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第四章 王城騒乱 1 


「な、な、な」
 モニカが「な」を連呼する。悲鳴をあげるのかと思ったが、彼女はそうしなかった。やはり気丈な娘だと思う。血滴る抜き身の剣を提げたアレクとジンの間に挟まれて、彼女は返り血を浴びながらも、失神することも発狂することもなかった。
「なんなのよ、こいつら……」
 ただ脱力したような呟きを漏らし、絨毯の上に崩れ落ちる男たちを怯えの眼差しでモニカが見下ろす。ジンは軽く血糊を拭って鞘に青龍刀を収め、気絶させた男たちの傍らに膝をついた。ご丁寧に顔全体を隠す、覆面を乱暴にはぐりとる。現れた顔は見たことのあるものだとは思ったが、思い出せなかった。
「国の人?」
 面を上げて、立ちすくむ二人にジンは尋ねた。アレクは何も言わない。しばしの沈黙ののち、モニカが躊躇いがちに口を開いた。
「……果樹園の、おじさん」
 ジンは立ち上がって、嘆息した。急所を多少切りつけたために周囲が血まみれであるが、命には別状ないはずだ。単に、悶絶しているだけである。後ほど、話を聞く必要があるだろう。
 アレクの表情は見て取れない。モニカは蒼白になり己で腕をかきだくようにしながらも、きちんと両の足で立っている。彼ら二人の様子を一瞥したジンは、肚のうちに広がる苦い感情に、小さく舌打ちした。
(……始まったか)
 シルキスだ、と。
 全ての事象を短絡的に彼につなげてしまうのもどうかと思うが、それでも思い当たるのは一つしかなかった。あの、綺麗な片眼鏡の青年。この国をひっくりかえすといった。その方法がどのようであるか、ジンの知るところではないが。至る所に、彼の手によって紡がれた糸を感じる。
 少しずつ、じわじわと、国を絡めとらんとする、糸を。
「とりあえずこの男たちを……」
 片付けるように手配しよう。もっともそれを手配するのは自分の役目ではないのだが。
「殿下」
 ふと面を上げたジンは、アレクが剣を振り上げている姿を目に入れた。相手の息の根を本格的に止めようとしていることが見て取れて、一瞬蒼白になる。まだこの男たちから、詳細を聞く必要がある。殺してしまってはもともこもない。
「ちょっと馬鹿やめなさいよ!」
 先にアレクの腕にしがみついて、その行動を押しとどめたのはモニカだった。
「果樹園のおじさんよ!? アレクだってよく知ってるでしょう!? 殺してしまう気!?」
「そうだ」
 アレクの肯定にはなんの躊躇いも見られなかった。彼はモニカに押しとどめられるままに腕を下ろし、嘆息した。まるで精気を吐き出すかのようだ――あながち、自分の感想は間違っていないだろう。
「……どうして世界は、お前のような奴らばかりじゃないんだろう」
 剣の切っ先から雫が零れる。ぽたり、とそれは、厚い絨毯の中に染み込まれて消えていく。
 音もなく。
 涙もまた。
「アレク?」
 ジンはアレクから面をそむけた。見るべきではないと思ったのだ。泣いているのかと問えばそうではないと答えるだろう。ただ、目元と頬を朱に染めて怒りからか、哀しみからか、それともそのどちらもからか、爛々と瞳を輝かせる王子は、美しくあったけれども。
 世界は何時だって、人に優しくはない。
 残酷に、何かを用意している。
 たとえばそれは、裏切りという形をもって。
「……」
 人の気配を感じてジンはひたりと開かれた扉の向こうの闇を見据えた。そこに白い影を認めて、思わず息を呑む。こちらの動きを感じ取ったのだろう、アレクとモニカの気配も動き、二人が、唾を嚥下する音が暗がりに響いた。
 その、石造りの冷たい回廊に満たされた闇の中に、佇んでいたのは少女だった。
 見覚えのある少女だ。会ったことがあったかもしれない、なかったかもしれない。その程度ではあるが面識があるということは、町の住人であることは間違いない。迷い込んだのだろう。状況を鑑みれば、そうであるとしか判断できなかった。
 少女は青ざめて、口元をその白い繊手で覆っていた。白目の部分が青白く潤んでいる。
 やがて彼女は、引き攣った悲鳴を上げた。


彼女は、果樹園の男の娘だと、モニカが言った。
だから、その娘が、悲鳴をあげたことを、責めることはできない。


「くっそ…なんで……なんで俺がこんな形で逃げなければならない!?」
 アレクの主張はもっともだった。罪なき住人を、殺すところであったのだと娘が泣きながら衛兵に主張した。どうしてそこで彼女の主張が通ってしまうのか、それはアレクの日ごろの行いが悪いからという理由にほかならない。
「それは俺がいいたいよ」
 ジンはため息をつきながらアレクを睨み付けた。
「殿下はわかるけど、どうして俺やモニカちゃんまで逃げる羽目に陥っているのさ?」
「待て――!」
 背後から追跡の足音と怒声が響いている。相手を一度返り討ちにして説明したほうが物事の解決への一番の近道だとは思うのであるが、どうも状況に流されてしまっていた。明かりもまともに灯っていない回廊を疾駆しながら、ジンは僅かに遅れて走ってくる娘をそっと一瞥する。
 水の帝国と比べれば、町や村、といってもいいような規模の国でも、権力の象徴である王城は決して小さくはない。過去は神殿の参拝客で賑わったという町だ。普段はあちこちの扉が閉じられて、区画を閉鎖しているために一人では徘徊することができず気付かなかったが、その大きさは確かに過去の栄光を偲ばせる。
 そこを、一刻ほど、休むことなく走っている。昇って、降りて、左右。これだけ走って前方から人と鉢合わせしないのが不思議であった。だがそろそろ相手も追いついてくる頃であるし、モニカの体力も限界であろう。いくら気丈とはいっても、特別な訓練など何一つも受けていない、武術の心得もないごくふつうの娘にすぎないのだから。
 案の定。
「あ、あたし、ちょ、ちょっと」
 モニカが堪えきれないといった風に声を上げた。アレクもまた、彼女の疲弊の具合を見て立ち止まる。その額には珠の汗が浮かんでいて、そしてそれは、自分も同じだと、ジンは額を何気なく拭って確認した。
「も、ちょっと、は、走れない……」
「情けないこというな!」
「あ、あんたねぇ。どれだけ、走らせたと思ってるのよ、ひ、ひとに……」
 膝に手をついて肩で呼吸を始める娘の背を、ジンは仕方なくさすってやった。大丈夫? とこちらが尋ねれば、見習ってみなさい! と娘はアレクに叫ぶ。それだけの元気があるのなら当面は大丈夫だと、ジンは苦笑した。
 だが、再び走って逃走するのは、どう考えても無理そうだ。
「くそ。お前、もう少し体力付けろよ!」
「あんたねー! 走らせっぱなしの乙女にねぎらいの言葉はないわけー?!」
「まぁ殿下にそれをもとめるのも無理な話かもモニカちゃん」
「……それもそうね」
「二人揃って人のことをこきおろすなー!」
「もともとあんたの日ごろの行いが悪いからこんなことになってるんでしょうがー!」
(この二人もこの状況でいい加減あきんよなぁ)
 なんだか緊張感の欠片もない二人だなぁと笑いたくなる。真面目にものごとを考えるのが自分しかいないという状況も珍しい。とりあえずこの状況をどうすべきか、二人の口論を背景音楽に、ジンは顎に手を当てて思案した。
 町人たちと、きちんと話し合ったほうが無難ではある。
 そう思いながらも状況に流されるままこうやって逃げていたのは、考える時間が欲しかったためだ。
 追討してくる町人たちは、いったいどこまで、状況を把握しているのだろう。
 ただ、娘の主張を鵜呑みにしただけか。
 それとも――。
「賑やかな方たちですね」
 この男の、指先と繋がっているのか。
「シルキスさん?」
 男の素直な感想に、一番に反応したのはモニカだった。
 その男――シルキス・ルスは、ランタンを手に掲げ、進行方向の向こう、道を飲み込む暗闇の[ほとり]に佇んでいた。
 掲げられる灯りがシルキスの薄紫の双眸に不気味な輝きを添え、みるものを戦慄させる。ジンはその程度のことに恐れおののくことはなかったが、慣れぬ傍らの二人は、彼のまとう雰囲気に少なからず鼻白んでいるように見受けられた。
「この状況で、そこまで賑やかにあれることに、私は感嘆いたします」
「そうだね、俺もそうだ」
 ジンは肯定した。実際彼ら二人の緊張感のなさには、呆れを通り越して感動すら呼び起こす。シルキスは笑い、ジンも笑った。そうして互いに面を上げ、笑みを消したのはほぼ同時であっただろう。
「そちら側に貴方はやはり付かれるのですね」
 シルキスがアレクを一瞥して尋ねて来る。ジンは腰に手を当てながら、ため息をついた。
「あのね。いくらなんでもこの短期間で、俺だって外に出られるはずがないよ。昨日の今日じゃんか」
「なるべく早くと、忠告はいたしました」
「話にならない」
「ですが結局、貴方は見捨てられないのでしょうその王子を。だからこうやって、貴方はこの茶番劇に付き合っているのではありませんか。貴方ほどの方であれば、もっと早くにこの国からでることは、可能であったはずです」
 シルキスの言葉は的を射ていた。ジンは思う。確かに、この白子の王子を見捨てようと思っていたのなら、それも可能であったのだ。雪崩の騒ぎに乗じて抜け出るだけでよかった。自分はそうしなかった。わざわざ現場の指揮系統を組み立ててやり、王子を慰めるために幼馴染の娘を呼んでやって。
 本当に、騒ぎに関わりたくないのなら――一昔前の自分であるならば、決してそのようなことはしなかったであろう。
「違いますか?」
 シルキスの確認に、ジンは言葉を飲み込むしかなかった。ただ、苦々しさに満ちた口を閉じる。抗弁の仕様がない。シルキスにはそのつもりはなかったのであろうが、彼はジンに突きつけたのだ。
 ありえない、変化を。
 厄介ごとは御免である。そう、思い続けている。今も。そうであるのにどうしてか、その意志に基づいた判断が、鈍っている。
「おい、一体どういうことだ? お前ら一体何を話している?」
 蚊帳の外に置かれたことにであろう。アレクの口調は苛立っていた。彼の傍らでは、モニカもまた怪訝な表情を浮かべて、首を傾げている。
「さっき、襲ってきた人の黒幕、あんたなの?」
 そう呟いたのはモニカだった。何気ない彼女の一言に、シルキスは微笑でもって肯定する。
「もしかして、ジン、あなた何か知ってたの? 何かあるって知ってたの? もしかして急に国から出るって言い出したのも、それが原因?」
 ジンはため息をついた。モニカが聡明な娘であることは知っていたが、この混乱時に、こうまで簡単に結論づけられると、感心してよいのやらそれとも彼女のその場違いな聡明さを、詰るべきであるのやら。
「一体何がほしいんだ貴様は」
 アレクが唸るようにして問うと、シルキスは微笑んで答えた。
「私は、何も欲しくなどありません」
 ただ、と彼は続ける。
「私が行うこのことで、証明できさえすればいい」
「何を、証明するだって?」
 彼の発言に、ジンは眉をひそめた。彼はかつてこういった。この国を、リシュオに。
 その理由に興味などなかった。が、一体彼はそれを通じて、何を証明しようというのだろう。
 こんな、いっては悪いが、あってもなくても同じようなほど慎ましやかに存在する、小国を騒乱に巻き込んで。
 シルキスがそのとき浮かべた微笑は、ジンにも覚えがあった。
「生きる指針」
 その笑みは。
「この命が刻める価値」
 病んだ。
「それらを、証明するために」
 者の。
「そうして、この暗闇に光、差すのなら」
 シルキスは狂気めいた光を瞳に宿し、小さな国だから、犠牲にしたところでどうにもならないでしょうと、決然と言い放った。
「ちょっと、それって、どういう」
「モニカちゃん!」
 呆然と呻く彼女の頭を、ジンは抱え込んだ。同時にアレクに対しても手を伸ばすが、ほんの一寸だけ空間がある。頭上の空間を裂いていったそれは、アレクの肩に食い込んだらしかった。空気を震わせる呻きと、揺らめく身体。
「アレク!」
 叫び立ち上がろうとするモニカの頭を押さえ込み、その反動をつかって青龍刀を引き抜きながらジンは立ち上がった。続いて継がれ放たれた矢を、刃を振るうことで払い落とす。矢の刺さった肩ぐちを押さえながら膝を突いたアレクに、モニカが涙を滲ませて縋っていた。
「ちょ、ちょっと、ねぇ大丈夫なの?!」
「騒ぐな響くっ……っ」
 そう呻きながら矢に手をかけるアレクに、慌ててジンは叱責を飛ばした。
「馬鹿殿下それをぬいたらっ」
 が、遅かった。
 噴出す、というほどでもなかったが、血は確かに宙に躍り、ぱたたと音をたてて石畳の上に染みを作った。更なる出血に、アレクの顔面が見る見るうちに蒼白になっていく。手当てができる状況でもないのに、考えがなさ過ぎる。ジンは胸中でひそかに舌打ちした。あぁいう場合は無駄な失血を防ぐために、そのままにしておいたほうがいいのだ。筋肉が硬直して、たとえ後々矢がぬけにくくなったとしても。
 さすがに気丈なモニカですら、その出血を見て、顔面から表情というものを消し去った。
「……あ、アレク」
「ようや、ようやく追い詰めたぞ」
 はぁ、と肩を揺らしながら矢が放たれた暗闇から姿を現したのは、ジンも幾人か見覚えのある農民たちだった。中には衛兵も混じっている。彼らは弓を肩に掛け、剣を構え、もしくは矢を継いだままの体勢を保ちながら、距離をおいてにじり寄っていた。
「この、この化け物め」
「化け物?」
「王家の皮を被った化け物めが! 正体を現して観念しろ!」
「ちょっとあんたたち化け物っていったいどういうことよっ!」
 ジンが首を傾げると同時、猛然と立ち上がったのはモニカだった。握られる拳は血の気を失って蒼白であり、目元は涙で赤らんでいる。この期に及んでまだそうやって立ち上がれる娘に、ジンは正直言って敬服したのであるが、今はそのようなことをいっている場合ではなかった。今にも武器を携帯しているものたちに殴りかかりそうな勢いの娘を、慌てて羽交い締めにする。
「モニカちゃんっ」
「ちょっと離しなさいよジンっ! こいつら、こいつら、アレクのこと化け物っていったのよ!」
「も、モニカちゃんっいいからっ」
「ちょっとあんたたち、ふざけるのも大概にしておきなさいよ! さっきからなんなわけ!? みんなどうしちゃったっていうのよ!」
「いいから落ち着いてよモニカちゃんっ……」
「ふざけないでよっ!!!」
「……お、俺達はっ……」
 幾人かは付き合いがあったであろう娘の叫びに抗弁したくなったのか。
 男達の一人が口を開いた。
「シルキス殿はおっしゃった。こんな男に王位が授けられれば、それこそ好き放題で、最後には、リシュオ殿下を、追放するに違いないとっ」
「この男は、いつもリシュオ殿下をねたんでいる、知っているだろうモニカ!?」
「ならばこの男を追放して、我らの手に、リシュオ殿下の下に、国を取り戻したほうが、うんといい」
「だ、だってお前も思わないかモニカっ。こんな、リシュオ殿下と似てもにつかぬ男、王子であるはずがないっ」
「こんなもの、我らは、王だとは認めないっ……!王妃の、王妃の不義の子か、何かに違いないのだっ。こんな、畸形の男が俺達の王であるとおもうのかモニカっ!」
「あんたたち――」
「母上のことは侮辱するなっ!」
 轟然と立ち上がったのは、アレクだった。押さえる肩口からは、絶えず雫が零れ落ちている。白い肌は朱を拭いたように紅潮していた。驚いたのは、ジンだけではないだろう。この、青白い、火花を散らすような彼の怒りを、ジンは見たことがなかった。
 アレクは常に憤っている。何かに苛立っている。だがそれは基本的に己に対する怒りと苛立ちからくるものであって、本当に他者に対して怒ったことは、彼はかつてないのだ。あるのかもしれないが、ジンは見たことがない。だからこそ、自分は彼に好感を持っているのだといえる。他の皆にしてみれば、その八つ当たりこそ御免被りたいであろうが、ジンはそれをいなす方法を心得ていたし、それさえ知っていれば、アレクはただ己が焦燥に対して葛藤する、一人の不器用な青年に他ならないからだ。
 だが、アレクは今憤っていた。ほかでもない、暴言を吐いた男たちに。
「母上を侮辱するな。それは、俺だけじゃない。この国の王家、ひいてはお前達が慕うリシュオに対する侮辱だぞ――!」
 赤い瞳を爛々と暗がりに輝かせ、口元を引き結び、立つ。それだけで相手が萎縮する。
「王位なんぞ、誰が欲しいといった! 欲しいのなら、お前達にでも、リシュオにでもくれてやるわ! リシュオが欲しいといったのか!? だったら、伝えろ。俺は、王位などいらんっ!」
 アレクの叫びには、悲痛さが込められていた。彼の過去をジンは知らないが、畸形の子供が巷でどのような扱いをうけるのか、また見慣れぬ人にとってどれほど畏怖の対象になるのか、予め知っていたジンは、その悲痛さに、同情せざるを得ない。
「……いらんのだ……!」
 アレクの慟哭に誰もが呆然となる中、ジンは周囲に視線を廻らせた。
 男達はアレクの迫力に気圧されたのか、誰も微動だにできずにいる。モニカは蒼白の表情のまま、彼を凝視して同じく動きを凍てつかせていた。
 シルキスは、ただ、静かに異形の王子を見つめている。その眼差しには、どこか同情めいた温かみすら見えた。
 加えて、自分がどのような場所にいるのか、把握に取り掛かる。薄暗い石造りの回廊。まともな灯りはなく、窓からの雪明りが主な光源であった。加えてシルキスのランタンが、暗闇を薄めて回廊の輪郭を顕にしている。注意深く目を凝らせば、石をくみ上げて作られた壁に、奇妙な影が浮かび上がっていることがわかった。
 扉。
 木製の、扉である。シルキスよりもほんのわずか、手前に、壁に埋もれるようにしてそれはあった。誰にも悟られぬように目を凝らし、その姿を確認する。古い扉で、木面が反り返っているのか、下が床から浮いていた。蹴り飛ばせば間違いなく破壊できるだろう。だがその後はどうか。
 予め頭に入れていた城の地図と外観、それらと今まで自分が辿ってきたであろう道のりを脳裏で合致させて、その扉が導くであろう先を想像する。この回廊の窓の位置、そこから見えるものすべてを考慮にいれても。
 その扉の向こうに、行き止まりの部屋があるとは思えなかった。
 耳を澄ませば風が抜ける音。そして扉の割れた木の欠片が、かたかたと揺れるのを目にして、その向こうにはまた細い回廊が続いているか、階段か何かが存在しているのだと見当をつける。
 そこまで観察し終えて、ジンは胸中で独りごちた。
(馬鹿みたいだ)
 自分がここまでしてやる義理はないのだ。この王子を差し出して、自分はそのまま国をぬければいい。シルキスも話のわからない男ではないから、それぐらいの事は可能であろう。
 そうするべきだ。この異形の王子につくことで得られる利益など、全く欠片ほどもないのだから。
 実際、自分がこの国から出て行こうとした時点で、もうこの王子は見捨てたことになるのだ。もう、関係ないと、言い切っていいはずなのだ。
 なのに。
 どうして自分は。
「モニカちゃん」
 娘の耳に、囁いているのだろう。
「あそこまで走れる? 殿下を、引っ張って」
「あそこまで? ……あの、扉?」
「そう。俺、扉壊すし」
 どうして自分は。
 頷きながら、刀を握り締め、立ち上がっているのだろう。
「貴方らしくないですね。その剣は、反抗の意志あり、ととってよろしいのでしょうか」
 シルキスが嘲笑する。
 そうだね、とジンは微笑んだ。
「俺も馬鹿みたいだと思うよ」
 どうして自分は――……。
 鋼を、鞘から抜き放っているのだろう。
「モニカ!」
 叫び、踏み込む。
 靴底と血だまりが奏でる、きゅ、という僅かな摩擦音。ジンの横にならんで、モニカがアレクを引きずって飛び出していた。無論、彼女一人の力でそれを行えるわけがない。モニカの力に我に返ったアレクが、逆に彼女を先導する、といったほうが正しかった。
 同じように、その場から軽く跳躍する。一歩二歩、三歩。シルキスの場所まで距離を詰めるのは実に容易い。こちらの動きを予想していたのか、それともただ動くことができなかっただけなのか。
 ジンは青龍刀を振り上げた。慣れた重みが手首にかかる。それを重力に呼ばれるまま振り下ろし、そして一瞬の頃合を見計らって、手首を返す。
「ふせろ!」
 勢いのついた鋼は、声にしたがって屈みこんだアレクとモニカの残像を切り裂き、そしてその反動を利用して繰り出した蹴りは容赦なく、古い木扉を粉々に打ち砕いた。
 ばらばらと砕かれた木片が踊る。その向こうでは、風駆け下りる、闇に飲み込まれた階段が沈黙して自分達を待ち受けていた。


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