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第三章 その罪を暴く 1


 ラルトはそのまま寝台に横になった。仮眠を取るようだった。ティアレは彼が静かな寝息を立てたことを確認すると、そっと部屋を抜け出した。水を汲んでこようと思ったことも確かだが、彼の寝顔を見るのが少し辛かった。
 男の顔には、憔悴が透けて見えたからだ。
(私は)
 ティアレは閉じた扉に背を預けて瞼を閉じた。いつもの女官たちの賑やかな笑いが消えた離宮はどこか陰鬱で、気だるい空気を湛えている。その空気に、ティアレは知らずのうちに自らの身を掻き抱いていた。
(私は、奪ってはならないものを、あの人から奪ってしまった)
 娼婦として世界を漂泊したその末に、あの男に愛され、傍にいることを許されたのはとてつもなく幸福だと思う。事実、出逢ってからの年月の間に、自分たちは一つ一つ、苦悩と、そして愛情を重ねていったのだ。彼が自分を抱いて、安心すると笑うとき、子供のように拗ねるとき、口論になるときでさえ、幸福だと思い、自分が彼の傍にいることを選択したことは、間違っていなかったのだと思うことができる。
 が。
 政において、彼が憔悴するその時ばかりは、後悔が意識の隅を掠めるのだ。
「ジン様」
 ジン・ストナー・シオファムエンという男は、この国を背負うというラルトの孤独を真に支えられる、たった一人の男だった。
 后としての位に就いていてさえ、玉座に座し、一つの国のあり方を目指すという途方のないラルトの苦悩を、ティアレは理解してやることができない。
 それを奪い去ったのは、他でもない自分だ――ティアレは思う。罪を犯したのは確かにジンその人だけれども、彼の罪を暴いたのは、他でもないティアレという存在そのものなのだと。
 そして今、彼からもう一人の家族が、失われようとしている。
「シノ」
 彼女がいなくなって身が切り裂かれそうなほどの寂寥感に襲われた。優しく、大らかで、ティアレに甘い姉のようなシノ。この離宮にやってきてからのティアレの日々は、シノなしではありえなかった。
 今でも明け方、夢に見るのだ。おはようございますティアレ様。そのように言って、御簾を上げる彼女の夢を。
 彼女の姿が消えて、不安で胸が一杯であると同時、ティアレはもう一方の可能性を嘆かずにはいられなかった。
 すなわち。
 ラルトから、ジンに続くもう一人の家族、もう一人の、理解者が、消えてしまうという可能性。
(ジン様)
 あぁ。
 貴方は私と同じように、ラルトを心から愛しているでしょうに。
 どうして、いまだに戻らないのか。
 罪の意識に苛まれたままだというのだろうか。ラルトはとうの昔に、貴方が生き延びた、あの瞬間に、既に貴方を許しているというのに。
 あの人を、玉座に置き去りにしたそのままで。
(どこの空の下に、いらっしゃるの)
 せめて彼がいたならば、シノの姿が消えたことに対するラルトの恐怖を、やわらげてやることもできるだろうに。
「ティアレさま?」
 呼びかけに、はっとなって面を上げると、すぐ傍にレンがいた。腕に糊の利いた亜麻の敷布をひっかけている。順々に、部屋の寝台の敷布を交換している最中だったのだろう。彼女の傍らには、後に洗濯場に回すと思しき敷布の入った、大きな籐の籠が置かれている。
「ティアレ様。大丈夫ですか? 顔色が……」
 顔を覗き込んでくる少女に、ティアレは笑みを返した。
「大丈夫です」
 具合が悪いというわけではない。思考に酔ってしまっただけだろう。
「きちんと眠られていらっしゃいますか? 最近、食が細いようですし、気をつけていただかなければ」
「ありがとうございます」
 礼を言いながら、ティアレは少し笑ってしまった。くすくすと忍び笑いを漏らすティアレに、レンが怪訝そうに顔をしかめる。
「どうかなさったのですか?」
「……いいえ。ただ――……」
 ただあまりにも、レンのものの言い方が、シノに似ていたものだから。
「貴方も、女官らしくなってきましたね、と。そう思いまして」
 女官の何たるかを知っているとは言いがたいティアレが、そのようなことを口にするのはおこがましいことなのかもしれないけれど。
 レンは、「はぁ」と間の抜けた呻きを漏らし、小首をかしげている。
「もう、大丈夫ですから」
「さようですか」
 ティアレの主張に、レンが頷く。彼女はそれ以上追求せず、怪訝な表情も見せなかった。彼女のこういうところは、他の女官と一線を画しているところだ。口元を引き結び、表情を殺して、ぴんと背筋を伸ばしたその姿は、ただ単に大人びているだけにも見えたし、精一杯虚勢を張っているようにも見えた。
「ティアレ様はこれからどちらへ?」
「水場です。レンも一緒に行きますか?」
 レンは静かに頷いて、歩き始めるティアレに従った。彼女は別段、水場に用事があるわけではなかっただろう。それでも何も言わず付き従ってくれるのは、ありがたいことだった。


 仮眠から目覚めると、昼を既に回っていた。夕暮れにはまだ早いが、数刻という随分長い時間、寝入っていたらしい。
 傍らには、知らぬうちに隣にもぐりこんだらしいティアレの姿。気丈に振舞ってはいるものの、やはり憔悴して見える。疲労の影が滲む、硬く閉じられた瞼。
 それを飾る長い睫毛の上に唇を落とし、ラルトは寝台から降りた。
 寝起きの気だるさが、体全体を覆っている。だが思考は明瞭だった。やはり、エイの言う通り、自分には睡眠が足りていなかったらしい。
 執務室にのろのろと向かう途中だった。
「陛下」
 酷く厳しい表情をした暦官長が、早足で歩み寄ってくるのが見えた。


 ポリーア島は海上の集落と本土マナメラネアを結ぶ中継地として発達した島だ。休火山が一つそびえ、そのふもとに町がある。石造りの平屋が軒を連ね、その狭間を、帽子を被った子供達が走り回っている。
 平屋の前には日よけの布を張って、その下で皆商売をする。並ぶのは水揚げされたばかりの魚介類が主だが、海の日差しを受けて甘みをつけた果物も彩を添えていた。籠を肩に担いだ女達が、椰子は要らぬかと声をかけてくる。
 のどかで、空と海と椰子の緑が全ての国が、諸島連国なのだ。マナメラネアまで行けばもう少し、近代的なものが並ぶようになるが。
 フィルは走り回る子供達の相手をし、果物売りの女たちと言葉を交わし、軒先に並ぶ女物の色鮮やかな民族衣装を珍しそうに眺めては、潮の風に目を細めていた。
「気に入ったか?」
 イルバは椰子の実を手渡しながら、女に尋ねた。海の水につけてよく冷やした果汁は、喉をよく潤す。
「えぇ」
 女は椰子の実を受け取りながら頷いた。
「とても過ごしやすそうな場所ですね。気に入りましたわ」
 フィルが長い黒髪髪を潮風にゆだねながら微笑む。イルバはそうだろう、と、どこか得意げだった。
「大らかな土地だ。すぐ馴染むさ」
「イルバさんは、ずっとこの土地で?」
「いや」
 イルバは首を横に振りながら、目を細めた。この穏やかな土地が、自分の生まれ故郷ならどれほどよかったか。
「生まれと育ちは、バヌアだ」
「バヌア……」
 思い当たらないらしい。名前を繰り返すフィルの顔には、思案の色があった。
「今はもうない、七年前に諸島連国に併合された国家だ。マラメラネア島から船で少し行った、別のでっかい島だな」
「この島とは、全然ちがいますか?」
「違うな。……あっちはもっと、ごたごたしてる」
 バヌアは諸島連国の島の中でも、最も北よりで、大陸に近い。元々が別の国だったこともあるし、他の島に比べればかなり様相が異なっていた。大陸の文化の影響を受け、白い石造りの高い家が軒を連ねる。特産は細工ものだった。石を加工して細工する技術だ。バヌアに最も近い国である藩国グワバの特産品が玻璃で、それを組み合わせて作られた細工物が他国でも名品として重宝された。
 だがそういった出来事も、全て昔の話だ。
 今は諸島連国に併合されたものの、王政復古や独立の声を上げる輩が後を絶たず、治安があまりよくない。そんな島だ。
「戻ろうとは思われないので?」
「おもわんね」
 イルバは即答し、しまった、と内心舌打ちした。知れず、声音に剣が篭っていたからだった。
 だが、女は笑っていた。
「ごたごたしているよりも、のんびりした場所のほうが、よいですものねぇ」
 イルバは女のあっけらかんとした笑いに少し救われ、前を向きながらそうだな、と頷いた。
「本当によかった。記憶喪失になっても、たどり着いた国が、こんな国で」
 椰子の水は、開けた穴に挿した藁を通じて飲む。フィルはその藁の端を口にくわえながら笑った。
「本当にな」
 イルバは同意した。諸島連国は、本当によい国だと思う。誰もが大らかで、善人だ。それは定期的に火山や津波などによって、過去を洗い流されてしまうからこその、この国の清清しさなのかもしれない。
「イルバさんは、以前は何をなされていたのです?」
「以前?」
「えぇ。読み書き計算はもちろんのこと、かなり広い見識をお持ちのようですから」
 国によって差異はあるが、識字率は世界全体を通してかなり低い。文字を読めるというだけで、職が成り立ってしまうほどなのだ。
 確かに、イルバのような風体の男が、得意げに子供たちに学問の基礎を教えていれば、以前の職を問いたくもなるだろう。
「教師だ」
 イルバは、口からでまかせを言った。イルバが手習いを教える子供たちの両親の中にも、イルバの以前の職を勘繰るものはいる。以前の職は、と尋ねられた時は、このように答えることにしていた。
「バヌアでは、教師をしていた」
 あながち、間違いではない。人が道を違えることのないように見守り、監視し、後進を育てるために時に教鞭を振るう人物を教師と呼ぶならば、自分は確かにそれだった。
「似合いませんこと」
 フィルは空の椰子の実を傍らに置いて立ち上がった。
「うるせぇよ」
 イルバは毒づいた。教師などという偉そうな名前が、自分に似あわないことはとっくの昔に承知している。ぼさぼさの頭に着崩した衣服。粗野な動作に野生的な目つき。
『貴方ほど、官服が似あわない人間も、いないわね、イルバ』
 妻にはいつも、そういわれていた。
「嘘ですよ」
 フィルは衣服の裾を持ち上げて、浜辺の波打ち際にむけて走り出した。明るい陽光が女の影を白い砂浜に刻む。
「向いていると思いますよ!」
 裸足を寄せて返す波に浸しながら、女が叫んだ。
「だって、教え子の子供たちがあんなに笑うのですもの!」
「うっせぇっつってんだろ! 黙って水浴びしてろ」
 記憶喪失。
 その言葉があまりにも当てはまらぬ素性の知れぬ女は、イルバの叫びを他所に、笑い声を立てて碧い水と戯れ始める。何が彼女をそれほどまでに明るくするのだろう。イルバもこの背負う過去全てをきれいさっぱりと忘れることができたならば、彼女のように笑い声をあげることができるのだろうか。
 海に沈めたはずでも。
 決して拭いされぬ過去。
 今も決して忘れることの出来ぬ、死することすら己に赦せなかった、腐食した足枷。
 頬杖をつき、嘆息しかけたイルバは。
「綺麗なお嬢さんをつれているというのに、やけに陰鬱な顔をしているじゃないか、イルバ」
 久方ぶりに聞いたなじみの声に、弾かれたように面を上げた。
「……アズール?」
「やぁ。久しぶりだねぇイルバ。息災かい?」
「アズールじゃねぇか!」
 軽く手を上げて微笑む男の姿を認め、イルバは膝を叩いて立ち上がった。
 金の髪に褐色の肌。身丈はイルバとさほど変わらないが、女性的な線の細さを持つ男だった。だが決して弱々しいという印象を他者に与えるわけではない。その逆だった。柔和な笑みを絶やさぬ男ではあるが、見るものがみればその笑みの背後に、細い刃のような剣呑さが宿ることを知るだろう。
 アズール・イオは、バヌア時代の同僚だった。もうかれこれ、三年はあっていない。
「奇遇だ。こんなところであえて嬉しいよ」
「珍しいなお前がポリーアにいるなんて」
 イルバはアズールと軽く抱擁を交わして、感嘆の声を上げた。アズールはマラメラネア本島の中央議会で役員をしている多忙な身だ。田舎のポリーア島まで来るなど、滅多にないことだった。
「役場に用事があってね。時間が空いたから、視察がてらのんびり散歩していたんだ。こんなところで会えるなんて、本当に奇遇だ」
「本当だ」
 イルバは同意した。以前最後に会った時は、何かの用事でマラメラネアの議会に足を運んだときだった。その時も確かすれ違って、二、三、言葉を交わしただけだったのだ。
「お知り合いの方ですの?」
 波打ち際から上がってきたフィルが、靴を両手に提げて歩み寄ってきた。小首をかしげる彼女を見るなり、アズールが笑う。
「何時の間に新しい奥さんを見つけたんだい? イルバ」
「こいつは俺の女房じゃねぇ。フィルを見るやつ見るやつ、なんでこう俺の女房だと決め付けたがるんだ」
「あれ。そうなの?」
 アズールがきょとんとした目でフィルとイルバを見比べている。イルバが紹介する前に、フィルがアズールに微笑み軽く会釈をした。
「フィル、と申します。今はちょっとした事情で、イルバさんのお世話をさせていただいておりますの」
「……家政婦?」
「おいこらちょっと待てフィル。お世話させていいただいてだぁ? 訂正しろ。世話になってるの間違いだろうが」
「あら。そうでした?」
 細い目の中の紫紺に悪戯げなきらめきを宿して女は笑う。げっそりとなっているイルバを見てか、アズールが可笑しそうな笑い声を立てた。
「これは近況報告を交わさなければならないねイルバ。昼食は食べた?」
「食べた」
 昼食はフィルが用意した。本来ならば庵で食べるべきだったものを、フィルが箱に詰めたのだ。ポリーアについてすぐに、イルバたちはその弁当を広場で広げて遅めの昼食をとっていた。
「なら、甘いものだね。フィルさんは、甘いもの好き?」
「はい。それなりに」
「おいおいアズール」
 こちらが返答するまでもなく、既に連れ立ってどこかへ出かける気満々のアズールを慌ててイルバは止めた。再会できたことは喜ばしいことだが、本音を言えば、昔の仲間とあまり長話をするつもりはイルバにはなかった。昔の仲間は、海に沈めた過去を引きずり出す。
 そんなイルバの胸中なぞ、つゆ知らぬアズールは、茶目っ気たっぷりに片目を瞑って笑った。
「イルバ、このまま腰を落ち着けて僕と話もしないつもりかい?」
 三十路越えた男がこのような仕草をして似合うのは、この男ぐらいのものだとイルバは思っている。
 駄目だ。こうなるとアズールは一歩も引かない。
「フィルはかまわねぇのかよ」
「えぇ。手持ちはありませんけれどね」
 お茶をするのはかまわないが、自腹で何かを買うことはできない、ということだ。当然だろう。
 無論、イルバ自身もあまり手持ちがない。
 強引に話を進めているのはアズールで、彼は高給取りだ。たかったところで支障はないだろう。
「奢れよ」
 情けなさの嘆息とともに、イルバの口から零れた呻きに、アズールはいいですよ、とあっさり請け負った。


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