BACK/TOP/NEXT

第五章 零れた朱は油となりて 3


「陛下」
 執務室に足を踏み入れるなり、エイが後ろ手に扉を閉めた。彼はさっと視線を動かして、部屋の中を確認している。現在執務室にはラルトとエイの二人しかいなかった。
「どうした? この部屋には今お前と俺だけだが」
「そうですか」
 そう頷いたものの、エイはその場所から動かない。しばらくの間、筆記具の金属が紙と擦れる音だけが部屋に響いた。
 そしてエイは、そしらぬ風を装って言った。
「女官長が見つかりました」
 ご無事です、と。
 彼は続ける。ラルトは筆記具をそっと置いて、意地の悪い近習を見やった。
「知っている人間は?」
「私とウル、スクネ、連絡を持ってきた諜報員。そして、陛下です」
「今どうしてるって?」
「この国に戻る手配を進めているそうです。やはり国外にいらしたようです。ダッシリナに派遣している間者経由で報告が届きました。詳細をききますか?」
「いやいい。仔細は直接本人から聞こう。報告ご苦労だった」
 ラルトは椅子の背に重心を預け、天井を仰いだ。
(無事だったか)
 彼女のことだ。ただ殺されるような女ではないが。
 ティアレに報告してやれば喜ぶだろう。シノの身を誰よりも案じていたのは、おそらく彼女だからだ。
「陛下、それでですけれどもね」
 腰を上げかけたラルトを押し留めたのは、エイの言葉である。続きを待っているラルトに、彼は悪戯を思いついた子供のような笑いを浮かべて言った。
「そろそろ、罠を仕掛けたく思っているのですが」


 アズールが水の帝国までの船を手配したが、都合がつくのは数日後らしい。
 荷物をまとめたいというフィルを伴って、イルバはようやっと庵に戻ってきた。あの日から数日が過ぎた、夕刻のことだった。たった一日だけの留守のはずが、かなり長引いていたせいか、住み慣れた住居はイルバに違和感をもたらす。静まり返った部屋はまるでイルバを拒絶しているかのようだった。数日浮気をしていただけだというのに、ひどい住まいだ。
 フィルはいつもと同じように笑顔で食事の準備を整え、夕食をともにした。あと数日で別れるということは判っているが、お互いにその話題には触れなかった。恋人だったわけでもない。友人、というと少し語弊があるような気がする。共同生活者。その単語が、彼女と自分の関係を表すのに一番相応しいだろうか。
 どんな関係であれ、一月弱、ともに過ごしたのだ。美味な料理や女らしい手入れの行き届いた清潔な家、そしてなにより、人の気配が離れてしまうことは、酷く身に染みることだった。
 庵に戻ってきてからの彼女は、記憶を失っていたときと同じどこか能天気なところのある明るい女だ。翌日も彼女は朝方から台所で鼻歌を歌いながら何か作業を行っていた。イルバの知らぬ異国の旋律だ。その旋律とともに、何か香ばしい匂いがイルバの元に運ばれてくる。
 一月前の嵐で壊れた部分の修繕の続きを行っていたイルバは、その匂いにつられ、思わず台所を覗き込んでいた。が、フィルの姿は見当たらない。よくよく目を凝らすと、浜辺へ続く勝手口の向こうにフィルの姿が見えた。
「何、作ってんだ?」
「燻製です」
 面を上げたフィルは、額の汗を拭いながら笑った。
「先日、ドムさんからお魚を戴いたでしょう? 燻製にすれば、日持ちしますし」
 確か、頼んでいた招力石の屑石を持ってきてくれた際だ。あの時ドムは確かに小魚をいらぬほどにイルバに分け与えた。豊漁だったらしい。
 いつの間にか、庭先と呼べる砂の上、廃材をくみ上げて作られた燻製器がある。その中に吊り下げられた魚を一瞥し、イルバは首をかしげた。
「燻製って、時間掛かるもんじゃなかったっけか。塩抜きやら乾燥やらに、えらく時間がかかるってきいたぜ?」
 イルバは燻製を作ったことはないが、かつての妻が侍女たちと一緒になって、酒好きのイルバの為に作っていた。酒の肴になれば、よいだろうと。
「ですから、先日マナメラネアに行く前には、乾燥させる準備までしておいたのです」
フィルは、呆れた眼差しをイルバに寄越した。
「あの時、あれだけ私が苦心して魚を吊るしていたではありませんか」
「あー。そういやそうだったな」
 マナメラネアを訪れた日。船に乗り遅れるから早くしろ急かすイルバを他所に、軒下でフィルが懸命に魚を吊るしていたことを、イルバは思い出した。確か、見ているならば手伝えと叱咤されたのだ。
「いつできるんだ?」
「今日の夕刻には」
 イルバの預かり知らぬ間に手に入れたらしい大量の林檎の木片が、煙を上げ、青い空をくすませている。
(いい天気だ)
 イルバは水面に揺れる太陽の光の眩しさに目を細めながら、胸中で呟いた。いつも通りの青い空と海。波は穏やかで、遠くに筆で掃いたかのような白い雲。
 イルバが、望んで手に入れたもの。
「女官っつう仕事は、燻製も作ったりすんのか?」
 バヌアにも女官はいたが、彼女らの仕事と厨房の仕事は完璧に分離していた。中には、料理すらまともにできない女がいたほどだ。
「他の国ではどうかしりませんが、私たちの国では女官の仕事はあくまで宮城で働く方々の身の回りの世話です。あの方々が気持ちよく仕事が出来るように配慮を行うことが、私たちの仕事。ですが、料理は私自身の趣味ですし、海が近いですから新鮮な魚が手に入れば、こんな風に燻製を作って差し上げることは時折ありました」
「あぁ、裏切りの帝国は海沿いだもんな」
 あの国は、春から夏にかけては一般の船も行き来する、巨大な貿易港を備えている。現在の皇帝に代わってから、新しく整備されたそこには、諸島連国も顔負けであるほどに数多くの船が泊まるのだと、顔見知りの船乗りが言っていた。漁業も、農耕も盛んな国だと。
「裏切りの帝国では、ありません」
 ぴしゃりとしたフィルの物言いに、イルバは思わず目を見開いた。見返すと、フィルの顔から柔和な笑みが消えている。そこには、誇りを傷つけられたものの宿す激情があった。
「二度とその名前でお呼びくださいませぬよう」
 馬鹿丁寧な彼女の言い方に、怒りの度合いが知れる。イルバは視線をそらしながら、謝罪していた。
「悪かった」
「判ってくだされば、よろしいのです」
 にこりと笑顔を取り戻して、フィルは言った。
「確かにあの国は、裏切りの帝国でした。私どももそう呼び習わしていた。繰り返し裏切られ、裏切りを繰り返す、呪われた帝国」
 フィルの声音は静謐で、耳を傾けるものの肌を粟立たせる陰鬱な雰囲気が宿っている。イルバが見守る中、作業の手を止めたフィルが、そっと目を閉じた。
「私も、その罪人の一人」
 その瞼の裏に思い描いているものは、一体何なのか。
 悔恨の。
 気配がした。
 この女もまた、イルバと同じように何か罪を犯したのだろうか。取り返しのつかないものを、失ったのだろうか。
 面をあげたフィルの顔は、再び笑顔に彩られていた。
「けれど、もう違います。いえ、違うと思い、前に進まなければならないのです。私たちの国は、今はただの、水の帝国ブルークリッカァです」
 かつて、その帝国は、滅びに瀕していたという。
 イルバは思い出していた。その国の宰相にならあったことがある。まだ自分がルスという姓を名乗っていた頃。かの国の皇帝が代替わりした直後だった。諸島連国であった会議で顔を合わせたかの国の宰相は、生粋の生まれ育ちでありながら、西大陸の面差しを強く残す、非常に有能な、そして、繊細な少年だった。皇帝なぞ、彼よりも一つ年下だときいて、こんなに若い人間たちが、呪われていると有名な国を支え抜いていかなければならないのかと、感銘をうけたものだ。
 それから既に十一年を過ぎたか、まだ過ぎていないのか。誰もが見放していた古い国を復興させた皇帝の手腕は見事だと聞き及んでいる。その民は、今このような顔をして、国に誇りに胸を張るのだ。
 その国を守るために帰るという。
 まだ、守りたいといえる、国があるのだ。
 羨ましいと、イルバは思った。
 自分は、誇りに思っていた国を、自らの手で壊したに等しい人間だから。
『民主化教本』
 イルバは、寝台の上に放り出したままの、あの黒い本を思い返した。昨日も眠りに落ちるまで眺めていた。イルバの若い弟子の狂気を、希望を込めて拙い文字で写し取った、あの本。
 あの本はまた、誰かの誇りに思う国を壊すのだろうか。
「こーんーにーちーはー!」
「はい」
 玄関からの声に、フィルが軍手を脱いで返事をした。彼女はそのままイルバよりも先に玄関のほうへ駆けていってしまう。イルバも頭を掻きながら、のんびりと彼女に続いた。
 この庵に来客とは、ドムと子供たちを除けば珍しい。本当にこの間から、千客万来だ。
「おいフィル。誰が来たんだ……?」
 台所を抜け、玄関へ続く廊下を歩きながら、イルバは声を上げる。だが、フィルの返事はなかった。
「おいフィル?」
 玄関の先で、フィルは客人を隠すように、佇んでいる。
「フィル」
「来ないでください」
 フィルの鋭い制止に、イルバは足を止めた。
「あれぇ、きちゃったんだ?」
 フィルの身体の向こうから、ひょっこり顔を覗かせたのは、イルバの顔見知りだった。
 鍵屋の、アイザック。
「なんだお前か。何の用事だ?」
「俺っち? 俺っちは、お遣い、かな」
「お遣い?」
「そう」
 アイザックは、すっと何かを掲げてみせた。きらりと光るそれは、一瞬彼が女のように愛でる鍵に見えなくもなかった。が、その鋼は鋭利で、突端はぬめり輝いていた。きらりと、陽光を照り返して、零れる雫。
 ぱたた、と。
 床板に、水滴の零れる音がした。
(何だ?)
 水滴の方向へ視線を動かす。それは、フィルの足元に絶えず雫を零して、小さな、水溜りを作っている。
 イルバを振り返る、フィルの顔が蒼ざめていた。
 イルバは、背中を粟立たせてフィルに駆け寄り、崩れ落ちかける彼女をそのまま抱き止めた。
「フィル! おいフィル!」
 気付けのために頬を叩くが、フィルはイルバの腕の中で力なく身を預けたままだった。無意識に抑えている腹部から、決して少なくはない出血。血が手を赤く濡らしている。幸い急所は外しているようだったが、安心できるような状況ではない。
 彼女の身体を抱えながら、イルバは信じられない思いで顔なじみの鍵屋を見つめ返した。
「何の真似だ、アイザック」
 声は、自分でもはっきりと判るほど、狼狽と怒りに震えていた。
「別に俺っち、恨みとかはないよ? フィルさんに」
「当たり前だ!」
 フィルとアイザックが顔を合わせたのは、枷を外すために店を訪れた、一回限りだ。その短い僅かの間に、フィルがアイザックの恨みを買うようなことをした覚えはイルバにはない。
「でもお得意様の頼みだからさぁ。ことわれんくてさぁ」
「お得意、様?」
「そうそう」
 アイザックは楽しそうに、懐から一本の鍵を取り出した。どこにでもあるような、普通の鍵だ。
「俺っちの店に閑古鳥が鳴いているのはイルバもご存知の通り。でも俺っち、別に困ったことなんて一度もないんだよね。表の店は趣味みたいなもので、本当のお得意様は、奴隷商の方々だったもので」
取り出した鍵に、軽く口付けてアイザックは続ける。
「他の人がなんと言おうと、俺が愛を捧げちゃってるのは鍵だって、イルバも知ってるじゃん? この独特の造詣。取っ手の細工はもちろん。相手を拘束しちゃう鈍りの塊を、簡単に開け放つことができるその機能! 最高だね」
 アイザックの思考を、イルバは理解することが出来ない。もし、自分に何か一つ趣味があって、それに傾倒すればこうなるのではないかと思う。だがそれにしても、アイザックのそれは常軌を逸していたが。
「人間もこんな風に単純明快で美しくあればいいのにねぇ。汚れた部分を抱えているっていうのがニンゲンサマだけどさ。その汚れたニンゲンサマが俺っちの趣味に誰よりも理解を示してくれてるわけ。いや、理解は示してないかな。俺っちが都合いいから利用してるだけなんだろうねぇ。なにはともあれ、その俺っちのお得意さまがさ、フィルさんを殺すこと、ご所望なわけ」
「利用しているだけだとわかって、お前はそんな奴らのいうことを聞いているのか!?」
 よりによって、顔見知りの自分たちに、こんなに簡単に刃を向けることができるというのか。
「やだなぁ俺っちいいませんでした? イルバさん」
 アイザックは、ちっちっち、と、鍵を宙で左右に振ってみせる。
「俺が最も愛するのは、鍵。俺っちは俺っち以外の人間が元々大嫌いなの。あの人たち俺っちにいろんな鍵を触らせてくれるし、作らせてくれる。あの人たちについていくだけで、俺っちは鍵に囲まれて生活できる。そのためになら、誰が死のうが誰が生きようが、あまりしったこっちゃないねぇ」
「アイザック……」
「イルバ。あんたの考えてることはわかっちゃうよ。知り合いを、どうしてこんなにも簡単に刺せちゃうのか。そんなこと考えてるんじゃない?」
 ぎくりと、イルバは身を強張らせた。アイザックの言う通りだったからだ。
 普通、どんなに訓練された人間でも、好感情をある程度抱いた知り合いを殺すときには躊躇が現れる。それは動物としての本能だ。が、アイザックにはそういったものは一切見当たらなかった。
 本当に、この男は、人がどうでもよいのだ。
 そんな人間は滅多にいない。少なくとも、イルバはそう思っている。
 男の異常さに、イルバは戦慄していた。
 アイザックは、子供のような無邪気さで、八重歯を見せて笑って言った。
「人は、あんたみたいに、義理や友情や愛情に、左右されるばっかりじゃないんだよ。俺みたいに、自分勝手に、生きてる人が、大半ってことデス」
 他人がどうなろうと知ったことではない。
 ただ、己の幸福の追求さえできるのなら。
 アイザックの笑いを見つめながら、イルバは己の腰に触れた。が、そこには外出時なら常に携帯している護身具の類はない。舌打ちしたイルバの瞳に、狂気じみた男の嗤いと、振り下ろされる銀色が見える。
(だめだ)
 その刃に、瞳を抉りぬかれることを覚悟した、刹那だった。
 どん
「うぉっ!?」
 何かが人にぶつかる鈍い衝撃音と、アイザックの呻きがイルバの耳に届いた。怪訝さに瞬きを繰り返しながら、衝撃音のしたアイザックの下方へと視線を移す。するとそこには、アイザックの足にしがみ付く小さな頭があった。
「せんせいいじめないでっ!!」
 イルバは、潮のように引いていく、自らの血流の音を聞いた。
「ちび!」
 アイザックの足元にしがみ付いていたのは、イルバが手習いを教えている子供の一人だった。黒髪に青い瞳の童女は、その中でも最年少の存在だ。非力な力で必死にしがみ付いている子供に、イルバは思わず叱責を飛ばしていた。
「馬鹿やろう! さっさと逃げろ!!」
 アイザックの嗤いの矛先が、童女に向けられる。アイザックが、その銀の刃ごと拳を童女に振りかざしかけた瞬間、イルバは腕の中の女の動く気配を感じた。
「っつ!」
 アイザックが目元を押さえて数歩よろめく。フィルを改めて見直せば、彼女は拳を掲げ、その指の狭間から砂を零していた。アイザックの、目をめがけてそれを投げたらしい。アイザックがたじろぐその間に、彼の脳天に振り下ろされるものがあった。
 木材。
(櫂?)
「あぁああぁああぁあああぁぁぁぁ!!!」
 がっ、という鈍い音が響き、今度こそアイザックが苦悶の表情を浮かべて、叫びを上げる。彼が顔を両手で庇いながら天を仰いだ拍子に、赤黒い飛沫が周囲に散った。
 その彼に、再び振り下ろされる、櫂。
 その柄を握っているのは、イルバのなじみの舟商だった。


BACK/TOP/NEXT