終章 迷走序曲 1
船がゆっくりと、港を離れていく。
目が痛くなるような鮮烈な青の下、入道雲のように張られた帆。風を受けたそれらは、炸裂音のような音を立てて大きく膨らんだ。
その帆を支える柱の下、揺り椅子に腰掛けて、海原を見つめている女がいる。
「フィル」
フィルは呼びかけに答えない。風に、声が流されているのかもしれなかった。
もともと、呼びかけに応じてイルバの下まで来ることを彼女には望んではいない。イルバは船室の入り口の扉を閉めると、草履を踏み鳴らしながらフィルに背後から歩み寄り、小脇に抱えていた麦藁帽子を彼女の頭に乱暴に被せた。
「え?」
「日焼けするぞ。皮がべりべりむけたって、俺はしらねぇからな」
潮風は慣れていない人間にとっては厳しいものだ。特に、海上にいて吹き付けてくる風は。
被せた帽子は、島にいた頃にフィルが使っていたものだ。つばの広い帽子を、手で押さえつけながら確認した彼女は、イルバを見上げ、微笑んでくる。
「イルバさんって、意外に細やかな配慮をなさるかたですね」
満面の笑顔で毒を吐く女に、イルバは思わず彼女を睨み付けていた。
「意外には余計だコラ。先に有難うだろうが」
「ありがとうございます」
「最初からそう言え」
まったく、と嘆息したイルバに、フィルは本当ですよ、と控えめに続けた。
「本当に、感謝しているのです」
「麦藁帽子如きで、そこまで感謝されるいわれもねぇよ」
「感謝しろといったり、するなといったり、話を一貫させてはいただけないのでしょうかねぇ」
「そうやって揚げ足取りするのもおめぇいい加減にしとけ海に放り投げるぞ」
こめかみを引き攣らせながらイルバがすごめば、くすくすとフィルは忍び笑いを漏らす。怪我人の癖に、元気な女だと、イルバは空を仰ぎながら大きく吐息を零した。
「感謝しているのは本当です」
「まだ言うか」
「……イルバさんがいなければ、私は無事に、国に帰ることができたかどうか、わかりませんもの」
ざざ、と。
波の音が絶え間なく、潮風に混じって辺りを満たす。
風の力のみならず、招力石の力を借りた船は足早く。既に諸島連国の島々は水平の彼方だ。
遠くで、船員たちの足音と笑い声。船は真っ直ぐに、東の大陸へと進路を取っている。
「俺は大したことしてねぇよ」
「それでも、貴方に拾われていなければ、私は死んでいたか、また奴隷としてどこかに売りに出されていたのでしょうね。記憶喪失のまま」
フィルの口調は穏やかで、笑いを含んでいた。まるで小さな失敗を笑い話にして口にしているような、そんな失敗をしてきた昔を惜しむかのような物言いだ。その内容は、決して笑い話になるようなものではないのに。
「感謝っつぅより、まるで死んでいたかったみたいな口調だぜ」
フィルはイルバを仰ぎ見て、薄く笑った。
「偉そうなことを言いましたが、海に呑まれるその一瞬、私は確かに、死んでもいいと思っていました」
「死んでも?」
「えぇ」
フィルは再び前を向き、眩しそうに目を細めた。
「海に、呑み込まれる間際、人を見ましたの」
「人?」
フィルは小さく頷いて、躊躇いがちに口を開いた。
「……“彼”は、私を迎えにきたのだと思ったのです。それならば、死んでもいいと思った」
海鳥が、ばさりと羽音を立ててイルバたちの頭上を過ぎった。
彼、とは。
誰なのかと、尋ねることは、イルバには躊躇われた。フィルからは、時折イルバと同じ気配が感じられた。
失ってしまった、気配。
それは単純に、寿命や病、事故といったもので、親しい人を失ったというものではない。
それは、ほかでもない己の過失によって、かけがえのない愛すべきものを失ってしまったものの気配だ。
「イルバさんが、奥様たちを失ったように」
イルバが問わずとも、フィルはそう切り出した。
「私も、失ったのです。罪と同時に。一人は主でした。手のかかる妹といってはおこがましいかもしれない。けれどそんな風に思っていた。幼い頃からずっと見守り続けていた主です。幸せになってほしかったのに、私は彼女に罪を犯させてしまった」
「それがお前の罪か」
「私の罪は、沈黙を保ち続けたことです。沈黙を保ち続け、過ちを正す行動を起こさず、また、どんなことができるのか、考えもしなかった。その結果失ったのは、私の主であり、私の、愛した男でした」
フィルは麦藁帽子の広いつばが作る影の下、過去に思いを馳せるためか、そっと瞼を下ろす。
イルバはフィルの膝の上に視線を移した。何気なく組まれた彼女の両の手は、握り締めすぎて血の気を失っている。爪が、食い込んでいるのではないか。そう思えるほどに強く組まれた手。
愛する人々が、その手から零れ落ちないようにと、願うように。
それだけ強く握り締めても、その中から零れ落ちていくものがあるのだと、イルバは知っている。
「彼が――フィルが、迎えにきたのだと、思った。もういいよと。もう、疲れただろうと。もう眠っていいよと。私を、迎えにきたのだと思った」
けれど、と。
続けながら、フィルは強く組んでいた手を緩めた。嘆息を零しながら、彼女は自嘲に笑う。
「彼はそんなに、甘くなかった。やるべきことは遣り通せと、私を岸に放り投げた」
フィルはくすくすと忍び笑いを漏らす。思いのほか明るい笑いはイルバを驚かせたが、それはすぐさま打ち消された。
「彼も、主も、自分たちは早々と、この世界から退場したというのに」
寂しげに、彼女は目を伏せる。
「生き抜けと、決めたことはやり通せと、私には、言うのですよ……」
出会って以来、女はどこまでも、場違いなほどに明るかった。
悪戯げに悪巧みもする、茶目っ気のある、伸びやかな明るさを持つ女だった。
が、記憶を取り戻し、彼女は影を宿すようになった。それでも彼女は、前へ進もうとしていた。どこまでも怪我をしてさえ、守らなければならぬものがあるのだと、イルバの目を真っ直ぐに射抜いて決意を示した。
失ってから七年間、ただ過去から逃げ続けることしかできなかったイルバにとって、過去を抱えながらも前へ進もうとする女は、尊敬に値する。
だが、本当は、そう見せかけようとしていただけなのでは、ないのか。
泣く場所を失って、女は途方に暮れていた、だけではないのか。
だから前へ進むことしか、できなかったのではないだろうか。
イルバは静かに涙をこぼす女の頭にある、帽子を軽く押さえた。
その広いつばで、女の雫が隠れるように。
「守ってくれたっつぅことだろうが」
嵐の海に放り投げられて、生き延びることは奇跡だ。
おそらく、女の愛した男と、主の亡霊は、女を守ったのだろう。
「お前が、生きて、幸せになるように」
残された女が、幸せになれるように。
ただ、悔恨と懺悔の念だけに囚われた人生で、終わらぬように。
ふとイルバは、この女を守ったのは彼女の男と主だが、イルバの下に運んだのは、イルバの失った妻子ではないかと思った。
ナスターシャと、セレイネ。
海の中に沈めた、二つの亡骸。
いい加減、歩き出せと、イルバを叱咤するために、彼女らが女を運んだのではないかと、思った。
「人遣いの荒い陛下のお守りを続けろと、私に命じただけですよ」
彼女は口元を笑みに曲げた。そこには親愛の情がある。
会話が途切れ、辺りを再び海の音が満たす。時折挟まれるものは、船員の号令、足音、海鳥の啼き。
「そういや」
長い沈黙のあと、イルバはふと思いついて切り出した。
「フィルっつうのは、お前のその失った男の名前なのか?」
「え? えぇ……愛称ですけど」
熱に浮かされた女が繰り返していた名前。彼女は海に落ちる寸前に見たという亡霊の名前を口にしていたのだろう。
イルバはフィルという女の名前が、イルバのつけた仮初めのものだということを思い出した。
「お前、今更だけど本名があるんじゃねぇのか?」
これから女の故郷にいくというのなら、女の知り合いにも顔を合わせる機会があるだろう。女の本名に、今のうちから慣れておかなければならない。そういえばイルバはまだ、この女の詳しい素性すら耳にしていないのだ。水の帝国の宮城に勤める上級女官。イルバが知る彼女の身分とは、そればかり。
「そうでしたね」
女はそういえば、と笑い、片手で帽子を押さえながら、空いた右手でイルバに握手を求めてきた。
「シノ・テウイン、と。これからも宜しくお願いいたします。イルバさん」
女は――シノはもう泣いてはいなかった。
足掻きながら、立ち上がったものの強さを瞳に宿して、彼女はイルバを見る。
イルバは笑い、シノの手を握り返した。
「こちらこそ」
そして、思いついて、名乗った。
「イルバ……イルバ・ルスだ」
古い名前を、また、このように名乗ることになろうとは、イルバ自身思ってはいなかった。
しかし久方ぶりに自ら口にした姓は、古馴染みの友人の名前のように、滑らかにイルバの口から零れ出る。
イルバは、微笑んだ。
「よろしくな、シノ」
ラルトは廊下を歩いていた。
兵士がもたらした報せは、最悪のものではなかった。が、ティアレの不調を訴えるものではあった。彼女が、倒れたという。
原因は不明。暗殺の危機にさらされながらも生き残っていたという部分に安堵しながら、それでも昏睡に陥っているという報告は、ラルトの背中を粟立たせていた。
早く早く早く。
気持ちだけが急く。焦燥がちりちりと喉を焦がし、水への渇望を覚えながら、ラルトは足を動かし続けた。
早く早く早く。
だが、奥の離宮への道のりは、こういうときに限って酷く遠かった。
夜。
目覚めると、傍らに在るべき人の姿がなかった。手水か、とも思ったが、帰ってくる気配がない。上着に袖を通しつつ、台所まで探しにいったが、男の姿は見当たらない。そして彼の姿と共に、彼の相方の青龍刀も。
娘は刀と鍵を掴み、借りている部屋を出た。
借り受けている部屋のある、集合住宅から徒歩で幾許もない距離に、砂浜がある。
寄せては返す暗い波の縁に、求める姿はあった。
「――……」
男の名前を呼ぶことが、何故か躊躇われた。
男は波打ち際に裸足で佇んで、まだ顔を見せぬ太陽に薄く発光している水平線を、ぼんやりと見つめていた。暗く遠いその眼差しは、ほんの時折、娘の目を盗むようにして彼が見せるものだ。
この、択郷の都で暮らすようになって二月ほど。男は娘をこれ以上ないほど甘やかしている。知り合いも増えた。仕事をして、家に帰る。時折、この都を拠点として、周囲の藩国まで出稼ぎにでる。そして、家に帰る。すこしじゃれあいながら、二人で眠る。
そんなささやかで平和な生活を、繰り返している。
それでも、この場所に永久に腰を落ち着けるとは、思えない。
男は、時折、遠い地平を見る。
この国に来てからは、特に。
彼は水平の彼方を見る。
こんな風に。
胸苦しそうに。
ねぇ。
貴方、一体どこへ行くの。
どこへ、いきたいの。
彼が旅を続けるのは、どうしてなのだろう。
そんなに切なそうに、故郷のある方向を見つめるのに。
ふと、男が振り返った。娘の姿を認めた彼は、驚きに目を瞠る。
「どうしたの? 夜中に」
「それはこっちの科白だよ」
男に歩み寄りながら、口先を尖らせ、娘は呻いた。砂を踏みしめれば、きゅ、きゅという不思議な音がする。
「ごめん」
「何やってたの?」
男の傍らに、娘は並んだ。彼は、んー、と呻いて、微笑んだ。
「潮騒を聴いてたんだ」
「……しおさい?」
聞きなれぬ単語に、首を傾げた。
「海の音だよ」
男は言った。
「この、寄せては返す、波の音」
ざざん、と。
淡々と繰り返される、海の歌。
とても耳に優しい、そして少し切なくさせる、柔らかい響き。
「へぇ……」
これを、潮騒と呼ぶのか。
娘は砂浜を見渡した。波と砂浜と自分達二人。頭上には、明るい月が昇っている。
「……生まれ故郷、こんな海が近かったのか?」
男は、水の帝国生まれ。川がたくさんあるとは聞いた。海に隣接している国だとも。かなり大きな国だということもわかる。
だが、そこのどこの生まれなのかは、まだ聞いていない。
「うん」
「へー。じゃぁ、潮騒は、子守唄とかそんなんだったんだ?」
「子守唄。あぁ……いやそんなんじゃないんだけど」
男は娘を見て、笑った。少し泣きそうな微笑。
「聞いてると、少し安心する」
彼は。
水の帝国に帰りたいのではないかと、思う。
旅の行き先に、その国を指定することは、決してなかったけれど。
娘自身、湖の王国に帰りたいのかと問われると、肯定せざるを得ない。湖の王国、というよりも、妹たちの下に。妹と、その婚約者であった――もう、きちんとした夫婦だろうが――皇太子。反逆の罪で軟禁されている元宰相。自分の跡継ぎを行った護衛団の副団長に、祖父代わりだった、優しい鉄鋼精錬師。お節介な、衣装屋の女主人も。
元気でやっているだろうかと、確かめたい。
双子の妹に、無事彼に会えたよ、と報告したい。旅で見てきた色々なものを報告したい。男は、一度あの国に戻ろうか、といってくれた。娘はいいと突っぱねた。あの国に一度戻れば、二度と動きたくなくなるような気がして。そして、男をそれにつき合わせてしまうような気がして。
彼は、どうなのだろう。
ふと、顔に影がさした。
男の吐息が唇に触れて、娘は反射的に目を閉じていた。ほどなくして、落とされる柔らかい熱。それが離れると、娘の手をひやりとした男の手が握り締めていた。
「戻ろうか。朝は早い」
微笑む彼に、娘は頷いた。
「うん……」
男の手は、いつも冷えている。
けれど今日の手のひらは、ことのほか冷えているように感じた。
孤独に、凍えているような手をしていた。
ねぇ。
娘は、胸中で問いを繰り返す。
そんな、凍えないで。
彼は屈託なく笑うけれど、時折凍えているようだった。
貴方がどの土地を、故郷として選び、腰を据えようと、また、どの土地も故郷として選ばなかったとしても。
自分はここにいるのだから。
常にそう思っている。けれど自分の存在だけでは、彼の中にあるどうしようもない孤独を埋めることは叶わないのだということも、娘は正しく理解していた。
男は、浜辺の去り際に、一言呟いた。
「嵐が、来る」