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第六章 そして再び歯車を回す 4


 ――呪いは、確かに解かれたのだと、自分たちは知っている。
 銀に塗り代わった世界。手と手をとって天に昇った亡霊。彼らが連れていった、呪いの根源。
 けれど真の意味で、呪いが解かれる日は、この背負う業から解放される日は、おそらくこの国が、真に復興を遂げたその日だ。
 それまで自分たちは、呪われた存在であり続けだろう。
 永劫に。


 男は、急に恐ろしくなった。
 男がそのようにして恐怖を覚えたことは、かつてなかった。男はどんな相手も殺してきたし、どんな死線も乗り越えてきた。死ぬことにすら恐怖を感じたりなどはしなかった。
 だというのに。
 男は、恐れた。恐怖だった。戦慄していた。
 自分が今、弑さんとしている女は、皆が言うような、ただ皇帝に守られて過ごす庶民出の后妃ではなかった。男には、到底想像もつかない何かであり、人としてはありえぬような女の神がかった美貌も、一度自覚してしまえば男にとって恐怖を抱かせるもの以外の何ものでもなかった。
 女は身じろぎ一つしない。殺されることを、待ち受けるかのように男の腕の中に納まったまま、男を見上げている。その瞳の白目は、青白く、薄ら寒いものを男に覚えさせた。
無意識のうちに、手元が緩む。
 恐怖の対象から、足が一歩、遠のく。
 その瞬間、背に深い激痛が走った。
「ぐ……っ!!!!」
 喉元から、低い呻きが漏れる。
 男は数歩よろめきながら、背後をかえりみる。深々と背に突き刺さるものは、黒塗りの柄が美しい矢だった。[やじり]の部分は男の急所を正確に突いて、筋肉に食い込んでいる。それを抜くべきか、抜かぬべきか、男が思案したのは一瞬だった。
 ひゅぅぅ、という、風を切りさく音が夜の静寂を破った。よろめきながらその場から立ち退こうとするが、足がもつれ、結果音源と対峙することになる。音源を確認するまでもなく、もう一本の弓矢が男の胸を鋭く抉った。


 ティアレを捕らえていた男が、何者かの矢に倒れると、動きを止めていたスクネたちが一斉に蜂起した。呆けている暗殺者たちを、彼らが一蹴するのは簡単だったらしい。 ティアレの目の前であっけなく暗殺者たちは制圧され、幾人かは逃走し、幾人かは悶絶し、そして幾人かは躯となってその場に横たわっていた。
「ご無事ですか?」
 ティアレに向かって放たれたと思しき涼やかな声が、森の闇から響いてくる。と、同時に茂みの奥から男が一人、弓を下げて現れた。まだ若い男だ。ティアレは衣服の乱れを軽く整えながら、彼に向き直った。雲の切れ間から差し込んだ月光が彼を照らし、彼の輪郭を浮き上がらせる。
 黒い髪に黒い瞳。細面の優男である。浅葱色の文官の衣装に、見慣れぬ篭手を身につけていた。ティアレは目を細めながら、よく見知った男の名を呼んだ。
「エイ」
 エイ・カンウ。左僕射という官職を戴く男は、柔らかく微笑んだ。
「ご無事でよかったです、妃殿下」
「ありがとうございました、エイ」
 ティアレの無事に、心から安堵してくれているものの声音だった。その温かい声の主に、ティアレは微笑み返す。エイは少し頬を赤らめると、照れくさそうに肩をすくめた。
 ティアレは大地に伏している男の遺体の横に屈んだ。武術の類がひどく苦手であるらしいエイだが、弓術の腕だけは、目を見張るものがあるのだとラルトが褒めていたことを思い出す。エイの手によって射られた矢は、詳しくないティアレの目を通してさえ、正確に男の急所を突いているのだとわかった。
 男の虚ろな瞳に、満月が映りこんでいる。その光の輪を隠すように、ティアレはそっと男の瞼を閉じてやった。
「ティアレ様」
 ティアレの背後に、掠れた少女の声がかけられた。ティアレは立ち上がりながら振り向く。不安げに瞳を揺らす少女が、見るからに陰惨な様相で佇んでいた。
「レン」
 ティアレは少女に微笑みかけながら、歩み寄った。少女は視線を土の上に投げて、唇を引き結ぶ。その白い頬を、赤い雫が汚していた。返り血だ。
 力が篭る少女の手をティアレは見た。ゆっくりと、血の気を失うまでに強く、短剣を握り締める少女の手。ティアレはその手をとろうとしたが、少女の手は弾かれるように動いて、ティアレの手を払いのけた。
「もうしわけ、ありません」
 少女は、怒られることを恐れる、幼い子供のような目で、ティアレを見つめた。
 彼女が、周囲を見回す。負傷した数人の兵士たち。こちら側の兵に殺された暗殺者たちの躯。踏み荒らされた小さな庭園。それらを見回し、何か言葉を紡ごうとしているのか、唇を小さく戦慄かせていた。
「湯屋に行きましょうね」
 ティアレは短剣を握る少女の手を、今度こそ握り締めて言った。
「お互いに、ひどい様相ですから。湯浴みをして、今日はもう寝てしまいましょう」
 ティアレ自身もまた、レンやスクネたちほどでないにしろ、泥と血に汚れてひどい有様だった。スクネたちも労ってやらなければならないだろう。命を落としたものこそいないようだが、負傷したものも数多くいる。命に代えてでも、ティアレを守ることが彼らの役職だといってしまえばそれまでだが。
「何故、そのようなことがいえるのですか?」
 レンは表情を凍てつかせたままティアレを見返していた。
「私は、貴方を、殺そうとしたのです」
「貴方は私を守ってくださいました」
 ティアレは即答する。だが、レンは納得のいかないというように、激しく頭を振った。
「私は、貴方を殺そうとした。だから私は貴方をここに連れてきたのです」
「それでも、最初の凶刃から私を守ってくれたのは、レン、貴方です」
 暗殺者の放った不意の一撃を、遮ったのはレン自身だった。そうでなければ、スクネたちは間に合わなかっただろう。囮になる以上ティアレは無論覚悟してはいた。だが、お互いに相当肝を冷やしたことには違いないのだ。
 ティアレは、信じていた。
 この少女が、ティアレを殺さないことを。
 だからこそ、ことの仔細をラルトに聞いても、囮になることを二つ返事で了承したのかもしれない。
「私は……!!!」
「レン」
 ティアレはレンの頬を汚す血を親指の腹で拭った。ティアレの手を濡らしたのは血ばかりではない。透明な水滴が、指先を覆っていた。
「貴方は私を守った。それまでも、私に誠心誠意仕えてくれていた。私を、裏切りたかった? いいえ、貴方は私を裏切るか裏切らないかの狭間で、ずっと苦悩し続けてくれていた。それだけで、私は貴方を赦せるのですよ」
 裏切り、欺きながら。
 それでも、ラルトを支え続けたジンを、ラルトが赦したように。
「エイ」
 ティアレはことの次第を見守っていた左僕射を振り返った。名前を呼ぶ。それだけの動きで、彼はティアレが一体何を求めているのか判ったらしい。
「暗殺者たちが、ティアレ様に襲い掛かった。レンは、それを守ろうとした。私はそれしか、見ておりません。なぁ、スクネ」
 エイの横に並んでいたスクネは無表情のまま小さく目礼する。ティアレは満足し、レンに向き直った。
「ね?」
 レンは何か言いたげにティアレを見上げ、再び瞳を伏せてしまった。女官の衣服の裾を握り締める小さな少女の手。この手を、ティアレは救い出してみたかった。
 鳥の亡骸をわざわざ見晴らしのよい青空に近いところに埋めた手のひら。逃げ切れない小鳥に、彼女は己を重ねて見ていたのかもしれない。無表情の奥に、少女が何か葛藤を隠していたことも知っていた。殺したくない、殺さなければならない。その葛藤を、ティアレはよく知っている。
 かつての同じ自分の苦悩を抱える少女を、救い出してみたかった。
 もし、そうすることができたのなら、自分にも、ラルトが救い出せるのかもしれないと、自信が持てるから。
 苦悩し続ける孤独な皇帝。
 ラルト、私は貴方を、支えきれているのですか。
 貴方を、本当に、呪いの最中から救いあげることが、できていますか。
 貴方の唯一の家族を、奪ってしまった私は。
 本当に。
 ラルトは確かにティアレを救った。ティアレに、かけがえのないものを与えた。金銭ではない。ティアレが生まれてから一度も持ったことのなかった、帰るべき場所を。
 が、ティアレはラルトから奪うばかりで、何も与えられていないのではないかと感じることがある。
 ラルトと同じ夢を抱くことはできる。
 しかし、同じ世界を見つめることはできない。
 それができたたったひとりを。
 じぶんは。
 ぞくりと。
 何か、背を這い登るものを、ティアレは感じた。
「……ティアレ様?」
 目を伏せていたレンが、怪訝そうに顔を覗き込んでくる。ティアレは彼女を安堵させるために、どうにか微笑もうとした。が、顔の筋肉が引き攣り、胃の奥から込み上げてくる強烈な吐き気に、ティアレは思わず膝をついていた。
「ティアレ様!!!!」
「妃殿下!!!!!」
 叫びながら駆け寄ってきたのはエイとスクネだ。だがティアレは、彼らの姿を確認することもできなかった。レンの腕に手を添えるも、身体中から抜け落ちていく力に、ティアレはとうとう地に伏した。
「ティアレ様!!!!!」
 耳元で、レンの絶叫がはじける。ティアレは人事のようにその叫びを耳にしながら、あぁどうして自分の身体は、こんなにも思い通りに動かないのだろうと、笑い出したくなっていた。


「連れて行け」
 射すくめられたかのように顔を強張らせた大臣は、己の末路を思ってか、最後まで蒼白なままだった。近衛兵に、表情を凍てつかせたまま腕をとられた彼は、引きずられるようにしてこの中庭から退場を余儀なくされる。彼らの遠ざかる足音を聞きながら、ラルトはさて、と振り返った。
「そろそろ出てきてもいい頃なんじゃないか?」
 なぁ、と、草陰に向かって問いかける。
 ぱきりと枝を踏み折って、誘われるままに姿を現したのは、黒髪黒目の暦官長。彼は口元を、笑みで彩りながら小首をかしげた。
「どうして私がいると? 陛下」
「殺気には、敏感なんだ」
 ラモンとの会話中、向けられていたかすかな気配。そこから生み出される緊張感。それが殺気であると、ラルトは知っていた。生れ落ちてから今まで、途切れることなくラルトを襲い続けたそれは、まるで昔なじみのようにさえ思える。
「殺気ですか」
 リハンは肩をすくめて、小首をかしげる。ラルトは笑った。
「とぼけた顔をしなくてもいい。反目していたはずのお前たちが、つるんでいたことぐらい百も承知なんだ」
 追い詰められながらも、後悔させてみせると自信に満ちていたラモン。理由は単純だ。彼には、共犯者がいた。そしてその共犯者もまた、ラルトの預かり知らぬところでティアレに向かって暗殺者を差し向けていた。そのことを知っていたからこそ、ラモンはたとえ己だけ捕らえられても、ラルトに一矢報いることは可能だと、思っていたのだろう。
「まさか反目していた相手同士が、ずっと以前から共謀しているとは、周囲もなかなか思わない。そんな風に思って、お前たちが行動していたのかどうかは、知らないけれどな」
 端的に言ってしまえば、そのような事柄はどうだっていい。
 ただ、確認したいことはただ一つ。
「リハン」
「はい陛下」
 暦官長は小さく頷いて応じる。ラルトは表情と抑揚を押し殺し、剣を握る手に力を込め、軽く身構えながら尋ねた。
「お前は――……誰だ?」
 暦官長の姿をした何者かは、顔から表情を消した。
 程なくして、その口元には、いつもの彼が決して浮かべることのなかったひどく歪んだ冷笑が刻まれた。
「この男の、死体でもあがったのか?」
 男は自らの胸元を、親指で指差し、尋ねてくる。
「そうだ」
 ラルトは頷いてやった。
 シノの行方を捜している最中だ。エイが、死体が一つ発見されたと報告してきたことがある。
 男の死体だと聞いて、初めは気に留めていなかった。が、顔がひどく潰された死体の調書に目を通したとき、何故、そんなものがこの宮城から発見されるのだろうと、気になったのだ。
 片手間に、調べてみれば案の定。
 今生きているはずの男の死体だった。
 男は笑みに喉を鳴らした。くつくつくつ、途絶えることのない笑いは、夜の静寂に沈む中庭によく響いた。ほどなくし、小さな燐光が男の指先から舞い上がり始める。一つ、二つ、三つ。緑色の小さな明りは、このような場所で見ることなどまずあるはずのない、魔力の塊――妖精光と呼ばれるものだ。ラルトは怪訝さと、肌を刺すような緊張感に、思わず唾を嚥下していた。
 燐光は男を包み込んだ後、光の洪水となって、月に吸い込まれていく。
 再び月が光源の全てであるいつも通りの夜を取り戻した中庭には、見たことのない様相の男が立っていた。
 白い上下に、黒と紫の帯を締めている。短い、闇を吸い込んだかのような黒曜石色の髪と瞳。血のような紅い、肌の色が判別できなくほどの刺青で、右半身、顔に至るまでを覆っていた。刺青は、ラルトには理解できぬ、古い、魔術の文様だ。一目見て禍々しいとわかるそれからは、濃厚な魔の気配がする。
 典型的な東大陸の容貌をしていたが、どこか、見知った顔の面差しをもつ男だった。
(……ちちうえ?)
 自分が殺したも同然の父。
 そして、呪いの渦中にあって次々と裏切りによって命を落としていった、ラルトの異母兄弟たち。
 否。
(……ジン?)
 彼は、幼馴染にも。
 そして、自分にも、似ているような気がした。
「誰だ?」
「俺の名前はラヴィ・アリアス」
 男は、偽りの名[アリアス]などと、ふざけた名前を口にした。しかもその名前は、かなり有名な過去の偉人の名前だ。
「弁解しておくが、リハンという男は、俺が殺したわけじゃない。偶然その場に居合わせてね。彼の名誉のために言っておくが、彼は本当に君を慕っていた。殺されたのも、ラモンと君に対する意見で反目していたからのようだよ。その辺りは、是非とも汲んで、彼の部下や同僚たちに伝えておいてあげてほしい」
 おどけたように諸手を挙げて、男は言う。そのような仕草は、リハンならば考えられぬことだった。
「殺したと思っていた男が生きていて、君の后暗殺に協力すると申し出るのだから、かなり驚いただろうな、相手は。殺されかけて、リハンが屈服したのだと、都合よく考えてくれて、こちらとしては助かったけれどさ」
「何が目的だ?」
 男を改めて観察しつつ尋ねる。面影は確かにラルトの見知った人々に似てはいるが、どこをどう見ても、やはり見覚えがないのだ。ラルトは自慢ではないが、記憶力は優れているほうだと思う。たとえ一度でも顔を合わせたことがあるのなら、覚えているだろう。
 その上、禍々しい刺青。
 見ているだけで、吐き気がした。
 そんなものを身に刻んでいる男の見覚えは、やはり全くない。
「何か俺は、お前の恨みでも買ったか?」
「いいや」
 ラルトの問いに、男は首を横に振った。
「俺と君が会うのは、リハンとしての時期を除けば今が初めてだ。俺は君に恨みなどないし、君は俺に何かをしたというわけではない」
「ならば何故、こんなことをする?」
 死んだ人間と摩り替わるようなまねは、簡単にできることではない。外見が変わったことを考えても、魔術を使って、彼は自分をリハンという人間に見せていたのだ。それは常人に出来る業ではないし、あまり魔術に詳しくのないラルトでも、そこに発生するだろう代価を思えば気が遠くなる。
 その上、彼の友人は部下も、誰も入れ替わりに疑問を抱かなかった。癖や口調、全てをまねていたといっても過言ではない。そんなことが簡単にできるものなのだろうか。
 常識で考えれば、答えは否だ。
 そんな労力を、一体、どんな理由で。
 男は満面の笑顔で答える。
「暇つぶし」
「……ひ、暇つぶし!?」
「そう」
 男の回答に思わず素っ頓狂な声を上げたラルトは、驚愕の眼差しで男を見つめ返した。男は満面の笑顔を、悪びれもせずに浮かべている。
 ラルトの胸中に、ふつふつと、何か込み上げるものがあった。
「暇つぶしで、ティアレの命を狙ったっていうのか!?!?」
 この男がラモンとティアレの暗殺を画策し、そのためにシノは諸島連国にまで流された。いらぬ血も流れただろう。ティアレが本当に無事なのか、ラルトはまだ確認してはいないが、彼女にも緊張と恐怖を強いているはずだ。
 それら全てが。
 この男の暇つぶしのため?
 ラルトと対峙する男は鷹揚に頷いて見せる。ラルトは激昂した。
「ふざけるな!!!!」
「ふざけてなどいないさ」
 男は真面目ぶった表情で応じた。
「ふざけちゃいない。全力で、暇つぶし。いいじゃないか、暇つぶしで国を潰してみる男がここにいたとしても。俺は本当に暇と力をもてあましていて、退屈しのぎに、自分の持てる全ての力を使って、この国をかき回してみようと思った。……世の中立派な大義名分を掲げて、人を殺し、国を滅ぼす輩ばかりじゃないんだよ、皇帝陛下」
 己のことは棚に上げ、まるで他人事のように男は宣う。そこには、全く嘘の欠片もない。この男は本当に、暇つぶしの名の下に皇妃の暗殺に賛同し、暗殺者を動かした。そのことを痛切に思い知らされて、ラルトは愕然となった。
「あぁ、最後に、一つ教えておいてあげよう皇帝陛下」
 人差し指を立てて、男は微笑んだ。
「俺がリハンとしてもたらしたダッシリナの情報。あれは本当に、リハンの知人が持ち込んだものだ。嘘ではない」
 ダッシリナで、革命が起きようとしている。
 その情報を持ち込んだのはリハンだ。わざわざ言い置いていくぐらいだから、真実なのだろう。ラルトは舌打ちしたくなった。ただ、内政をかき回したいだけの嘘ならば、どれほどよかったか。
 ウルを調査に送っているから、報告は程なくして届くころだ。だが、この分だとあまり喜ばしい報告を彼の口から聞くことはなさそうだと、ラルトは思った。
「お前は一体何者だ?」
 ラルトは男の気配にただならぬものを感じながら、呻くようにして問うた。男は肩をすくめ、小首をかしげる。
「ラヴィ・アリアスと、名乗ったが」
「偽りの名前などという意味の名前だがな」
「本当の名前なんだけどなぁ」
 男の声音は緊張感を欠いていた。侵入者という自覚がまるで欠落しているかのようだ。
「俺が聞きたいのは、お前が何者かということだ」
 ラルトは苛立ちをこめて言った。
 男は、長命種ではないだろう。精霊とも異なる気がする。一番似ているのはティアレの気配だ。魔女として生れ落ちた、神に一番近い人間の姿。
 ブルークリッカァにやってきて、人と関るようになり、彼女のそういった気配は随分と薄らいだが、今でもラルトは時折思い出す。
 初めて見たときの、戦慄。あの幽玄な神の指が触れたと思わせる彼女の造詣。空気。
 それに似たものを男から感じる。ただ、男が纏うものは、もっと歪んだ、魔のような気配だ。
「何者か。……俺にも、実はよく判らない」
 男は、小さく微笑んだ。
「そうだな。強いて言えば、傍観者というところか」
「……傍観者?」
「そう。世界の、傍観者。あるいは――……」
 男は何かを口にしかけ、しかしそのまま言葉を飲み込んでしまった。彼は小さく頭を振り、何事かをラルトには聞き取れぬ声で独りごちた後、弾かれたように面を上げ、目を細めた。
「……もう少し、君とは話していたかったんだけどな」
 残念だ、と男は言う。何が、と問う前に、遠くから、ラルトを呼ぶ声が聞こえた。
「陛下――――っ!!!
 一瞬だった。
 ほんの一瞬だ。ラルトが視線を、男から声の方向に動かしたのは。
 だが視線を戻し、ラルトがその場を確認すると、男の姿はそこにはなかった。


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