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第四章 傷は再び暴かれ 2


「あぁ?」
「申し訳ありません!」
 イルバが思わず毒づくと、フィルを案内していたアズールの側近が勢いよく頭を下げた。顔は蒼白で、見ているこちらが気の毒に思えるほどだが、彼女をそうさせた半分はイルバに理由があるのだろう。
「イルバ、いくらなんでもそんな目つきで相手を睨むものではないよ」
「俺の目つきが悪いのは昔っからだ!」
 苛立ちを込めて、イルバはアズールを怒鳴りつけた。アズールが微笑して指摘する。
「ほら、そういうところが。イルバ」
 胸中でイルバは舌打ちした。自分が短気であることぐらい、わかっている。体格の良さと目つきの鋭さで、ささいな苛立ちが相手を圧倒することも。
 アズールと、近況を含めた会話を終え、そろそろフィルを迎えにいこうと席を立ったときだった。血相を変えて、案内役であったはずのアズールの側近が部屋に飛び込んできたのだ。聞けば、フィルとはぐれ、いくら探しても彼女が見つからないのだという。
 どうせ、フィルのことだ。記憶喪失のくせに、興味津々で周囲を見回したりなどしていたのだろう。
(くそ、めんどくせぇ)
 イルバは頭を掻きながら、歯噛みした。実に面倒だったが、日の傾いた街並みを奔走しなければならないことは確かなようだった。


(困ったわ)
 フィルは胸中で呟いた。
(はぐれてしまった)
 生成り色が柔らかな街並みは既に夕陽の橙に染められ始めている。諸島連国の日暮れは遅い。失われた自分の記憶とはまた別の、本能がそう囁くのだ。この国は、遅い時刻に日が沈む。ということは、自分はアズールの用意してくれた案内人とはぐれて、かなりの時刻がたってしまったということだった。
 フィルがアズールの秘書とはぐれたのは、昼食をとって数刻後のことだった。並べられた色鮮やかな織物に一瞬目を奪われた隙に、人の往来の中に一人置き去りにされてしまったのだ。大通にでて馬車に乗ればよいと思ったが、マナメラネアの街並みはポリーアのそれと比べると酷く入り組んでいた。
 火山のふもとに作られているせいだろう。街全体がゆるやかな丘陵を描いていて、建物自体は平屋ばかりのものの、通りには階段が多かった。細い路地が蜘蛛の巣のように張り巡らされ、そして行き止まりが多い。遠くに見える中央政府の建物を目指して歩いていたはずだというのに、いつの間にかかなり離れた細い通りにフィルは立っていた。
 空では刻々と、群青が橙を侵食している。点灯師がランタンを掲げて街を行き、ぽつぽつと玻璃製の街灯に明りが灯り始めた。親が子供の手を引いて、家に入って扉を閉める。窓越しに聞こえる、家族の談笑。
 フィルはぐるりと周囲を見回し、通りから少しずつ消えていく人の気配に、身震いをした。
 フィルは記憶を頼りに元来た道を引き返していた。町の人に大通りへの道を尋ねたのだが、地図無しでは難しいといわれてしまったのだ。地元民ですら、入り組む路地に、どうやら入り込んでしまっていたようだった。
 迂闊に、動くのではなかった。
 フィルは歩きながら舌打ちしていた。はぐれたその場で待っていれば、案内人とも再会することができたかもしれないというのに。
 見知らぬ土地を目に焼き付けたいという好奇心のほうが勝っていた。本能が囁いていたのだ。こんな機会は、もう二度とないだろうから、と。
(おかしなこと)
 フィルは歩き出しながら、笑いだしたくなっていた。もう二度とこの街を歩く機会が得られない。本能はそう告げたが、このままイルバの庵を終の棲家とするのなら、何度でもこの島にくることができるはずだ。
 だというのに、胸の奥で何かが囁くのだ。
 ――終わりだ終わり。休暇は終わり。
 思い出せ、お前の役割を。
 思い出せ。
『――……ノ』
 誰かが私を呼んでいる。
 全てを忘れ、緩やかに傷を癒す時間は終わりだと。
 囁いている。
「フィルさん」
「あら」
 少し大きめの通りに出たところで、声をかけてきた青年に、フィルは感嘆の声を上げていた。
「あなた」
「お久しぶりです」
 そういって、以前フィルの枷を外してくれたメイゼンブル出身の青年は、帽子を軽く掲げて会釈した。
「あぁよかった!」
 フィルは思わず青年に駆け寄っていた。たった一人で見知らぬ街を歩くことに、かなり精神をすり減らしていたのだ。青年が、驚きの表情を浮かべるのも無理はなかった。
「ど、どうしたんですか? そんな必死に……」
「お恥ずかしい話ですが、迷子になってしまいましたので。存じ上げている方の顔を見たら、ほっとしました」
「あぁ、そうなんですか」
 フィルの言葉に納得したらしい青年は、人のよい微笑を浮かべて街灯に照らされる街並みを見回した。
「入り組んでいますもんね。実際この島で暮らしている僕でさえ、よく迷いますから」
「こちらでお住まいなのですか?」
 青年とであったのはマナメラネア本島ではなくポリーア島だ。あのときは鍵屋のアイザックが彼を呼びつけてから一刻とたたずに店にやってきたものだから、てっきりポリーア島在住なのかと思っていた。
「こっちのほうが、小間遣いの実入りがいいですし、人通りが多いから他の仕事もあるんです」
 青年ははははと力なく笑いながら、頭を掻いた。どこか覇気のかける表情だ。よほど家計が危ういのだろうか。
「迷子というのなら、ひとまず通りに出たほうがよいですね」
 青年はそういって、歩き始める。フィルはその隣について歩きながら、申し訳なさに彼の顔を覗き込んだ。
「お手間をおかけして」
「いえいえ。大丈夫ですよ」
 この複雑な街並みを、青年は迷うことなくなれた足取りで進んでいく。そのしっかりとした足取りに、フィルは安堵を覚えた。
「この国には長いのですか?」
 足取りから、かなり長い間この場所に落ち着いているように見受けられた。青年はそうですねぇ、と思案し、少し躊躇を見せてからフィルの問いに答えた。
「そこまで長いというわけではありません。が、この国に落ち着いて結構経っていることは確かです」
「なるほど」
「この国は、移民に対して寛容です。貧乏ではありますが……僕がようやく人らしい生活に、落ち着いたのは、この国が初めてで」
「……そう、なのですか?」
「僕が鈍臭いだけっていうのも、あるんですけれどね」
 苦笑しながら、青年が言う。その様子から、どうやら随分苦労したようだった。
 確かに、移民に対する対応は国によって様々だ。一番寛大と有名な国は、北の大陸の玄関口のひとつ、碧の藩国グワバ。かの国のように流れ者にさえ簡単に仕事を与える制度が整っている国もあれば、移民に対して厳しい規制を敷いている国もある。
「僕はあの国の生活以外、何も知りませんでしたから」
 要領がよいか、何かしら繋がりがなければ他国に移住することは困難だ。天涯孤独という青年は、たった一人でここに居つくまで、辛酸を舐めたのだろう。自嘲のように漏れる彼の呟きには、苦い過去が透けて見えた。
「ご友人の方々は?」
「ほとんどがラセアナに移住しました。ご存知ですか? 北の大陸の西よりにある学術都市で、もともと僕らの国の留学生が数多くいましたので」
「失礼ですが」
 青年は、その都市に落ち着かなかったのだろうか。
 フィルの問いの意味を汲み取って、青年は嗤った。
「僕はそこに入れませんでした。ラセアナは、縁ある国だったから、僕らの国が滅びてあまりに多くの人が流れすぎたんです。移民の数は制限されましたよ。もちろん」
 要領が、悪かったんです、と。
 彼は繰り返す。
 魔の公国メイゼンブルは、西大陸の大国で、魔術によって気候を制御した常春の、花々咲き乱れる国だったという。この世界で五指に入る歴史を誇っていた、古い、魔術の国。長年安定していただけに、どのものたちも裕福ではあったらしい。が、自分の領域[くに]から放り出されてすぐに馴染める人間は数少なかっただろう。
(おかしなこと)
 フィルはメイゼンブルについての情報を脳裏で引き出しかけ、己に関する記憶は失ってもそういった一般常識はきちんと把握していることに笑いたくなった。
「……できれば、もういちど戻りたい」
 青年はぽつりと、そう漏らした。
「……メイゼンブルに?」
 フィルの問いに、青年は弱々しく首を横に振った。
「勉強に、ただ明け暮れるだけの、日々に」
 青年はふいに足を止めた。場所は袋小路の入り口で、行く先に道はない。
 どうしたのか、と青年の顔を覗き込み、フィルは、彼の青白さに怪訝さを覚えていた。
「お顔色、悪いみたいですけれど、大丈夫ですか……?」
 青年はもともと風采の上がらない様子はあったが、それでもこんな病を得ているかのように青白くはなかった。西の大陸の民族特有の抜けるような白い肌が、月明かりのように蒼ざめて夜の薄暗がりに浮かんでいる。フィルの問いに、青年はぎくりと身体を強張らせたかのように見えた。
 まさか、道に迷ったのか、と勘繰ったフィルは、それがあまりに暢気な考えだと、青年の表情を見て知った。
「だから、すみません」
 何が、と、問いがフィルの唇から零れるよりも前に。
 青年がフィルの背を、袋小路のほうへ軽く押し出した。身構えていなかったフィルの身体は、容易く前へと歩み出る。
 青年を思わず振り返ったフィルは、彼の唇が聞きなれぬ古い言葉を紡ぐ様を見た。


 ばしっ、という雷のような青白い光が、柱となって、イルバの傍の建物の裏から天へと昇った。
 見慣れぬが知っている。あれは、魔術が行使された証の光だ。
 魔術はからくりとならんで、いまや過去の遺物となりかけている。そしてそれは魔の公国メイゼンブルが滅んで以来拍車が掛かっていた。魔術を行使する人間はほとんどいない。行使するそれだけで奇異の目で見られることを、魔術師たちはわかっているからだ。
 嫌な予感に、ざわりと肌が総毛立つ。イルバは無意識のうちにその光の方向へと足を運んでいた。脳裏に会ったのは今探している女の姿だ。それなりの身分があるというのに、奴隷に身をやつしていたらしい、ご丁寧にまじないの錠まで着けられていた記憶喪失の女。
 ざり、と。
 砂を踏みつける音がした。数人の影が街灯に照らされて石畳の上に伸びている。その影の先は、どれもがイルバのほうを向いていた。
 時刻は夜。まだ夜半に遠い時刻ではあるが、人通りがなくなるには十分に遅い刻限だった。イルバは周囲を見回しながら、やれやれ、と護身具を腰から抜いた。三節棍[さんせつこん]を連結して、その柄をこつりと、石畳の上に当てる。イルバは顔をしかめ、雇われ者らしい男たちに尋ねた。
「その先を通してくれねぇか?」
 ひとまず礼儀を通して問うてみたが、男たちは一笑しただけだ。
「くっそマジめんどくせぇ」
 イルバが毒づくと同時、男たちの影がゆらりと動いた。


 フィルを閉じ込めたのは、青白い陣形だった。
 薄暗い袋小路の石畳の上に、赤黒い墨で魔術のものであることは明白な陣形と古い文字が書かれていた。その中心に立ちながら、フィルはそっと外に手を伸ばした。ぱしりと放電して、青白い壁はフィルを外界へ出すことを拒む。
 その薄い幕の向こうで、青年が蒼ざめた様相のまま立ち尽くしていた。
「すみません」
 そういって彼が手に持ったのは、果物をむくために使われるような小ぶりの刃だった。急所を確実につけばそれでも十分に人は殺せる。だがこの青年の手では、殺すどころか傷つけることすら無理だろうとフィルは思った。
 青年の手は、囚われているフィルが哀れに思うほど、小刻みに震え、血の気を失っていたからだった。
「どうしてですか?」
 フィルは穏やかに尋ねた。殺されるかもしれないということに、この青年相手では恐怖を感じなかった。あるいは、あまりにも突然のことで思考が着いていかないのかもしれない。
 青年は、今のフィルの目から見てもあまりに善人に見えた。
「あ、あ、あ、あなたを、あなたを殺せば、お、お金をくれると」
「そんなにお金が欲しかったのですか?」
 フィルは相手を刺激しないように、極力声音を低めて尋ねた。
 顔見知りを殺してまで、金品が欲しいのか、と。
「ちがう!」
 抑揚を殺したフィルの声音に、フィル自身は意図せぬ嘲りの色を感じ取ったらしい。青年は頬を紅潮させた。
「でで、でも! でも! あんたを殺せば、ラセアナに住民票と、学費をすべて、用意してくれるって! そ、そうしたら、そうしたら! 全部、元通りだ! 友達も、みんな、みんな、あそこにいるんだ! 一人、こんな惨めな生活をしなくてすむ!! また、勉強して生活できる!!!」
「あなた」
 青年は頬のみならず身体全体を紅潮させて、刃握る手に力を込めていた。その身体は小刻みに震えている。
「できる」
 青年は、一つ覚えのように繰り返す。
「できるんだ……」
 未来を夢想し自分に今から起こす行動を正当化しようとする彼の様は、あまりにも滑稽だった。
 覚悟がなければ、しなければよいというのに。
 そこに佇むだけだというのに、彼は汗ばむ手で幾度となく刃を握りなおし、荒い呼吸を繰り返している。十中八九、この魔術の発動も彼によるものだろう。彼が力ある魔術師でないのなら、この捕縛の陣もすぐに効力を失うだろう。その前に、フィルを殺すというのなら早くしなければならないだろうに――刃の矛先は確かにフィルに向けられているというのに、他人事のようだった。
 ふと、青年の背後に影が射した。大柄な影にフィルが目を見張っていると、そこには棍を手にした見知った姿。
「イルバさん」
 フィルの言葉に反応して、青年が弾かれたように背後を振り返る。だがそれよりも一瞬、イルバの棍が青年の肩を殴打するほうが早かった。


「つぁああぁぁぁぁぁあぁ!!!!」
 雷の如き速さで振り下ろしたそれは、確実に青年の肩を砕いただろう。イルバは肩で呼吸を繰り返しながら、その場に蹲る青年に歩み寄った。
 その腹を、乱暴にけりつける。肋の数本は、確実に折れるはずだ。そう思いながらも、イルバは手を抜かなかった。
 気が、立っているのだ。
 青年が壁に突き当たると同時、フィルの周囲を覆っていた青白い幕が虚空にとけた。慌てた様子でフィルがイルバに駆け寄ってくる。
「イルバさ」
「馬鹿野郎!!!!!」
 棍を振り下ろす代わりにイルバはフィルを怒鳴りつけた。もともと声量のある自分の声だ。周囲に響き渡った怒声に、フィルが身を萎縮させた。
「ふらふらほっつき歩いてんじゃねぇよ勝手に! 迷子になるぐらいだったら動くな!! どれだけ心配したと思ってやがる!!! なんかしらねぇけど殺されかけってし、テメェ自分の立場とかそういうもんわかってんのか!?!?!?!?」
「……申し訳ありません」
 フィルが衣服の裾を握り締めながら項垂れる。その様子に、やはり女を怒鳴るのは好かない、とイルバは思った。
 明日は、打撲や裂傷、筋肉痛に泣き寝入りすることは確実だ。運動は苦手ではなかったが、自分は武術の徒ではない。数人の人間を同時に相手にするには骨が折れたし、実際骨にひびぐらい入っているのかもしれない。殴打された左腕が妙に痛むのだ。相手にした彼らが、所詮雇われただけのならず者で済んだのが幸いだった。これが本職の人間だったら、イルバはとっくにあの世いきだ。
「オイコラ」
 イルバは青年に歩み寄ってかがみこむと、髪を引っ張り、面を上げさせた。石畳の上で身体を圧し折って横たわる青年の顔が見知ったものであることに驚きを覚えなかったといえば嘘になる。だが、何故、と問うよりも誰がこんなことを彼にさせたのか、黒幕を知るほうが先だった。
「誰だ? 誰がフィルを狙った? 誰がお前をやとったんだ?」
 男たちは、この男がフィルを殺すことに邪魔が入らぬように見張っていたようで、イルバのことも既に知っている様子だった。人畜無害なこの女を殺す理由が見当たらない。おそらく――封じられてしまった記憶に、理由があるのだろうが。
 青年は、イルバの追求に答えなかった。苛立ちをぶつけるように、イルバは怒鳴りつける。
「何とか言ぃやがれコルァアっっ!!!!」
「すみませんすみませんすみませんすみません……」
 すみません、と。
 謝罪の言葉だけを繰り返して彼は震える。
 イルバは嘆息して、傍らに立つフィルを見上げた。
「おい、フィル。お前いい加減なんか思いださねぇか? なんでお前命狙われてやがるんだ?」
「さぁ……」
 記憶喪失の女は、困惑の表情を見せて口ごもっている。どうやら何も思い当たらないようだ。
 零れる幾度めかの嘆息。イルバは脱力して、再び青年に視線を落とした。
 青年は、謝罪を繰り返す。頭を抱え、瞳孔を開いて、謝罪の言葉だけを繰り返す。
「オイ……貴様」
 怒鳴りつけ、一度は萎えた苛立ちが、再燃し始める。
 眉根を寄せながら一歩踏み出したイルバは、女の涼やかな声を聞いた。
「私は大丈夫です」
「フィル」
 フィルは、イルバの腕を引いて、青年を見下ろしていた。その紫水晶の瞳は静かで、怒りも何もない。あえて彼女の瞳に宿る色をたとえるなら、それは哀れみの色だ。
「私は、大丈夫です……」
 いきましょう、と、女が言う。
 イルバは釈然としないものを感じながらも頷いた。普段ならば確実に、彼を捉えて役人に突き出していただろう。だがそうしなかったのは、フィルの意向もあるし、何より謝罪ばかりを繰り返す青年の虚ろな目に、十分断罪の色を見たからだ。
 自分で取り返しがつかないと知って、その上で罪を犯したとき、誰よりも自分を苛むのは己自身だ。
 それを知っているイルバは、今更青年をどうこうしようという気になれなかったのだ。


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