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第六章 そして再び歯車を回す 3


「言いたいことは、それだけか」
 皇帝がラモンを見返した。ラモンは頬をこれ以上ないほどに紅潮させ、吐き出す言葉一つ一つに吐息を乗せるかのように、肩は上下させていた。そのラモンを、皇帝は明らかに、哀れみの目で見つめていた。
「お前の言いたいことはよく判った。だが俺は決して古いものを軽んじているわけではない。古い制度や古株の人々は、確かに俺にはない経験を積んだ先達だ。だが、民を家畜と呼ぶような輩には興味はない。ただ、それだけだ」
「田を耕すしか能のないあれらは、牛と代わらぬでしょう」
「役割が異なるだけだろう。お前のたとえを用いるとすれば、だ。牛がいなければ、人は飢える。皇帝も貴族も、民の治める年貢がなくては生きてはいけない。民は、俺たちの代わりに田畑を耕し、布を織る。俺たちは彼らの代わりに、彼らの生きやすい世界を作る。誰もが皆、同じ人間だ。俺たちはただ異なった役割を、天から与えられているに過ぎない」
「馬鹿馬鹿しい」
 ラモンは嗤った。
「貴方はただ、身内が可愛いだけにすぎん。人など皆、身勝手なものだ。誰もが同じ人間だと、いいましたな陛下。ならば貴方も人を憎むようになる。誰もが幸せになどと、そのようなきれいごと、ぬかんようになるだろう。今に」
 そう、皇后を失えば、誰もが幸せになどというきれいごとは、この男も言えなくなるだろう。
「貴方から、民が一番貴方の大事なものを取り上げましょうぞ」
「一つ教えておいてやろう」
 皇帝の言葉に、ラモンは思わず息を呑んだ。彼は、ラモンの考えを笑い飛ばすかのように口元を吊り上げていたからだ。暗い炎の色の瞳には、触れるもの全てを切り裂かんとする、冷えた色があった。
「ティアレはそう簡単に殺される女じゃないからな。お前が思うより、もっと、手ごわい女だ」
 手ごわい女。
 皇帝の言葉の意味を図りかね、ラモンは首を傾げていた。
 手ごわい?
 あの、貴族の娘たちに何を言われても、笑っていることしかできない鈍感な女が?
 この、宮城という世界のなんたるかを知らない、あの女が?
 皇帝は薄く嗤っている。その嗤いを、ラモンはひどく不気味だと思った。


 銀の刃が。
 暗闇に疾る。
 一瞬遅れて響き渡ったのは、きん、という、澄んだ金属音だ。冷や汗が、頬を伝い降り、唇が、乾いていた。喉が鳴る。歯が、震える。
 レンは、今自分は、何をしたのだろうかと自問していた。
「レン」
 ティアレが呼ぶ。レンは面を上げた。泣きそうになった。その人がそこにいて、レンの腕に触れていることに。
「後ろに、お隠れください」
 レンは短剣を構えながら言った。刹那、暗い森の奥から、幾重もの黒い影が現れる。
「血迷ったか」
 影の一人が口にする。その言葉で、レンは全てを認識した。
 そう、自分は血迷った――血迷ったのだ。殺すべき対象を、守ってしまった。
 それは、自殺行為だと知っていたのに。
 自分が失敗して、正妃に逃げられても、レンの同僚たちが現れる。彼らが彼女を、抹殺する。その筋書きは変わらない。それを、レンは知っていたというのに。
「レン」
 ティアレの呼び声に、レンは答えることができなかった。ただ、こうなればもう、かつての同僚たちに手にある刃を振りかざし続けるしかないのだと知っていた。レンの手元にある懐剣は、彼らの暗具と渡り合うには、あまりにも心もとないものだったけれども。
 レンはティアレをその背に庇うようにして、腕を広げながらゆっくりと後ずさりした。逆手に持った懐剣の重さが、手首に掛かる。ちっぽけな細い刃に、自分たちの命全てが乗っている。
 じりじりと、間合いを詰めてくるかつての同僚たちは、レンを躊躇いなく殺すだろう。かつて、レンがそうしてきたように。
 ぱきりと、枝葉を踏み折る音がした。
 刹那。
「ぐぁああぁぁぁぁっ!!!!」
 にじり寄っていた暗殺者たちの一人が、胸から血しぶきを上げてその場に崩れ落ちた。


「結局は、自分たち、いや、自分を重用しない俺が忌々しく、俺から玉座を奪いたいだけだろう」
 皇帝の吐き出した言葉に、ラモンは胸中を抉られたような気分になった。そんなつもりはないと否定の声を上げる気にもならない。皇帝の言葉は、純然たる事実だった。
 皇帝の瞳が、すっと細まる。
 卑しい蟲を見つめるかのような冷えた彼の眼差しに、ラモンは唾を嚥下した。
「俺は古い歴史を、そしてお前たちを蔑ろにしたつもりはひとかけらもない。だがお前のような男を殺してやりたいと思う瞬間も確かにある」
 皇帝は一歩、前へと踏み出した。周囲の近衛兵たちは何も言わない。動かない。ラモンは皇帝が進んだ距離分、背後へと後退さった。
「それはいつか?」
 皇帝は歴史を誰かに物語って聞かせるように、ゆっくりと、言葉を紡ぎ続ける。
「それは、お前のような男が、永遠に、権力と金に群がり続ける、それこそ甘い蜜に群がる蟲同然の生き物と知ったときだよ、ラモン」


「スクネ!!!」
 レンの背後から、ティアレの歓喜の声が上がった。
 首、もしくは胸から、血しぶきを上げる暗殺者たちの合間から。
 暗具を手に現れたのは、左僕射エイ・カンウの懐刀と名高い、スクネという男だった。
「妃殿下!」
 スクネの声は、ティアレの無事を喜ぶものではない。注意を促すものだと、レンはその声の引き攣りぐあいからすぐに判断することができた。
 袖口に仕込んでいた数少ない暗具――細い針を引き出し、手首を返して気配の方向に投げる。宙に弧を描く前に、針は飛び掛ってきていた暗殺者の首を直角に貫いた。瞳孔を開いた彼は、そのまま失速して地面に叩きつけられる。安堵する間もなく、レンは視線を周囲に廻らせた。スクネと、彼が率いているらしい人間数人が、暗殺者たちと戦っている。双方とも、よく訓練を受けたものだった。互いに間合いを取り合いながら、一瞬の隙を狙っていた。
 レンもまた、襲い掛かってくる男たちの対応に必死だった。いつの間にか、目的はティアレの死守から自らの命の防衛にすり替わっていく。気付いたときには、ティアレの姿はレンの傍にはなく、少し離れた場所で、ティアレは暗殺者の首領と思しき男の手の中に納まっていた。


「俺は、お前のような男を愚かだと思おう」
 皇帝の声音は穏やかで優しい。
 だがそれを裏切って、瞳は恐ろしく冷ややかな光を湛えていた。その眼差し一つで、冗談ではなく、気の弱いものなら射殺せてしまえそうな。
「お前たちは、自由になる権力と金、そこに架せられた宿命を、お前たちは露ほども見ていないのだろう。王座につけば、民と財産を自由にできる。その程度にしかみていないのだろう」
 皇帝は腰にさげていた剣を鞘から抜いた。彼がいつも傍らに置く古い長剣。刃こぼれ一つない美しい鋼には、血の油が染み込んでいる。
 数多くの貴族の子息は、もう武術を学ぶということをやめていた。放っておいても王族は裏切りあって殺しあう。それに積極的に拘らなければ、貴族は皆安泰だと、長い歴史のなかで知っていたからだ。
 ラモンもまた例外ではない。ラモンには、武術の心得というものがまるでない。人を率いるのではなく、人を使うことになれた人間は、武術というものを学ぶ必要などなかった。学館に身を置いたことのあるものを除けば、貴族の中でそれを学んだ経験のあるものは、一族が武門の家であるか、もしくは単なる趣味として武具演舞を嗜んでいるか、そのどちらか程度しかない。
 皇帝が、ゆっくりと歩み寄ってくる。ラモンは身を引きながら、その場から動くことも出来ずに立ちすくむ。
 そして今目の前にいる皇帝は、素人として剣を扱うものではなく、国の誰よりも、政治の才と同時に剣のそれに愛された男だということを思い出していた。


 男は負け戦続きだと、胸中で舌打ちした。庭園と思しき空間に、自分の部下が幾人も、事切れ横たわっている。諸島連国に残してきた部下も、死ぬか、あちらの政府に捉えられたであるらしい。負け続きだった。が、最後の最後で、王手を積むことができたようだ。
「そこまでだ」
 腕の中の女は、この国の正妃である。ティアレ・フォシアナ・リクルイト。今回の、標的。
「動くな。武器をおけ」
 女を人質にとっての行動に、皇帝から送り込まれたと思しき兵士たちは、あまりにあっさりと男の命に従った。
「ティアレ様」
 蒼白な面持ちで呻きを漏らすのは、レンだ。長い間、目をかけてきた娘。こんなところでも裏切らなくてもよかったろうに。
「レン、後でお前にはお灸をすえてやろう」
 男は嗤った。ここしばらく、仕事の鬱憤が溜まっていたのだ。レンはどうせ後ほど粛清しなければならないのだから、その前に存分、その身体を蹂躙したところで、だれも文句はいうまい。
 彼らはさておき、正妃を、どうすべきか。
 無論殺さなければならないが、今すぐ殺すことは得策とはいえなかった。この女を殺した時点で、兵士たちは自分たちに死に物狂いで襲い掛かってくるだろう。そうなれば、ここにいる者たちの一体何人が無事落ち延びられるか。そもそも、自分は落ち延びられるのだろうか。
 この女を人質にとったまま、逃げて殺すか。
 男は正妃を一瞥した。腕の中の女は、恐ろしく落ち着いていた。どんな娘もその首元に刃を突きつけられれば蒼白になるものだ。が、この女は顔色一つ変えず、静謐な光をたたえる眼差しで男を見上げている。
「貴方は、私を殺そうというのですか?」
 抑揚を殺した女の言葉は、ひやりとした何かをもって男の神経をなぶった。
 女の問いには、答えるつもりはなかった。この状況で、女を殺さないはずはない。だというのに、臆面もなく問うてくるところをみると、この女はよほど、頭の足りない女なのだろうか。そう勘繰ってみたりもしたが、女の眼差しはあまりにも叡智に溢れていた。
「そうですか」
 女は一度目を伏せた。長い睫毛が目元に濃い影を落とす。いつの間にか、月がでていた。眩しい満月が女の口元を照らし出していた。
 その口元が、笑みに、歪んでいる。
「何がおかしい?」
「私を殺す。貴方に、その覚悟は、おありですか?」


「お前にひとつ、質問だ、ラモン」
 皇帝は言った。
「俺の后を、殺す。そして、俺を、殺す。その覚悟はお前にはあったのか?」
「……覚悟、ですと?」
「そうだ」
 一度立ち止まった皇帝は、天を仰ぎ見た。空には薄く雲を被った月が出ている。彼の表情はこの角度では伺いしれない。だが、笑っていることだけはラモンにも判った。
「俺を殺す。生半可な覚悟で、それを実行しようとしたわけではないな、ラモン? 俺たちを排除しようとする。その意味は、つまりは皇族を全て排除しようという動きだ。あの椅子を狙っている輩が、まさか自分だけだとは思っていまい。大人しい大臣や諸侯の仮面をかぶりながら、その椅子が手に入る機会を虎視眈々と狙っている輩は、大勢いると俺は知っているぞ。皇族全てを殺す。それは、お前たち貴族が血なまぐさい戦を始めるための銅鑼の鐘、始まりの合図だ」
 皇帝の言葉は、真実だった。
 ラモンはそれを知っていた。確かに、現在の体制に不満を持ち、あわよくば玉座を、と狙いながら、その度胸もなしに動けぬ輩は数多くいる。決定的な何かがないために、皇帝も排除の動きを見せられないだけだと、ラモンは知っている。だがもし、ラモンがここで動きを見せれば、我も我もと動き出す輩は後を絶たないだろう。
 皇族同士で裏切りあっていた歴史が、そのまま貴族同士の歴史に移り変わるのだ。
 それはやがて国全てを埋め尽くし、金だ権力だ、なんだのと、言うことのできない歴史が再び幕開ける。
「刺し殺されるかもしれない。その覚悟があって、今回の謀反は実行したことなのだろう?」
 皇帝は冷ややかに笑う。まさか、ただ高みの見物をしているだけで、全てが転がり込んでくるとは、思っていまいな、と。
 皇帝は再び、ラモンに向かって歩を進め始めた。
 誰が、この男を若造だと。
 ただ彼の兄弟たちが相打ちに終わったがために、玉座に登れた末弟にすぎぬと、囁いたのか。
 違う。
 ラモンは思った。
 この男は、確かに先代の国王を自らの手で以て、その席から追いやったではないか。
 この男は。
 この男の、目は。


「……覚悟、だと?」
「えぇ」
 女は頷き、再び男と目を合わせた。銀がかった、七色に移り変わる双眸。銀は、魔の色だ。そのことを思い出した男は、背筋がぷつぷつと粟立つのを感じていた。
「覚悟です。貴方は、今、この国を殺そうとしている。この国何十万の民を、一度に殺そうとしている。その、覚悟はおありですか?」
「……どういう意味だ?」
「私を殺せば、陛下は民を殺すでしょう。無論、貴方も」
 それは、予想ではない。
 それは、予言だった。
 男には、そのことがわかってしまった。
 この国を、十年足らずで復興させた賢帝は、その唯一の后を失い、人を憎んだとき、人を生かすために使ってきた叡智と力全てを注ぎこんでこの国を滅ぼすだろう。
 その姿が、あまりにも鮮やかに、男の脳裏に閃いてしまった。
 そして、女の瞳。
 女は、問い続ける。
「貴方に、その覚悟がおありですか?」
 だれが。
 この女を、殺しやすい女だと、いったのか。
 男は戦慄していた。間違いなく。数え切れぬほどの人を屠ってきた彼に、今更戦慄することなど、何もないはずだった。
 それでも、戦慄していた。
 うっすらと、笑みすら浮かべた女の瞳。
 この女は。
 この女の目は。


 やがて、眼前にきた皇帝が、微笑みながら言った。
「――忘れるな。王座を奪うということは、俺の背負う業全てを、貴様が引き受けるということだ」
 皇帝の囁きは、冬の水のように清冽で、そして、鋭利だった。
 その囁き一つで、肌に、斬られたような痛みが走るほど。
 皇帝は、炎の色の瞳に、暗い色を宿らせて、口元の笑みをより深くしながら囁き続けた。
「俺が背負うこの業を、ただ皇族に生まれつき、安穏に玉座についたもののそれと思うな」
 皇帝が笑みを消し、炎というよりも血の色というに相応しい瞳を収めた瞼を細める。
「俺は」


 やがて、腕の中に納まったままの皇妃が、微笑みながら言った。
「貴方は私が引き受けてきた全ての怨嗟を、その身に引き継ぐのです」
 皇妃の囁きは、小春の日差しのように甘やかで、そして、毒を含んでいた。
 その囁き一つで、肺に、引き絞られたような麻痺が起こるほどに。
 皇妃は、七色に移ろう瞳に、暗い色を宿らせて、口元の笑みをより深くしながら囁き続けた。
「私の怨嗟を、ただ、皇妃に上れなかった女たちの嘆きごとと同じにしないでくださいな?」
 皇妃は笑みを消し、血のように赤い唇を開いた。
「私は」


「裏切りの皇帝」

「滅びの魔女」


 皇帝は、親愛溢れる笑みを湛えている。
 だが、その笑みに細まる瞳の奥に宿る影は、ラモンを戦慄させるに十分すぎるほど陰惨だった。
「この業を引き取ったその瞬間、どこまでもお前を、裏切りの文字が追いかけ苛むだろう」
 皇帝はまるで、友人に語りかけるかのような穏やかな音階で言葉を紡ぐ。神父の説教のように耳に優しい。
「それでも背負う覚悟があるというのなら、俺は喜んで、俺の椅子を差し出そう」
 ぞっとするほどに優しい声音で囁く皇帝の目は。
 血の川を築き、そしてそれを踏み越えてきた男のそれだった。


 皇妃は、慈愛溢れた笑みを浮かべている。
 だが、笑みに細められる瞳に宿る光は、男をたじろがせるには十分すぎるほど、凄惨だった。
 誰がこの女を、後宮で寵を争う必要もない、皇帝に守られているだけのひ弱な女だといったのか。
「私を殺したその瞬間に、貴方には滅びがもたらされるでしょう」
 皇妃はまるで、子守唄のような柔らかな音律で言葉を紡ぐ。彼女の声は、小鳥のさえずりのように耳に優しい。
「私を殺したいと望むのでしたら、この国を滅ぼす覚悟でおやりなさい。私は逃げも隠れもいたしません」
 いっそ甘やかといえるほどの声音で囁く皇妃の目は。
 血の雨に、打たれて生き延びてきた女のそれだった。


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