BACK/TOP/NEXT

第五章 零れた朱は油となりて 2


 が。
 だだだだっ……がっ!
「がぁああっ……!!!」
 すぐ傍で別の足音と、男の悲鳴が轟いた。続いて、手に掛かっていた重みが掻き消え、生ぬるい雫が顔に降りかかる。イルバは驚きに目を見開いた。崩れ落ちてくる男の身体越しに、見知った顔が見えた。
「アズール!」
 だが彼は、イルバの呼びかけには応えず、厳しい表情のまま一点を見据えていた。
 アズールは、先ほど別れたときの服装であったが、頬や衣服を赤黒いもので汚していた。衣服のそこかしこが切り裂かれている。目だった怪我はないようだったが、無傷というわけではない。彼は剣を構え、息荒く低姿勢を保ちながら、再び、駆け出していた。
 アズールの足音に混じって剣戟が響く。イルバは呼ばれたように視線を移動させた。そして同時に、視界の端で争っている男たちを見た。
 一方は襲撃者、もう一方は、アズールに襲撃者のことを告げに来ていた家人だった。彼は背後にフィルを庇いながら、必死に応戦している。だがその力量の差は目に見えて明らかだ。瞬きの間に、襲撃者の刃が家人に食い込む。
 そして口元を笑みに曲げている襲撃者の背を、アズールの刃が抉った。
「がぁああぁぁぁぁぁあ!!!!!!」
 最後に、フィルが燭台を振り下ろした。
 ごっという鈍い音が部屋に響き、男の悲鳴がぱたりと途絶える。部屋には、肩を揺らしているアズールとフィルの呼吸音だけが、大きく響いていた。
 イルバは苦心しながら、身体にのしかかる男の重みを横に退けた。胸部がずきずきとひどく痛む。胸部を押さえながらどうにか立ち上がり、イルバはアズールたちのもとへと駆け寄った。
「アズール、フィル」
 呼びかけに応じて、アズールがイルバに微笑み返す。だが、その口元は強張っていた。無理もない。
 アズールの側近とも呼べる家人は、襲撃者と相打ちに近い形で、事切れていた。アズールが襲撃者をしとめることができたのも、家人が襲撃者の刃を握りこんでいたからだ。アズールは折り重なるようにして倒れている彼らを見下ろしながら、仕方がない、といって笑った。
「僕は、大丈夫」
「阿呆。んなわけあるかよ」
 イルバもアズールも、文字通り満身創痍だった。二人とも、目だった大きな傷がないことが救いだろう。
 フィルもまた、無事だった。
「フィル」


 フィル、と。
 男が呼ぶ。だがそれは、一体誰の名前なのか。
 『フィル』
 あぁそれはかつて、自分が思慕を込めて呼んだ男の名前だ。
 ただ女は、床に広がる赤い色を見つめていた。暗い赤は、まるで意思あるかのように、とろとろと床石の溝を進み、やがて女の足元に到達する。
 白い床石の上に。
 広がる赤。
 白の上に。
 散らばる。
 あれは冬だった。
 そう冬だった。
 白く塗りつぶされた世界の中で、赤を身にまとって事切れた女がいた。
 その女は罪だった。
 わたしの。
 つみ。
 白い世界で横たわる黒髪の美しい女は、虚ろな眼差しを向けて言う。
『めざめなさい』


「フィル!」


 力強い手が、こちらの双肩を揺らしていた。
 頭が、痛む。
 自分の肩を掴む男が、繰り返し名前を呼ぶ。彼だけではない。隣で剣を提げている男もだ。二人とも、気遣わしげな様相で、こちらの顔を覗き込んでいる。
 誰の名前だ、と尋ねかけ、シノはそれが自分に与えられていた仮初めの名前だったことを思い出した。記憶が、混乱している。まるでシノという人間が二つに裂かれて、それが急激に混ぜ合わされてしまったような。
「大丈夫?フィルさん」
「大丈夫です」
 シノの蒼白さを見て取ったらしい男の問いに、シノは気丈を装って答えた。彼の名前は、アズール。実際は、そうやってひとつ記憶を確認するだけで、喉元に酸っぱい何かが込み上げていた。吐き気だ。シノは今すぐここに胃の中のものを吐瀉してしまいたい気分だった。頭痛も酷い。
 おそらく、記憶の混乱がその二つを招いているのだろう。
「ならいいけれど」
 アズールの手に提げられた長剣を一瞥し、続けて折り重なって倒れる二人の男を見やる。一人は覆面をしていて、シノを襲った男。もう一人は、この家の家人だった。アズールの手に提げられた鋼は赤い雫を零している。それは鋼をすべり落ちては、下の血溜まりに落ちて波紋を作っていた。
「彼らは……?」
「賊だね」
 独り言同然のシノの問いに、アズールが答えた。
「強盗目的だと思うよ……野党が、押し入ってきたんだ」
 それだけ呟いて、アズールは項垂れた。彼の背中越しに、廊下の床の上に折り重なる数人の男が見える。この部屋に侵入しようとしていたのだろうか。一人は扉の取っ手に手をかけたまま絶命していた。
「お前、大丈夫なのか?」
 大柄な男が、シノの肩から手を外しながら尋ねる。シノは頷いた。
「大丈夫です……イルバさん」
 口から滑りでた名前は、不思議なほどに舌に馴染んでいた。
 イルバとシノ自身に呼ばれた男は、安堵の表情を見せて首を縦に振る。そんな彼らは全身赤く染められ、肌には細い傷がいくつも見受けられたが、重症は負っていないようだった。
「ったくなんだってんだ。ゆっくり寝かせろ次から次へと」
 イルバは明らかに苛立ちを見せているようだった。アズールは何も言わない。ただ黙って、襲撃者と折り重なって事切れている家人を見つめている。そんな彼らを見比べて、シノはふと思い出した。シノを守るために身を張ってくれた家人。つい先ほど、シノの気を落ち着かせるために、紅茶を入れてくれたばかりだった。
 苦渋に下唇を噛み締めていたシノは、ふと襲撃者の衣服に引っかかるものを覚えた。
 夜陰に紛れるための黒い衣装。その裾から除く、独特の形状をした暗具。シノは横たわる賊の死体の傍に腰を屈めた。長い黒髪がさらりと揺れる。血に汚れるぞと、頭上からイルバの忠告が投げかけられた。
「おいフィル」
 死体に手を伸ばすシノに、イルバからの制止の声がかかる。だがシノは聞こえぬふりを貫いて、男の覆面をはがした。
「フィル!」
「この方たち、強盗などではありませんわ」
 シノの声音は己の耳にも淡白に響いた。シノ覆面を持ったまま立ち上がった。
 アズールとイルバに向き直り、シノは物言わぬ躯を指差し言った。
「この方たち、どうやら私の元身内のようですの」
 覆面の下の男たちの顔が、視界の端に映る。
 男たちの顔立ちは、シノと同じ民族の特徴を残していた。


 船が港を離れて、一日半。
 真っ直ぐに男の故郷へと向かっていた。招力石の力を借りた大型船は、普通の船よりも早く目的地にたどり着く。だが決してその旅は、楽しくも、短いともいえない。ひたすら海ばかりの生活を、この船では少なくとも七日、強いられるのだ。
(全く、ついたばかりかと思えば、また戻れとは)
 はるばる諸島連国に呼び出され、したことといえば人の監視をした程度。そして部下を奴隷商の元に置き去りにして、戻れという。
 なにかと便宜を図ってもらっている奴隷商の命をきくようにといわれていた。どうやら男は役人に顔が利くらしく、女一人を殺せば男が騒ぎ立て、下手をすれば諸島連国の政府すら動きかねなくなるというのだ。逆に女が生き残っても、男を殺せばやはり諸島連国が動き出す。それは双方にとって、あまりよろしい事態とはいえない。自分の主はひどく他国の外聞というものを気にしていたし、自分たちにとっても、他国の暗部とやりあうことほど、無益なものはないからだ。
 結果、どのような形かはしらないが、男が懇意にしているという政府の役人もろとも、物取りの仕業に見せかけて殺すということに落ち着いたらしい。が。事態はそう上手くこと運ぶだろうか。
 まだ若い、経験の浅い部下たちばかりを残さなければならなかったことに不安が残る。しかし命令とあらば、どうしようもない。
 時折思う。どうして自分たちは、国を照らし出そうと奮闘する皇帝ではなく、自尊心ばかりを浅ましく肥やした貴族たちに従って生きているのか。もっと頭のよい、従いがいのあるものたちも、世界には大勢いるというのに。
 例えば、自分の主が目の敵にする、祖国の皇帝のような。
(しかし、それをすることはないのだろうな)
 男は笑った。そう。自分たちは、ひのき舞台に立とうなどとは思わない。
 それはおそらく、汚れすぎた自分たちにとって、皇帝が作らんとしている綺麗な世界はただ息苦しいだけの世界だからだろうと、男は太陽の光に照らされ、眩しいばかりの海を眺めながら思った。


 早朝から、アズールの屋敷は人で溢れかえっていた。死体の回収員や壊れた調度品の交換を行う清掃員、負傷者を診るための医者が詰め掛けたためである。
「朝日が目に痛い」
 昼頃も近くなった昼食の席に姿を現したアズールは、文字通りげっそりとした様相だった。目の下にははっきりとした隈が浮かび上がり、肌には艶がない。
「御疲れ」
 粥をすすっていたイルバは匙を置き、彼に対する同情というよりも、彼に苦悩を強いた悔恨で胸苦しかった。フィルの話が本当ならば、彼のこの苦労は全てこちらが原因ということになる。その処理に追われて碌々休みを取っていない男に、イルバは申し訳なさが募った。
「申し訳ありません」
 神妙に頭を下げたのは、イルバの隣の席について食事をとっていたフィルだ。記憶を取り戻したらしい女は、以前の妙な明るさを内にすっかり潜めてしまった。年に似合わぬ老成した落ち着きが、女を取り巻いている。
「いいよいいよ」
 アズールは手を軽く振りながら、乱暴に椅子に腰を落とした。侍女に手渡された布で手を拭きながら、彼は言う。
「強盗だっていうことにしておけば、一応国から給付金がでるし」
 警備の人間を何人も失ってしまったのは、彼にとって痛手だった。それは、間違いない。
 何気ない風を装うアズールだが、当分は事後処理に追われるはずだし、付け加えるなら、失った人間たちは、彼にとってはなくてはならぬものであったはずだった。
 小さな屋敷の中では、兵士も侍女も、半ば家族のようになる。
 フィルを守って死んだ、家人も、たしかアズールとは古い付き合いのはずだ。
「監査が気付くかどうかは運しだいだけどね。これでいいの?フィルさん」
「はい。ありがとうございます」
 元身内などというから何かと思えば、彼女らは同じ水の帝国の人間だという。
 水の帝国ブルークリッカァ。通称、裏切りの帝国。
 東大陸の東端に位置する、世界最古の帝国だ。
 強盗に身を扮してアズールの屋敷に入り込んだ数名は、水の帝国の人間だとフィルは断言した。自分に放たれた間者だろうと。
 フィルの身分は、水の帝国の高位の女官だという。確証はないが、おそらく本当だろう。そうすれば色々納得のいく部分もある。
 フィルはアズールに、全て賊の仕業にしてはくれまいかといった。別の国からの間者だと知られれば、現在の水の帝国の内情まで発覚しかねないかららしい。復興したと聞いていたが、どうやら噂ほど穏やかな内政ではないようだった。
「街角で青年の遺体が発見された」
 アズールは出された茶をすすりながら言った。
「メイゼンブル移民の青年で、魔術系の小間使いをしながら生計を立てていた青年だ。……フィルさんを、襲った男だよね?」
 十中八九、そうだろう。
 だが、イルバもフィルも頷かなかった。
 その報告に、フィルは息を呑んだようだったが、イルバは驚かなかった。暗殺者が強盗を装ってやってきた時点で、予想できたことである。
 あのまま、放置しておくのではなかった。引きずってでも、連れてくるのだった。
 それは彼の罪を糾弾する意味合いではなく。
 彼を守るために。
 すみませんと、震えながら謝罪を繰り返していた青年の姿を思い返し、イルバは静かに瞼を閉じた。
「……何はともあれ、無事でよかったよ」
 アズールはそれだけ呟いて、沈黙した。かちかちと、彼の食事の音だけが広い食堂に響き渡る。イルバは彼にかけた迷惑を思って、渋面にならざるを得なかった。だがもっと苦悩の表情を見せていたのはフィル自身だ。彼女は、己が身の引き起こした惨事に、血の気を失い黙り込んだままだった。
「フィルさんはこれからどうするんだい?」
 アズールが運ばれてきた粥に匙を差し込んだ。ゆらりと立ち上る湯気を拭き消しながら、匙を口に運ぶアズールに、フィルが言う。
「国に帰ります」
「水の帝国へか?」
 イルバの問いに、フィルは頷いた。
「はい」
 女は微笑んだ。
「私には、守らねばならぬ方々がおりますので」


 店はいつも静か過ぎるほど静かで、彼は常に愛すべき金属を弄ることだけに没頭することができた。ただその日はいつもと違っていた。『客人』がいたからだった。
 客人は、このままでは客人の『上客』に逃げられるかもしれないという切羽詰った状況に陥っていた。そのためにせめて殺されるべき人間を、彼の元に駆け込んでまで粛清したいと『客人』は強く願っていた。
 だがそれらは彼にとってはどうでもよいことであった。
 先だって、一人の顔見知りを殺せと命じられ、それを実行したことが、彼にとってどうでもよいことだったように。
「やってくれるな?」
 その問いに対して、彼は否という返答をすることはできなかった。客人が、粛清して欲しいと願い出てきた対象が、彼にとって顔見知りであったとしても、
 それがこれまで彼が、好きなだけ、怠惰に、偏愛する金属に情熱全てを傾けることができたことの報いだったからだ。


BACK/TOP/NEXT