいんだろうなぁ。仕事は」
「まぁまぁです」
「俺はお前を感心するよ。というか、都の本殿で働いているやつら全員だ。忙しすぎて、俺には合わなかったなぁ、あちらでの暮らしは」
 コリューンが都で暮らしていたのは、二年もなかっただろうか。すぐにフベートへと戻ってきて故郷の復興に尽力した彼も、決して暇ではなかっただろうが、彼はエイと再会するたびに、あちらは忙しすぎると苦言を漏らす。そんな彼に、エイは苦笑せざるを得なかった。
「今日も何か視察のついで?」
「いいえ」
 茶器をそっと差し出す女官に目礼を返しながら、エイは否定を口にした。
「今日は休暇をとってこちらに来ました」
「わざわざ?」
「えぇ」
 特別な理由がなければ、フベートに足を踏み入れることなどほとんどないこちらに、怪訝さを覚えたのだろう。首をかしげる旧友に、微笑んで、エイは言う。
「墓参りに、来ました」


 もういないあなた。
 わたしにくさびをうったあなた。
 あなたはしっているのだろうか。
 この、とてつもない、かつぼうのりゆうを。



 こんこんこんこん。
「失礼いたします」
 軽い叩扉の音から一拍遅れ、入室の挨拶が響く。許可を待たずにこの扉を開くことは、特権の一つでもある。
 この部屋に存在するものは執務机が四つ。一つは一番奥に。残り三つは部屋の左右に分け置かれている。高めに天井の取られた、本棚がぐるりと四方を囲むその部屋は、国の中枢を担う、皇帝、宰相、そして二人の冢宰のための執務室である。
「エイ」
 皇帝、ラルト・スヴェイン・リクルイトは、驚きに瞠目し、入室した男の名を呼んだ。
 部屋に足を踏み入れてきた男は、この部屋に席を許された冢宰の一人、左僕射エイ・カンウだった。先日過労が元で倒れたと知らせがあり、今日も彼個人の屋敷で休養しているはずの身である。
「大丈夫なのか?」
 日ごろ体調不良を訴えることなど滅多にない彼が倒れたとあって、心配していた。ラルトの問いに、エイは微笑んで頭を垂れる。
「はい。ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
「おいおい。俺は体調戻るまで出仕すんなって、ラルトの命令伝えたはずだぜ」
 呆れた眼差しをエイに投げかけるのは、彼と同じくこの部屋に席を許された冢宰、右僕射イルバ・ルスだ。彼は昨夜、わざわざ屋敷までエイの様子を見に出かけたらしい。彼に言わせれば、昨夜の様子を見る限り、到底エイは今日出仕できるものではないとのことだったのだが。
「昨日の今日で出仕すんなよ」
「まだ顔色悪いみたいだけど、屋敷で休んでたほうがいいんじゃない?」
 イルバに続いて苦言を口にしたのは宰相、ジン・ストナー・シオファムエン。彼もまた執務の手を止めて、呆れた眼差しをエイに投げ掛けている。
「えぇ……そうですね」
 畳み掛けるような彼らの忠告に、エイは苦笑を漏らした。しばし後、彼はラルトに向き直り、背筋を正して、抑揚の抑えられた声音で話しかけてくる。
「今日は少し、お願いしたいことがございまして、参内致しました、陛下」
「なんだ? 珍しい」
 執務の手を止めてラルトは、首を傾げた。エイがこのように何かを願い出ることはひどく珍しい。基本、無欲すぎるほど無欲な男なのだ。
「はい」
 神妙に頷き、エイは続けて請うてきた。
「このまま十日ほど、休暇をとらせていただいてもよろしいでしょうか?」
「休暇?」
 鸚鵡返しに訊き返し瞬いたラルトは、それは構わないが、と、受諾の言葉を口に仕掛け、釈然のしなさに肩をすくめる。
「ずいぶんと急だな。まぁ、三日程度は身体のことも考えて休んでもらおうとは思っていたが」
「急に休んでしまったせいで、仕事を振り分けていただいたみたいですし、今のうちにお休みを戴いたほうがご迷惑ではないかと思いまして」
「確かに、今のうちだったら休んでも支障ないもんね」
 部屋に掲示してある予定表を一瞥し、ジンが口を挟む。
「十日って、なんかしたいことでもあんの?」
「ヒノトを迎えにでもいくのか? 帰省するんだろ?」
「ヒノトを? いいえ」
 イルバの言葉を、エイは苦笑しながら否定した。そんな馬鹿なとでも言いそうな様子である。イルバの発言は冗談であろうが、それでもそれを真っ向から否定せずともいいだろう。件の娘が少し哀れですらある。イルバもまた、ラルトと同じ心中らしく、似たような表情を浮かべてエイを見返していた。
 一方、こちらのヒノトに対する同情を知ってか知らずか、淡々とエイは言葉を続けてきた。
「実は少しフベートに帰省しようかと思いまして。墓参りもしばらくしていませんし」
「あぁ。最近そちらへお前が行く仕事もなかったな。そういえば」
 腕を組み、椅子の背に重心を預けながら、ラルトが言った。フベート地方はエイの出身地で、そちらでの仕事の際には、一日程度余分に彼が滞在できるように取り計らっている。しかし思い返す限り、エイがフベートへ赴くような仕事は、とんとご無沙汰だった。
「いいぞ」
 手元の書類に署名を施しながら、ラルトは頷いた。
「ただ、身体だけは休めてから出発しろよ。十日で休暇は足りるのか?」
「フベートってけっこう遠いじゃん」
 ラルトの胸中を読み取ったように、ジンが言葉を引き継ぐ。
「馬飛ばせばそうでもないけど。あと二日三日ぐらい余分に申請しとけば? 用事終わって早く戻ってこられれば、休暇切り上げて出仕すればいいだけの話だしさぁ」
「いいのですか?」
「構わないぞそれぐらい」
 思いがけなかったらしいジンの提案にラルトは同意を示し、エイに微笑みかけた。
「ただ休みとるなら、悪いがフベートに出発する前に、引き継いだ業務の確認だけしておいてくれ」
「もちろんです。ありがとうございます」
 表情を緩めてエイが丁寧に腰を折る。しかし身を起こす最中、何か不快感でも覚えたのか、彼は顔をしかめてみせた。ジンが指摘する通り、エイの顔色はひどく悪い。休暇の申請のために、わざわざ出仕する必要もなかったというのに。
「用事が終わったなら早く帰って休めよ」
 ラルトは部下の体調を心から案じながら言った。
「今日はもういいから」
「はい。……ありがとうございました。陛下も、閣下も、イルバさんも。急に仕事を増やしてしまいまして。ご迷惑を……」
「あーいいっていいって」
 頬杖をつき、ひらひらと手を振ってエイの言葉を遮ったのはジンである。
「仕方ないよ。お互い様だもんこういうのはさぁ」
「そうそう。そんなこと言ってたらお前、ジンはどれぐらいお前に謝り倒さなきゃいけないか」
「……ラルト、もうそれ時効にしてくれるとすっごくありがたい」
 数日どころか、数年間、不在であったジンの仕事を背負って、エイはラルトを支えてきたのだ。このエイに対するジンの弱みは、よくからかいの種になる。
「俺もお前の休み、把握していないのが悪かった。仕事を詰め込みすぎてたな」
 エイは自分の都合をよく後回しにして、休暇を先延ばしにすることがある。彼の後見する娘がこの都を離れてからはそれが顕著になった。先月は行事が多く、多忙さにかまけてエイの予定を把握することを怠っていたのは、ラルト自身の責任である。
「ありがとうございます」
 微笑んだエイは謝辞を述べ、フベートへ発つ前に予定の確認のためにまた立ち寄ることを告げて、執務室を退室していった。
 静かに閉じられた扉を眺めた後、ラルトは嘆息する。
「……うまい具合に休暇とってくれたなぁ。しかも都を離れてくれるらしいぞ、ジン」
「ホントだね。俺、ヒノトのとこにエイ送り込もうと思ってたのに、ヒノト帰ってくるっていうからさぁ。どうやってこの都から離そうか頭すっごく捻ってたんだけど……」
 徒労だったと、大きく背伸びをしてジンは言う。
「俺、あいつの様子、もう少し見てくるわ。細かい予定なんかも訊いてくっから」
 書類を揃えて立ち上がり、エイの後に続いて、イルバが退室していく。二人だけになった部屋で、ラルトは煩雑な机の上を漁りながら言った。
「さて、あいつが留守の間に、持ち込まれたあいつへの見合い話、処理していくか」
 手元の書類に素早く裁可の印を押していきながら、ジンもまたぼやく。
「くっつくならくっつくで、さっさとどうにかなってくれないと、俺たちの身が危ないんですけど」
 ヒノトが学院へ行った理由を聞いてきたらしいイルバの副官、キリコは、誰よりも先に皇后と宰相夫人に事の次第を報告してしまったのだ。理由を知り、血相を変えた彼女たちの『提案』に、蒼白になったのはこちらのほうである。
「あいつ、俺たちのこういう裏の苦労、わかってんのかねぇ……」
 宰相の嘆息に、ラルトもまた大きく肩を落として呻いたのだった。
「わかってないだろ」


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