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第六章 そして再び歯車を回す 2


 皇妃は、夕餉を取る際、皇帝が留守の場合は、女官を同席させる。侍らせるのではなく、文字通り、同席させるのだ。彼女曰く、一人で食べてもあまり美味しくないからだそうである。一つの卓を囲み、同じ皿に盛られたものを分け合う間、皇妃は女官の物言いに耳を傾けるのだ。どんなにつまらないことを告げても、皇妃は微笑んで頷き、時には叱咤を、時には励ましを贈ってくれるのだという。
 だが、レンとティアレが同じ席に並ぶとき、食卓はひどく静かだった。時折、仕事にはなれたかどうかといった話を口にすることを除けば、世間話すら出ない。だが、居心地が悪いというわけではなかった。ティアレはレンが会話すること自体が苦手だと、よく知っているのだ。
 だから、珍しくレンが世間話のように、花々の様子がおかしいのですと告げると、誘うまでもなく皇妃は腰を上げた。


「速やかに、抹殺しろ」
 男たちは命令に頷き、散会していった。ラモンは嘆息して空を見上げた。厚い雲が空を覆っている。暗い、春の夜だった。
 宮城にはいたるところに庭があり、人目につかぬところはいくらでもある。その一角で、ラモンは長年面倒を見てきた暗部の男たちに皇妃の抹殺を命じた。自分たちを軽んじる皇帝に、いつか一泡を吹かせてやりたいとは常々思っていた。が、皇帝はこの国一番の剣の腕を持ち、生半可な襲撃は返り討ちにあうだろう。そこで目をつけたのが、皇帝の寵姫だったのだ。
 皇帝の唯一の妻は、皇帝がどこからか連れてきた下民の女だった。春待ち祭りの祭儀の際に、奉納の舞の踊り手であった彼女を、皇帝は見初めたという。確かに美しい女だ。だが、彼女に足りないものがある。ラモンは思った。
 身分だ。
 あの女には、身分というものが足りない。
 長い間皇族と貴族は、互いに血を混じり合わせることによってその絆を強固なものにしてきたのだ。だというのに、現在の皇帝は、それ全てを拒絶する。馬鹿馬鹿しい。ラモンは毒づいた。あの皇帝は、古き慣わしを軽んじすぎる。そして子供じみた安っぽい正義感で、国の家畜を幸せにしたいなどといって、家畜たちを重用する。
 そう、家畜。確かに自分たちは同じ人の形を取っている。だが自分たち以外の全ては人間ではなく、所詮自分たちに養われている家畜に過ぎない。
 世界は、貴族と王。そして家畜。その垣根を越えようなどと、愚かしいにもほどがあるのだ。
(みてるがいい)
 あの、下民の癖にずうずうしくも皇帝の横に居座る女がいなくなれば、皇帝も目が覚めるだろう。
 もし気力がなくなるというのならそれまでの話だ。その後は、自分たちが、いや、自分が、その玉座に居座ってもいい――……。
 使われるだけの人生は、もうこりごりだと、ラモンは思っていた。長い間、皇族に振り回され続けてきた。もう、十分だろう。
 ラモンはふと、風を感じた。まだ初春。夜の風は冷えるものがある。早く、宮城を辞去し、屋敷に戻ろうと踵を返しかけた、そのときだった。
 かさり、という、草木を踏み分ける音が、ラモンの耳に届いた。
 弾かれたように面を上げ、ラモンは足音の方向に視線をむける。暗がりの向こう、ずるずると、何かを引きずるような音と共に、足音がゆっくりと近づいてくる。何者だ、と声を上げかけたラモンは、闇を押し分けるようにして出てきた男の、美しい微笑を見た。
「奇遇だなラモン」
「へ、陛下……」
 現れたのは、他でもないこの国の皇帝であった。
 黒曜石の色の髪に、蠱惑的な炎の色の双眸。この国最後の皇族。この国の皇帝。
 ラルト・スヴェイン・リクルイト。
「お前も散歩か?」
「……えぇ。まぁ……陛下も、ですか?」
「庭先に花が咲いていてな」
 皇帝は手元の枝を掲げて見せた。白い花をつけた細い枝。梅の枝だ。
「今年は季節が変わってから大分たつというのに、一向に咲く気配がなかったからな。見つけてつい庭に出た」
「手折ったのですか?」
「手折られた」
 皇帝は、ラモンの言葉を訂正して笑う。
「お前の部下は風情のないことをするな、ラモン」
 そしてもう片方の手に掴んでいた、大きな荷を、放り投げた。
 ざ、と、土を擦って荷はラモンの前に横たわる。
 それは、先ほど命令を下し別れたはずの、暗部の下僕だった。
「あまりに暴れるから、せっかくの枝が折れてしまった。もったいないことだ」
 皇帝はその手に持っていた枝を、足元の土の軟らかな部分につきたてた。花弁が風にゆらりと揺れる。今年初めて見る、梅だった。
 ラモンは、一歩後ずさりかけ、逃げ場がないことを、その瞬間に悟った。何時の間に。ラモンは息を呑みながら視線を廻らせた。庭に茂る植木の陰から、一人、二人、三人と、次々に影が歩み出てくる。
 皇帝直属の、近衛兵たちだった。
「……これは、一体どういうことでしょうか、陛下?」
「それは俺が訊きたいな」
 皇帝は小さく笑い、彼とラモンの狭間に悶絶している男を一瞥した。
「なぁラモン。皇后を暗殺しようなどと、いい度胸をしているじゃないか」
「陛下それは……」
「知らないとは言わせない。お前がこれらに命令を下すその瞬間まで、こちらは監視していたのだから」
 皇帝は腰に下げた剣の柄尻に手をかけていた。彼の剣の腕前はラモンも知っている。
 下手をすれば、首と胴体は一瞬にして切り離されるだろう。他でもない、皇帝の手によって。
「監視、していたのですか……?」
 喉を鳴らしながらラモンは尋ねた。皇帝は頷いて、小さく肩をすくめる。
「俺が懇意にしている女官長の報告だけで、お前を謀殺の容疑で罰するのも、不公平だろう?」
 だから、目の前で、動くことを待っていたのだと。
 皇帝は意地悪そうに言った。
「女官長は、まだ生きている……?」
 皇帝の微笑が、その答えだった。わざわざ暗部の人間まで貸したというのに、彼女の処理を任せた懇意にしている奴隷商は、暗殺に失敗したのだ。
「弁明を聞いてやろう、ラモン」
 満面の笑みを浮かべる皇帝の声は。
「お前は何故、俺の后を弑そうと試みたのか」
 どこまでも冷ややかだった。
「いつも、俺が新参や下民出身のものの意見しか聞かぬと、古参を蔑ろにすると、愚痴を漏らしていたじゃないかラモン」
「へ、いか」
「悪いな。俺はそんなつもりはなかったんだがな。だから今聞こうか、ラモン。お前の、俺に対する諫言とやらを」
 頬を。
 風が撫でた。
 冬のそれのような、肌を刺す冷たい夜風だった。
 ラモンは、皇帝になんと弁明すべきか、考えあぐねていた。つい先ほどまで胸中に渦巻いていた考え一切はなりを潜めて、喉の奥には渇きしか残らない。
 永遠に続くかに思えた沈黙の後、ラモンはようやっと声を絞り出した。
「貴方は、我々を、軽んじすぎるのだ」
「俺はお前たちを軽んじた覚えは一切ない」
「そんなはずはない!」
 ラモンは思わず叫んでいた。軽んじたはずがない?それこそ、そんなことはない!
「我々はいつでも皇族の傍にあった。そして皇族はいつでも我々の傍にあった! 国など、我々だけで十分だ。我々が民だ! それを、あんな家畜同然の卑しいものたちを周囲に置いて、我々を遠ざけ!」
 皇族の傍に華やかにあるのは、ラモンたち古き正当なる血筋のものであるはずだ。地位、権力、名誉。それを、自分たちは次々と見下していた輩に明け渡さなければならない。
 そのように、定めたのは今ラモンの目の前にいる、若造だった。
 何たる屈辱!!
 何たる……!!!
「国を、幸せにする!? 我々を幸せにできぬというのに、何を戯言を申されるか!! おふざけが過ぎまするぞ陛下!! そうです、私は確かに正妃を謀殺しようといたしました!! そうすれば、少しは目が覚めますでしょう。そう思ったからです!! それでも目が覚めぬというのなら、我々が貴方に代わって国の舵を取りましょうぞ!! 繰り返し繰り返し、互いに裏切り合ってばかりの皇族など、もはや要りませぬ!!! つまらぬ家畜に目をかけてばかりの皇帝も!!!」
 ラモンは拳を振りかざすようにしながら胸中を吐露し、喉の奥で嗤った。そう。このような皇帝は要らない。貴族だけで、舵取りをしていけばよい。
 それでも、国は動くだろう。
 かつて、大帝国であったディスラが、皇族を政治に必要としていなかったように。
「私を捉えて安堵しているのなら大間違いですぞ陛下」
 あぁ、皇帝のこの涼しげな、相手を卑下するかのような表情を、戦慄と恐怖に塗り替えられれば、どれほど胸のすく思いがすることだろう。
 血走っている、と自覚できる眼を皇帝に向けながら、ラモンは続けた。
「貴方は私をここまで追い詰めたことに、今に後悔することになるでしょう」


 今宵は満月のはずだったが、月は雲に隠され、暗い夜だった。
 レンは草木を踏み分け、ランタンを掲げながら、皇妃を先導して森を歩いていた。奥の離宮の裏庭。鬱蒼とした、暗い森。
 ティアレはレンの言葉を疑わず、衣服の裾を上げて黙々と付いてくる。この皇妃は、どうしてここまで容易く人を信じて、ついてきたりするのだろう。それだけ、奥の離宮に選出された女官を信じているということだろうか。
 ここは、裏切りの帝国だというのに。
『実行に移せ』
 仕事中に、すれ違った誰かに囁かれた。合図だった。そのために自分は訓練の暁に女官として宮城に入り込み、選定を受け、ここにいるのだ。
 今まで、生き残るためにレンは何人も殺してきた。弱いものを蹴落とさなければ自分が殺されるという生存競争は、レンにそれを強い続けてきたのだ。寝所を共にした男たちも、同僚の女たちも、寝食を共にしたことのあるものたちでさえ。
 殺せといわれれば、躊躇いなく罠にかけ、殺してきた。
 それなのに、何故自分は今こんなにも、緊張しているのだろう。
「レン?」
 ティアレが呼ぶ。レンは振り返った。神のような幽玄な美しさをたたえた女がそこにいる。
 彼女は、母だった。
 この国の民、全ての、母。
 ずっとレンは憎んでいた。国の君主とその妻。丘の上にそびえ建つ荘厳な宮城に住まうという彼らを憎んでいた。どうして自分たちばかりが、こんな暗い世界に取り残されているのだろうと。どうして、彼らは私たちを救い出してはくれないのだろうと。
 繰り返し繰り返し。人を殺すたびに、彼らを憎んだ。
 なのに。
 気付いてしまった。
 この美しい宮城に住まう人々もまた、レンと同じ人間なのだ。理不尽な世界にもがき苦しむ人なのだ。それをレンに思い知らせたのは、他でもないこの女だった。
 豪奢に生活しているばかりと思っていた彼女らは、想像を裏切って慎ましやかだった。
 ティアレは、己の身づくろいはほとんど自分でこなす。時折、女官を労うために茶を入れる。ほんのささやかな楽しみとして、まるで農婦のように土を触り、花を植え、レンと同じように鳥かごから出ることの叶わなかった小鳥の死にすら悼んで、自らの手を汚して躯を埋めるのだ。
 ティアレは笑う。レンの手をとって。貴方も同じ人間ですと、彼女は笑う。
 そして彼女らは、常に苦悩している。
 皇帝も、その后も、この国を本当に誰もが幸せに歩き出せる国にするために、奔走しているのだ。
 そのことを知ってしまった。
 知ってしまった自分は。
「レン? どうしました?」
 ティアレが怪訝そうな面持ちで、レンの顔を覗き込む。場所は既に、目的地としていた庭園だった。森の奥の小さな庭園。ティアレと共に、花の種と球根を植えた場所。
 人目につかぬ、奥まった庭園。
 緊張に強張るレンに、ティアレが声をかけてくる。
「レン。貴方、顔色が……」
「ティアレ様は」
 レンはランタンの柄を握りしめながら切り出した。その手はじっとりと汗ばんでいた。空いた手で握りこぶしを作る。その手もやはり湿って、そして指先は冷えていた。この冷える手で、懐から刃を取り出し、目の前の女に突き立てなければならないというのに。
 ティアレはレンのすぐ目の前で、小首をかしげて佇んでいる。
 何を、自分は問おうとしているのだろう。
 喉の渇きに唾を嚥下する。ごくりと鳴った喉。
「何故、私についてきたのですか?」
「花々の様子がおかしいといったのは、貴方です。レン」
「けれどまだこの庭園に、花など咲いていない」
 花が咲くなら、それはもっと面に近い庭園においてだ。この場所に植えられたのは、皆、種と球根。
 芽吹くのは、花咲くのは、もっとあとの季節。それでなくとも、この春は、どの花も蕾を開こうとしないというのに。
「それを、貴方が知らないはずは、ないのに」
 この庭園には、ティアレと共に球根を植えた。
 ティアレが、レンに花咲く時期を、教えたのだ。そして彼女は、ここ以外の庭園の様子も、全て把握しているのだ。
 レンの嘘に、気付かぬはずがないというのに。
「ならば言い換えましょう」
 ティアレは微笑んだ。
「貴方がついて来て欲しそうにしていました。だから私はついてきた」
「何故?」
「何故? ……貴方がそれを望んだのでしょう?」
 私が望んだ。
 レンは自問した。
 果たして、自分は本当に、この女が付いてくることを望んでいたのだろうか。
 他の女官たちが往来する離宮の中で、ひっそりと平和にあってほしかったのではないだろうか。そうして、自分のような、生きる価値のないような娘たちの手を、順々にとってほしかったのではないだろうか。
 ティアレはいつも優しかった。自分は、他の女官のように親しげに口を利くわけでもない、愛想のない娘だったろうに。
 本当は、優しくされる価値など、レンにはなかったというのに。
 レンは懐に入れた短剣の重みを思った。この剣を引き抜く。突き立てる。それはとても簡単な行為だ。目を閉じていてすらできる。訓練と経験の幾重もの反復が、レンの意思関係なく滑らかにそれを可能にする。
 とても、簡単な。
 ティアレは動かない。彼女は真っ直ぐに、レンを見つめ返している。
 黒の簪で纏められた、秋の夕焼けのような美しい緋の髪。煙る長い睫毛。白い肌と、銀がかった色移り変わる双眸。
 暗闇の中にあってなお、浮かび上がるような神々しさを秘めた女。
 この国に生きるもの全ての母。
 それを殺して。
 他の誰が、あんなふうに、レンと同じ境遇の子供の手をとるのだろう。
 血塗られた手を、優しく握るのだろう。
 レンは無意識のうちに懐に手を差し入れ、懐剣を握り締めていた。ティアレは動かない。この聡い皇后は、レンが何をするつもりか、もうわかっているはずだろうに。
 レンは、瞼をきつく閉じる。
 ひゅ、と。
 風を切る音が、響いた。


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