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第四章 王城騒乱 2 


 王城が、騒がしい。
 そういったことに、自分は敏感なたちであるが、立場が立場であるため勝手に動き出すわけにもいかない。ただ、姿をみないモニカを案じていた。勝気で気丈な少女である。その勝気さが、人を騒動の渦へと投じやすいことをシファカは経験上知っている。
 宿の片付けを終えて、一足先に王城に手伝いに入ったモニカと合流するために、登城したのはついさきほどのことだ。
 火が煌々と灯された暖炉の前で雪を払い落としながら、常に持ち歩いている獲物の感触を、シファカは確かめた。刀。正しい名称をシファカは知らない。ただ昔、『彼』がそう呼んでいたのだ。これは、刀であると。
 かちゃり、という鍔鳴りの音。包む布を縛っているのは、昔彼が髪を縛っていた紐で、自分の祖父がわりであった男の工房に、残されていたものだ。長さの具合が丁度よいから使っているのだと自分に言い訳してみるが、こんなものに縋りたくなるぐらい馬鹿みたいに欠乏しているのだと知って、自分の駄目さ加減に少し自己嫌悪。
 ため息をついて周囲を改めて見回した。雪崩によって家から追い出された人々が集う王城は、ただでさえ賑わっているけれども、その空気には、難民特有の不安とはやや異なったものが混じっていた。どうしたのだろうと、首を傾げる。と、同時に住民たちの動向を注意深く観察する。その誰もが、家を失ったことや、家畜を失ってしまったことに対する不安から瞳を泳がせていた。だが、この居心地の悪い空気はそれだけのせいではない。この一番忙しく、そして一番似つかわしい場所で、働き者のモニカの姿が見えないということが、違和感をもたらしている一番の要因かもしれなかった。
「シファカ」
 そう声をかけてきたのは、モニカが懇意にしているこの国の第二王子だった。
「リシュオさん」
 声をかけてくる人、一人ひとりに簡単な挨拶を交わしながら、それでも早足でこちらまで歩いてくる男に、シファカは軽く会釈した。そうしてモニカの居場所を尋ねようとした矢先、まったく同じ問いを、彼から投げかけられた。
「モニカしらないかい?」
「は? いえ。私もそれを聞こうと思ったのですが……どうかしたんですか?」
「……いや」
 リシュオは渋面になり、何かを思案していた。懸念している、といっていい。その歪められた顔に、シファカは首をかしげた。
「あの」
「兄上が」
 リシュオは考えたくないのだけれども、と前置いて、嘆息した。
「兄上が、人を殺した、というんだ。いや、避難していた娘が、駆け込んできてね。彼女の父が、兄上に殺されたと」
「アレクさんが?」
「そう。兄上が……そんなはず、ないのに。兄上は意味もなく殺生をするような人じゃない」
「……もしかして、この城の空気が変なのはそのせいですか」
「気がついたんだね」
 リシュオの口元には苦笑が浮かんでいた。自分とほとんど年は変わらないはずだが、この男も苦労の絶えない人のようだ。目元に浮かぶ疲労の色が濃い。
「兄上も弁解すればいいものを、騒がれてそのまま逃げたようでね。この国の主なのだから、言えばどうとでもなるのに」
「誠実な人なんですね」
「誰が?」
「アレッサンドロ王太子殿下」
 ほかに誰がいるというのだろう。シファカは眉をひそめて、その驚いたように目を見開くリシュオを見返した。彼は目をぱちぱちと瞬かせていたが、ふっと小さく噴出した。
「そのように兄上を評価する人を、僕は初めてみたよ」
「そうですか? どうどうと弁解すればどんな言い訳でもまかり通るんでしょう? なのに弁解せずに逃げ回っているというのは、自分に誠実であるか、それともよっぽど不器用な馬鹿正直かのどちらかです。この前あったときにも思いましたが、横暴ではありますが、悪人には見えませんでしたよ」
「……なるほど。そういう風に評価する方なら、一人、知っているよ」
「それにわたしは知っていますんで」
「何を?」
「本当の悪人は、常に笑顔の裏に腹黒くものを隠し持っているものなんです」
 笑顔ですっぱりと言い放ってやる。脳裏にあるのは男二人。一人は仕事の上司だった。一人は今自分が追いかけている男。本当の極悪人だと、親しみを込めてシファカが断言できる二人である。
 くすくすと忍び笑いをもらしたリシュオは、笑いから回復すると、うんと首を縦に振ってシファカに同意を示した。
「そうか……そうだね。兄上は、自分に対してとても誠実だ。誠実で、潔白だよ」
「でしょう」
「……君は良い目をもっているんだね。モニカが気に入るのもわかるよ……それから、シルキス殿も」
 今度はシファカが渋面になる番であった。露骨にそれが出ていたのだろう、リシュオが苦笑する。
 シルキス・ルス。
 どこか危うい雰囲気を漂わせる男だ。弱弱しいわけではない。むき出しであるのだ。かつて、自分がそうであったからよくわかる。
 魂が、むき出しであるのだ。
 いつも人好きのする笑顔を浮かべていて、物静かで、見識が深い。それだけを見れば少しも不安定な要素は見られない。けれども見るものがみれば、その笑顔に細められる目はぞっとするほどの冷たさを宿し、そして同時に泣きそうに歪んでいる。
 笑いながら、泣き出しそうに歪んでいるその顔が、あまりにも辛そうであったので。
 どこかそれは、『彼』に通じるものがあったので。
 つい声をかけたら、変になつかれてしまったのである。
 眉間に皺を寄せてもうその名前を思い出したくないとばかりに瞼を下ろす。思いがけず零れた吐息は[うつ]混じりの深いものだった。話を、戻さなくてはならない。というよりもそもそも、自分たちは一体何の話をしていたのだろう。
(そうだモニカさ――)
「モニカ!」
 元の話題を思い出しかけたシファカの耳朶[じだ]を、リシュオの叫びが打った。どこか悲鳴じみていたその声に反射的に獲物に手が伸びかける。
 面をあげると、リシュオの険しい顔があった。彼の眼差しの向こうには、件のシルキスに抱きかかえられ運ばれているモニカの姿。わき目も降らず彼女の元へと駆け出すリシュオの後に、シファカも続いた。
「モニカ……シルキス殿、これは……?」
「残念ながら……」
 シルキスは静かに瞼を伏せ、首を横に振った。もったいぶるように、口の端を一度引き結び、深い吐息を落として、面を上げる。
「王太子、殿下が――」
「兄上が?」
 シファカはシルキスの腕の中で気を失っている娘を見やった。顔は青ざめてはいるものの、彼女自身に外傷はないようだった。ただ、衣服のところどころに血痕らしき赤黒い染みが見える。シファカは眉をひそめ、シルキスを見上げた。シファカと目を合わせた男は、シファカに大丈夫ですよ、と優しげに微笑んで見せた。
「気を失っているだけです。リシュオ殿下。どうかお部屋を一つご用意いただきたい。この娘を寝かせます」
 リシュオは頷き、近くで働いていた女官らしき娘を呼び寄せた。ばたばたと、慌しく散開していく足音。リシュオの血相と、シルキスの腕の中にいるモニカを認めた住人たちがざわりと騒ぎ始めた。
「おいあれモニカじゃ――」
「どうしたんだ一体?」
「アレク王子がやったらしいよ……」
「あの王子、モニカにだけは手をださないと褒めてやっていたのにとうとう……」
「あぁどうしようもないねぇ……あのようなひとが、我らの王に?」
「いやあれはそもそも……人ではないだろう……本当に王子なのかどうか……」
 耳に届く、人々の囁き。
 住民たちは不安がっている。姿も現さない次期国主。そして彼に関する、城の中に広まり始める密やかな疑心。自分たちの国主を信じずにどうするのだろうと思うのは、シファカがそれなりに信頼できる王をもった国の出身だからか。
「シファカ」
 シルキスに呼ばれ、我に返ったシファカはシルキスの優しい目をみた。この目。これを一度見れば、それまで全ての微笑が、ウソモノだとわかってしまう。どうして自分に対してそんな目でみるのかいまいち理解に苦しむ。シファカは居心地の悪さに身じろぎをしながら、困惑の表情を浮かべて問い返した。
「何?」
「モニカ嬢についていて差し上げてください」
 穏やかな、言い含めるような口調で、彼は言う。
「傍に貴方がいれば、安心するでしょう」
 その言葉に、シファカは承知、と首を縦に振った。


 ばたんっ
「っ、は、はっ……は……」
 扉をどうにか閉めると同時に、吹雪の音が遮断された。体中に絡みついた雪を払い落とし、傍らで蹲りながら青ざめている男に視線をやる。血は止まっていたが、矢をぬいた時点での失血があだとなっているのだろう。加えてこの温度だ。寒くないわけがなく男の身体は小刻みに震えて、顔には色が無かった。
 ジンは荒い呼吸をどうにか整えながら、灯りの落とされた広間を進んだ。そこは今朝も足を踏み込んだ慣れた空間。<トキオ・リオ・キト>の玄関広間だ。
「殿下」
「……なんだ」
「火をおこして温まってて。俺防寒具探してくる。俺の荷物も、あるはずだから」
「……どうやって、火をおこせと」
「自分でそれぐらい考えてよ。食堂の暖炉、燃えているところいつもみてたでしょう?」
 のろのろと身体を起こすアレクを見送って、ジンはため息をついた。状況は最悪だ。どうにか城の敷地をぬけることができ、ここまで戻ってくることが出来たことこそ奇蹟に近い。防寒具も、外套もなしで。
 ジンは手のひらを見た。凍傷で既に神経が麻痺しかけている手の皮は、そこここが剥けて血みどろだ。青龍刀の柄にも同じようにべったりと血が付いていて、これは温度で張り付いてしまった手を、無理やり引き剥がした結果だった。
 外は猛吹雪。吐息すら凍るほどの絶対零度。氷の帝国ほどの極寒ではないにしろ、ジンが体験したことのない寒さだった。
 化石の森から逃げて遭難したときすら、状況はここまで酷くはなかった。あの時はそれなりに備えもあったし、外套もなにも身につけず外に飛び出すようなまねはしていなかったからだ。
 室内に入ったためか、ゆっくりと、身体に血が回り始める。急に脳裏を支配し始める鈍痛。それと格闘しながら、ジンは部屋に運び込まれているという荷を探した。
『二人で逃げて』
 古い扉を叩き割り、地下へと伸びる細い階段を駆け下りたのは、ほんの数刻前のこと。けれどもその後、王家専用の脱出路に入ろうかという間際になって、モニカはそう自分たちに宣言した。
『私、絶対足手まといになるわ。だから、二人で逃げて』
 馬鹿なことをいうなと、アレクが反論したが、彼女は笑顔で突っぱねた。自分はリシュオに気に入られている。何が起こっているのはわからないが、殺されることはないだろうと、豪語して。
 それに、と、娘はこう付け加えた。
『あんたたちがちゃんと戻ってくるように、人質ってものが必要でしょう?』
 逃げるんじゃない、態勢を整えて、戻ってくるのよ、と。
 それから彼女がどうなったのか、ジンにはわからない。ただ、彼女の言う通り殺されることはないと思った。さすがにモニカまで殺してしまっては、いくらシルキスがアレクに責任転嫁を行ったところで信じるものは少ないだろう。リシュオはその最たる人間だ。彼も馬鹿ではない。アレクがモニカを殺すことなどありえないのだと、彼は知っている。
 モニカに教えられた部屋の場所は、屋根裏。とはいっても階段をいくつか多く上らなければならないだけで、踏み込んだ部屋は丁寧に掃除がなされた部屋だった。屋根に近く壁が薄い場所であるため、寒いはずであるのに、空気は廊下よりも暖かい。暖炉にはまだ熱が篭っていた。どうやら、誰かがこの部屋を暖めていたらしい。モニカは早くから城に入っていたので、シファカと同じ名前をもっているらしい、手伝いの少女がモニカに代わって部屋を暖めていたのか。
 掃除されたばかりらしい床の上に、ジンの荷物がきちんと纏めてあった。
 寝台の上では替えられたばかりらしい羽毛布団が、空気を孕んでよく膨らんでいる。その上に、ジンは今すぐ倒れこみたい気分になった。
 だめだ、と。
 頭を振る。窓から外を見やると、吹雪の向こうにちらちらと移動する灯りが見える。ジンは舌打ちした。しつこい。外套すら身につけていない男二人、雪の中で野垂れ死んだということにしておけば、彼らも楽であろうに。
 そもそも、どうして自分たちが追いかけられているのか、その理由すら、明確ではないのだ。
 果樹園の主だという男やその仲間たちは、殺してはいない。多少斬り付けはしたが、気絶させただけなのだ。それなのに、おそらく殺人の罪で、追われている。そこから推測される結論はただ一つ。彼らは、もうこの世にいないのであろう。誰かが、息の根を止めてその罪を自分たちに――正確には、アレクになすりつけた、というところか。誰か、などと不特定多数の言い方をしてみるものの、思いつく人間はたった一人しか存在しないのであるが。
(まったく何考えてるんだ。あの男)
 シルキス・ルス。
 考えていることはわからないが、男の出自に一つ心当たりがある。逃げながら記憶の箱をひっくり返し、どうにか思い出した。
 内海に存在するそれなりに名のあった国が、数年前に一つ、大きな革命によって滅びた。正確には革命が起こり、その後の政治機構が上手く機能しなかったことで、滅びたのだ。確か、自分の幼馴染の女が死んだ年だ。その国は、今は諸島連国の一部として吸収されているはずである。
 ルス、はその国で、特殊な地位のものに継承される[あざな]であったはずだ。その字は皇、王、公家の字と同じで、特殊な手続きを踏まないかぎり名乗ることは許されず、一般市民には普及していない。たとえば幼馴染のもつ、リクルイトの字、そして自分のもつシオファムエンの字は、一族以外が名乗ることは許されない。それと同じ。
 ルスは、宰老、と呼ばれる、宰相、大臣たちの、王直属の監査役の字だった。自分が知るルスの名を持つ男は、もっと血気盛んな目をした、自分より十ほど年嵩の男であったが、弟子が一人いたと聞いたことがある。丁度、シルキスと年の頃も合致している弟子が。
 もし本当に彼がその『ルス』の人間なら、ますますわからない。判らないこと、だらけだ。
 一つ。どうして彼がリシュオに王座を与えたがっているのかがわからない。リシュオとシルキスの関係を見る限り、シルキスがリシュオにほれ込んでいる、という様子も見られない。もっと別の私情が絡んでいると、ジンは踏んだが、その私情がわからない。
 諸島連国は土地だけではない、人材も吸収した。かつての要職の人間は、連国においてもそれなりの地位を与えられたと聞く。『ルス』ならば諸島連国の議会が、喉から手が出るほど欲しい人材であったはずだ。それがどうしてこんな場所で、国にいらぬ手をだしているのか、判らない。ジンには理解できない『私情』に関係があるのであろうが、それにしても奇妙すぎた。こんな、言っては悪いが辺境の国で。
 手の平の手当てを簡単に行い、防寒具を着込んで部屋をでる。荷物は、ほとんど置き去りにしておくことにした。僅かな食糧、水、そして、手帳。全て、防寒具と外套の懐に収まってしまう程度。
 ちらりと、青龍刀に視線を落とす。その柄に、もう縞瑪瑙の存在はなかった。その小さな玻璃玉は、守り代わりとしてモニカに手渡されたからだ。ジン、自らの手によって。
 馬鹿だと、思う。
 馬鹿だ。本当に馬鹿だ。シルキスのことも理解できないが、自分の行動すべてがジンは理解できなかった。モニカもアレクも、それほど大事な人間ではない。そう、言い切れる。それなのに自分はモニカにあの玻璃玉を護符がわりに手渡し――この一年、自分と幾度も危ない局面を渡り歩いてきた玻璃玉だ。それなりに効果はあるであろう――そして今もアレクに付き合って、逃げ回っている。この、吹雪のなかを。自殺行為以外のなにものでもない。
 ジンはモニカに言われた通りの戸棚をあさり、アレクの分の防寒具を抱えて階下に下りた。どこからか救急箱を見つけ出したらしいアレクが、暖炉に灯されたばかりの小さな火の前で、四苦八苦しながら自分の肩を手当てしていた。
「不器用だなぁ殿下」
 あまりのアレクの不器用さに、ジンは思わず笑いを零していた。
「嫌味みたいになんでもこなすお前とは俺は違う。育ちがいいからな」
「育ちのよさでは俺も負けず劣らずだと思うけどねぇ」
「育ちのいい男が雪山で遭難するか。こんなときに冗談はやめろ」
「それもそうだね」
 苦笑しながら、膝をつき、アレクの手から包帯を受け取る。育ちのよさ――もしシルキスが本当にあの『ルス』の人間なら、こんなところで何を、と思ったが、それは自分にも言えることだ。『旅をしている』理由は、自分と祖国に残る幼馴染とその妻、そして女官長しか知りえない。だが傍目から見れば、確かにそうなのだ。思いだす。忘れかけていた、祖父から受け継いだ、宰相という地位。そしてシオファムエンという名前。
 守りたいと思っていた記憶も国も人も。全てを放り投げて。
 愛した人を散々傷つけて突き放して。
 自分は本当に、何をしているのだろう。
 床に胡坐[あぐら]をかいたアレクが、何をぼうっとしているのだと、鋭い視線でこちらを一瞥してくる。ジンは肩をすくめて、突き出された彼の肩を覗き込んだ。
「消毒は?」
「酒をかけた」
 傷口を確認して、ジンは嘆息する。毒が塗られていたのか、[やじり]に使われていた鋼が、あまり良くないものであったのか――アレクの肩は、紫色に変色しつつあった。
 とりあえず、消毒用の軟膏を改めて傷口にすり込んだ。そのたびに、アレクが苦痛に身をよじり引き攣った悲鳴を上げる。五月蝿いなぁと眉を上げながら、ジンは嘆息した。
「殿下、ちょっと静かにしててよ布巻けないでしょ」
「お、おま、ももも、もうちょっと、丁寧に扱え!」
「無理。しっかり塗っておかなきゃ、肩が壊死するよ。下手すると肩を切り落とさなきゃいけなくなる。判ったら大人しくしててほしい。早く手当てを終えて、ここをでなきゃいけないんだ」
 屋根裏部屋からみた、灯りの位置から距離と掛かる時間を割り出した。足跡は雪が消し去ってくれているだろうが、ここまでたどり着くのは時間の問題だ。
「お前もここをでるのか?」
「……俺? 変なこと聞くね殿下」
「お前、国をでるんじゃなかったのか」
「でそこなった。そうだね。このまま氷の帝国までぬけてもいいかも。殿下一緒にいく?」
 氷の、帝国まで。
 それは半ば冗談であり、半ば本気であった。自棄になったわけではない。ただ、この場所でたむろしていても、態勢が立て直せるとは思えない。町の地下などに、潜伏できる場所があるのかと尋ねても、アレクは首を横に振った。どうやらそういった町の構造云々においても、リシュオのほうが良く心得ているらしい。
「……森に行くぞ」
「森?」
 アレクの肩を布で縛り終えたジンは、鸚鵡返しに尋ねた。
「森の奥に、古い神殿がある。お前のことだから、聞いたことはあるだろう。この国は、元は精霊を祭った祭壇への参拝客の宿場が発展してできた国だ。俺たち王家は、元は司祭の一族だ。今も、その神殿の場所は伝えられている」
「殿下知ってるの? 場所」
「頭悪くなったのか貴様は。知っているからこうやって提案しているんだろう」
 アレクは揺らめく暖炉の炎を見つめながら、嘆息した。
「丁度――雪も止み始めた」
 窓は全て雨戸によってふさがれて、外の景色など窺い知ることはできない。それにも拘わらず、アレクはそう断言した。震える、人とは異なった彼の耳を見つめる。人ではないものの血を色濃くあらわした彼には、タダヒトではわからないものを感知する力が備わっているのかもしれない。
 ジンは消毒液を手のひらにかけた。薄れかけていた痛みが、再びジンの痛覚を刺激する。顔をしかめながら、手に丁寧に布を巻いた。その布は直ぐに血を吸って、赤黒い染みをその中央に広げていった。


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