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第三章 六花の狼煙 2 


 荒々しい足音と殺気だった気配。どちらかといえば慌てている、といったほうが正しいだろう。ジンは身体を起こして雪を払った。門の向こう、明るい街灯の下、男が数人怯えたように駆けている。
 否。
(逃げている?)
 といったほうが適切であった。降雪の勢いは弱まっているものの、まだ吹雪く可能性がある。こういった雪の日には、誰もが門戸を閉じて部屋の中で内職を行うのが普通であった。だというのに。
 一瞬雪崩でも起こるのかと耳を済ませてみたが、あの雪の災害特有の地鳴りは聞こえてこない。雪はただ静かに、痛いほどの静寂を伴って降り積もっていくだけだ。
「ねぇ、どうしたの?」
 門のほうへと歩み寄って逃げ惑う男たちに声をかける。すると一人が立ち止まって、問いに応じた。
「どうしたもこうしたも、あの馬鹿王子が……」
 アレクが。
 どうしたというのだろう。怪訝さに目を細めると、もう一人男が立ち止まり、そういえば、と声を上げた。
「あんた最近、あの王子と一緒によくいた従者」
「従者じゃないけど、よく一緒にはいたね。どうしたの?」
「誰かモニカを呼んでくれ! 手が付けられん!」
 男の背後で誰かが叫ぶ。話の筋が理解できず、ジンは不快感に身じろぎをして、ゆっくりと尋ね直した。
「ねぇ、だから、どうしたの?」
「殿下が暴れて手が付けられねぇんだ」
 立ち止まった男の片割れが答えた。その悲愴な表情から、アレクの状況が手に取るようにわかる。どうやら本格的に、あの男は暴君と化しているらしい。原因は――自分に全く関係ない、というわけではないのだろう。多分。
 ジンは頭を軽くかいて、安堵させるようにその男に微笑んでやった。
「それで、一体どこにいんの馬鹿王子」


 アレクの暴君ぶりは周知の事実だ。お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの主義。ジンは国を回る上で、出来の悪い権力者、あるいはその息子たちを幾人も見てきた。
 そういった光景をみるのは初めてではない。初めてではないのだが、アレクがそのような行動をとったことに、多少驚いたのは事実だった。
「殿下!」
 [うずくま]る老人を蹴り飛ばそうとしているアレクに、ジンは飛びついて彼を羽交い締めにした。一度アレクの目が驚きに見開かれるが、直ぐに彼はその中から抜け出そうともがき出す。女子供を相手にしているわけではない。成人男性であるだけではなく、それなりに鍛えてもいるアレクを長時間押さえつけていることは不可能であり、老人が這い蹲りながら逃げ出したことを確認して、ジンはため息をつきながら彼を解放した。
「……何やってるんだよ殿下」
「何故ここにいる貴様」
「暴れてるっていうから止めにきたの。だって普通の人じゃとめらんないでしょう」
 肩をすくめて周囲を見回す。遠巻きに見ている人々は、視線が合うとそそくさとその場を立ち去っていった。
 場所は町の広場だ。雪かきが成されているために、積雪の嵩はそれほどでもない。とうとう雪は止んだようで、往来する人の数は増え始めている。好奇の目に不快感を覚えながら、ジンは白い水の結晶の絨毯の上に胡坐を掻いてしまった王子の腕を引いた。
「……殿下」
「何だ」
「ほら帰るよ」
「貴様には関係のないことだろうが。どこにでもさっさと行け」
「子供のようなことはいうもんじゃない。いい大人が――」
 本当に、子供だと思った。
 まるで、思い通りにいかないことに腹を立てて、駄々をこねる子供だと。
「殿下。いいかげんにするんだ。君はもうすぐ王になるんだろう? この国の主君になるんだろう?」
 横暴さを極めると、民の暴動が起きる。民がもしその横暴さを当然と思っているのなら、アレクは無事国王として即位するだろう。だがアレクには幸か不幸か優秀な弟が――リシュオがいる。比較すればするほど、アレクの粗暴さは際立ってしまうのだ。
 特に、今日のアレクの行動は、かつてないほど酷い。さすがに逃げ遅れた老人を殺してしまう勢いで、蹴り飛ばすなど、ジンはかつて見たことがなかった。乱暴ではあるが、大抵は物に当たるし、手を上げるのも同年代の男に限っていたのだ。それを、見極めているものなどほんのわずかであるのだが。
 ため息をついて、雪に埋もれてしまいそうなほど色素のない王子を、ジンは見下ろした。
「殿下」
「どいつもこいつも。俺の手元には残らん」
 鼻先に付いた雪を鼻息で吹き飛ばしながら、アレクが呻いた。
「どいつもこいつも。なら、なにもいらん。全部、いっそ、俺の手で、壊してやるわ」
 生気を吐息に乗せて吐き出したアレクが、勢いよく立ち上がる。まるで蹴散らすように雪を踏みあらし、彼は城のほうへと歩き始めた。その背中に、哀愁めいたものを見出しながら眺めていたジンは、ふと、最近ようやく聞き分けられるようになったその音を耳にし、面を上げた。
 鳴り響く、轟音。
 雪崩だ。
「あれを!」
 見て、と誰かが叫び指差した。その先にあるものは、わずかに残る緑すら飲み込んでいく白い滝。雪煙を上げながら下っていくそれは、町の端を掠めて全てを押し流していく。
 誰が、悲鳴を上げたのだろう。
 城の方向に逃げていくものもあれば、親族や友人を探して、雪崩の方向へと駆けていくものもいる。粉雪が粉塵のように風に舞って、ジンの身体に叩きつけられた。おそらく直接的に被害はでていなくとも、町を構成する大半のものに何かしら被害が出ているだろう。ジンの身体を吹き飛ばす勢いで疾風が町を駆け、その風にあおられて怪我をしたものもいるかもしれない。
 嫌なときに起こったものだ、と思った。この混乱のせいで、出発のための物資を揃えにくくなる。ふとジンは、逃げ惑う人影のなかに、影法師の如く佇む一人の男を見つけた。冷ややかな眼差しで白い滝が作り出した惨劇を傍観していた男は、ジンの視線に気付いたらしい、こちらを振り向き、静かに、一礼した。
 シルキス。
(まさか、あいつが?)
 雪崩を作るのは簡単である。火種を一つ用意して、山の上部に仕掛ければいい。ジンはまじないの知識はあっても、からくりの知識までは残念ながら持ち合わせていない。だが、シルキスは、彼がやってきたと思われる方向や、旅の経緯から推測するに、ごく初歩的なものを身につけているのは間違いがないと思われた。
「おい、ジン!」
 アレクの声に意識を引き戻されたジンは、かけてくる男を見つめた。その表情は酷く頼りない。あれはなんだ、と雪崩を指差してくる男に、ジンはため息をつきながら応じた。
「雪崩でしょ」
「そんなもんは判っている! 何故それが俺の国で起こる!」
「俺に言われても知らないよ。天災を予測することは、何人にもできないんだ。それよりもそんなことしていてどうするのさ殿下」
 何が、と問い返してくる次期国王に、ジンは心からげんなりとなった。ここで直ぐに次起こすべき行動がわからないのなら、たしかに彼は王の器ではないのかもしれない。自分ならまず、この男を君主として仰ぎたくはない。いやもとから仰ぐつもりなど全くないわけであるが。
 わめきたてるアレクから視線を動かし、ジンはシルキスの姿を探した。だがこの国を覆すと宣うた男は、先ほどの場所から姿を消しており、ただ白い粉塵だけが、視界をゆらりと染め上げていた。


「困ったものだ」
 小さな書斎の椅子に腰をかけながら、疲れた響きで呻いて見せたのは、ハルマンだった。
 ハルマン・ゼノは、リシュオと共に、大臣たちを纏めている、アレクの側近だ。比較的暢気な大臣たちの尻を叩くべく、かなりの高齢でありながら奔走していて、近頃の側近業はジンに任せっぱなしだった。狭い城の中だというのに、ほとんど顔を合わせることがない。が、ジンは純粋に気に入っていた。その大柄な体格や物腰の一つ一つ、潔癖ともいえる生真面目さと、ふと滲ませる優しさに、今は亡き祖父の面影が重なるからだ。
 困ったものだ、と彼が繰り返す。何が困ったのか、そんなことは尋ねるまでもない。
「困ったもんだね」
 アレクには、という言葉を飲み込み、ジンはハルマンに同意した。
「まったく、どこを困ればいいのかわからなくなるほどだ。雪崩もそうだが、殿下には……救いようがない」
 頭を振るハルマンは、本当に憔悴しているように見えた。それだけで、一気に老け込んで見える。今回のことで、彼は本当に頭を痛めているようだった。その心中はジンの察するところだ。
 今回のことで、アレクの信頼は――元からそんなものがあるのかどうかは謎であるが――失墜した。ただ、理不尽な自然の脅威に怒り何もしなかった横暴な第一王子から、民の好意、支持は、完璧に見事に現場を指揮して、人々を纏め上げ城に迎え入れた第二王子へと移っている。夜の王国は古い国だ。そして古く小さな国とは、民は総じて怠惰である。たとえ多少次期、国王が横暴であっても、それが慣習であるから、と受け入れるものも多かったであろう。
 だが今度のことから、あんな王子を国主に据えたあかつきには、何が起こるかわからないと、危惧し始めるものもいるはずだ。現に、雪崩の寸前、アレクの暴力を振るう姿を目撃した住人は、憤りを表しにしている。
 リシュオは今、城内の広間に身を寄せている住民たちに、ねぎらいの言葉をかけにいっている。逆にアレクは部屋に閉じこもって、誰も――自分やハルマンですら、寄せ付けようとはしない。
 彼は、自分が起こす行動の一つ一つを、きちんと理解しているのだろうか。
 理解は、しているはずだ……と、ジンは思った。
 理解は、しているはずなのだ。馬鹿王子とモニカに散々言われている、横暴な王子。けれども決して、頭は悪くはない。むしろ人の機微には聡い――ほんの僅かな所作の変化で、彼は他者の感情を読み取ることに長けている。
 それであるのに。
 揺り椅子に深く座りなおして、手を顔に当てながら天井を仰ぐハルマンを、ジンは同情の眼差しでもって見つめた。
「そうだ、礼を言わねばなるまいな」
 ふとハルマンが、思い出したかのようにジンと向き直った。ハルマンは苦笑に顔を覆う皺を深くし、小さく頭を下げてくる。
「礼?」
「殿下が暴力を働く現場を収めてくれたと聞いたぞ」
「あぁ……あれね。別に礼を言われるほどのことじゃないよ。それにしても困ったものだね」
「本当に……どうするおつもりでいらっしゃるのか。殿下は」
 長年彼に付き添ってきたであろう従者の嘆きは深刻な響きをもってジンの耳に届いた。いっそのこと、アレクが進んでリシュオに譲位をすれば、全て丸く収まるのではないだろうか、と考えが脳裏をよぎる。そうすればあのシルキスの馬鹿げた画策も意味をなくすわけであるし、自分は雪嵐の節が終わるまでのんびりできる。万々歳なのであるが。
「何を考えているにしても、あのまま部屋に閉じこもったままっていうのは、やばいよねぇ」
「部屋を尋ねても無言だ。あそこまで沈黙を保たれると……」
 二人でうーんと考えた結果、行き着く解決策など、たった一つだ。
「モニカ嬢……」
「モニカっちゃん……だよねぇ?」
 あの王子を効果的に叱り飛ばせるのは、この国にはたった一人しかいないのだ。
 顔を見合わせうんと頷きあったあと、ハルマンがすまぬが、と口を開いた。
「広間にリシュオ殿下と共にいるはずだ。呼んできてはくださらぬか」
「……メンドクサイ人が王子で、ハルマンのじっちゃんも大変だねぇ」
「……それを言うでない。あぁであっても、本来は正直で心根優しいお方なのだ」
「心根が優しいかどうかはともかくとして、ばっか正直なのは認めるよ」
 ため息まじりに呟いて、ハルマンに同情の眼差しを向ける。アレクは正直だ。自分の気持ちに正直すぎて、それを上手く隠せないことに苛立っている。
 哀れで孤独な、白い異形の王子。
 あの張り詰めた表情を思い出して、ジンは踵を返した。挨拶代わりに軽く手を振り、彼の書斎を退室する。
 後ろ手に閉める扉越しに、ハルマンの掠れた嘆息が聞こえた。


「全く何馬鹿やってんだか。暇なら手伝いにきたらいいのよあいつも!」
 城の広場で給仕をしていたモニカは、ジンの呼び出しに素直に応じながらも、部屋に向かう道中、ぷりぷりと腹を立てていた。それはそうだろう。この非常事態、宿自体はどうやら無事であるらしいが人手が足りないからと城に呼びつけられ、彼女は働き通しだ。<トキオ・リオ・キト>の宿泊客も皆纏めて、給仕や雪かきに借り出されている。しかし商隊の人間は総じて屈強であるし、ここのところ雪に閉じ込められ札遊戯に興じることしかできなかったのだから、体ならしには丁度よかったのではないか。
 だが、この土地の住民にとっては笑い事ではない。
「みんながどれだけ大変か、いくらあいつが馬鹿王子だからってわからないわけでもないでしょうに!」
 雪崩は脅威だ。家を押しつぶし、人を、家畜を飲み込む。しかもいくら街灯が照らしているとはいえ、ここは月も昇らぬ夜の国。『夜明け』までまだ日がある。その間に雪崩に飲み込まれた人間は、たとえ生き残っていたとしても確実に凍死するしかない。
 悲劇だった。
「リシュオ殿下は一生懸命働いているっていうのに! ただでさえお株の低いアレクが、こんなときに張り切って動かないでどうするの! ちょっとは弟の爪の垢でも煎じて飲みなさいよね!」
 リシュオは大臣たちを率いて復興作業の指揮を執りながら、同時に広間に身を寄せる避難民たちを励ましている。誰もが慌しく事後処理に負われる最中、暇を謳歌しているのはジンと、そしてアレクのみだ。
「ジンももうちょっと働いたらどうなの!?」
 怒りの矛先が突如向けられたことに、ジンは苦笑しながら少女を見下ろした。
「俺一応きちんと働いてますよ? モニカちゃん呼びに来たのだってハルマンのじっちゃんに言われたからだもん。ほら伝令係伝令係」
 とはいってみるものの。
 ジン自身はそのあたりをのんびり歩いていたとしても、咎められることはない。所詮は流れ者である。他国から流れ着いた旅人一人に、助けを請おうなどと思いつくものは誰もいない。もとい、この非常事態自分たちのことで手一杯で、誰もジンのことなど目に入れないということが正しかった。実際、暇げにうろうろとほっつき歩いているのかと問われれば、そうでもない。一応これでも、この城に戻ってくるまでに一働きはしたのである。どうすればいい、などと真顔で問うてくるアレクに呆れ返り、現場でとりあえず簡単な指揮系統の組み立てを行ったのはジンだった。リシュオはそれを、引き継いで発展させたにすぎないが、引き継がれたそれは一つの乱れもなく機能している。第二王子の手腕は、こんな小国にはもったいないぐらいに長けている、といわなくてはならない。
「リシュオ殿下ばりに働きなさい! みんな忙しいんだから。聞いた? さっきの言葉。感動ものよ本当に。あの人ってばあれだけ働いて、欲が無いんだから」
 ぷりぷりと怒りながら、モニカが言葉を続ける。うんうんと相槌を打ちながら、ジンは先ほどのリシュオの言葉を思い出していた。モニカを呼びに言った広場で顔を合わせた彼。冗談交じりに、君が王様みたいだねぇと口にしたら、彼はさらりとこう切り替えしてきた。
『僕は王の器なんかじゃないよジン。もし僕が王になるようなことがあるのなら、王政を廃止して、国のみんなに政治も富みも土地も、ゆだねてしまうよりほかないよ』
 彼には、モニカの言う通り欲がない。
 欲が無いのはアレクも同じだが、それは彼をよく見ているものにしかわからない。アレクは傲慢で、横暴で、手の内にあるもの全てを何もいらぬとばかりに放棄している。それはとても判りにくい、無欲の形だ。対してリシュオは誠実にして、清廉。他者から見れば、彼こそ聖人君子を地でいく青年だ。
 だからこそ、アレクは哀れだった。才能あふれる、そして善人な、タダヒトの姿をした弟。長命種の容姿を受け継ぎ、それだけで疎まれがちである兄は、身の置き場がなかったに違いないのだ。
 だからといって、全てを放棄してはならない。この国を統べることは彼に課せられた義務であり、横暴に振舞うのであればそれなりに負うべき責任がある。少なくとも、非難の目を受けてでも、人の前に立つべきだ――ジンは、ひやりとした石造りの廊下をモニカの怒りの繰言を耳に入れながら思った。
「さて。どうする?」
 そのモニカの言葉で、ジンはとうとうアレクの部屋にたどり着いたのだということに気がついた。物思いにふけりながらも、きちんと歩くことは出来ていたらしい。モニカはきちんとこちらが愚痴を耳にしていたと思っていたようで、口汚くって御免、と小さく詫びてきた。
「いいよ。えーっとどうしようか」
「とりあえず、叩いてみる?」
 扉を、と視線で告げてくるモニカに、ジンは微笑んでお願い、といった。モニカはにこりと綺麗に微笑み、拳を握り。
 どがどがどがどが!!!
「馬鹿王子! いい加減にでてきなさいあんたは完全に包囲されてるんだからさっさとでてこいったらでてこい何狸寝入りしてやがるんだこのやろうこのくそ忙しいときにか弱いモニカちゃんをここまで働かせておいて大の男がうじうじ部屋に篭るな馬鹿王子!」
 その拳を蹴りと罵詈雑言と共に、扉に叩きつけた。
 この子もホンマつかめん子よなぁ、と思わず肩をこけさせながら、ジンは傍らで矢継ぎ早に繰り出される怒声を聞く。とうとう木製扉の表面が、びしりと音を立てたのを聞きつけて、ジンはモニカの腕を取った。
「とりあえずそこらへんにして大人しく鍵で扉を開けてみましょうか」
「鍵っ? あるの?」
「一応」
「だったらさっさと出しなさいよもう」
 腕と足が痛かったでしょう、と半眼でにらみつけてくる少女に、ジンは苦笑した。懐から鍵を取り出す。いざというときの為に、とハルマンから預かってきた合鍵だ。扉を破壊しないでくれ、という彼の切実な祈りと共に。
 ちなみに前回部屋に篭城したアレクを引きずり出すべく一つ扉を破壊したのは、ジンである。
 鍵穴に何か詰まっているかどうかなどという危惧は全く無用で、古い黒鈍色に輝く鍵はすんなりと穴に収まり、捻れば小さく開錠の音を立てた。扉の前に家具が置かれているかと問われればそれもない。
 部屋は静かで、暗く、そしてそこに浮かび上がるようにして、無言の白子の王子が窓の外を睨み据えていた。浮かび上がる銀の髪、白い肌。透けて見える血脈。そして長命種の姿を受け継いだ、とがった耳。暗がりにひときわ鮮やかに煌く、獣の虹彩を持つ薄桃の双眸。
「アレク」
 モニカの呼び声に、アレクは反応を見せなかった。傍に駆け寄ったモニカを一瞥し、隙間風に紛れてしまうような声を彼は発した。
「何しに来た?」
「おサボりをしていらっしゃる殿下に、喝を入れにきたの」
 そういって軽く肩をすくめて見せるモニカに歩み寄ったジンは、アレクの鋭い視線を感じた。
「お前もだ。何をしている」
「ハルマンのじっちゃん、心配してたよ」
 ジンにとっては、正直なところアレクの権威が失墜しようがどうしようが関係はないのだ。ただ少し、情は移ってきているのだろう。哀れに思う。
 哀れに、思う。できれば、立ち直って欲しいと。
 だからといって直接何か行動を起こすのかといわれれば、ジンは決してそのつもりはなかった。成り行き上、なぜか雑務を押し付けられたりするはめに陥っているのであっても。アレクの元を訪ねたのも、その雑務のうち一つにすぎないのだ。
 それでも、直に顔を合わせれば、思うところもある。
「殿下。いい加減にしたほうがいい」
 ジンは呆れをこめて呟いた。ただ、その言葉が、彼の神経を逆撫でするだけのものだとわかっているその上で。
「そりゃ弟君のほうが出来がいいのはどうしようもないし、君がその姿で生まれたのもどうしようもないし。だからといって何時までもうじうじしているわけにはいかんでしょ。雪嵐の節が終わったら、オウサマなんでしょ殿下」
 モニカは腕を組んで、眉間に皺を寄せながらも小さくジンの言葉に頷くことによって同意を示していた。
 返答は沈黙。仕方なく、ジンは踵を返して扉を閉じ、部屋に明かりを入れた。つるされた招力石にまでご丁寧に布が被せてある。これでもかというほどの徹底ぶりで暗室が作られていて、アレクはこの暗闇のなか、どれほどの時間を一人で過ごしていたというのだろう。自分も同じようなことをした経験がないわけではないが、あれはとてもぞっとする行為なのだということを、知っている。
 暗闇に、あまり身を置きすぎてはいけない。
 深く深く。
 堕ちていくので。
 モニカは珍しく何も言葉を口にせずにアレクの傍に佇んでいる。やがてジンが部屋の明かりをいれ終わった頃に、ぽつりとアレクが呻いた。
「誰も、そんなこと、思ってないだろう」
「……は?」
 面を上げたジンの目に映ったのは、変わらず二重になった凍れる玻璃の窓の闇を見据える、白い異形の王子だった。
「前も言っただろう。お前に。俺の手元には、残らん。何もだ。最初から残らんものなど、王座の位も、この国も、リシュオにくれてやる。奴が望むのなら。手元に残らんものなどいらんのだ」
「殿下」
「俺は、いらん。なら最初から最後まで、俺は情けなく、横暴で、どうしようもない王子でいてやろう。そのほうがすがすがしく、全てを譲り渡してやれるわ」
 アレクは、そう吐き捨てた。憎しみ、悲哀、積もった何かを吐き出すように、玻璃の向こう、しんしんと雪降り積もる闇へと。
 ジンは何を言うべきか迷う。自暴放棄とみなされるべきアレクの言葉には、確かに、どうしようもないほどのやるせなさが滲んでいたからだ。
 それは、誇り高いからこその潔さ。
 それは、無意味な誇り高さ。
 彼に向き直ったジンは、かける言葉も見つからぬまま口を開きかけ、そして、肩を震わすモニカに目を留めた。
 逆光の関係から、その表情は影に隠れてよく見えない。だが噛み締められた唇と震える華奢な肩から察するに、何かを悔しがっているようにも見えたし、泣いているようにも見えた。二人に近寄るべく一歩踏み出したジンは、刹那繰り広げられた光景に目を疑った。
 すぱーんという小気味よい音が、部屋に響き渡る。その空気の振動を受けてかしらないが、先ほどジンが灯したばかりの蝋燭の火が、じじっと芯の焦げる音を響かせ揺れた。
 顔をこの上ないほど紅潮させ、平手打ちを行ったそのままの体勢で息を弾ませるのは、無論モニカである。彼女はがっと上背のあるアレクの首を掴み上げると、唾をぺぺっと吐く勢いで早口にまくしたて始めた。
「あんた馬鹿でしょう馬鹿だと思っていたけどむしろ普通の馬鹿に失礼だわあんたのことを世界でもっともすばらしい破壊的いや破滅的馬鹿と命名するわ馬鹿王子この馬鹿っ!」
 馬鹿だけを、一体幾度連呼したのやら。モニカが呆気にとられるジンの目の前でさらに馬鹿を十回ほど連呼したあかつきに、再び叱咤に声を荒げる。
「あーもー本当に! そういう科白はねぇ。きちんと勉強して、人をひきつけようと努力して、がんばってもがんばっても報われない人間が最後に吐いていい言葉なのよ! あーんたなんて全く何にもやってないじゃない何よちょっとばっかりそのぴこぴこ動く気持ちよさそうな耳とか綺麗な銀色の髪とかソバカスひとつない真っ白な肌とかもっちゃってあーうらやましい!」
 それは叱咤というよりも単なる嫉妬に近い言葉であった。前半部分は、ともかくとして。
 ぎりぎりぎり、と首を絞める勢いで、アレクの襟首を捻りながら、モニカが続けて言葉を吐く。
「ちょっとばっかり人と姿が違うからって何よ! 周囲の爺ども黙らせるぐらいには努力したわけ!? あんた本当の本当に、ただいっつもいじけて権力かさにきてうろうろして、自分の生まれ持った不運嘆いているだけじゃないえらいわねーそうねえらいわねーこの馬鹿王子! 嘆くのだったら他のところ嘆きなさい! リシュオ殿下に全て任せっぱなしにしている自分の情けなさとか! こんなところにうじうじ引き篭もっているふがいなさとか!」
 モニカのいう言葉は全くもって正論で、ジン自身感心してしまうほどだった。この少女はとても鋭い。そして強い。国でたった一人、この国の暴君に立ち向かえる、少女。
「何も手に入らない? 手元に残らない? あたしがちゃんとここにいるでしょう! あたしに見捨てられたくなかったら、今すぐ服着替えて身だしなみ整えて堂々とえらそうに大臣のおじさまとかリシュオ殿下とかに会いに行きなさいこの馬鹿王子!」
 息を切らせて一息にまくし立てた少女を眺めながら、ジンは眉を寄せた。うーんと腕を組んで、考えて。そしてジンは、モニカの手から解放された襟首を整えながら顔を憤怒の朱に染めるアレクを見た。
「おーまーえーはーなー!!! いつもいつもいつもいつも! 人を馬鹿馬鹿馬鹿ばか連呼しおって何様のつもりだ! このあばずれが! 見捨てられたくなかったら、だと!? お前なんかこっちからお願い下げだ! お前なんか俺には必要ない! 王位どころかお前を真っ先に捨ててやるわ! 捨てられて泣いて請うてみせろ! あぁご主人様申し訳ございませんでした一生ついていきますぅ、と!」
「あばずれで結構! すくなくとも私はあんたとちがって自分でちゃんと生計立ててるわ胸張って一人でいきてるわよあんたみたいな誰かに寄生するしか能のないぺーぺーと違っていやぁねひよっこっあんたはそうぴよぴよ母鳥についていくことしかできないひよっこ! もしくは獣についている寄生虫!」
「き、きせっ……! 貴様いい加減にしておかないと裸にひん剥いて雪の中に転がすぞ!」
「やれるもんならやってみなさいよ! こんなところで一人うじうじしている弱虫泣き虫にあたしは負けたりなんかしないわっ」
 ぎゃんぎゃんと繰り広げられる言葉の応酬に、軽い頭痛をこめかみに覚えたジンは、眉間を揃えた三本指で押さえながら胸中で呻いた。
(え、えーっと)
 痴話喧嘩。
 端的に言ってしまえば痴話喧嘩だ。それも途轍もなく、程度の低い。お互いが絶対であると、信じているからこその。
(俺ってもしかして、ものすごぉおく、お邪魔?)
 彼らの恋路を心配するのは、とてつもない徒労であるということを、ジンは速やかに認識した。完全に二人だけの世界。喧嘩しているのにどことなく楽しげ。そして、自分は一人蚊帳の外だ。
 最初から、アレクの心配などする必要はなかったのだ。少し寂しい気もするが、納得は出来る。
 最初から、モニカはきちんとアレクに向き合っている。
 微笑ましく思うと同時に、どこか痛みを覚える。それは、自分が一人であることを痛感させられた痛みだと、ジンは経験上知っている。
 居場所を失って、ジンは踵を返した。この騒ぎに乗じて、国を出て行くのもまたよい。雪の勢いは弱まってきたし、食糧などは、雪に埋まっているものを掘り起こせば調達できる。少し、犯罪めいてはいるが。
 廊下を移動するために、厚手の上着を羽織ってはいるものの、雪の中国を出ようと思うのなら、しっかりとした防寒具もとりに行かなければならない。混乱の中で、荷物を全て<トキオ・リオ・キト>に置き去りにしたままであったことをジンは思い出した。
 鍵を、モニカから受け取るべきか、それとも戸を叩き壊して、泥棒になるべきか。
 口論に精を出す二人をちらりと一瞥し、逡巡したジンはふと、殺気を感じて扉から飛びのいた。
 がたんっ!
 それは、燭台が倒れた音だった。飛びのいた拍子に、触れてしまったらしい。
 幸いだったのは、風によって火が絨毯の上に届くまでに掻き消えたことだった。扉の傍に取り付けられていた招力石が跳ね上げられて大きく揺れる。それに引きずられるようにして、部屋の明かりが明滅した。影が、幽鬼のように、揺れる。
 部屋に飛び込んできた存在に、ジンは舌打ちしながら刀を抜き放った。


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