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第二章 平穏には爪を立て 1


「お、き、て、ください!」
 耳元で響く女の声から逃げるようにして掛け布を被ったイルバだったが、程なくして業を煮やしたその声の主に、あえなく掛け布を引っぺがされた。
 しぶしぶと身を起こせば、仁王立ちで佇む女の姿。
「……オイ、フィル」
「はいなんでしょう?」
 女は笑顔で応対した。
「俺は二度寝を何よりも楽しみにしてんだ。起こすんじゃねぇよ」
「一度起きているんですからいいではありませんか」
「散歩した後の昼寝はひとしおだっつぅの」
「昼寝ではなく朝寝ですねぇ」
「いちいちつっこむな!」
「早起きして、一日を有効に使うといいことありますよ」
「俺はもう十分に早起きだっつうの!」
「早起きは三文の徳と申しますし」
「どこの国のことわざだそいつは」
 どこでしょうね、と記憶喪失の女は首を傾げる。こういった何気ない言動は、女の出自を調べる手がかりになりそうだったが、記憶喪失という状況を明らかに楽しんでいる様子の彼女の過去を暴くなどということは、酷く面倒な行為だった。
 何はともあれ、いまいち噛み合わない会話だ。
 ぼりぼりと頭を掻くイルバに、フィルが言う。
「朝ごはん、できましたよ」
「……おう」
 イルバの嗅覚は、確かに庵の中に芳しい匂いが立ち込めていることを嗅ぎ取った。フィルがこの庵に来て既に十日ほど過ぎた。彼女は手足の拘束具が取れて以来、イルバの庵の家事全般を受け持つようになっている。少々口うるさい家政婦だが、料理や片付けの腕前は上々。イルバの舌を朝から楽しませていた。
 フィルが寝室から去ったことを確認して、イルバはきちんと畳まれて椅子の上に置かれている衣服の上に袖を通した。たしか眠る前は脱ぎ散らかしたままだったと思うが、この部屋に足を踏み入れたフィルが畳んだのだろうか。
 庵は以前、家族が使っていたものらしく、台所と居間ほかに、寝室が三つ廊下を挟んで並ぶ。客間として使っていたそのうち一つをフィルに分け与え、一つは以前から倉庫として使っていた。朝食の匂いに導かれるまま、居間のほうへと歩いていたイルバは、換気の為か、扉の開け放たれている倉庫を見た。先日の嵐の名残として、いまだ天井が崩れているその部屋。
(今日はこの部屋の修理だな)
 手習いの子供は、午後までこないはずだ。今の時期の早朝、子供達は漁の手伝いに駆り出される。
「イルバさん?」
「あ?」
 自分は、ぼうと廊下に突っ立っていたらしい。
 いつの間にか傍に佇んでいたフィルが、にっこりと微笑んだ。
「朝食、冷めますわよ?」
 早く食べろと笑顔の圧力を、彼女はイルバにかけてくる。
「……おう」
 これでは、どちらがこの庵の主であるのやら。
 イルバは嘆息しながら、寝起きで重い身体を引きずって、居間へ向かうフィルに続いた。


「レン」
 ティアレが慣れぬ足取りで庭を歩いてくる女官に手を振ると、彼女は少し歩調を速めた。
 奥の離宮の庭は広い。堀としての役目も果たす細い川が張り巡らされ、小さな林、果樹園、薔薇園、遊歩道などがある。複雑に作られているのは、間者や襲撃者が入り込むのを防ぐためだという。魔の結界に阻まれ、何人たりとも本殿からの渡殿を通るしか入る方法のない奥の離宮だが、念には念を入れて、と作られたものがこの広大な庭であるらしい。
 歩きなれないものにとっては、この庭の散策は難しい。足元には羊歯がおおい茂り、鬱蒼とした葉が天を遮る。それは以前ティアレが身をもって証明していることだった。この国に献上されたばかりのころ、ティアレは己の命を絶つつもりで、庭の一部である林の中に入り込んだ折は、鋭利な刃物のような羊歯の葉が、足を酷く傷つけたものだ。
 以前、ラルトがティアレにこの庭の散策を許可したとき、女官をつけることを条件としたのは決して監視の意味合いだけではなく、慣れぬ庭をたった一人で散策するという危険を、彼が危惧したからだったとは後で知った。
 もっとも現在その庭は、ティアレの私的な空間として、庭らしい役目を果たしているが。
 この四年以上、暇を見つけてはふらふらと足を運んでいる庭は、ティアレにとって私的な時間を自由に使える空間だった。
「こちらですよ」
 ティアレが女官を案内したのは、小さな園だ。ティアレが世話をしている園の一つである。他は開花をまつ緑で埋め尽くされているというのに、この園だけはむき出しの土が盛られたままだった。
「今日は何をなさるのですか?」
「この庭に球根を植える手伝いをしていただこうと思いまして」
 そういってティアレは下げていた小さな袋の中から、網に入れられた球根を取り出した。赤子の拳程度の大きさの球根は、もう少し温かくなってから植えるべきものだが、残念ながら今年は多忙でその暇が作れそうにない。よって、少し早めに土の中に眠っていただくことにしたのだ。
「ティアレ様が? 球根を?」
 普通ならば庭師がするべきことだとでも言わんばかりの、女官の少女の声音に、ティアレは苦笑した。
「趣味なのですよ」
 ティアレは娼婦の以前は農民の出だった。化石の森と呼ばれる招力石の産地、ディスラの寒村の出。来る日も来る日も、畑を耕し、種をまき、芽吹いたものたちの世話をした。その全てが、ティアレの口に入ることは決してないと、幼心に知ってはいても。
「ラルトとも時々植えるのです。先ほど通った庭も、一昨年の秋に球根を植えたものなのです。それ以来、時間を見つけてともに世話をしています」
 皇后の査定が終わり、ラルトが祝いに、何かほしいものは、と尋ねてきた折、真っ先に願ったのがこの庭だった。奥の離宮の周辺は手入れがはいっていたが、そのほかの場所は全くの手付かずだったのだ。久しぶりに、土に触りたかった。
 何より、荒れた心を癒す空間が欲しかった。言葉なく、訪れるだけで一息つけるような空間が、ほしかった。それが、必要だと思ったのだ。自分達には。
 一年間の皇妃の査定は、それほどまでにこの国の様々な仕組みを自分に見せた。
ラルトが戦っているものの正体を、自分に見せた。
「レン、こちらの軍手を。手が荒れてしまうから」
 何をすべきなのか、当惑しているだろう少女は、ティアレの手から作業用の手袋を受け取り、ティアレの傍らに屈んだ。
「こちらの球根を?」
「えぇ。順番に、掘ってある溝の中に入れて、埋めてください」
 病み上がりの身体を押してまで、ティアレがいきたいのだといった場所が、こんなところだとは思わなかったのだろう。新しい女官は真面目な質らしく、この奥の離宮の型破りな形式にしばしば面食らっている様子がみられる。明るい女官たちにどこか気圧されて、うまく馴染めていないらしい。
(こちらに引き抜いたのは、間違いだったのかしら)
 若いが有能だ。仕事はつつがなくこなすし、寡黙で、従順である。口が堅い。
 だが、皆から一歩線を引いている様子が見受けられる。
 もしかしたら、こちらの気風が、合わないのかもしれない。
「レン?」
 ティアレは面を上げて、レンを呼んだ。彼女はびくりと身体を揺らし、目を瞬かせながらティアレを見返してくる。
「はい」
「レン、球根はそう植えるのではないのですよ」
 レンはものの見事に目の出る方を地面に突き刺していた。そうしたくなるのも、わかる気がするが――ティアレには意外だった。女官には農民の出自のものが多く、そうでなくともレンの世代はまだラルトの父皇の時代を経験した世代だ。貴族出身の娘さえ、食糧を調達するために一度は畑に触れたことがあるという。
(まるで、ラルトのよう)
 昔、初めてこの広い庭に、ラルトと共に手を入れたときのことだ。あれだけ博識な男だというのに、彼は球根の植え方がわからなかったのだ。土塗れになって、笑い転げたものだ。
 ティアレは苦笑しながら、当惑に顔を強張らせている女官の手を取った。
「こうですよ」
 手を添えて、球根をひっくり返す。そのまま、土を被せた。
 軍手越しの女官の手は、少女の柔らかさとはかけ離れていた。ラルトの手のように、どこか骨ばっているようにも感じられた。はて、女官の手とはかようなものか。遠い昔、娼婦だった自分の手をとった女官長の手の温かさは覚えているのだが、柔らかさとなるとどうしても思い出せない。女官の手は一概にして水仕事で荒れがちだったが、硬さまでは。
「ティアレ様?」
「え? あ、はい」
「あの、御手を……」
 知らぬうちにティアレはレンの手を握り締めていたらしい。
「ごめんなさいね」
「……いいえ」
 レンは変わらず当惑した面持ちで、土を握り締めていた。
「……痛かったですか?」
「いえ、そういうわけでは。ただ、驚いているだけで」
「何にでしょう?」
 ティアレの問いに、レンは面を上げて瞳を揺らした。硬質な少女の面差しは、どのように答えるべきか、思案しているように見えた。
「ティアレ様は、平気で私たちの手を、お取りになられるので」
「おかしいですか?」
「そのようになさる貴族の方は、あまりいらっしゃられないでしょう」
 いわれてみれば、確かにそうかもしれなかった。だがティアレは、元々貴族ではない。おそらく目の前にいる少女以上に――卑しい存在だったのだ。
「お嫌ですか?」
「いいえ。そんなことはございません」
 レンは、首を大きく横に振った。慌てて否定するその様に笑い出しかけながら、ティアレは彼女に尋ねた。
「レンは、シノを知っていますか?」
「女官長ですか?」
「えぇ」
「遠目にお会いしたことは幾度か。ですが私は下級の女官でしたので、直接お言葉を戴いたのは、女官として採用される折のみだったと存じます」
 そのようにいわれると改めてシノとは高位の女官なのだ、ということを思い知らされる。皇帝御身自身が、この国最強と陰口を叩く女だ。近くにいるとそのあまりの気安さに、彼女の地位を忘れかけるが。
「女官長が、何か」
「シノが、私の手を取っていってくださったのです。……私たちは、同じ、ヒトなのだと」
 ティアレは軍手に包まれた自分の手を見下ろした。出自の知れない女である自分の手を取り、一体自分たちと何が違うのかと豪気に笑った女官長。
「私も、今そう思っています。ねぇレン。私と貴方は確かに身分というもので区切られてしまってはいますし、公の場ではそうもいかないでしょうが、そこまでかしこまる必要はないのですよ。せっかくこのようにして近くある機会を許されたのですから。私は無理でも、他の奥の離宮の女官たちも、貴方が心を開くのを待っているのです」
 レンはティアレの言葉にか、下唇を噛み締め、視線を土の上に落とした。その表情を、ティアレは知っている気がした。自分は、そのような存在ではないのだ、と、意固地に否定している。
(私は、呪われています)
 かつて、滅びの魔女と、傾国姫と、そのように呼ばれていた頃。
 口癖のように幾度となく繰り返した言葉を、ティアレは胸中で久しぶりに呟いた。その言葉を口にしてラルトと相対するとき、自分はきっと、今のレンのような表情をしていた。
「レン」
 呼ばれたレンは面を上げた。
「ティアレ様は、お寂しいのでしょう」
 普段滅多に動かすことのない表情を、かすかに笑みに歪めた。
「女官長がお戻りになられれば、私にかまう必要もございません」
(そうではないのに)
「シノが戻れば、本殿の職に戻りたいですか? レン」
 ティアレの問いに、レンはひっそりと笑った。回答の代わりに彼女が口にしたのは、公式には病気で休職していることになっているシノを、案じる言葉だった。
「早く、女官長のお体が、よくなればよいですね」
 複雑な胸中を押しこめて、ティアレはレンに微笑み返した。


「洗濯物はこちらの籠に。洗いますので」
 フィルはどこから発掘したのか、見慣れぬ一抱えある籠を部屋に置いて、退室した。彼女は台所をいかに使いやすくするかに苦心しているようで、今日も台所の改造を行っているらしい。
「おう」
 行李の蓋を順々に開けながら、イルバは返答した。
 倉庫として使っている部屋の中には、イルバの衣服も収められている。行李が濡れたままだったせいか、悪臭を放つ衣服たちに閉口しつつ、イルバは次々にそれらをフィルの用意した籠に放り込んでいった。あとで絶対に嫌味を言われるだろう。せめて、もっと早く衣服だけでも救出しておけばと。
 この場所に居候することが決まって、家事を引き受けることを申し出たのはフィル自身だ。濡れた洗濯物を放置した結果の悪臭に閉口して、その役割を投げるような女ではないと、この数日でわかってはいたが、それでも遠慮なく笑顔で嫌味を言われるに違いない。
「本気で変わってるよな……」
 フィルは、記憶喪失を完全に楽しんでいる。時折垣間見える強引さに閉口するときもあるが、家に誰かがいるという気配は悪い気はしない。女房の尻に敷かれているようなものだ。女にいいように扱われることに不快感を覚えるイルバではなかった。男とは、そういうものだと思っている。これは前妻の教育のせいだろう。
 イルバは行李を開け、いる衣服、要らぬ衣服と分別していった。収められているものは衣服だけではない。捨てられずにいた、細々としたものもある。だが衣服も含めたそのほとんどが、雨水に浸って使い物にならなくなっていた。
「こりゃぁこの部屋が広くなりそうだ」
 食糧とイルバのものだけならばそれほどでもないが、女がこの庵に住むとなればそうはいかない。女には男以上に様々なものが必要になり、荷物が格段に増えるということをイルバは経験上知っていた。どうせフィル用に荷物の置き場所を作らねばならなかったし、丁度いいといえばそれまでだが。
 黙々と部屋を片付けて、どれぐらい経っただろう。
 最後の行李の一番奥に収められていたのは一着の女物の衣服だった。


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