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第三章 その罪を暴く 3


「もう、七年もたつんだね」
 アズールがそういって、遠くに視線を投げた。窓に四角く切り取られた青い海と空の彼方。彼の見つめる方角には、自分たちの故郷の島、バヌアがある。
 アズールに連れられて入った茶屋は、貧乏人のイルバにとっては少々敷居の高い場所だった。異国からの物見遊山の貴族が、足を踏み入れるような場所だ。このような場所に粗末な身なりの自分たちが腰を下ろすことはほとほと余計な視線を集めてしまい、居心地が悪い。フィルは早々に席を外し、一人で市場を見に出かけていた。曰く、二人だけで積もる話もあるだろうから、と。
 だが二人だけにされると、語るべき言葉も見つからない。お互いの近況を語ったところで、潰せる時間など、たかが知れている。この場所に腰を下ろしてから四半刻と少し。長い沈黙の後、口火を切ったのが、アズールの方だったのだ。
「あぁ。長いな」
 アズールにイルバは同意した。
 長いようで短い月日。
 穏やかで。
 そして怠惰な。
「七年にもなるというのに、君ともあろうものがこんなところで燻っていることに驚きだよ、イルバ」
 声を潜めてアズールが言う。何がだ、とイルバはかつての同僚を睨め付けた。
「俺は今の生活に満足している」
「本当に?」
「本当だ。ガキ共の相手するのも悪くはねぇ。ジジイ共に付き合って酒を飲むのもな。昼寝だってしほうだいだ。かつて夢見た生活が、今は俺の手の中にある」
 イルバが仕事を抜け出してよく昼寝に興じていたことはアズールも知っているだろう。それでよく、弟子に怒られていたものだった。
「嘘をいう」
 アズールが失笑した。
「イルバ・ルス」
 イルバの名に、古い姓をつけたのは、アズールなりの嫌味だろう。イルバは反射的に顔をしかめていた。
「バヌアにおける、歴代の王監査役の中でも、名相といわれた君が、何故こんなところで未だに燻っているんだ?」
「よせアズール」
 イルバは手を振ってアズールを制した。今更、昔のことを蒸し返されるのは酷く不快だった。
 だがアズールは知ったことではないという様子で、さらに身を乗り出して言葉を続けた。
「イルバ。バヌアの復興には君の力が必要だ」
「そんなことはねぇよ」
 熱っぽく説き伏せる男に、イルバは口端を歪めた。
「諸島連国の一島になっちまったが、国はまた落ち着いて来てるっていうじゃねぇか」
 もう何年も足を踏み入れていない故郷。革命が起きて、荒れてしまった故郷を再建するために、アズールは諸島連国の中央議会に席を置いたのだ。
「力は尽くしている。僕もアスランもリエスネラも」
 アズールだけではない。かつてのイルバの同僚の数多くが、諸島連国の中央議会に身を置いて、バヌア復興に力を注いでいる。
 だが、イルバはそれをしなかった。仲間のうち数人は、他国に散っていった。イルバはそれすらしなかったのだ。
 島の情勢がすぐに判る新しい母国で。
 ただ、息を潜めている。
 それは、アズールにとってみれば、宝の持ち腐れのように映るのかもしれない。怠惰なイルバが許せないという風に、彼は身を乗り出してイルバを説き伏せに掛かっていた。
「一人でも力は多いほうがいい。バヌアを建て直し、世界の方々に散ってしまったかつての仲間たちが帰って来られる国をもう一度作りたい。イルバ、力を貸してほしいんだ」
「だめだ」
 イルバの返答は決まりきっていた。もう二度と、政治という世界には係わらない。一生だ。
 臆病者と呼ばれようとも、力を持ちながら使おうとしないと罵られようともかまわない。
 傍観者に、徹する。
 自分はそう決めたのだ。
「イルバ……」
「なんといおうと、俺はもう二度とあの世界には足を踏み入れない。バヌアを復興したいという気持ちはわかる。お前らがそれに躍起になるのもいい。俺は応援している。だが、それだけだ。俺は、もう二度と政には係わらない」
 穏やかで。
 怠惰で。
 矮小で。
 非力な。
 一市民としての生活を選ぶと、決めた。
 海に妻の亡骸[つみ]を沈めたその日に。
「イルバ。まだ悔いているの?」
 痛ましげな視線をイルバに向けて、アズールが尋ねてくる。イルバは答えなかった。腕を組んで、窓の外に視線を投げていた。
「まだ、悔いているの? でもそれなら、奥方の愛したあの国を、復興させることそのことが――……」
「贖罪になるとでもいいたいのかアズール。いい加減にしろよ。俺を勧誘するのは勝手だが、ナスターシャのことまで持ち出すのは止めろ。いくらお前でも俺は遠慮なくぶちのめすぞ」
 自分でも柄が悪いと思う口調で、イルバはかつての同僚を威嚇した。アズールは視線を卓の上に落とすと、すまない、と小さな声で謝罪してきた。
「それでも僕はあえて言おう。イルバ、セレイネ嬢だって、覚悟していなかったわけではないだろう。彼女だって、政治家の娘だったんだ。他の国では、どの国の権力者の娘も、愛しもしない男の下へ嫁ぐことを覚悟する」
「アズール!」
 我慢がならなかった。イルバは立ち上がって彼の名前を叫んだ。周囲の人間が驚きの眼差しでイルバに注目するが、気にならなかった。
 確かに、アズールの言う通り、権力者の娘たちは皆政略結婚を覚悟する。親子ほど、時に祖父とも呼べるような年の男の下へ嫁ぐことも決して珍しくはない。
 それでも、セレイネには。
 セレイネには、もう。
 何時だったか、目にした娘の幸福そうな姿を思い出す。息子と呼べるほどに全てを教えた青年と、額を寄せあって笑う、その姿。
 あれを引き裂く権利など、たとえ実の父でもありはしなかったのだ――……。
「イルバ。是非、考えておいて欲しい」
 懲りずにアズールは、イルバの目を見据えて続けた。
「僕らはいつでも、君を歓迎する――……」


 バヌアは。
 他国にはない特殊な官職を備えていた。それがルスの名を受け継いだ、王監査役だった。
 王が王の道を踏み外せば、王族の中から次の王を指名することの出来る官職。
 王に助言し、王が孤独にならぬため、力を注ぐ官職。
 それが、ルスだった。
 イルバは孤児だったが、イルバのひとつ前のルスに見出され、その地位に登り詰めた。その間、事実上バヌア最後の王となる王子と交友を温めた。王の唯一の親友であったといってもいい。
 王、ワジール・ミル・バヌアは、政治の天才であったが、それと同時に孤独であった。王宮の者たちは、誰も頂点に登り詰めるものに聡明さを求めていなかったからだ。彼らはむしろ、自由になる愚鈍な王を欲していた。
 ワジールは政における天才であり、バヌアの為にその才をいかんなく発揮した。細工物を名産として奨励したのもワジールなら、観光名所や関所の制度を整え、他国から人が入りやすいようにしたのも彼だった。が、バヌアの為に尽くせば尽くすほど、王は周囲との軋轢を深めていった。周囲が、誰も王の聡明さについていけなかったからだった。
 だがイルバにはどうすることも出来なかった。ワジールは理想の王だったからだ。王の道を踏み外していない王に、罷免をいうことなど、できない。そしてワジールには兄弟がいなかった。熱病で父も母も兄弟も、皆失っていた。そんな状況だったからこそ、同じく天涯孤独の身であったイルバと、交友を深めることができたのかもしれない。
 代わりの王となる人材がいない国で、ワジールは玉座に留め置かれた。
 が、ワジールは、政治の才に恵まれながらあまりに王に向いていなかった。
 ワジールはやがて、精神を病んでいった。精神を病み、女にのめりこむようになっていった。
 傾城の姫君が現れたというわけではない。文字通り、女にのめりこんでいったのだ。豪奢な後宮をつくり、気に入った娘は恋人や夫があろうが、簒奪し、召し上げた。飽きれば持参金を与えて親元に帰していたところがワジールらしかったが、その横暴さはやがて度を越すようになっていった。召喚に応じない女たちは、容赦なく手打ちにされた。
『政治に、影響がでなければ、お前はなにも言えぬのだろう。イルバ』
 そういってワジールはよく嗤ったものだ。王の言う通りだった。女遊びはすれども、政に対しては、王は手抜かりがなかった。部下たちを差し置いてすばらしい政策を打ち出していく。
 イルバは若かった。ワジールの狂気は、はたして許容できる範囲のものなのだろうか。その判断もつかなかった。
 イルバは、研究に没頭した。ワジールを玉座から解放できる方法を探した。その一つが民主化という制度だ。かつて水晶の帝国[ディスラ]で考案され、実行に移されていた方法が、ワジールを、そしてひいては彼の狂気に犠牲になる女たちを救うのではないかと思った。
 が、それを実行するには、国があまりに幼いということを痛感させられる。民主化を実行するには、徹底した政治教育が必要だった。が、バヌアでは識字率も最低に近い。研究を、諦めた。
 そして、その頃だった。
 ワジールが、イルバの娘を、所望したのは。


 フィルは喉の渇きを覚えて身体を起こした。
 ときおり、夜中に酷く喉が渇いて飛び起きる。何かを夢見ていたような気もするが、いつも忘れてしまっていた。早鐘のように打つ胸を落ち着かせて、そっと寝台から降りた。裸足に湿った床の温度が心地よい。
 諸島連国は常夏で、海に囲まれている国らしく、湿度が高い。むっとした空気が膜のように身体を取り巻く。汗で張り付いたおくれ髪を耳にかけ、裸足の足音を響かせながら台所へと足を運んでいると、呻き声が聞こえた。
「……イルバさん?」
 声の主は、イルバだ。
 月明かりの入り込む明るい寝室。かけ布を抱え込むようにして、イルバが呻いている。腹痛か何かかと、急いで駆け寄るが、イルバはフィルに気がついた様子はない。
 どうやら、悪夢にうなされているようだった。


 ワジールが女を召し上げるようになる前のことだ。
 ナスターシャは既にイルバの細君であったが、離縁して後宮に上がるように、ワジールがナスターシャを説き伏せにかかったことがある。ナスターシャはワジールの求婚を突っぱねた。以後、ワジールがナスターシャに懸想したままであるような様子は見られなかったが、狂ったように女を追い求めるようになった。
 無差別に女に溺れた王は、最後に美しく育ったナスターシャの娘、つまり、イルバの娘を所望した。婚儀を控え、幸せの絶頂にあった娘を突き落としたのはワジールではない。
 差し出さなければ国を滅ぼすと脅してみせた王に、娘を献上したイルバだった。
『お前の娘一人で、この国の民は生き延びる。私は女の遊びをやめ、世界に名を残す賢帝となるべく尽力しよう。だが、お前が断った暁には、世界に名を轟かせる残虐な王となってみせよう。この国の民全てが、王の庇護を失うのだ』
 ワジールはそういって嗤った。
『王を罷免する権利など、お前が死ねばなんの意味もなさぬよイルバ。ルスの名を告ぐものよ。選べ。一人の娘の命と、この島に生きる民人全ての命、どちらが重いか』
 バヌアは、ワジールなしでは生き延びられなかった。王なしで生き延びられるほど、バヌアの民は賢くもなかった。政治の何たるかを知らぬ民。権力の上に胡坐をかく大臣たち。おそらく、それを知っていたのはイルバと数人の仲間だけであった。
 こうして、イルバの娘セレイネはワジールに献上され、そして子を孕み、そのまま、海に身を投げた。
 父に裏切られ、望まぬ男に犯され、愛されぬ子供を宿した誇り高い娘は、そのまま海に還る事を望んだのだ。
『何故ですかお師様!』
 弟子が糾弾する。愛する女の遺骸を抱きかかえて。
『こんなふうに、こんなふうに愛した人を失うために、私は政治[まつり]を学んできたのではない!!!!』
 男は娘の遺骸を抱いて、すすり泣く。娘の名前が、呪詛のように繰り返し空気を震わせる。
 セレイネ。セレイネ。セレイネ。
 姿を消した男が再び現れたとき、男は革命を率いていた。
 イルバの研究を持ち出し、民主主義に傾倒し、その思想を悪戯に民に広めて。
 男と同じように妻を、恋人を、あるいは娘を失った民人たちは、容易に男の思想に共鳴した。武器を手に取り、政治を自らの手に取り戻すと叫んで。
 彼らは、王を討ったのだ。
『哀れな男よイルバ』
 長い間、君主とその[しもべ]として、あるいは友人同士として、傍にあった男は、死に間際イルバに語った。
『お前は選択を間違えたのだ。哀れな。自らのことしか頭にない愚かな民など放っておいて、愛するものだけを選び取ればよかったものを』
 イルバの腕の中には、既に冷たくなった妻の姿があった。娘が死んで以来、長い間言葉を交わすことのなかった妻。人が変わったように、部屋に引き篭もるようになってしまったナスターシャ。
 革命の混乱に乗じて、何も言わず王の下に出かけた彼女は、イルバが王の元にたどり着いたそのときには、既に冷たく、血の泉の中に沈んでいた。
 これは、何の悪夢だ。
『哀れなイルバ。お前は政という名前の怪物に、足をとられたのだよ。怪物に目を向けすぎて、お前は見つめるべき対象を見失ったのだ。私と同じ天涯孤独で、だが、私とは異なって誰からも愛されたイルバ。私が愛していたのは、ナスターシャでも、セレイネでもない。他でもない』
 同じ政治という世界で傍にあり続けた、お前という男だ――……。
 愛するもの全てを奪って、同じ孤独の世界に、お前を貶めてやりたかったと、王は笑って事切れた。
 政治という世界に足を囚われてしまった、王の末路。
 そして、全て見殺しにしながら、おめおめと生き延びてしまった自分。
 目を見開いていさえすれば。
 見失ったりはしないと信じていた。
 罪を犯さずにすむと。
 信じていた。
『助けてくれ』
 手を伸ばしても、その手を取って笑うものは誰もいない。
『シルキス。セレイネ』
 妻の骸を抱きながら、イルバは泣いた。
『ナスターシャ……』


「イルバさん」
 呼びかけに、イルバは目を見開いた。
 乱れた呼吸が肩を揺らし、暑さに朦朧とした脳が意識を混乱させる。月明かりの差し込む部屋は、王宮でも、イルバの屋敷でもない。
(ここはどこだ)
「イルバさん」
 イルバの手を握る女がいる。イルバは視線を動かして、女を確認した。月明かりの中に浮かぶ紫紺の瞳は、妻を連想させたが、輪郭が明らかに彼女のそれと異なっている。女はイルバの手を握りなおし、呼びかけを繰り返した。
「イルバさん」
 長い時間をかけてようやっと、イルバは女の名前を思い出した。
「……フィル、か」
 イルバの声に、フィルが安堵の表情を見せる。
「ひどいうなされようでした。何度揺り起こしても、起きないのですから」
「……喉が渇いた」
 搾り出した声はがらがらで、空気の震え程度にしか響かなかった。だがしっかりとそれを聞き取ったらしいフィルは、笑顔で頷いた。
「待っていてください。お持ちしますから」
 踵を返して部屋を出て行く女の背中を見送って、イルバはのろのろと上半身を起こした。まるで水浴びした後のように、全身が汗で濡れそぼっている。手でひとまず顔を拭って、イルバは周囲を見回した。
 バヌアの屋敷でも、王宮でもない。
 ここは、諸島連国はずれの島の庵。
 七年、住んでいるイルバの墓。
 ほどなくして、フィルが水差しと杯を携えてやってきた。彼女は寝台傍の卓の上に盆を置いて、なれた手つきで杯に水を注ぐ。その白い繊手を見つめながら、イルバは嘆息混じりに呻いた。
「バヌアの頃の夢だった」
「悪夢がですか?」
「そうだ」
 フィルはイルバに杯を差し出し、椅子に腰掛けた。彼女は何も追求してくることなく、じっと耳を傾けている。
「俺は妻子もちだった」
 凪いだ夜の海のような、紫紺の双眸。イルバはまるで妻の幽霊に告解するような気持ちで、言葉を続けた。
「だが、あいつらを見殺しにしちまった。殺したも同然だった」
「見殺し? ……革命の最中に、ですか?」
「……そうだ」
 元々の身分を明かしていないフィルに対して、当時の状況を説明することは難しい。だがフィルは、イルバ自身の過失によって妻子を失った、その事実に理解を示したようだった。一つ頷いて、彼女は続ける。
「それ以来、貴方はこちらで暮らしているのですか?」
 フィルの声音は、まるで神に仕えるもののように静謐だった。イルバは頷いた。
「バヌアにいて、罪を直視するのが嫌でな」
 口元に、知れず漏れる、自嘲。
「臆病者らしく、逃げて逃げて逃げて。でも国を捨てて逃げさることも出来ず、こんなところで燻って、そして今でも昔の夢をみる」
 イルバの生活は、凪いだ海のように平和そのものであらなければならなかった。
 そのために全てを海の底に沈めたのだ。
 祖国、名声、財産、家族。
 記憶。
 罪。
 それでも今なお、心の奥底にこびり付いて、時折悪夢となってイルバを苛む。
 イルバは両手で顔を覆って、呻いた。
「馬鹿くせぇ」
 愚かな。なんと愚かな。
 それでも、忘れられない。王に献上されると知った娘の凍てついた顔。娘の死を知った妻の絶望の呻き。愛するものを失った弟子の憤怒。己を嘲笑いながら死ぬしかなかった、哀れな王。
 その全ての狭間で、選択を誤った、自分。
「人は何故、罪を犯すのでしょう」
 項垂れるイルバの背中に、女の手がそっとふれる。柔いその手はイルバの背をゆっくりと撫でた。
「犯したくて犯すわけではないのに。そしてそれはまるで錆びぬ足かせのように永遠に消えず、私たちの足をすくませる」
 選び取れる道はたった一つ。その中で人は繰り返し罪を犯す。
 罪を犯した人間を責めるのは周囲ではない。その罪によって失ってはならぬものを失った、罪人自身だ。
 海から運ばれてきた記憶喪失の女の手を、イルバは握った。
 女は驚きにわずかばかり瞳孔を開いたが、それだけだった。彼女は罪人の苦悩全てを知るもののように、ただそこにいて手を握り返した。
「しばらくこうしててくれ」
 さもなくば、溺れてしまいそうだ。
 かつて、ワジールが足をとられて溺れてしまったそれ。
 孤独という名の、暗闇。
 己が一人だということに、押しつぶされぬよう、イルバは女の冷えた手を握り締め続けた。


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