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第六章 そして再び歯車を回す 1


 無事だとアズールが言ったとおり、フィルの傷は確かに命に別状はない。しかしすぐに動けるという傷ではなかった。
 だというのに、彼女は真っ直ぐにアズールを見ていった。
「船には乗ります。三日後でよろしいのですね?」
「フィル!」
 イルバは驚愕に、思わず叫んでいた。その声量は周囲の誰もを慄かせるに十分だったが、フィルその人だけは、静謐な光を瞳に宿したまま、イルバを見返していた。
「ご心配なさらず」
「心配なさらずったってなぁお前! 自分の身体のことちったぁ考えろ! 自分で動くことすらできねぇ癖に」
 苛立ちを込めて、イルバは叫ぶ。フィルの傷は浅かったが、それは致命傷を考えればの話だ。出血の量も決して馬鹿にできるものでもない。いまだにフィルは己で上半身を起こすことすら叶わず、寝台の上で背に敷布を重ねて、背をもたせ掛けている状態なのだ。己で歩けるほど、体力が回復するためには、少なくとも十日はかかる。
 船は早朝に出る。マナメラネアには前日入りしなければならないから、正確には二日。その間に動けるようになるなど、どだい無理な話だった。
「アズールもアズールだ。こんなときに船の手配の話を持ち掛けなくてもいいだろうが少しは気ぃつかえ!」
「会話の流れの中ででちゃっただけじゃないかイルバ。確かに僕も、言っちゃった後に自分で気が回らないと思ったけどさ」
 アズールは肩をすくめて、やれやれと吐息を零していた。会話の中で、そういえば三日後の船の券をとったんだけど、それは無理だねとこの男は口にしたのだ。無理なことはわかりきっているのだから、言わなければよいのに。
 だが、彼に責はない。ただの、イルバの八つ当たりだ。
「ですが私はいかなくてはならない」
 フィルはその一点張りで、根負けしたのはアズールだった。
「行くっていうんだから、行かせてあげれば? 船医に一筆書いてあげるよ」
「ありがとうございます」
 フィルはアズールに頭を下げた。腹部が引き攣るためか、ぎこちなく、首を折るだけに留まってはいたが。
「いいよ。それじゃぁ僕も仮眠とってくる。イルバ、寝台使っていいんだったね?」
「あぁ」
 既に時刻は夜で、外は騒がしかった。高波を知った近場の民たちが、イルバの様子を見に来てくれたのだ。中には、ドムの家族や童女の親の姿もあった。帰りが遅いから心配してのことだろう。彼らはアイザックの捜索や、家事を分担して行ってくれている。アズールも彼らに混じって動いていて、かなり憔悴していた。
「ご飯にはもう少し時間がかかるっていうしさ。じゃぁね」
 手を振り、欠伸をかみ殺しながらアズールが退室していく。その後にはフィルを見てくれていた医者が続いた。
「おねーちゃん。元気になってね?」
 ドムと共に来ていた童女が、フィルの手を握って、言った。凄惨な場面を彼女も見ただろうに、気丈な子供だった。雰囲気から、彼女も外に出なければならないような気がしたのだろう。ちらちらとアズールたちの出て行った方向を気にしながらも、にこにこと、フィルの手を握っている。
「ありがとう」
 フィルは小さな手を握り返して微笑んだ。
「母ちゃんたちに飯ができたら呼べっていっとけ」
 戸口に向かう童女に、イルバは声を駆けた。はぁいせんせい。間延びした声で返事した童女は、ぱたぱたと裸足を響かせて、廊下の向こうへと駆けて行った。
 部屋に二人だけ取り残される。
 椅子を引き寄せ腰かけると、イルバは改めて女を見つめた。
 紫紺の色に、揺るがぬ決意を閉じ込めた、その双眸。
 かつて、娘を失った妻もそのような目をして、イルバに何も言わずに王の下へ出かけていったのだ。
「怪我人一人、戻ったところで何が変わるわけじゃない」
 イルバは静かに切り出した。
「足手まといになるんじゃねぇのか。傷を治して戻ればいいだろうが」
「イルバさんこそ、怪我を負っていらっしゃるのに、あちこちうろうろしていらっしゃるではないですか」
「てめぇと俺とじゃ身体の頑丈さが違うんだよ」
 確かにイルバも、先日の暗殺者との戦闘で胸骨を痛めている。だがそれとこれとは話が別だ。やはり肉を直接刃で抉られた腹部の傷のほうが、動きに支障のでる動きは大きい。フィルの傷が、手や足ならばまた少しは違っていたのかもしれないが。
「ですが私は戻らなければならないのです」
「何故だ?」
 何が、この女をそこまで駆り立てる。
 なぜ、そうまでして国に戻ろうとする。
「私は罪を犯しました」
 フィルの顔が苦渋に歪む。傷の痛みからか、それとも思い返す過去にか、彼女は瞼をきつく閉じ、搾り出すような声を吐いた。


「イルバさん。貴方も罪を犯したとおっしゃいましたね。私も、罪を犯しました」
 細い月光が廊下を照らす秋の日だった。
 シノは思い返していた。精神を病んだ愛しい女を慰めるために、罪に身を投じた男。その全てを知りながら、自分は口を閉ざした。
 口を紡ぎ、耳を塞ぎ、目を閉じた。そうしていさえすれば、罪を犯さず、国は呪いに沈まぬと信じていた。
 けれど結局罪を犯した。
「お前も罪を犯して失ったのか」
 イルバの言葉は突き刺さる。彼とは同じ傷の気配がするからだ。彼も言っていた。罪を犯し、そして妻子を失ったのだと。
 シノもまたそうだった。罪を犯し、そして失った。
 その罪の代償に。
 優しく、シノの名前を呼ぶ人々を。
「確かに、今戻っても足手まといかもしれない。ですが自由に動けぬ私にも、できることはあるはずと、私は信じます。できることを、探します」
 常に人手不足だといって、自分を許し、愛する女の傍にシノが侍ることを許した皇帝を思い描きながらシノは言った。ラルトはいつもいうのだ。罪の意識で身を引くよりも、みっともなく生き延びて、できることを探せと。
「私は一度赦しを得た。そしていまだにのうのうと、私は陛下の御許[おもと][はべ]っている。私は決めたのですよ。私は一度罪を犯した。それは拭い去れぬこと。ならばこの天命尽きるまで、私はみっともなく生き延びて、この身をささげようと」
 シノは政治家ではない。政のことは、やはり判らない。だが、誰もが笑える国を作り出そうと奮闘し、成し遂げようとしている皇帝と、それを支える后がいる。
 彼らの為に、ささげよう。
 彼らの夢に、ささげよう。
 この人生全てを。
「もう二度と、愛する人を失わずにすむ国を作り出すためにささげようと。私の愛する人たちの、夢の為に、ささげようと」
 瞼の裏にいるのはかつて失った愛しい男。彼は誰もが笑える国を作り出すために皇帝に一生をささげていた。
 彼の夢は、今となってはシノの夢だ。
 誰もが笑い合える。
 誰もが、未来に希望を持ち、幸せに向かって、歩き出せる。
 そんな国を。
 作り出す。
 そうすれば、もう二度と、シノのかつての主人のように、笑みを病ませるものもいなくなるだろう。
 再び目を見開き、真っ直ぐに男を見返して、シノは言った。
「決めたのです」


「俺も行こう」
 紫紺の瞳を見つめ返しながら、その言葉はイルバの口をついてでた。フィルは驚愕に目を見開いてイルバを見返している。イルバは腕を組み、重心を椅子の背に預けたまま、続けて言った。
「どのみち、お前そんなことじゃ船の中を自由にうろつくことだってできやしねぇだろうが。人を雇うにしたって今から探しても見つかる可能性は低い。俺が、お前についていってやろう。どうせ諸島連国から東大陸へは七日はかかる」
 普通の船ならば一月は掛かる。招力石を動力源とする無補給船で、東大陸までは何事もなくて七日だ。
「その間にお前はゆっくり養生してりゃぁいい」
「ですが」
「勘違いするなフィル」
 口を開きかけた彼女を制して、イルバは言った。
「勘違いするな。俺も俺で東大陸に用事があるんだ」
 アズールから手渡された、黒い本。
 過去の、残滓。
 繊細な精神を持っていた弟子は、まだ自分と同じように、過去に囚われているのだろうか。
 失ってしまった、愛した女に、囚われているのだろうか。
 だとしたら彼を、その[くびき]から解き放ってやることこそが、自分に出来る唯一の贖罪なのでは、ないだろうか。
(俺は、何をしていたんだ)
 七年だった。罪を犯し、愛する家族を失い、国を失い、全てを捨てて隠遁してから、七年間。
 何をすべきかわからず、ただ、罪から目を背け続けることしか、できなかった。
 同じように罪を犯したという女は、傷だらけになって、それでもなお、命を捧げる何かを見出している。
 全てを忘れたいと願ったことはあるに違いない。記憶を失っていた短い期間、女は天真爛漫で、伸びやかだった。本来はそういう女なのだろう。罪が女の全てを変えてしまったに違いないのだ。
 それでも、女は前に進むという。
 傷ついて、傷ついて、傷だらけになって。
 それでもなお――……。
 そんな女を支えてやるのもまた、男の仕事だとイルバは思った。
 そして。
 東大陸にいるという弟子。同じ土地に降り立てば、会える日も来るだろう。
 どこかの国が、イルバの祖国のように滅びてしまうことを防ぐ手立ても打てるだろう。
 それが、七年の隠遁の末に、イルバが見出した贖罪だった。
「ありがとうございます、イルバさん」
 頭を下げる女は、声を震わせていた。
「本当に」
「礼を言うな」
 イルバは手を伸ばして女の面を上げさせる。フィルは泣いてこそはいなかったが、目元を赤く腫らしていた。
「ついでだっつっただろうが。ソレぐらい奉仕されて当然だって顔しとけ」
 愁傷なのは、この女には似合わないと、イルバは思う。
 何時だって、明るかった女なのだから。
「そうですね」
 フィルはおかしそうに笑った。
「では船の上では、私の世話をしっかりしてくださいませ、イルバさん」


「陛下!」
 騒々しく執務室に飛び込んできたのは、古株の大臣の一人、ラモンだった。
「どうした?」
 ラルトは執務室の席につき、相変わらず一向に嵩の減らない書類の山を整理しながら尋ねる。年なのか、大臣の呼吸はなかなか落ち着かなかった。肩を上下に揺らすことしばし、ようやっと落ち着いたらしい彼は、ラルトの元へ歩み寄ってきながら尋ね返してくる。
「女官長が、お戻りになられるとは本当ですか?」
「あぁ、そのことか」
 処理し終えた書類を、とんとんと机の上にを落とし角を揃えながら揃えつつ、ラルトは頷いた。
「そうだ。随分と養生したらしい。さっさと仕事に戻りたいと連絡があった。もう少し休んでいてもいいのに。なぁ?」
「働き者ですよね。うちの女官長は」
 口を挟んだのは、ラルトの傍らで処理済の書類が手渡されるのを待つエイだ。彼はラモンに微笑みかけ、言葉を続ける。
「陛下のお傍に侍っていると、全くお休みいただけませんしね」
「お前も言うようになったよなエイ」
「いえいえ」
 和やかにエイと会話を続けながら、ラルトは視界の端でラモンの様子を観察していた。彼はラルトの席の前に立ち尽くしながら、青くなったり白くなったりを繰り返している。当然だろう。奴隷商に売り飛ばし、死んだと思っていただろう女が、生きて戻ってくるというのだから。
「そういえば」
 と、ラルトは何気ない風を装いながらラモンに尋ねた。
「お前が女官長を気にかけるとは、珍しいな」
 シノは女官長として全ての大臣と付き合いはあるものの、親しいというわけではない。あくまで、女官長と大臣という間柄なのだ。女官長が戻る、そのことだけに何故ここまでして慌てなくてはならぬのか。そのことを暗に指摘されたことに気がついたのか、ラモンは目を泳がせ始めた。
「は、あ。いえ。もう、戻らぬという噂も、ございまして」
「馬鹿な。女官長は病を得て宿下がりしていると、報せが届いていただろう。誰だそんな噂を立てた輩は」
 別に憤慨しているわけではないが、そのように装ってラルトは呻いた。傍らでエイが白々しくも、ひどい話ですねぇ、などと嘯いている。
「は。申し訳ありません。いらぬ噂に踊らされまして」
「全くだ。他に用事は?」
「ございません」
「そうか」
 失礼いたします、と頭を下げて、退室していく大臣の背中。
 綴じられた扉に向かって、ラルトは呻いた。
「つまらないな。あぁも簡単に動揺してくれると」
「ですね」
 エイが大きく頷いて同意を示す。
「それとも、これ自体が演技なのでしょうか?」
「だとしたらとんだ食わせ物だ」
 みたところ本気でシノの復活に動揺していたようだ。だが万が一それが全て演技だというのなら、大したものだろう。
「さて、これから相手がどう動くか、だな」
 張った罠にはまってくれるかどうか。
 ラルトは組んだ手に顎を置いて、静かに呻いた。


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