BACK/TOP/NEXT

第四章 傷は再び暴かれ 1


 フィルの朝は早い。
 夜明け前には目が冴えて、身体を寝台から起こす。身体が起きろと鈍い意識に命令を下すのだ。フィルは欠伸一つ零さぬ身に忌々しさを感じながら寝台から降りた。
 外は激しい雨が降っている。明け方や夕方に、こうした雨は時折降った。昼間になれば止んでしまう通り雨だ。
 この土地の人々は、この雨を溜めて飲料水とする。イルバの庵も例外ではなく、枷を外されたその日に教えられた通り、フィルは桶を引きずって砂地に置いた。
 雨は激しくフィルの身体を打ちつけていたが、決して卑しいものではなかった。体中にまとわりついた汗を洗い流す雨は、まるで清めの滝のようだ。
「お嬢さん」
 雨の帳の向こうからの呼びかけに、フィルは振り向いた。
「ドムさん」
 白い水煙を踏み分けて、背筋の伸びた老人が歩いてくる。その力強い足取りは、決して老齢を感じさせない。イルバ御用達の舟商は、フィルの前で足を止めると、背負っていた袋を地に落とした。
「やれやれ。雨に捕まってしまったが。うちのババァの言う通り、梱包を厳重にしておいてよかったが」
「ご苦労様です」
 フィルが労うと、ドムは八重歯を見せて笑った。
「なぁに。いつものことじゃが。こっちは頼まれとった石と、芋じゃが」
 ドムの指差した袋の中身を、フィルは腰を屈め、雨が当たらぬようにして確認した。布に包まれた、一抱えもある麻袋の中身は食卓に並ぶ芋。その袋の脇に吊るされている袋の中身は、水を温めたり火をおこしたりする際に使う、消耗品の招力石だ。
「お嬢さんの細腕じゃぁ運ぶのもしんどかろうて。イルバはどうしたんね?」
「まだ寝ています」
 フィルは身を起こし、ドムに向き直った。ドムはフィルの返答に、呆れの色を瞳に宿した。
「寝坊が多いな」
 確かに最近、昼まで眠っていることが多い。夜明けの散歩は彼の日課であったというのに、ここのところはそれすらも怠けがちだ。
「爺に早うなるぞというてやれ」
「夜に眠れていないみたいなのですよ」
 フィルは苦笑しながら言った。
「嫌な夢を、よく、みるそうで」
 あの。
 初めてイルバが悪夢にうなされた夜から、イルバは毎晩のように眠れないでいるらしい。夜、時折のどの渇きを覚えて起き上がると、寝台の上でぼんやりと思索に耽るイルバを見かける。
「あやつがか。そんなもんと、一番縁のなさそうな男なのに。何か悪いもんでも食ったんか?」
「いえ、そういうわけではないと思います」
「もしなんかあるようなら、いいんさい。ババァから旨い酒かっぱらってきてやるが」
「それは、イルバさんも喜びますよ」
 貧乏で酒が買えないと嘆いているイルバだ。元々は、かなりの酒豪らしい。いい酒があるといえば、彼はかなり喜ぶだろう。
 いつの間にか、雨は霧雨のようになっていた。程なく上がるだろう。そう思って見上げた空には、既に青い切れ目が見える。雲の流れが早かった。
 ドムはフィルの代わりに荷物を背負って、庵に運び込んでくれた。庵の中は静かで、フィルたちが足を踏み入れるころには止んでいた雨の気配が、置き去りにされている。ひやりとした空気を頬に受けて、心地よさにフィルは目を細めた。
 雨に濡れてしまった衣服の裾を絞る。ぱたたた、と床板の上に雫が円を描いた。衣服を着替えなければならないだろう。今から干せば服は乾くが、さすがに身に着けたままだと風邪を引く。
 頬に張り付いた髪をかきあげていたフィルは、そうだ、というドムの声に首をかしげた。
「イルバに、手紙を預かってきたんだが」
「手紙ですか?」
「珍しいな。というか、初めてだが。こんなこと」
 ドムは腰にさげている袋の中から、一枚の封書を取り出した。厳重に、蝋で封が為されているそれは、どう見ても一般市民が友人に送るようなそれではない。
「わしゃぁ、字は崩したものは読めんが。お嬢さんは誰からか、わかるかい?」
 フィルはドムに言われるまでもなく、封書の一角の署名に視線を落としていた。雨が少しだけ滲んでいる文字は、フィルも知った名前を綴っている。
 白い封書には。
(アズール)
 アズール・イオ、と、書かれていた。


「まぁ……!」
 船から降り立つなり、フィルが胸の前で手を合わせて感嘆の吐息を漏らした。ポリーアとは全く異なる大理石を組み合わせた街並みに、圧倒されたのだろう。諸島連国の本島、マナメラネアは、古代の神殿を中心に、石造りの古い街並みが残る。
 人の往来もポリーア島とは比較にならない。マナメラネアは世界の海を行き来する交易船全ての中継地だ。船は波止場ではなく港にとまる。整備された区画に、世界中の様々な船が整然と並ぶ様もまた壮観だった。
 フィルは普段すました女だが、こういうときに無邪気な様子が垣間見える。女の細い目が笑みに緩む様をみることに、悪い気は起こらなかった。イルバは手の内にある白い封書に視線を落とす。わざわざマナメラネア本島まで呼び出すなぞ面倒なことを、と毒づいたものだが、この記憶喪失の女に本島の様子を見せる機会を与えてくれたことには、感謝すべきなのかもしれない。そうでなければ、怠惰な自分は本島くんだりまで来たりはしなかっただろうから。
 アズールが寄越した手紙には、翌日の朝の船で本島まで来るように、との旨が書かれていた。ご丁寧に二枚の船の券まで入っていたのだ。フィルにあてた文面には、観光がてら来てみてはいかがかといった内容が書かれていた。先日会ったときに、フィルがアズールに、マナメラネア本島を訪ねてみたいと漏らしていたからだろう。彼はさっそく約束を守ったわけだ。
「それにしても、至急だなんて、一体なんの用事なのでしょうね?」
「さてな」
 乗合馬車の戸口に立ち、フィルに手を貸してやりながら、イルバは彼女の問いに答えた。
「つまらねぇ用事だったら殴るけどな」
「殴らなくてもよろしいですが、美味しい食事をとって帰りましょう」
 せっかくマナメラネアに来たのだから、と彼女は言う。全く持ってその通りだ。世界各国の船乗りたちを労うために、美酒と上質の食事を振舞う店が、この島には多く並ぶ。馬車が行く本通りにも、洒落た看板を掲げる飲食店が並んでいた。がたごとと揺れる馬車の中から、賑々しい街並みを見やりながら、イルバは口角を笑みに曲げた。
「奢らせるか」
 イルバたちを呼びつけた男に。
 フィルは物のわかった女で、本気で奢らせるつもりでいるイルバを、窘めたりはしなかった。
「それもまた一興ですね」
 悪巧みに同意する女の微笑に満足し、イルバは再び窓の外に視線を移す。揺れながら流れる街並みの向こうに、一見神殿のようにも見える白い建物が見えた。それを指差しながら、イルバは空いた手でフィルを呼んだ。
「フィル、見ろ。アレが中央議会だ」


 神殿のよう、というより。
 実際、以前は神殿であったらしい。僧房として使われていた屋敷が、今はそのまま中央議会の事務所となっている。平屋の多い諸島連国の中に置いて、複数、階層がある建物はこの中央議会の事務所と、バヌア島の城跡ぐらいのものだ。
 広い屋敷内には、整えた身なりをした人間が往来している。高い天井から、玻璃を通しているからだろう、諸島連国のものとは思えないほど柔らかな日差しが漏れていた。
 イルバはそれなりにましな衣服を身に着けてきたつもりだった。が、やはりこの場所では浮いてしまうらしい。粗末な身なりにちらほらと視線が突き刺さる。同じ諸島連国内といえども、経済状況は本島とその他の島ではかなり差がある。人目を気にする必要などまずない名もなき島の一角で、日々潮と戯れる漁民たちと暮らすイルバの身なりと、各国の代表たちの目に触れる彼らのそれを比べてはならなかった。居心地の悪さを感じつつも、気後れしなかったのは、イルバが元は王宮に勤めていた人間だからだろう。奇異の目には、慣れている。
 フィルもイルバに感化されたのか、それとも元々の彼女の気質のせいか、彼女はぴんと背筋を伸ばし、毅然とした様子でイルバについてきていた。彼女も、奴隷に身を貶める前はそれなりの身分であったのかもしれない。ともに生活をすれば判ることもある。足運びやきびきびとした所作、食べ方の作法は、訓練を受けた人間のものだからだ。
 本当に、この女は何者なのか。
 傍らを歩くフィルを横目で眺めていたイルバは、ふいに足を止めた彼女に首をかしげた。
「どうした?」
「アズールさんが」
 フィルの指差す先では、黒い衣服に色鮮やかな橙の帯を締めたアズールが、こちらの姿を認めて手を振っていた。


「すまなかったね、こんなところまで呼びつけて」
「まったくだぜ。旨い晩飯奢れよ」
「いい酒が手に入ったから、それもつけるよイルバ」
 アズールにも執務室という個室が割り当てられているらしい。小さな小奇麗な部屋に通されたイルバは、長椅子に乱暴に腰を下ろした。例によってフィルは観光中。アズールの秘書が、案内役だ。
「フィルは何の為に呼んだんだ?」
 わざわざ船の券を二枚送ってきた意味を尋ねると、アズールはあっさりと即答した。
「あぁ、イルバの私生活を聞きたくて。食事はどうせ奢るつもりだったんだ。その時に話を聞きたいなと思ってね」
 どうやら、他意はないらしい。
「俺とフィルは暮らし始めてまだそんなたってねぇぞ」
「新婚さん?」
「てめぇいい加減にしねぇとその口短剣で抉るぞ」
「怖いなぁ。イルバは相変わらず口が悪いね」
「ほっとけ」
 この乱暴な物言いは、貧民窟にいた頃の名残だ。幾度となく自分の師にも注意されたが、結局最後まで直らなかった。怖い怖いと口にしながらも、アズールには本当に怖がっている様子はみられない。彼はおどけるように笑って言った。
「だって、七年だ。本当に、どんな生活をしているのか、気になるじゃないか。友人として」
「この前言わなかったか。寝て起きて飯食ってガキ共の手習いやらジジイ共の手伝いしてるんだっつの」
「それでも、君の主観で物事をきくのと、第三者の目から見た物事はやはり違うよ」
「っつかアズール。お前俺の私生活を根掘り葉掘り、フィルから聞くためだけに、俺らをマナメラネアまで呼んだわけじゃねぇよな?」
「もしそうだったとしたら?」
 アズールの顔は真顔で、そうだこいつはこんな風に他人をからかうのが好きだったのだとイルバは思い返した。
「本気で殴るぞ」
 目を細めて威嚇する。アズールは降参だといわんばかりに諸手を挙げた。
「もちろん。つまらない理由なんかじゃない。君を呼ぶに相応しい――むしろ、これは君に話さなければ、ならないと思った。誰よりも先に、君に。イルバ」
 アズールの妙に含みを持たせた言い回しに、イルバは顔をしかめる。アズールは執務机の引き出しの中から、黒い装丁の本を取り出した。
 薄い本だ。
 麻の紐で綴じられた本だった。イルバにとっては全く見覚えのない装丁だった。だがアズールはそれを丁重に扱い、そしてイルバに差し出した。
「何の本だ?」
 目の前に突きつけられた黒い本を見つめながら、イルバは尋ねる。アズールは本を持つ手を軽く揺すった。
「みれば判るよ」
 仕方なく、その本を受け取った。
 表紙には何も書かれていなかった。黒だと思った表紙は、草木か何かで染めたらしい、斑な黒だ。一枚めくると、何かの広告のようなものが表紙に写っていた。どうやらこれは、使いまわしの紙らしい。
 中の紙も薄手の紙やら穴の空いた紙やら、とにかく周囲にあった紙を適当に繋ぎ合わせただけの様相だった。そこにはぎこちなく、文字が書かれている。
 イルバはその文字を目で追い、そして、息を呑んだ。
「……こいつは」
「写本だよイルバ」
 アズールは引き出しから煙管を取り出し、火をつけた。くすんだ煙がゆらりと空に立ち上る。細く吐き出された煙が霧散する様を眺めながら、彼は言葉を続ける。
「東大陸の、ダッシリナを知っているかい?」
「暁の占国か?」
「そう」
 内海に面している国で、東の大陸の玄関口の一つ。占師たちと、彼女らの占いが政治の方向性のみならず、国の統治者や商売、植える穀物、全てを決定する一風変わった国である。
「そこに変な動きがあってね。間者を放っているんだけれど」
「そんな重要な内容、俺に話してもいいのか?」
「いいよ。僕と君の仲だ。……それでだ。その間者のうち一人が僕にそれを持ち帰ってきた。今、ダッシリナの下級市民の間で密かに広まっているらしい。原本をそうやって一文字一文字書き写して、懐に抱いて眠るのだと」
 一拍置いて、アズールは言った。
「国を、変革するその日を夢見て」
「……馬鹿が」
 イルバは言葉を吐き捨てた。罵りの言葉は無論、このくだらない教本を抱いて眠るダッシリナの民衆に対して向けられていた。
『民主化教本』
 かつて、セレイネを愛し、彼女の身に降りかかった災厄を憎み、そして盲目的に王制の廃絶を訴えた、イルバの弟子。
 彼の書いた本が、それだった。
「写本は全て燃やしたはずだ。一つ残らず」
 噛み締める歯の隙間から搾り出すようなイルバの呻きに、アズールが頷いた。
「そう。僕らは全てを燃やした。検閲までかけて、他国の手まで借りて全てを廃絶した。この世界では、王制以外を敷いている国なんてほんの僅かだ。国の根幹を揺るがしかねない本の廃絶を、数多くの国が受け入れた」
 事実上の、禁書となったはずだった。
 けれど何故かそれが、再び、どこかの国を覆そうとしている。
「僕らの手をすり抜けた本はたった一つだ」
 アズールの言葉を引き取って、イルバは呟いた。
「原本」
 イルバの弟子が持っていた、彼自身が記した、原本。
 彼はバヌアの革命が失敗に終わり、諸島連国に国が吸収されることが決定付けられると同時、姿を消した。そのいく先を、誰も知らない。
「イルバ。それは君がもっていくといい」
「こいつを?」
 驚きにイルバは思わずアズールを凝視した。手元にある黒い本は、間者が入手してきた品だというのだから、ダッシリナの国の情勢を説明する、重要な証拠品になるはずだった。が、アズールは微笑んで、イルバの問いに頷いた。
「持っていきたくないというのならいいけれど。けれどそれは君が持っていたほうがいい気がする。君の止まってしまったときを、動かす唯一のものだから」
「俺は時を止めてなんていねぇ」
 アズールにイルバは半ばむきになって反論した。自分は時を止めたわけではない。ただ、安寧を望んだだけなのだ。
 だがアズールはイルバの言葉を端から信じていないという様子で肩をすくめ。
「イルバ」
 まるで子供をあやす時のような、穏やかな声で言葉を紡いだ。
「君ともあろう人間が、ずっと引き篭もって生活をするだなんて、時を止めているという以外になんと表現すればいいんだい? 誰よりも政治の世界に傾倒し、誰よりも国を愛し、誰よりも人を愛した。よりよい国を作るために誰よりも奔走した。イルバ・ルス。僕らの誰もが、君を真の為政者として認めていた」
「買いかぶりすぎだ」
 イルバは窓の外に視線を移しながら毒づいた。そう、買いかぶりすぎだ。自分は所詮罪人に過ぎない。
 あの世界に足を囚われて、愛した家族でさえ売り飛ばした。
「君の弟子は東の大陸にいるよイルバ」
 アズールは窓辺に歩み寄り、窓の外を見つめながら言った。窓越しに見える水平線。彼が見つめる方角は東大陸の方角だった。
 黒い本を握り締め、言うべき言葉を探しながら口を閉ざすしかないイルバに、かつての同僚は微笑んだ。
「決着をつける気があるというのなら、僕はいつだって、君に船を用意しよう」
「お前はいつも、そうやって俺に前へ進めとそそのかす」
 イルバは嘆息してアズールに言った。
「だが、それをしてお前に何の利益があるっつぅんだ?」
「そんなこと、決まっているよ」
 アズールは悪戯っぽく笑って肩をすくめる。
「全部に決着をつけた君を、僕らの仲間として招き入れるためさ」
 諸島連国の、中央議会。
 イルバは天井を仰ぎ見て、思わず呻いた。
「馬鹿が」


BACK/TOP/NEXT