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第五章 零れた朱は油となりて 1


 ふらふらと。
 彼は足取り覚束ないまま、月照らす夜道を歩いていた。
 魔術師の誰もがそうであるように、魔術を行使した後は誰もが体力を奪われる。彼もまた例外ではない。また、先ほど自らが犯そうとした罪に対する悔恨が、身体をよりいっそう重くしていた。
 彼はふと、街灯の明りに影が差したことを知って面を上げた。
「……あぁ、君か」
 目の前に現れた男は、彼もよく見知った人間だった。彼の雇い主を通じて言葉を交わし、食事を時折共にする。
「大丈夫? 魔術を、使ったの?」
 男の優しげな言葉に、彼は胸を撫で下ろし、ひとつ頷いて微笑んだ。
「何とか……一晩、眠れば治る」
「そっかぁ」
 男は、そうかそうかそれはよかったと、一人でうんうん頷きながら彼に歩み寄ってきた。
 ゆっくり、一歩ずつ、踏みしめる土を、確かめるように。その足取りに不穏な気配を感じて、彼は一歩だけ、後ずさった。傍目から見れば、彼に道を譲ったように見えたことだろう。
 男はすれ違いざま、彼の身体を軽く押した。
 軽く、押したように見えた。
「……え?」
 ぽたり。
 赤黒い雫が、足元に零れた。
 雫が、ひとつ、ふたつ、みっつ。足元に順々に円を描いていく。やがてそれは断続的に勢いを増し、足元に泉を作った。
 喉元から、込み上げてくる、熱さ。
「……か……」
 ごぼり、と塊を吐き出して、彼はその場に膝をつく。既に水溜りとなっていた赤黒い泉が、大きく跳ねて下半身を汚した。生ぬるい、と彼は思った、が、それも一瞬だった。下半身の感覚が、徐々に薄れてきたからだった。
「な、で……」
 何故。
 驚愕の眼差しで彼は男を見上げた。男は薄く微笑んで、抱えていた外套を羽織った。彼の血で汚れた男の足元が、麻の布で覆い隠される。
 男は何も言わず、鼻歌すら歌ってその場を離れていく。このまま男は、閑古鳥がなくばかりの彼の店に戻るのだろう。遠ざかっていく背中に手を伸ばしながら、彼は呟いた。
「たすけ」
 喉を震わせ紡いだ声は、果たして音になっていたのだろうか。
 ただ、月夜だけが、彼の末路を知っていた。


「お大事に」
「ありがとう」
 診てくれた医者は顔見知りだった。妻の友人だった医者の従姉妹で、昔も世話になった女だった。イルバの手当てをしながらぽつぽつと近況をかわした後、彼女は医者らしい言葉をかけて部屋を出て行った。
「よかったね」
「まぁな」
 声をかけてきたのはアズールだった。ここはアズールの屋敷の客間である。フィルを探し出したときには既に深夜を回っていて、無論この時刻からポリーア島まで帰る船などない。宿をとるにしても、イルバの身なりは乱闘のお陰でひどい有様だった。
 アズールを頼ることしか、できなかったのだ。
「ありがとうなアズール。助かった」
 間続きの寝室を二部屋貸してもらい、医者を手配してもらった。感謝してもし尽くせない。
「いいよ」
 アズールは人のよい笑顔を浮かべて肩をすくめた。
「骨にも異常なくてよかったじゃないかイルバ。血痕だらけの衣服で帰ってきたときは、度肝抜かれたけど。夜でよかったよ。朝なら人目について仕方がない」
「悪かった。醜聞にはならねぇか?」
 アズールの屋敷は大通りに面している。夜半であったが人通りが全くなかったわけではなかった。家の傍に秘書が待機していたので裏口から入ることができたが、それでもまったく人の目にさらされなかったわけではない。
「イルバをかくまったことが?」
 アズールは一笑した。
「まさか。何か変なことが起こっても捻りつぶせるぐらいの権力を僕はもってるよ。それだけの仕事もしてきたしね」
「そいつぁ何よりだ」
 アズールはバヌアにいた頃から有能だった。その当時から、諸島連国の議会から引き抜きがきていたぐらいだ。それでも最後まで動かなかったのは、ひとえにあの国を愛していたからだろう。
 イルバはアズールにつられて笑い、そして椅子の肘置きに頬杖をついて傍らの寝台で眠る女を見下ろした。屋敷に着くなり、フィルは倒れこむように寝入ってしまったのだ。医者が来るまで待てといっても、待つことができなかったらしい。今となっては声をかけてもたたいても、一向に起きる気配がない。
「疲れてたのかな?」
「多分な」
 人を散々心配させておいて、自分はさっさと寝入っているのだから、いい気なものである。
 しかし。
(一体なんだっていうんだ?)
 何故、この記憶喪失の女が、襲われなければならないのだ?
 いや、そもそも。
 イルバは胸中で自問した。
 バヌアを出て六年。その月日の間に、古馴染みに会うことは片手で指折り数えられてしまうほどだった。というのに、フィルがイルバのもとにやってきて以来、アズールを筆頭に馴染みに何人も顔を合わせた。さきほどの医者にしてもそうだ。先だっては姿を消した弟子の情報までイルバのもとに転がり込んできた。
 これは、一体何だというのだろう。
 イルバは自問を繰り返した。凪いだ海のように平穏であらなければならぬ生活が、壊れようとしている。
 何かが、動き始めている。
 アズールの言葉を借りるなら、止まっていたときが、動き始めている。
「なんなんだろうな。ホント」
 イルバの問いに答えられるものは、誰もいない。


 血が。
 広がっている。
 銀色に塗りつぶされた。
 冬の庭で。
 青年たちが転げるように地を蹴って駆け出していく。シノは彼らの背中越しに、雪の上で朱に染まる女を見つめていた。
 長年、主人として仰いできた我侭で愛らしい女。
 そして、シノの罪の象徴。
 女は虚ろな瞳を向けてシノを見る。どうして罪を暴かなかったの。どうして沈黙していたの。
 どうしてどうしてどうして。
 目覚めてシノ。
 女は言う。白い平原であることには変わりなかったが、女はいつの間にか前に立って、まっすぐにシノを見下ろしていた。
 全てを忘れ平穏に生きる。貴方にはそれが許されない。
 だって、貴方は誓ったでしょう?
 この罪の償いに、命をかけて、あの人たちを守り抜くのだと。


 がしゃん、という、玻璃の割れる派手な音で、フィルは目を覚ました。
 瞼を押し上げ周囲を見回す。そこは、ここ数日住居としていた庵ではなかった。見知らぬ、それなりに高級な調度の部屋だ。白塗りの壁が夜の暗闇に、ぼぅ、と輪郭を浮かび上がらせている。身につけている衣服も、大きな布地を身体に巻きつけるだけの諸島連国の平服とは異なる。もっと、北の大陸の衣服に近かった。白の上下に黒の帯。短めの下穿きの裾から、くるぶしが見える。用意されていた黒い靴に裸足を通し、立ち上がった。猛烈な吐き気を堪えることに苦心する。
 千鳥足で扉まで歩み寄りながら、フィルは現在自分が置かれている状況を把握することに努めた。
(アズールさんの、お屋敷)
 そう、ここはアズールの屋敷だ。ポリーア島まで帰るには既に時刻が遅すぎて、ひどい身なりだったこともあり、アズールの屋敷に駆け込んだのである。
 イルバの怪我を診るための医者の到着を待っている間、どうしても我慢がならなくて、一足先に寝入ってしまった。そのことを思い出し、気恥ずかしさに顔をしかめながら、フィルは扉に取り付いた。
 廊下の向こうにむかって、耳を澄ます。
(いやな、気配)
 嫌な気配。人が殺されている気配[・・・・・・・・・・]。何故それを感じ取ることができるのか、フィルにはわからなかったが、確信があった。
 誰かが、殺されている。
 フィルは部屋の中で、何か護身の武具になりそうなものを探した。が、結局女の細腕で扱えるような手ごろなものといえば、寝台の傍に立てられていた銀の燭台だった。子供の身丈ほどもあるそれは、フィルの細腕にとってはかなり重量のある代物だったが、なんとか支えられなくもない。意外に筋力のある自らの腕に、フィルは感謝した。
 その燭台を運びながら、足音を殺して、扉の場所まで戻る。音を立てぬように、そっと扉の取っ手に手をかけ、押し開き。
 がだだだんっ
 僅かに開いた扉の向こう、派手な音を立てて倒れてくる人影を見た。
「…………っ」
 寸でのところで悲鳴を堪えたフィルは、燭台の柄を握り締めながら、その場から後ずさる。床に敷き詰められている絨毯が足音を殺しはしたが、開いた扉の蝶番が錆びた音を立てた。小さな音だ。しかし人の意識を引くには十分すぎる音だった。
 扉の向こうでちらちらと動く影を見つめながら、息を殺す。
 何時までこうしていなければならないのだろうと思いながら、フィルは強く燭台の柄を握りなおした。


「なんだっつぅんだ! 次から次へと!」
 イルバは、三節棍を振り回しながら廊下を駆けていた。石造りのアズールの屋敷の廊下に、幾人もの足音が響き渡っている。時折そこに怒号や悲鳴が混じっては消える。廊下の至るところに、人が折り重なって倒れていた。
 十人程度からなる襲撃者がアズールの屋敷を襲ったのは、夜明け近い夜中だった。
 物取りが、屋敷に侵入したらしい。アズールと寝酒を交わしていたイルバは、家人からアズールにもたらされたそのような報告を共に聞いた。
『物取りなら、すぐに押さえられるだろう』
 アズールはそう言った。確かにこの家には、アズールの身を守る警護の人間がひしめいている。単なる賊ならば、取り押さえられるのがオチだった。
『しかし人数が人数だから、すこし様子を見てくるよ』
 そういって、アズールは普段から携帯している剣を持ち、報告してきた家人と共に部屋を出た。フィルの様子が気になったが、ひとまずイルバはその場から動かぬことにした。先だっての怪我のせいで、足手まといになっては困る。そう、思ったからだ。
 何事もなく、あってほしい。
 そんなイルバの望みは、あっさり絶たれた。賊が、イルバのいた部屋にまで踏み込んできたからである。舌打ちして応戦し、どうにか相手を打ち負かすことには成功したものの、頭を命一杯殴打されて悶絶している相手の顔を見下ろしながら、イルバは戦慄したのだ。
 賊などでは、ない。
 本格的な、暗殺者だ、と。
 単なる賊にしては、技が研ぎ澄まされすぎていた。相手は、どの一撃も正確に、イルバの急所を狙っていたのだ。幸いであったことは、相手が場数を踏んだ人間ではないということだった。真の暗殺者は、時と場合を考えて、急所から外し数を使って、相手の体力を奪う戦い方をする。だがイルバを襲った襲撃者は、イルバの実力を見極めず、ただ急所を狙った。それが、幸いだった。相手の狙う場所さえ知っていれば、イルバであっても対処はできる。
 戦慄したイルバの脳裏を過ぎったのは、客間の寝室で眠る記憶喪失の女のことだった。フィル。顔見知りの人間やならず者に襲撃を受けていた女。魔術まで施された枷をはめられて、浜辺に流れ着いた女。
 アズールの政敵から差し向けられた襲撃に、イルバたちが巻き込まれただけという可能性もある。が、時期を考えるとどうしてもフィル目的の襲撃者の可能性が高かった。
 廊下を駆け、角を曲がる。そのすぐ先にある客間が、フィルの部屋だ。無事であれ、と祈りはしているが、何事もないとは思ってはいない――場所に近づくにつれ、折り重なる警備の人間の遺体が数を増やしていた。
「っ!」
 角を曲がったところで踏鞴を踏み、イルバは三節棍を構えなおした。先だって痛めた胸部の骨がぎしりと痛む。
(勘弁してほしいぜ)
 内心ため息をつきながら、イルバはフィルのいる寝室の扉の前、警備兵の死体を囲んでいる襲撃者三人に向き直った。
 先ほどは、一人と相対するだけでかなり骨が折れた。無論、無傷だというわけではない。致命傷ではないが、紙で切っただけのような、薄い切り傷が何本もある。イルバはそういった細かい傷が、動きを鈍らせるということをよく知っていた。
 万全の調子で戦って、二人相手に勝てるか、勝てないか。
 それでも、戦わないわけにはいかなかった。
 一人目が、細身の剣を持って駆けてきた。イルバが一歩後退するよりも早く、目にも留まらぬ速さで振り下ろされる刃。イルバは舌打ちして連結したままの三節棍でその銀の一条を受け止めた。棍にめり込んだ細身の刃を見て、イルバは戦慄した。棍の芯に、質のよい鋼を使っていなければ、今頃イルバはこの棍ごと切り裂かれていただろう。
「しゃらくせぇ!」
 イルバは剣を圧し折るつもりで、棍をそのまま振りぬいた。辛うじて、棍の強度が競り勝ったらしい。棍に食い込んだままの細身の剣は綺麗に折れ、相手が覆面の下の瞳に驚愕の色を宿す。イルバはその一瞬を、見逃さなかった。
 大きく一歩踏み出して、棍の柄尻を勢いよく相手の喉元めがけて突き出す。距離がかなり詰められていただけに、避けられないだろうと踏んだのだ。が、相手は上半身をそらして会心の一撃と思えたそれを交わした。棍の先は、相手の喉元を掠めていくだけに留まった。
(マジかよ)
 身を屈めて踏み込んでくる相手は、袖口から見慣れぬ短剣を取り出した。指の長さほどのそれは、しかし確実に、イルバの喉元めがけて放たれる。
 反射的に、イルバは棍の連結を解いた。反動で大きく揺れた三節棍の一節が、宙で弧を描いていた短剣を叩き落す。イルバは真ん中の節を握り締め、最も先端の節で、相手の後頭部を殴打した。
 ごっという、鈍い音。今度こそそれは、確実に相手の急所に入った。
 昏倒した賊の背中を圧し折るつもりで踏み抜いて、蹴り飛ばす。壁にたたきつけられ、ぐったりと動かない一人目を視界の角で確認しつつ駆け出したイルバは、客室の扉が既に開け放たれ、二人の襲撃者の姿が見えないことに気がついた。
「フィル!」
「イルバさ……!」
 フィルは、無事だった。
 今はまだ。
 にじり寄る襲撃者二人は、今まさに兎をとって食わんとする肉食獣の如しであった。部屋の窓際に追い詰められているフィルは、眠ったときの夜着姿そのままで、ただ、銀の燭台を獲物として握り締めていた。
 イルバが部屋に飛び込んできたことに、多少なりとも驚いたのだろう。襲撃者は一瞬動きを止め――しかし次の瞬間には、速やかにイルバを排除するための行動に移っていた。
 イルバは三節棍を再び連結して、身を屈めた。跳躍に、勢いをつけるためだった。飛び掛ってきた二人を、一気に相手にすることは不可能である。イルバはかなり踏み込んでいた部屋から飛び出すつもりで、フィルの方を向いたまま、背後に跳躍した。
 一方が、跳躍の勢いを殺して地に降り立つ。扉に二人同時では飛び込めないと理解したのだろう。正しい判断だが、あわよくば、二人同時に片をつけようと狙っていたイルバにとっては、嬉しくはない展開だった。
 勢いを殺しきれずに廊下に飛び込んできた相手めがけ、イルバは渾身の力を込めて棍を振り下ろす。だが襲撃者は器用にその矛先を片手で逸らし、イルバを驚愕させた。
(しまっ……!)
 しまったと、思ったのは瞬きをするよりも短い間だった。
 襲撃者はイルバの手元を握り締めると、ぐ、とイルバの身体ごと棍を引っ張った。どういう体術を使ったのだろう。それこそ理解できぬほどの早さで、位置関係が入れ替わる。だん、という派手な音と一拍送れて、イルバの背中に衝撃が走った。
「かっ……は!!!」
 心臓が跳ねて、肺が収縮する。背中全体を襲った衝撃は、傷めている胸骨をまともに刺激した。イルバは、ちかちかと明滅する視界の中、身体に命令する。
(動け!)
 果たして、腕は動いた。
 気配を頼りに、振り下ろされてくる獲物を受け止めるべく、棍を握り締めたままの手を宙に掲げた。ぎしり、という金属同士が押し合う耳障りな音と火花。視界が回復し、イルバは驚愕に息を呑む。襲撃者の腕にはまっているかぎ爪の切っ先が、すぐ目前に迫っていたからだった。
 身体につけられた細かな裂傷が口を開いて、皮膚から血が滲み出す。
 力の限りを込めてそれをどうにか追いやろうとするが、上手くいかない。どうにか喉元と爪の切っ先の間に表皮一枚分の空間を残しつつ、視線を移動させる。
 フィルは――まだ生きていた。
 彼女は襲撃者との距離を詰められながら、まだ生きていた。今はまだ。
 イルバは舌打ちしながら、襲撃者の剣が、フィルに向かって振り下ろされるのを見つめる。
(間に合わねぇ!)
 そう、どうあっても間に合わない。今この状況では。
 イルバは爪を押しやるために渾身の力を振り絞りながら、最悪の状況を想定し、無意識のうちに硬く目を閉じていた。


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