BACK/TOP/NEXT

第一章 安寧に楔が打たれ 4


「これ以上歩くのはきついわな」
「そうでもないですが」
 女は何気ない風を装って小首を傾げた。重しがなくなって身が軽いとでも言わんばかりだ。
「フィルさん、イルバに甘えて馬車をよべ! っていってやりなよ」
 口を挟むのはアイザックだ。イルバはちらりと男を一瞥して呻いた。
「馬車はここに来るまでに呼んだ一回で十分だ。てか、いたのかアイザック」
「もしもしイルバさん? いたのかって、ここ俺っちの店ですが」
「そうだったっけ?」
「そうだよ! 感謝してよあいつ呼んだのも俺っち! フィルさんが移動するのしんどそうだからって場所を提供したのも俺っち!」
 ばん、と机を叩いて叫ぶアイザックに、ざっくりとトドメをさしたのはイルバではなく、フィルだった。
「店という割には、本当にお客様いらっしゃいませんが」
 この場所にやってきてから早数刻がたとうとしているが、その間自分達三人と、メイゼンブル出身の青年を除けば誰一人としてこの空間に足を踏み入れていない。
 イルバにからかい混じりに言われるよりも、知り合って間もないフィルに、真顔で事実を突きつけられるほうがやはり堪えるらしい。アイザックはめそめそと泣きながら、彼は嘆いた。
「いいもんいいんだもん。俺っち鍵に囲まれてたら幸せ。鍵さえあれば幸せ」
「お前の変人具合もいい加減度をこしてるよな」
 寝ても覚めても鍵鍵鍵。鍵屋という職はこの男にとっては天職だろうが、なにぶん客の姿をほとんど見かけない。いつ彼がこの国で鍵屋を始めたのかは知らないが、ポリーア島ではなく、マナメラネア本島にでも店を構えればよかったのだ。腕は決して悪くはないのだから。
「いつか潰れるぞこの店」
「いいの。俺っち後ろ盾いるんだから」
「どいつだ? 酔狂だな」
「商人。その代り俺っち、その人のために何でもやらなきゃいけないんだけどさぁ」
「あぁもしかしてアイザックさん、愛妾とかやっていらっしゃるのですか?」
 ぽん、と諸手を打ちながら口を挟んだフィルに、イルバとアイザックは目を剥いて彼女を振り返った。しかし女は、自分が一体どんな問題発言を口にしたのかわかっていないようだ。こちらの視線を受け止めて、きょとんとしている。
 アイザックはやがて、泣きそうな面持ちでがっくりと肩を落とし、すごすごと店の奥へと姿を消してしまった。
「……どうなさったのでしょうかねぇ」
 笑顔でイルバに尋ねてくるフィルは、ある意味確信犯だ。
「お前、結構ひどいよな……」
 肩を落としながら呻くイルバに、女は何のことだか、とそ知らぬ風に笑った。
「まず医者に行って、傷をみてもらわなきゃなんねぇな。融通の利く古馴染みがいるからそっちはいいとして……そしたら飯を食いに行くか。んで帰ろう」
「散策してはいけませんか?」
 女の申し出に、イルバは驚きに目を瞠った。
「お前、まだ病み上がりだっつうのに」
「私は平気です。むしろ、この国を見てみたい」
 フィルは闊達に笑った。
「だって、当面はこの国が私の住まいになるのでしょう?」
 こうも明るいと、記憶喪失という状態が女の嘘のように思えてならない。
 が、嘘か否かを追求することは面倒であった。
「だめだ」
 イルバはフィルの提案を却下した。
「何故ですか?」
「てめぇ自分の体調を考えやがれ。その手足でうろつくつもりか。すぐ痛くなるぞ。それでなくても今は大丈夫でもすぐに疲れがでるにきまってらぁ。町中で倒れられてもやっかいだ」
 フィルはイルバのいうことももっともだと思ったのか、柳眉をかすかに歪めただけで、反論はしてこなかった。
「申し訳ございません」
 謝りすらする女に、イルバはどうしたものかと頭を掻いた。
「俺は別にこの島を散策するなとか言ってるわけじゃねぇ。どの道、今日は医者に会って買出しするだけで夕方になるだろうさ」
「買出し? 何を?」
 確かにイルバは、彼女に買い物に出かけるとまでは言っていなかった。彼女の枷が本当にはずれるかどうかで予定が変わると思ったからだ。さすがに、枷のなされた女を連れて歩く気にはなれない。
 食糧は既にドムから買い付けてある。それを知っているフィルは、何が入用なのだ、と首を傾げていた。
「女物の服」
 イルバはフィルの服装を眺めながら答えた。彼女は大陸でもよく見られる生成りの上を着て、紺に染められた布を腰に巻きつけている。女が今身につけている衣服は、手習いをしにきている子供の母親から譲り受けたものだ。当初のフィルの服装は奴隷然とした貫頭衣で、町へでるにしても生活するにしても不適切だった。だから衣服の持ち主に、寝ているフィルを着替えさせてもらったのだ。
 が、譲り受けた衣服はこれ一着。当然、男の一人住まいに他の女物の衣服なぞあるはずもない。イルバがもう少し華奢な人間であれば衣服を貸し出すこともできるが、体格差を考えれば土台無理な話だった。
「二、三着、と、あと下着か。女物の服については詳しくはわかんねぇから、お前選べ。それだけ買ったら、今日は帰る。またここに来る機会なんていくらでもあらぁ。ここで暮らすんならな」
「本当ですか?」
「本当だ。来る機会なんざいくらでも作れる。時間が有り余っている国。それがここ、諸島連国だ」
 のんびりと、全てを忘れて生きることのできる国。
 時折牙を向くが、基本穏やかで透明な海。晴れ渡る空。肌を撫でる潮風。
 それしかない、国。
「では、また次回」
「あぁ、また次回」
「楽しみですわね」
 胸の前で手を合わせ、フィルが明るく喜ぶ。その笑顔を見つめながら、イルバはふと思った。
 ここに何年も腰を落ち着けながら、そういえば散策など、したこともなかった、と。


 兵士によって開かれた会議の間の扉の向こうに足を踏み入れると、既に待っていたものたちが一斉に席を立った。一礼する彼らに着席を促し、ラルトも用意された席に腰を落とした。抱えていた書類を、机の上に広げる。
「報告を」
 命じると、円形の席に腰を下ろすものたちが、ラルトに近いほうから順にそれぞれの仕事の仔細を述べてくる。ラルトはそれを耳に入れ、時折質疑を挟みながらも、意識はどこか上の空だった。
 ラルトは席に着くものたちを見渡した。年若な者もいれば、年配の者もいる。約半分がこの数年でこの席に着くことを許されたものたちで、残り半分が、古いものたちだ。
 この部屋で報告をするものたちは、二組に分かれている。
 古いもの、そして、新しいもの。
 今、この国は過渡期にある。
 古いものと新しいものが混ざり合い、何かが滅び、何かが生まれようとしている過渡期。
 例えば。
「以上の理由により、税率を引き上げ、それを還元する形で教育に力を注ぎたいと思っております」
 古株の大臣の一人が教育改革について報告を上げてくる。教育は、この国が力を入れている分野の一つだ。識字率をせめてもう少し引き上げたいと、ラルト自身思っている。
 が、その大臣の施策に、反論の声を上げたのは若い武官だった。
「馬鹿な。今の状況で急に税率を引き上げれば、民が重税に喘ぐ。そうすれば、その税を支払うためにより多くの子供が田畑の手伝いに借り出されるだろう。教育が重要なのはもっともだし、力を注ぎたいのはわかるが、今はことを急ぐべきではない。子供がより働きやすい場を提供すべく……」
 武官の言い分は通っている。この男は、確か農民の出だった。教育に力を入れればその経費を出すの教育に力を注ぐか、それとも農民の子供達が働きやすい環境を整えるかの均衡をとるのは難しい。この男は確か農民の出で、彼の発言は彼の経験に基づくものなのだろう。
 怒鳴りあいに発展することこそなかったものの、彼らの対立は目に見えていた。冷ややかな壁が互いの間に隔たっている。身分に関係なく能力で採用したものが増えたということは、国政に様々な出自の者達が係わっているということだ。それは喜ばしいことだが、互いの経験から生まれる理解の齟齬のようなものはどうしても生まれる。
 可愛らしいたとえを用いるならば、かつてのラルトとティアレのような。
 それでも、最近までは、皆大人しかったのだ。
 この数年、皆お互いの仕事に慣れるため、人間関係を円滑にするために気を遣い合っていた。それ故、宮廷内は平和だった。ただ、目の前に山積する課題の消化に、邁進していくだけでよかったのだ。
 が、国が復興し、徐々に落ち着き、仕事にも慣れ始めると、皆、我が出てくる。野心を抱いているものは、密かに動き始める。古いものたちは新しいものたちと、意見の相違から対立する。
 最近、ラルトの頭を痛めている問題だった。
 シノが姿を消したことは、そういった諸々のことに関連しているとラルトはみていた。この中の何者かが、よからぬことを考えていた。それを、シノは知ってしまったのではないだろうか。
「……お加減が優れないのですか? 陛下」
 会議が終わり、皆が早々退室していく中で、数人が部屋に残っていた。声をかけてきたのは、その中の一人だ。暦官という暦や祭事の日程といったことを管理する役職の長で、リハンという。隣国ダッシリナ出身の男だった。
 狐のような面の男に微笑み返してラルトは首を振った。
「少し考え事をな。何か用か?」
「私が推薦いたしました女官が、妃殿下に粗相をしていないかどうか、お伺いしたく思っております」
 シノがいなくなり、奥の離宮の女官を一人補充しなければならなくなった。ティアレは平生ならば自分の身なりは自分で整えるが、季節の変わり目だからか、それともシノがいない不安からか、ここのところよく体調を崩す。女官の数が足りないということは、いざというときに対処しきれないことがあると思ったのだ。
 眼鏡に適うものがいないのなら、無理に補充する必要はなかった。奥の離宮は今となっては自分達の正寝殿だ。おいそれと信用の出来ぬものをおきたくはない。が。
『この方で』
 書類を見るなり、ティアレは決めたのだ。ならばそれ以上ラルトが口出しすることはない。女達を取りまとめる役目は、すでにティアレの手に移っていたからだった。
「粗相をしたという話は聞かないな」
 ラルトは正直に述べた。
「よくやっているようだと、后も褒めている。いい女官を紹介してもらった。ありがとう」
「それは安心いたしました」
 かつての部下の様子を聞いて安堵したのだろう。男は微笑し、一礼して退室した。
「陛下、あまり、あ奴を調子に乗らせてはなりません」
 リハンが完全にこの部屋から離れたことを確認して囁くように進言してきたのは、ラモンという、部屋に集った中では古株に位置する壮年の男だ。生粋のこの国生まれ、この国育ち。
 骨の髄まで貴族であり、そして新参者に嫌悪感を抱くものの一人だった。
「調子に乗らせているつもりはないが」
「推薦した女官が妃殿下のお傍に侍ることになり、これを機に陛下と懇意にしていただこうという魂胆が見え見えなのですよ。忌々しい」
「ラモン。それは進言というより、妬みにしか聞こえないな。口は慎め」
 確かラモンもまた女官を一人推薦していた。自分の息の掛かった娘が選出されず、臍をかんだのだろう。ラルトは立ち上がり、渋面になって押し黙る男に言葉を続けた。
「だが、お前の言ももっともだ。心に留めておく。忠言、感謝しよう。下がっていい」
 暗にラルトが退室を命じていることを悟ってだろう、ラモンはまだ何か言いたげではあったが、渋面のまま退室した。
 室内には、ラルトともう一人だけが残される。
「で、お前は何の用なんだ? エイ」
 部屋の片隅で順番を待っていた男は、待っていましたとばかりに一歩を踏み出した。
「陛下の顔色が悪いと、私も思っておりましたので」
 エイは労わりの色を見せて微笑んだ。
「そうか? 寝不足かもしれないな」
「疲労によく利くお茶を持っています。もしよろしければ、執務室でお淹れいたしますよ」
 参りましょうか、と彼に促されて、ラルトは机の上の書類を纏め抱え上げた。
 いく先は同じだ。執務室だった。


「ヒノトが心配しておりましたので」
「ヒノトが?」
 執務室は煩雑だが、数年前のそれと比べれば確実に整頓が行き届いている。この部屋に出入りするようになったエイが指揮を取って、昨年の年末に一斉に片づけを行ったためだった。というのも、いい加減、散らばった書類を踏みつけて、足を滑らせ転倒することに、彼は嫌気がさしていたらしい。せめて床は床であってほしいと、殺気立った彼の言をラルトはいまだに忘れることができない。
 資料の書籍の類はほぼ、新しく入れられた本棚に納められている。机の上はごたごたと書類が置かれてはいるが、それらが床の上を侵食することはなくなっていた。
 エイが淹れた茶は、格別苦かった。が、確かに、頭が冴えていくような気がしなくもない。
「実はこのお茶もヒノトが用意したものです。陛下に元気になっていただかなくては、妃殿下も元気になられないことを、自覚すべきだと」
 あなた方は二人で一人なのですよ、と、エイは笑って言った。
 ヒノトという娘は、エイが榕樹の小国リファルナから連れ帰った薬師見習いの少女だ。今は御殿医の長であるリョシュンについて医療全般を学んでいる。彼女が特技とするのは薬草の調合で、こういった薬効のある茶葉の配合をよくやってのけた。
 奥の離宮に頻繁に足を踏み入れる、数少ない人間の一人。ヒノトは、ティアレにとって希少な、年や身分という垣根を越えた友人でもあった。
 シノが消え、ティアレが病に臥せりがちになり、もっとも心を痛めている少女、それがヒノトである。
 その後見をしているエイもまた、超の文字がつくほどのお人よしで心配性だ。二人揃って自分達夫婦の様子にはらはらしているのかと思うと、申し訳なく思うと同時に、どこか心温かくなるのも確かだった。
「悪いな。お前には心労ばかりをかける」
 茶碗を置いて見上げた先には、机の前で佇むエイの姿。彼は人のよい笑顔を浮かべて、首を横に振った。
「それで、報告ですが」
 部下は、一変して表情を引き締めた。そこには有能な、政治を動かすものとしての顔がある。
「まずは一点目、女官長の捜索を続けていた際、素性のわからぬ文官の遺体が裏庭の隅で発見されました」
「文官? 女官ではなくて?」
「文官ですね。男性です。顔が故意に潰されているうえ、遺体の腐敗がひどくてですね、身元確認には時間が掛かりそうです。検死官の話では死後一年前後。文官の中に行方不明となっていたものがいなかったかどうか当たらせています」
「高位の文官なら騒がれるから、下級の文官か?」
「おそらくは。もしかしたら外部の人間かもしれません。また判り次第奏上いたします」
「頼む」
「そして、次です」
 ウルからの報告です、と、エイは彼の副官の名前を口にした。
「十日ほど前に出向した船の中に、それらしき姿があったと」
 シノのことだ。
「船?」
「奴隷船です」
 エイの報告に、ラルトは嘆息した。
 予想していないわけでは、なかったからだった。
「行き先は?」
「北の大陸、陽の藩国ソアラです。が、この船は藩国に到着していません。陛下、覚えておいでですか。数日前のひどい嵐を」
「あぁ」
 頷いて、ラルトは窓の外を見た。今日は晴れているが、つい先日叩きつけるような風を伴った雨が国を襲った。波は高く、船は皆港に留め置かれた。
「諸島連国に入る手前で、船は消息を絶っています」
 沈没したと。
 エイは言わなかった。
 ラルトは瞼を閉じた。
「捜索は続けさせてくれ」
「はい」
「エイ」
「はい陛下」
 再び見開いた視界の先には、信頼できる、臣。宰相の穴をどうにか埋めようと、ここまで、もがいて付いてきてくれた。
 ラルトは笑った。
「この宮中に隠れる鼠に、思い知らせてやろうじゃないか。この国の皇帝も認める最高権力者を、奴隷までに貶めた、落とし前というやつをな」
「もちろんです」
 エイは頷いた。
「私が思い知らせずとも、戻ってきたシノ様が思い知らせそうですが」
 船が難破してなお、彼女は生きて戻ると、自分と同じように信じている家臣に、ラルトは微笑んで同意した。
「まったくだ」


BACK/TOP/NEXT