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第五章 零れた朱は油となりて 4


「ドム!?」
 頭に続いて、アイザックの肩を櫂で殴りつけた老人は、死人のような顔色でイルバを仰ぎ見る。
「イルバ! さっさとこいつをどうにかせい!」
 ドムが普段の商売道具を、人殺しに使えるような人間でないことはイルバ自身がよく知っている。彼の顔色はかつて見たことがないほどに蒼白だった。イルバはフィルを素早く横たわらせ、アイザックに駆け寄った。
 アイザックは、額を押さえながら、もんどりうって倒れている。イルバは左右に大きく揺れてもがくその肩を力任せに引き寄せると、腕を固定して勢いよく捻った。
 ごきり、という、鈍い音。
 アイザックの顔が、更なる苦悶に歪んだ。
「……イルバ……!」
「ひとまずもう片方の肩も外させてもらうからな」
 淡々と告げて、イルバは実行に移す。肩のはずれる鈍い音を聞きながら、イルバは櫂の柄を握り締めて呆然と佇むドムに叫んだ。
「ドム、フィルの手当てをして、医者を呼んでくれ!」
 フィルの傷はみたところそう深くはない。アイザックが使った刃の刃渡りも所詮しれている。だが、出血の量から内蔵か血管を傷つけている可能性は十分に考えられたし、あのままにしておいていいはずがなかった。
 ドムはイルバの叫びに我に返り、わたわたとその場から転がるようにしてフィルの元へと駆け出していた。常々、年の功というべき落ち着きを備えた老人が、あぁも慌てる姿は見物だが、のんびり見学しているわけにもいかない。両肩を外され、ただ身体を砂の上に埋めるしかないアイザックが、忌々しげにイルバを睨め付けている。その彼を真っ向から見返し、口を開きかけたところで、背後から慣れた声がイルバに投げかけられた。
「イルバ!」
「アズール!?」
 砂を踏み分けて駆け寄ってくるのは、つい先日マナメラネアで別れたばかりの元同僚だ。多忙なはずの彼が、何ゆえこのような辺境の場所にいるのか。
 思わず、イルバは目を疑った。
「なんでお前がここにいるんだ!?」
「何でとは憤慨だな」
 アズールは半眼でイルバを睨め付け呻いた。
「捉えた賊の一人が、誰かがこっちに襲撃をかけるだろうっていうもんだから、心配して飛んできたのに」
 それで、ドムが来ていたのか。
 今日は来るとしても夕刻のはずだった彼が、何故子供を連れてここに来ていたのか疑問に想わなかったわけではない。どうやらドムは、アズールの舟頭としてやってきたらしい。イルバの暮らす辺境の島に、わざわざ寄ってくれる舟など数は知れているのだ。
「だったら兵士の一人ぐらいつけてこい!」
 そうであれば、ドムに商売道具を人殺し未遂の道具にさせなくて済んだ。仕方がないことだとはいえ、思わず悪態をつかなければならなかったイルバは、言葉を吐いた後で自責の念に駆られた。
「こっちだって動かせる兵士が一人もいなくて困ったんだよ。医者ならつれてきたけどね!」
 渋面になりながら、ほら、と彼は庵を指差す。その先には、先日も世話になった顔見知りの医者の後姿があった。
「薬を届け次いでに様子を見たいってごねるものだから。連れてきてよかったよ」
 そういって嘆息したアズールが、イルバの肩を叩いて続ける。
「フィルさんは大丈夫だよ」
 イルバは、アズールの微笑を見た。
「急所もはずれているようだし、傷も浅かったみたいだ。出血がひどいんで、当分安静にしてなきゃだめだけど」
「だろうな」
 貧血で当分動けないはずだ。彼女が故郷に戻る日取りも延期になるだろう。彼女は、早く戻りたがっていたようだが。
「あ!」
 アズールの声に、イルバは勢いよく振り返った。海の方向へと、転がるようにして駆けていく人影がある。慌てて足元をみやったイルバは、人の跡だけを残す砂に舌打ちをした。
 この期に及んで、どこへ逃げようというのか。
 ドムの舟を奪うわけでもない。ただアイザックは、海のほうへ真っ直ぐに足を動かしている。はずれたままの肩を振り子のように揺らし、肩を上下させて海の中に入った男は、一度、イルバのほうを振り返った。
「アイザック!!!!」
 イルバの呼びかけに、男は嗤う。
 その足元の水が、すっと、水平のほうへと吸い込まれていく。イルバは舌打ちした。高波の合図だったからだ。
 イルバは無言でアズールの腕を引いた。
「イルバ!?」
 その力の入れ具合に、驚いたのだろう。イルバは駆け出しながら叫んでいた。
「高波だ!」
 津波とまではいかないが、砂浜にいては自分たちも足をとられかねない。それは水辺の民、誰もが知るところだ。アズールとて例外ではなく、イルバの意図するところを汲み取ってすぐに駆け出していた。
「せんせい!?」
 庵から砂浜に下りていた童女を途中抱え上げて、イルバは庵への階段を駆け上った。浸水に備えて高床で作られている庵は、高波にもいくらか耐えられるからだ。その後にアズールが続き、イルバは童女を降ろしながら、背後を振り返った。
 白く、水平が盛り上がり、ざざざと音を立てて浜へ押し寄せる。水平の入り口に立つ男は、空を仰ぎ、その場から動こうとはしていなかった。
「アイザッァアアァァァアック!!!!」
 再び名を呼ぶが、男はこちらへと駆けてくる気配はない。かかかと喉を震わせて、笑い声を上げている。海の潮騒の音に紛れることなく響いていた哄笑はやがて。
 ざんっ……
 水に飲まれて、消えた。
 水は庵の足元まで一度押し寄せ、砂浜の表面を削り取ってもとある場所へと戻っていく。後に残されたものは湿り気を帯びた砂、何もなかったかのようにゆたう碧い水と、反射する太陽の光。空。
 そればかり。
 イルバは毒づいた。
「くそ」
 まだあの男には聞かなければならないことがあった。彼の依頼主は奴隷商だといっていたが、それは誰なのか。死んでしまったメイゼンブルの青年とのつながりはどうであったのか。なぜアズールたちを巻き込んで襲撃したのか。
 そして、七年の間に、ポリーア島に行くたびに、ちょこちょこ顔を見せて笑い話に興じていた時間は。
 彼にとっては、それほどささいなものだったのか。
 争った後も、かつての顔なじみも、暗殺者も、罪も、なにもかも。
 海はその懐深くに飲み込んで、いつもと同じ顔を見せていた。


 ティアレの体調は落ち着いているようだったが、食は随分と細くなっているようだった。
 久方ぶりにともにした夕餉。ティアレの皿に盛られ、そして彼女の喉を通ったものは、ラルトのそれの四分の一にも満たぬ量だった。女官たちが皿を全て引き下げ、小さな卓の上には茶の用意。ラルトがその茶器越しに責めるように視線を投げれば、ティアレはごまかしのように笑った。
 ラルトは身を乗り出して、彼女に尋ねていた。
「食べられないのか?」
「最近、胃が落ち着かないのです」
 ティアレは腹部に手を当てて、小さく吐息を落とした。顔色が悪いというわけではないが、やはり線が細くなったように思える。
「ティー」
「大丈夫です」
 そういって気丈にティアレは微笑むが、本当のところはどうなのだろう。四年強の歳月をともにしている女は、ラルトの以前の妻のように不平不満を漏らすことは皆無といっていい。その気丈さに甘えてばかりで、この女の真の願いを、自分は知らない気がする。
 ひとまず、と、ラルトは思った。
 彼女のものわずらいの原因の一つを解消するために、今日ラルトは時間を作ったのだ。
 ラルトはティアレの手を握りながら、微笑んだ。
「一つ、いい報せだ」
「なんですか?」
 珍しい、とティアレは口にした。本当だ。いい報せ、だなんて、頓にここ一年、口にしたことがあったのだろうか。
 何時も、この女には、気苦労ばかりかける。
 せめてその愚痴を普通に漏らすことのできる友人がいればよいのだろうけれども――たとえば、自分にとっての宰相のような。
 苦い四年前の春を思い出しかけて、ラルトはかぶりを振った。意を取り直して、口を開く。
「シノが、帰ってくるぞ」
 ティアレは、目を瞬かせ、信じられぬという面持ちで問い返してきた。
「見つかったのですか?」
「あぁ」
 ティアレの手が、ラルトの手を離れる。その手は彼女自身の顔を覆って、零れる涙を隠した。
 両手の隙間からのぞく唇から、零れる安堵の言葉。
「よかった……」
 面を上げたティアレは、ラルトに微笑んだ。
「よかった、本当に!」
 ラルトはティアレのその言葉に、どこか救われた気になった。無事である。戻ってくる。その一言だけで感嘆の声をあげ、涙を漏らす女に、どこか安堵した。これが、普通の人としての反応だと思ったのだ。
 報告はきちんと受けてはいる。だが最後まで結果を見届けなければ納得のできない、政治家としての習い性のせいで、報告だけでは素直に喜べない自分がいるのだ。一体どういう経緯を経たのか、諸島連国に滞在しているという女官長の姿を見て、そして彼女がティアレとの再会を喜ぶ姿をみてはじめて、自分は真に喜べるのだろう。
 今度は、ティアレがラルトの手を握る番だった。滑らかな両の手が、ラルトの無骨な手を包み込む。ひやりとした女の手に視線を落としていたラルトに、ティアレが柔らかく微笑んだ。
「よかったですね、ラルト」
 投げかけられたその言葉は、先ほどまでの、シノの無事だけに歓喜するものではない。
 その言葉は、ラルトを案じてのものだと、判ってしまった。
「よかった、ですね」
 本当にラルトの身を案じて、そう言葉を繰り返す女に、ラルトはこれからどのようにして、『罠』の件を言い出そうか考えあぐねていた。
「ティアレ」
 名を呼ぶ声に、神妙な気配を感じ取ったのだろう。ティアレは歓喜の表情と引き換えに、怪訝の色を出してきた。
「どうかなさいましたか?」
 『罠』はティアレを危険にさらす。そしてその傍にラルトはいてやることができない。
 それでも、言わなければならないだろう。何も知らぬほうが、女は傷つくとラルトは知っている。
「頼みごとがあるんだが」
 ためらいがちにラルトは切り出し、手短に告げる。
「囮になってほしい」
「……囮、ですか?」
 その意味を理解しかねる、と、ティアレは首をかしげたままだ。ラルトは椅子の背に重心を預けた。ぎしりという耳障りな音が部屋に響く。
「そうだ。シノを陥れた奴の面は割れたんだが、シノの証言以外決定的な証拠がない。シノの話によれば、お前を暗殺しようという動きがあるらしい」
 女官長はそのことを知って、相手の仲間内に襲われたのだと。
よくも、その場で殺されなかったものだ。だがそれは相手の賢明な判断だった。水の帝国内にはラルトや暗部の目が光っている。死体を水の中に沈めてしまうにしろ、土の中に埋めるにしろ、領地内で死体が上がることを恐れたのだろう。
 どこかの国に死体を移動させるより、生きている人間を移動させてその場で殺したほうが、手間も少ない。だが、東大陸内では女官長の顔を知っている役人がいてもおかしくはない。そう相手は踏んだのだ。それがおそらく、シノが奴隷として船に乗せられ、別の大陸に移動させられることになった顛末だろう。
「お前を、暗殺者の、餌にする」
 ティアレは、黙ってラルトの言葉に耳を傾けている。
「お前を殺すために、相手は動くだろう。動くということは、それだけ、相手の尾をつかみやすいということだ。……それで――……」
 女に、囮になって、もらおうと。
 ふと、頬に触れた冷たさにラルトは身をすくませた。面を上げると、円卓から身を乗り出したティアレが、いつの間にか手をラルトの頬に触れさせている。
「ひどい顔をして」
 女は苦笑を浮かべて、ラルトを見つめていた。
「ティアレ」
 ラルトはティアレの手を握り締めた。
 いつも守りたいと願っている、女の手。
「私は大丈夫ですよ、ラルト」
 ティアレは微笑んだ。
「それでも、守りきれないという確証はない」
 囮には危険が常に伴う。そして、ラルトはその場にいてティアレを守ってやることは叶わない。
 ラルトの剣の腕は、誰もが知るところだ。ラルトが傍にいては、ティアレは囮にならない。
 それ以上に。
 ラルトは、皇帝だからだ。
 皇帝の責務が、彼女の傍にあることを、許さない。
「貴方がそんなことをいっていて、どうするのですか」
「俺はお前を失うのが、怖いよ」
 今でも時折夢にみるのだ。
 かつて愛した、女の幻影。
 失ってしまった、無二の親友。
 沢山の仲間たち。
 かたん、と、ティアレが席を立つ気配がした。彼女はラルトの傍らに腰を下ろして、顔を覗き込んだ。誰をも魅了して止まぬ七色に移り変わる双眸の中に、憔悴した男の顔が映っている。
 情けない姿だ、とラルトは嗤いたくなった。
「護衛をつけてくださらないわけではないのでしょう?」
「守りはつける。当然だろう」
「私が餌になる。それで、宮城が少し落ち着いて、シノをどこかへと追いやった誰かを、捕らえることができるのでしょう」
「そうだ」
「そうしたら、貴方を悩ませることが一つ減って、少し時間を作ることができるのでしょう?」
「……そうだな」
 ティアレの質問の意図に、ラルトは首をかしげた。徐々に、趣旨がずれ始めている気がしたからだ。
 だが女は、ラルトの答えに納得したらしく、一つ頷いて口元に刻む笑みを深くした。
「そうしたら、遠駆けに連れて行ってくださいね、ラルト。以前、約束していたでしょう? 美しい花を咲かせる、木蓮の樹があるのだと。お弁当を作って、出かけましょうね。そこで、ゆっくりしましょうね」
 いつの、約束だっただろう。
 もう、三年も前の約束だ。
 女の人生は呪われていて、その経緯は見る目を覆いたくなるものばかりで。
 幸せにしたかった。そのために、傍に置いた女だった。自分なら幸せにできる。そう信じて傍に置いた女だった。
 けれど、彼女を表に出してから、心労ばかりをかけて、少しも構ってやれない。暗殺の標的になることもしばしばだった。後ろ盾のない出自から、貴族の気位ばかりが高い女たちにいわれのない罵りを受けることも数多い。それでもこの女は、文句一つ言わず、いつか交わした約束が果たされることを信じて、ティアレはラルトの傍にある。
 ラルトは思わず、女を抱きしめていた。心労から細った身体は、哀しく、初めてこの女を抱き上げたときのことを思い出した。
「お前に、俺は何もしてやれない」
 美しい緋色の髪に顔を埋めて、ラルトは呻いた。
「貴方には、たくさんのものをもらったのです」
ティアレが、ラルトの胸の中で小さくかぶりを振った。
「たくさんのものを。家族を、友人を、居場所を、帰るべき、誇れる国を」
 そして、あなたを。
 ラルトを抱く女の細腕に力が込められる。相変わらず、非力な腕だ。
 だがその腕の中に、この女は、どれほどのものを抱きしめているのだろう。
「わがままを言わせてもらえるなら」
 ティアレは言った。少しだけ、泣きに震える声で。
「私は貴方を独占できる、ほんの少しの時間があればいい。私は、それで十分です。そのためにできることならば、私は何でもしましょう。……貴方を、呪いの渦中に置き去りにしないためのことなら」
 裏切りの呪いの根幹は、姿を消した。
 けれども呪いと呼べる要素は、いつでも、どこでも、息を潜めて自分たちを陥れる瞬間を待っている。
 他でもない、真に呪われていた自分たちは、そのことを知っている。
 ティアレは、繰り返した。
「何でも」
 国を立て直す。たった一つの矜持の為に、ラルトは今も駆け抜けている。
 だが、こんな風に、愛する女を犠牲にしてまで守り抜かなければならない国とは、一体何なのだろう。
「ね?」
 面を上げ微笑む女に、ラルトは口付けを落とし、小さな彼女の頭を抱えながら、瞼を閉じた。
 こんな風に疑問に思っていてさえ、自分はまだ、足を止めるわけにはいかないのだ。
 自分は自ら望んであの呪われた玉座に腰を下ろした、皇帝なのだから。
「死ぬなよティアレ」
 囮にしようという人間が吐くべき言葉ではないのかもしれない。だが、ラルトは呟かずにはいられなかった。
 祈りのような敬虔な呟きに、女は笑った。
「もちろんです」


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