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第二章 平穏には爪を立て 2


「こんなところにあったのか」
 行李の蓋を傍らに置きながら、イルバは呟いた。
 白を基調とした、薄布を幾重にも重ねて作られた婚礼衣装。
『あなた』
「ナスターシャ」
 妻、ナスターシャもフィルと同じく気概のある女だった。バヌアで国王の求婚を堂々と突っぱねてさえ、生存を許された女は彼女一人だったのだ。
 黒髪に紫紺の瞳を持つ妻は、面差しこそ異なるとはいえ、フィルと似た色合いだ。妻だけではない。妻の面差しを写し取った、娘もまた。
『お父様』
「セレイネ」
 母の面差しをよく写し、愛らしく、そして。
 誇り高かった娘。
 白の衣服は、以前ナスターシャが婚礼の際に身につけ、そしてセレイネの為に仕立て直していたものだった。
 バヌアからこの衣服だけ持ち込んでいたことは覚えていたが、どこに仕舞いなおしたのかは忘れてしまっていた。
 もう六年も経ているのだ。
 彼女らの遺品は、この一着と、イルバが今も身に着ける鎖に繋がれた指輪しかない。それしか、持ち込まなかった。彼女らの遺品は、全てあの国に置いてきたのだった。
『何故です!』
 娘の遺骸を抱いて、叫んだ男がいた。娘と想いを交し合っていた男だった。自分が目をかけ、息子同然に育てた男だった。そして、本当の息子になろうとしている男だった。
『何故ですかお師様! これが、これが貴方のいう、国を生かすために選択した結果だとでもいうのですか!?』
 娘は海に身を投げた。美しく賢く、そして誇り高かった。愛した男以外に汚されたことも、父に売られたことも、我慢ならなかったのだろう。
『私たちは民を、愛する人を守るために政治を学び、王に仕えてきたのでは、なかったのですか!?』
 血を吐くような男の叫びはイルバの胸中の代弁であった。男はやがてイルバの前から姿を消す。王に逆らい、失った片目の視力はそのままに。
 ナスターシャは何もいわなかった。イルバに何も告げず、王に直談判に出かけ、そしてそのまま帰らぬ女となった。
 白い衣装。
 かつて、ナスターシャと自分の寝室に静かに飾られていたそれは、娘の晴れ姿を待ち望む母の願いの結晶だった。
 幸せに。
 幸せに。
 幸せに。
 無論それをイルバ自身望まなかったわけではない。娘の幸せを願わぬ父がどこにいようか。
 それでも。
「イルバさん?」
 肩に触れた女の手と、労わるようにかけられた声がイルバの意識を引き戻した。
「……フィル」
「片付けは終わりましたか? そろそろ、昼食にしようと思っているのですけれども」
「……あぁ」
 もうそんな時間か、と、イルバは天井を見上げた。まだ崩れたままの天井から覗く太陽は、知らぬうちにかなり高い位置にある。
「ドムさんがお魚を持ってきてくださりましたので、それを焼いてみましたが……大丈夫ですか?」
 顔色が悪い、と言外に告げて、フィルはイルバの背を擦った。温かい手が触れて、安堵する。一人暮らしは気ままで文句ないが、家に誰かがいるということに安堵するのはこういうときだ。
「……これは」
 フィルの手がイルバの肩越しに伸びて、白い衣装に触れる。水に浸って染みのできてしまった衣装は、もう使い物になるまい。
「捨てて置いてくれ」
イルバは立ち上がった。
「……よろしいのですか?」
 白い衣装を抱え上げたフィルが、驚きの眼差しでイルバを仰ぎ見た。
「かまわねぇ。そっちにある分も捨てる分。こっちは洗濯する分だ。飯くってからでいいから――いや」
 昼食を取ってから片付けてもらおうと思いかけ、イルバは頭を振った。怪訝そうにこちらを窺うフィルに、イルバは笑顔を見せる。
「片付けは明日でいい。飯を食ったら、気分転換に外に出よう。ポリーア島まで。どうせこの天井を直すための工具と材料を買ってこなきゃならねぇし」
 先日はフィルの鎖を外すことが優先事項であったこともあり、工具類の購入をすっかり忘れていたのだ。
「手習いのほうはよろしいので?」
「かまわねぇよ。また後日にまわしゃぁいい。行きしなに一声かけりゃ、文句はいわねぇさ、あいつらも」
 子供たちも、授業がなくなって大喜びすることだろう。学問に興味を持っている子供もいるにはいるが、あの年の子らは皆、遊びたい盛りだ。
「では、お弁当を作りましょう」
 フィルは言った。イルバの顔色が優れないのは明らかなのだろう。瞳には労わりの色があったが、女の声音は明るかった。努めて、そうしているということが判った。
「昼食はポリーアでとるというのはいかがですか? 作った食事を箱に詰めてしまいますわね。飲み物はあちらで調達して、約束の散策を」
 ポリーア島の散策は、いつかしようとフィルとも約束していたことだった。
「いいな」
 イルバは女の意見に笑顔で頷いた。では、と立ち上がって早速支度をすべく踵を返した女を見送る。
 そして行李の上に綺麗に置かれた白い衣装を見た。
 フィルにはあぁいったが、やはりこれは自らの手で、ついでにポリーアに捨ててこようとイルバは思った。


 文官や諸侯たちからの報告書に目を通し、ある程度仕事に区切りをつけたところで、ラルトは執務室を後にした。ここのところ、夜更けの仮眠すら執務室で取っていて、奥の離宮に戻っていなかった。寝台から起き上がり、普段の仕事に戻っているとはいえ、ティアレは容態が思わしくない。それなのに仕事にかまけて姿を見せない自分は、なんとひどい夫なのだろう。
 これでは、レイヤーナのときの二の舞ではないか。
 昼時だというのに、奥の離宮は静かだった。女官長一人の穴は大きく、方々に散って穴埋めに奔走しているためか、離宮の中に賑やかな女官たちの姿は見受けられない。薄い陽光に照らされた静寂横たわる廊下に、ラルトの影だけが滑っていた。
 暦の上では既に初春だが、今年の春は静かだとラルトは思う。花が、咲かないのだ。例年なら年明けすぐ、梅から順に開花していくものだが、今年はどの花も硬く蕾を閉じて、薄い靄の中に沈んでいた。
 なれた道を行き、大抵ティアレが詰めている広い部屋を覗くが求める姿はなかった。寝室か、と嘆息し、歩を進める。行き着いた部屋ではティアレが揺り椅子に腰を下ろして、熱心に刺繍針を動かしていた。
「ラルト」
 足音で気がついたらしいティアレが面を上げて、針を針山に刺した。色鮮やかな糸が、箱の中から零れ出ている。
「具合はどうだ?」
 先日顔を合わせた折には、花壇にでて球根を植えていたと話して聞かせてくれていたほどだから、さほど容態が悪いというわけではない。皇妃としての仕事も、城内の仕事に限ってはこなしているようだ。
「大丈夫ですよ」
 ご覧の通りです、と、ティアレは笑った。
「心配性ですね、ラルト」
「それはそうだろう」
 ラルトは肩をすくめた。
「お前に倒れられたりでもしたら、仕事が手につかなくなる」
「あら、お仕事の為だけなのですか?」
「意地の悪い返答だ」
 何故仕事が手につかなくなるのか、という理由を突き詰めていけば、彼女を失えば自分は立っていられないということだ。ティアレも、そのことを知っているだろうに。
 ティアレは口元に手を当てて、忍び笑いを漏らしていた。血色はよく、心配するほどのことでもないようだと、安堵する一方で、彼女が床で臥せっている間、ほとんど顔をだしてやることができなかったことを申し訳なく思う。
「レンはどうだ?」
 傍の椅子を引き寄せつつ、ラルトは尋ねた。
「良い子ですよ」
 にべもなく、ティアレが答える。彼女は傍の茶器を引き寄せて、招力石を水差しの中に落としていた。
「ただ、こちらにつれてきたのは間違いだったのかもしれないと、少し思っております」
「何故?」
「どうも馴染めないようなのです。いえ、馴染むのを、拒否しているといいますか――……」
 ティアレは口ごもりながら、茶を淹れる準備を手馴れた様子で進めていく。彼女の繊手を見つめながら、ラルトはふむ、と唸った。
「馴染むのを、拒否している、か。ティー、今更だが何故彼女を選んだんだ?」
 女官についてはティアレに一任してしまっているので、新しい女官として何故あの娘を選んだのか、ラルトはいまだ知らなかった。黒髪黒目の、物静かな少女は、賑々しい他の女官たちとは一線を画す。
「理由はいくつかあります」
 ティアレがラルトに湯気の立つ茶碗を差し出しながら言った。
「奥の離宮の女官として推薦される以前のことです。一度、彼女と直接会ったことがあるのです」


 あれは、秋も終わりの頃だった。
 ティアレはラルトとお忍び城下へ繰り出すときのような、町娘の身軽な装いで、レイヤーナの墓所に詣でていた。ラルトはあまり良い顔をしないのだが、沢山の人が死んだという茶会の時期に、レイヤーナとかつてのラルトの仲間たちの墓に、ティアレはこっそりと詣でる。
 宮城の裏道を通っている際だった。人が一人、林の傍に小鳥の遺骸を埋めていた。
『飼っていたのですか?』
 興味惹かれてティアレはその人物に尋ねた。黒髪黒目、短髪に、細い衣服を身に着けていた。少年かと思ったが、衣服の[あわせ]から覗く胸のふくらみから娘なのだということがわかった。女官だと後で知ったときには、驚いたものだ。女官の給金は決して悪くはないというのに、あのときの彼女は確かに、あまりにみすぼらしい衣服を身に着けていた。
 ティアレの問いに少女は頷いた。
『籠から逃げたはよいものの、窓に当たってそのまま』
 玻璃にぶつかったのだ、と少女は言った。ティアレは窓に幾度も身をぶつけて命を落とす羽虫を連想していた。
『わざわざ、こんな場所まで?』
 この岡道は、街からもかなり離れている。ひっそりと、隠れるようにしてある山道なのだ。そんな場所までわざわざ遺骸を運ばなくとも、埋めるだけならば畑の片隅にでも埋めればよいことだ。
『地平を見ぬまま死ぬのも哀れでしょう』
 せめて、墓場だけでも、この鳥が夢見、届かなかった天空の近くへ。
 少女はそういって、ぎこちない手つきで小鳥の為に穴を掘っていた。土が硬いのか、それとも堀り方が悪いのか、穴は遅々として大きくならない。結局ティアレはその場に腰を落として、手を貸し、共に小鳥を埋めたのだ。
 あの、まるで小鳥が己だといわんばかりの、逃げ場のなさを訴えるような少女の乾いた眼差しが目に焼きついていた。
「好感がもてたのか?」
 ラルトの声音にはっとなり、ティアレは曖昧に頷いた。
「え、えぇ」
 好感が持てた、ということとは少し異なっているような気もする。だが興味を引かれた、というのは確かだ。以前、ラルトが自分に興味を抱き、危険全てを承知でこの場に留め置いた、その気持ちがわかるような気がした。
 だがティアレがレンを採用した理由は、そればかりではない。
「もう一つの理由は」
 ティアレはラルトの頬に触れながら言った。
「いらぬ争いを最小限に抑えられるのではないかと、思ったのです、ラルト」


 皇帝と、献上された娼婦という形で邂逅し、その眼差しに魅入られてから既に五年にさしかかろうとしている。美しい眼差しは今も変わらず、銀の入り混じる七色だ。ラルトを射抜く不思議な色合いの瞳は暗い光を宿している。
 聡明の、光。
「レンの後ろ盾はリハン様でしょう? 暦官の長はダッシリナ出身の方で、新参が故に、古参の方々には多少煙たがれているきらいはございましても、立場的には中立に近いお方のはず。随分と貴族の方々があれこれと女官を推挙していらっしゃられましたが、あの中の一人でも選べば、レンを選んだとき以上に権力争いの火種は尽きなかったことでしょう。かといって全く選ばないというわけにはいかない。シノが姿を消した。それをここぞとばかりに新しい女官たちを推挙するようにとの圧力に、ラルトは屈してしまった」
 一息に告げたティアレが、疲れたといわんばかりに、大きく嘆息する。そしてラルトの両頬をその白い繊手で挟んだ彼女は、泣きに歪んだような顔で笑った。
「馬鹿ですねラルト。私が貴方の苦しみに、気付いていないとでもお思いですか」
 この宮城自体が決して穏やかな場所ではないと。
 復興の道を歩けば歩くほど、野心に目覚めるものたちが数を増やしていくのだと。
 争いの巣窟であることは、呪いの輪から抜け出せたと信じられる今でさえ変わらないのだと。
 それを知らぬ女ではないと、ティアレは言う。
「ただでさえ、不器用に人を想うばかりで、腹の探りあいを厭う貴方ですもの」
 ティアレの手はそのままラルトの頬を滑って後頭部にまわされた。軽い力で、抱き寄せられる。抗うこともできたが、ラルトは大人しくティアレの胸に抱かれていた。
「馬鹿ですね。政のことは私にはわかりませんが、それでも私は、この宮城で生活する人間のおおよそ半分の身を預かっているのですよ。それように動くことも、できるのですから。いまだ非力でわからぬことも多いですが、それでも右も左も判らなかった、かつてとは違うのです」
 世情にすら疎かった、娼婦の頃とは、違うのだと、女は言う。
「あぁ」
 ラルトは彼女の細い腰に腕を回しながら苦笑した。
「敵わないな」
 そう、この女には敵わないのだ。上手く隠しおおせたつもりでも、彼女は持ち前の聡明さですぐに全てを見抜いてしまう。出逢ったばかりのころ、奥の離宮から一歩も出ていないというのに僅かな情報のみで、自分の周囲に信頼できる家臣が数少ないことを見抜いてしまった。あの頃は本気で腹を立てた言い合いも、今となれば笑い話。
 彼女が自分の傍にいることは、本当に救いだと思う。
 だが、ラルトのそんな思惑もよそに、躊躇いがちにティアレが呟いた。
「……ジン様が、ここにいらっしゃれば」
 私ではなく、と、ティアレは言わなかった。だが言外に思わせるものがあった。
 ――私があの人を貴方から奪った。
 己を責めるような響きだ。ラルトはティアレの腕の中で、首を小さく横に振った。
「それは違う」
 ラルトはティアレを抱く腕に力を込めた。
「俺はただ、甘やかされていたことを知っただけだ」
 自分に残された唯一の血族。兄弟同然の、幼馴染に、自分は随分甘やかされていたのだとラルトは知った。
 人と人の調整役はラルトの得意とするところではなかった。無論、そのような役目を皇帝自らする必要はないのだと思う。それようの部下を育てればよいとは簡単に聞こえる話で、実際にはそうもいかない。
 末端の兵士相手の話ならまだしも、相手は要職に就くものたちなのだ。
 命令を下せる位置にいる人間が、緩衝材としての役割を果たさなければならない。しかし宰相不在の今、上司という存在はラルトぐらいだった。エイもまたラルトと似たような位置にいるが、農奴出身で年若の彼に、そのような役を押し付けるのは酷というものだろう。
 新参と古参の軋轢。そういったものを上手く纏めるのは、ラルトの幼馴染の得意とすることだった。
 そういった問題が噴出し始めたのは確かにここ最近のことだが、以前も全くなかったというわけではない。それら全てをラルトのあずかり知らぬところで綺麗に収めていたのは、やはり宰相だったのだ。
 甘やかされていたのだと、思う。
 だが彼の不在を嘆いて、何になる。
 もうすぐ、五年だ。
 もう、丸四年も経つのだ――……。
「これは、あいつがいようといまいと、俺が直面しなければならなかった問題だ。判っていたことだ。この国を平らかにすることが一筋縄でいかないことなんて。建国以来一度として、平穏無事にあった時などないこの国を。平らかな在り方すら、忘れているこの国を」
 五百年前の<絢爛の夏>と呼ばれた最盛期さえ、十数年しかもたなかったのだ。
 この国は、平らかであるということを、知らない。
 気を抜けば、すぐに傾き始める。
 そして一人、また一人と、皇帝の周囲の人間を削り取っていく。
「痩せたな」
 ラルトは、ティアレの腰周りの肉が少し落ちていることに気がついていた。もともと華奢ではあるが、ここのところ、発熱を繰り返しているせいか、それとも心労の為か、かなり痩せてしまっている。
「きちん食べろよ。シノが戻ってきたとき、怒られるぞ」
「ラルト。シノは……」
 ティアレは何かを問いかけたが、一度口を噤み、嘆息した。彼女の細い吐息が、ラルトの髪に触れる。
「……そうですね。怒られて、しまいますね」
 ティアレはラルトの髪を撫でながら、そう言った。
 祈りのような呟きを漏らす間も、彼女が泣きそうに微笑んでいたのかどうかを、ラルトは知らない。


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