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第三章 その罪を暴く 2


 暦官長の報告に、ラルトは執務室の椅子の背に重心を預けながら顎をしゃくった。
「ダッシリナでか」
「はい」
 リハンは頷き、ラルトに数枚の報告書を差し出した。それを受け取ると同時に、ざっと目を通す。書いてあることを要約するとすれば、こうだ。
 隣国ダッシリナにおける、革命の兆し。
「市民が蜂起しているのか」
「占者たちの施策がここのところはずればかりでしたし」
 リハンは言った。占者たち、とは、つまるところダッシリナの国政の行く末を決定する占師の集団のことだ。
 隣国ダッシリナ。
 正式名称を<暁の占国ダッシリナ>。占いで全ての物事を決め、また行き詰ったものたちに占いによって助言を与える占師たちの国である。
 特産らしいものはほとんどなく、水の帝国やメルゼバ共和国といった大国に挟まれた小国だが、何事かに行き詰った貴族や王を顧客として、占いを売ることで生き延びている。
 女公が名目上の国主として存在するが、彼女はあくまで国の象徴として外交や行事に出席するのみであり、国の政治のほとんどは占師たちの最高府によって決定される、という形をとっている。
 だがここ数年、国の占いの精度が落ちたらしい。打ち出される政策のことごとくが失敗。占師たちの数人は、いかさまで摘発されているときいた。
「昨年は凶作でしたから」
 ダッシリナ出身のリハンは、悲痛そうな面持ちで目を閉じた。
「蜂起したくなる気持ちもわからなくはないですが」
「だが、蜂起するにしては早すぎやしないか?」
 ラルトはリハンに尋ねた。民人が新しい政治のあり方を求めて放棄するには、あまりにも早すぎるかに思えたからだった。それは別段、民衆の動きが時期尚早だといっているわけではない。
 怠惰な国民が動きを見せるのが、早すぎるのだ。
 国の政策が上手く回らなくなり始めたのはここ一年のことだ。丁度、ダッシリナと隣接するデルマ地方を、水の帝国が併合する少し前からだった。昨年はひどい凶作だったときいているが、それ以前はさほど不作だったわけではないようだ。
 民が決起する。それは、長い長い時をかけて熟成された彼らの鬱屈とした想いが弾け飛んだときに行われることを、ラルトは知っている。ラルト自身もまた、暗い時代を経た末に、人を率いて父から玉座を奪った簒奪者だからだ。
 自分では何もせず、いつか苦痛が終わることを願う。民はえてして皆、怠惰である。一年ほどの凶作では、人は耐え忍ぶことを選ぶだろう。
「陛下の仰っている意味はわかります」
 リハンは微笑んだ。
「民がそれだけのっぴきならぬ現状におかれているのかもしれません。今はまだ、表立って革命が行われているわけでもありません。ダッシリナにいる知人を通してもたらされた情報ですし、ただ、ダッシリナに立ち込める不穏な動きを、陛下に把握しておいていただきたかった」
 ダッシリナに動きがあれば、水の帝国もただではすまない。もし隣国の国土が荒れるようなことになれば、水の帝国には難民が流れ込んでくる。いまだ復興途中にあるこの国に、流れ込む難民を受け入れられるだけの余力はまだなかった。
 治安の問題もある。ただでさえダッシリナに隣接するデルマ地方は、数年前に併合したばかりなのだ。ダッシリナの影響を受け、また自治を取り戻そうという動きにも発展しかねない。そうなると、かなり厄介だ。あそこの民は生粋の帝国人よりも、傭兵崩れの移民が多い。世情は複雑だ。
「わかった」
 ラルトは頷いた。
「報告を感謝する。下がっていい」
 リハンは微笑み、一礼して執務室を後にする。外界との音が遮断された静かな執務室に、ラルトの嘆息が響いた。
「エイ、お前はどう思う?」
 執務室に残されているのはラルトとエイ一人だ。呼びかけに応じた左僕射は、そうですね、と軽く思案する仕草を見せた。
「そういった動きについては、聞いておりません」
「だな」
「かといって、リハン殿が軽々しげに確証のない情報をわざわざ奏上してくるとは考えにくいですね。いくらなんでも」
 エイは含みを持たせた言い回しを用いて微笑んだ。
「丁度今、ダッシリナ近くにウルがいますから、調べさせます」
「あぁ。そうしてくれ。スクネは?」
「ご命令の通りに、配置しています」
 スクネはエイの部下の一人だ。ウルがいない際には、エイの副官まがいのこともしている。彼に“警護”を命じたのは数日前だった。
 万が一の、保険だ。
「そうか」
 ラルトは頷いて、組んだ手の上に顎を乗せた。
「次から次へと。落ち着かないな」
 問題がまるで波のように押し寄せている。シノの失踪。城内の不穏な動き。それに加えて、隣国の情勢。はっきりいって、頭が痛い。
「ひとまず、一つは積みまで後一歩というところでしょうが……ティアレ様にはお話を?」
 ラルトは首を横に振った。
「話しそびれた」
 ラルトの返答に、エイは明らかに驚きの色を見せた。彼の目の色は、やがて呆れにとって代わられる。盛大な嘆息を添えて、彼は言葉を漏らしていた。
「それをしに、離宮に戻られたのではなかったのですか陛下。てっきり話されたものだとばかり」
「話せなかった」
 頬杖をついて、ラルトは後悔の念に駆られながら呻く。
「話せなかったんだ。一体どうして話せるっていうんだ?」
 自問に答える声はない。ラルトはエイのほか誰も聞きとがめるものがないと知りながらも、躊躇しながら、言葉を吐き出した。
「レンが暗殺者などと」


「手伝いましょうか?」
 用事を言い付かって、一抱えもある行李を運んで本殿をうろついていると、穏やかな声が背後からかけられた。
 そこに佇んでいたのは黒髪黒目の男だ。レンは記憶の中から、男の名前を引っ張り出した。スクネ。姓はない。現在の皇帝に告ぐ位をもつ男、エイ・カンウの懐刀だと記憶していた。
 彼は浅葱色の袍を身につけ、黒の帯で腰を縛っていた。それは確かに文官の装束であるはずなのに、足運びやたたずまいが、文官とのそれと異なっている。
「いえ」
 レンは首を横に振った。
「私の仕事ですので」
 重い荷物を運ぶことも、女官の仕事の一つだ。女官とは案外、力の要求される仕事が多い。それにさほどこの行李を重たいと、レンは感じなかった。行李の中には所詮ほとんどものが入っていないのだ。
 この程度の荷物で重量を感じることなど、まずない。
「そうですか?」
 男はレンに歩み寄り、少しばかりレンの肩に触れた。握った、といったほうがいいかもしれない。
「失礼」
 レンが驚きに目を見張っていると、男は少しだけ笑った。顔の表情をほとんど動かさないところは、自分と同じだとレンは思った。
「なるほど。この肩ならば、私が手伝う必要もなさそうです」
 納得したように頷いて、文官は踵を返す。
 その背中を見送ったあと、レンは行李を一度床に置いて、握られた肩に触れた。
 判るものが触れれば、レンの柔い脂肪の下には、研磨された筋肉が息づいていることを知るだろう。人一人抱えて屋根を行くような訓練も施された身体は、宿主の思惑関係なく、触れるものに対しては正直だ。
 そして今しがた脅しのように殺気を放った男が自分を殺さなかったのは、いったいどうしてだろうと、レンは考え始めた。


 レンは間者だ。
 おそらく、ティアレを殺すために、前々から準備されていた暗殺者。ティアレがレンを選んだことに異論はないが、調べさせるだけはした。そして彼女の素性は、案外すぐに割れたのだ。傍に信頼のおける暗部出身者がいるというのは、非常に便利なことだった。
 昔、農奴の子供を、人買いを通じて集め、暗部に回すための訓練を集中して施した機関があった。今は既に撤廃されて久しいが、レンはそこを出身とする名もなき子供の一人だった。
「何か問題でも?」
「ティアレが案外彼女を気に入っているんだ」
 ティアレがラルトの立場を考慮してレンを離宮付の女官として選んだのも、また確かだろう。だが、最も大きな理由は、『一度出逢ったことがある』。その一点に尽きるのではないだろうかとラルトは思っている。会ったときに何があり、どのような会話を交わしたのかはしれない。だが、印象に残っていたのだろう。
 女官としての仕事も申し分ないようだった。事実レンの勤務態度は、本殿で働いていた頃から人事の折り紙つきだ。その上、レンが一人でティアレの世話を焼いているようだが、いらぬことまでレンはティアレの面倒を見ているようである。それが演技なのか素なのかと勘繰ってもしかたがないが、ラルトはティアレの身を案じるレンを、おそらく素だろうと判断した。ラルトはレンと直接言葉を交わしたことなどないのだが、ティアレの言葉に耳を傾ける限り、そのような雰囲気がするのだ。
 ティアレは、他者の悪意にさらされ続けた女だ。ほんの僅かな殺気、ほんの僅かな侮蔑、ほんの僅かな哀れみ、そういったものを鋭敏にかぎ分ける。だがティアレが語るレンから、そういったものは感じられない。
 レンが間者だという事実。けれども殺気も何もなく、奥の離宮らしい、ティアレの身を案じる女官として、ティアレに接するというもう一つのレンの事実。二つの事実の齟齬が、ラルトにティアレに真実を語ることを躊躇わせる。
「レンの素性をお話するだけでよいのでは? 彼女は十中八九間者ですが、ティアレ様を殺すために派遣されているとは限らない」
「確かにな」
 話せばティアレは案外、その程度のことと一笑しそうだが。
 だが今の時期だ。素性の知れないものに対しては、警戒するに越したことはない。
「レンの主は誰であるか、程なくわかるとは思いますが……恐縮ですが、私の口から直接申し上げましょうか?」
「いや」
 エイの申し出を、ラルトは断った。こういうことは、人づてに伝えてよいものではない。
 かといって、放置しておいてよいものでもないが。
「様子を見よう」
 言い訳のように、ラルトは言葉を舌先で転がした。
「どうせしばらくは動かないだろうし。尻尾を出させるためには、泳がせておくことも必要だしな」
「……ティアレ様を囮に使われるので?」
 違う、と。
 いえなかった。
 エイの問いに対する答えを見つけられず、ラルトは低く嗤った。零れたのは自嘲の笑いだった。
 ラルトはラルトの頭を抱えて、ただ静かに髪を撫でてくる女を瞼の裏に思い描いた。政治の道具のようにだけはすまいと決めていたはずなのに、結局そのように扱ってしまっている自分を、彼女は罵るだろうか。
 守りたいと、常に思ってはいるのに。
 レイヤーナ。
 まぼろばの土地で眠るだろう女は、今のラルトをみてどう思うのだろう。私の死から、何も学んでいないのね。そんな風に言って呆れて笑うだろうか。
 ジン。
 今どこの空の下とも知れぬ男が、もし傍にいたら、何をいうのだろう。今すぐ話してきなよ。そんな風に言って、肩を叩くのだろうか。
 行方知れずの女官長は、絶対にティアレの肩を持つだろう。それはそれでいいと思う。ティアレは思いを胸にひめがちであるから、彼女のような代弁者が必要だ。
 けれどその誰もが、ラルトの傍にいない。
 いない。
 いなくなった。
 視界を動かす。昔よりは幾分か片付いてはいる。それでも広い机の上に山積する書類が、問題の多さをあらわしているように見えた。
 ラルトは組んだ手に額を寄せた。項垂れて、嘆息を零す。疲れからか熱っぽい吐息が、凍えた手に落ちて霧散した。


「疲れているね、あれは」
 エイが自分だけに割り当てられた執務室を使うときといえば、部下に愚痴を漏らすときか、彼らから内々の報告を聞くときかのどちらかだった。今日は丁度そのどちらもだ。椅子に腰を下ろすなり漏れたエイの一言に、部下は困りましたね、と返した。
「まさか妃殿下を囮などと。そんなことを陛下が申されるなどと、私は思いませんでしたカンウ様」
「陛下がおっしゃったわけではない。ただ、無意識のうちにそういう思惑もあるのだろうと、私が邪推してしまっただけだよスクネ」
「そういう思惑、ですか?」
「うん」
 エイは頷いた。榕樹の小国[リファルナ]への旅を共にして以来、親しくしている部下に、頬杖をついたままエイは説明する。
「レンの素性を陛下が妃殿下に言いそびれたのは、レンが妃殿下に差し向けられた暗殺者かもしれないという可能性を知れば、レンを信頼しているらしい妃殿下が傷つくかもしれないという思いやりからが、半分。陛下は、妃殿下が絡むと恐ろしく……失礼な物言いだけれど、馬鹿になってしまうからね」
「カンウ様のおっしゃりたいことは判りますよ」
 スクネは肩をすくめてエイの考えに同意を示した。
「傷つけないように、傷つけないように、まるで壊れ物に触れるようにしていますものね。陛下は」
「そんなことをしなくとも、妃殿下は壊れるような人間ではないと思うのだけれど」
 そしてティアレもまたラルトに対して、胸を痛めすぎて何もいえないでいる。
 お互いに、思いやりすぎているのだ、あの夫婦は。
 それが互いを追い詰めていると、判らずに。
「それで、思惑とは?」
「陛下の意識に常にある、皇帝としての陛下の考えだよ」
 エイは答えながら、皇帝であるという自覚こそが、ラルトを賢帝たらしめているものの正体だと思った。
 ラルトは常に、意識下に、皇帝であるということを置いている。眠っているときでさえ、彼は自分が皇帝であるということを忘れていないのではないかと、思うほど。
「どうすれば合理的に、事態を掌握できるか。どうすれば迅速に、物事を解決に導けるか。誰を犠牲にしてもかまわず、何を代償として差し出してもかまわない。最小の被害で、物事を解決する方法をはじき出す、政治家としての、思惑」
「それが、レンについて妃殿下に話さない理由ですか?」
「おそらくそうだと思う。でなければ説明がつかないから。わざわざ話さなければ、妃殿下に、囮にしたのか、と糾弾されることもない」
 普段は、どんな糾弾も弾劾も引き受けてみせる皇帝だというのに。
 自分の妻が絡むととたんに及び腰だ。
 人とは、そんなものなのだろうが。
 近しい人間になればなるほど、どうやって扱えばいいのかわからなくなるものだ。現に自分も、面倒を見ている少女をもてあますことが多々ある。
「それぐらいずるくあっても、誰も怒りやしません」
 スクネは笑って言った。そう、誠実すぎるほど誠実な皇帝に、すこしぐらい人間臭いずるさを持っていてもかまわないだろう。
「ただ、私たちは命をかけて妃殿下を守らなければならなくなりましたが」
 以前のように、容易く死ぬという言葉を口にしなくなったスクネだが、彼のいう命懸けは冗談ではない。
 ティアレが死ねば、ラルトは壊れる。
 この国は、また昔のような、混沌に突き落とされるだろう。
 何が何でも、自分たちはティアレを守ってみせなければならない。
「私は宮廷のほうをどうにかしてみせる」
 罠の張り方も考えなければ。
 皇帝の様子も注意深く見ておかなければならない。ラルトは、今ぎりぎりの精神状態で立っているからだ。
 皇帝にとって最も辛い時期は、復興を目指す時期ではない。
 復興し、世情が落ち着いたそのときだ。
 今がまさしくその時なのだ。一瞬の気の緩みも許されない。平和にするのではなく、平和を持続させなければならない。平和が恒久に続く。それこそを、民は望んでいるのだから。
 皇帝の肩にしかかる民人の期待は、どれほど彼の人の精神を抉り取っていくのだろう。
「だからスクネは、妃殿下を頼むよ」
「はい」
 表情を引き締め、直立する部下に、エイは微笑みかけた。
「さぁ、ここからが正念場だ」


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