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終章 迷走序曲 2


 月がひどく美しい夜だ。
 月はまるで銀の皿のように輝いて闇色の空にある。おかしな夜だ。シノは船の甲板の長椅子に腰を下ろし、ぼんやりと空を眺めながら思った。
 これほどまでに月が明るいのならば、もう少し、夜空も明るくなってもよいだろうに。
 だが夜空は不気味なほどに暗く、星の光は月光の影に隠れて姿を見せない。船の進む方向の空には、暗い光が宿っていた。
「シノ」
 背後から声がかけられて、シノは弾かれたように振り返った。そこには、呆れた顔で仁王立ちになっている男がいる。イルバだ。
「お前なぁ、怪我人なんだからふらふらすんなっつってっだろう。具合悪くなって海に落ちたってしらねぇぞ俺は」
 口調は乱暴だが、自分を労わっていることは言葉の端々から滲んでいた。この男は、照れ屋なだけなのだ。酷く優しく、気配り細やかだが、それをわざと乱暴な言葉で覆い隠している。
 シノは微笑み返して、ごめんなさい、と言った。
「イルバさん。あの、暗いものは何でしょう?」
「あん?」
 シノは船の縁に乗り出しながら、進路の先に見える黒い陰を指差した。空が暗い。道も暗い。夜だから、当たり前だといってしまえばそれまでだ。
 だが、この体中を舐めるような、不快感は何だろう。
「雷雲だ」
「雷雲ですか?」
「海の嵐の雲だ。ありゃぁ朝あたりにぶつかるな」
 イルバが、苦い表情で応じる。その顔色から推察するに、かなり激しい嵐を連れている雲のようだった。
「船室に入るぞ。今のうちに寝とかなきゃ、あの雲に捕まったら次いつ寝られるかわからねぇし」
「……えぇ」
 シノは頷きながら、あの闇色の雲から視線を動かすことができなかった。
「シノ」
 痺れを切らしたらしいイルバが、苛立ちを顕に呼びかけてくる。
 シノは、縁を爪が食い込むほどに握り締めながら、あの暗闇が雷雲だとわかった後でも身体を支配する薄ら寒さに、足を竦ませていた。





嵐は春を前にして。
全てのものに呼びかける。
惰眠から目覚め歯車を回せ。
さぁ始めようか絢爛への歌を。





それは
運命という歯車が
回る音で奏でられる

序曲



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