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第二章 迷子の玻璃球 1 


 ざ、と花びらが舞う。
 緑が美しい。花の芳香が周囲を満たしている。きらきらと太陽の光を照り返す鑓水の水面。
 目の前に立つ男が、目を細めて泣きそうな笑顔で言った。
『さようなら』


 彼の妻と姦通した。彼の想い人を殺そうとした。
 罪状はどうでもいい。ただ重要なのは。
 他でもないあの裏切りの帝国で、一番大事だったはずの彼を繰り返し裏切ったというそのことで。
 生きることが彼の課した贖罪だった。
 彼から離れて、生きて、生きて。
 彼の目の前で死ぬことが、彼の課した贖罪だった。
 そうして流れ着いた灼熱の土地で。
 自分はあの少女に出会ったのだ。


 イカナイデ。
 そう叫んですんすん泣く童女が、白い視界の向こうに見えた。
 振り返りそちらへ歩きかけた自分を、幼馴染の女が引きとめる。
『行っては駄目よ』
 艶やかな黒い髪を背に流した、白い肌の美しい女は、柳眉を潜めながら自分にそう忠告した。自分の手をとる彼女の手はひやりとしていて、この女はいつも、とても冷たい手をしていた、と思い出した。
 自分はこの女を愛していた。病むほど。病み狂うほど。この女の一言に全身全霊を傾け、そうして自分は心地よい全てを打ち壊したのだ。
『ねぇ行ってはだめ。一緒に、みんなのもとへ行きましょう』
 女はこちらの首に腕を回し、柔らかな身体を押し付けてきた。その背後では、人々が能面のような顔をして列を成し、黙々とどこかへ向かって歩いている。
『行きましょう』
 ――……ジン……! ――
 自分はその腕を解いて、身体を押しのけた。何時だったか溺れた身体。その甘い香り。その声。
 それらを、押しのけた。背後では、雪の中で童女が自分を呼んでいる。
「駄目だ。俺、行かなきゃ」
 あの子が、また泣いている。
 泣いているから、抱きしめてやらなくては。
 一人ぼっちで寂しいって、あの子はあぁやっていつも泣く。
 だから。
 行かなくては。
「御免、ヤーナ」
『駄目』
 女はそういったが、次の瞬間、踵を返していた。世界を銀色に塗りつぶす雪を掻き分ける。背後では女が自分の名前を呼んでいたが、それも次第に聞こえなくなった。
 童女の、鳴き声も。
 銀色に落ちるたった一つの色。黒い髪が散らばって、童女は身体を胎児のように丸めて凍えていた。
 目元は赤く、ひゅ、と呼吸の音がする。硬く目を閉じて、世界を遮断している童女を、躊躇いがちに抱き上げた。
 その温かさに、困惑する。
 ぱち、と目を開いた少女は、その美しい紫金の瞳を真っ直ぐに自分に向けてきた。
 手が、伸ばされる。頬にそっと触れてくる、柔らかな手のひら。
 あぁ。
 自分は。
 この子が。
 愛おしさに苦しくなりながら抱きしめると、童女の姿が掻き消えた。喪失感に愕然となる。だが消えた娘を探すべく周囲を見回す前に、世界が反転した。


「……っつは……」
 空を遊泳している最中、突然翼を失って、落下したかのような、その衝撃。
 ジンは覚醒と同時に身を起こし、汗で張り付いた前髪を掻き分けた。部屋の明かりは落とされている。非常灯代わりの招力石だけが、柔らかな橙色の光を絨毯の上に落としていた。
 ゆっくりと立ち上がって、窓の外の星の位置を確認する。そしていわゆる夜明けの時刻だということを知って、砂の詰まったような身体を引きずりながら寝台に戻った。
「……は……やな夢」
 膝を抱えながらそろりと息を吐く。立てかけてある青龍刀を引き寄せて、鞘から刃をほんの少しだけ引き抜いた。磨きぬかれた銀に、憔悴した男の顔が映っている。
 ぱちん、と刃を鞘に収めなおし、まだ夢の余韻で痺れている身体を横たえた。天蓋つきの寝台は広く、それは古い記憶を呼び寄せもする。
 顔を手で拭うと、自嘲の笑みがこぼれた。
「俺ってば結構しつこいよねぇ」
 さようならといって泣きそうに笑っていた男も。
 一緒に逝こうと微笑んだ女も。
 腕に抱いて掻き消えた少女も。
 みんな自分の手で突き離したのに。
 愛した人が三人居て、その全てを、自分の手で突き離したのに。
『……イカナイデ……』
 娘の声が、まだ耳に残っている。泣き声が。頭の中に響いている。勝手に自分が愛した。勝手に自分が放って置けなくなった。勝手に彼女の心を引きずり回して、そして最後に突き放した。
 そのとき自分は何を思い浮かべていただろう。確か、自分の蒼い国であったような気がする。
 怖くなった。
 臆病だといわれてもかまわない。
 思った通りに愛した少女を強引に手に入れて。
 そうして幸福感に包まれることが恐ろしくなったのだ。
 自分はあの蒼い水の国にも戻れず、そして罪を贖うために生きて世界を放浪する。
一箇所に留まってもいいはずだ。けれども自分の立てたつまらない矜持がそれを許さず、それをあの少女に強いることになるのかと、自分の罪の購いに彼女を付き合わせるのかと、怖くなった。
 自分は彼女を傷つけただろう。手ひどく。残酷なまでに。憎んでもいるだろう。
 もう会えないのに。
「はは……俺、ホントしつこい」
 自分でも判っていた。自分の体に染み付いた記憶。愛しても愛しても愛しても、繰り返し裏切られる。自分は何時しか、二人しか愛さなくなった。星の数ほど人に会うのに、自分が愛情を注げる許容範囲はたった二人。
 だからこんなに執拗で、重くて、自分を苛むのだと。
 もう、相手は忘れているだろうに。
「……シファカ」
 自分の時は、多分止まっている。
 ずっとずっと止まっている。
 それが何時からなのかなんて、もう判らなかったけれど。
 呼吸が整い、青龍刀を傍に引き寄せる。もうひと寝入りするためだった。次目覚めれば、後水を濁さぬように、出立の準備を整えなければならないから。刀を傍に置けば、少しは寝つきがよいだろう。
 ふとジンは、あるべきものが取り付けられていないことに気がついた。
「……うわ。冗談よしてほしいなぁ本当」
 頭をかきむしりながら舌打ちする。
 いつも青龍刀の鞘にくくりつけられていた縞瑪瑙の玻璃球。
 昔、少女の刀に結ばれていた、双子の玻璃球[はりだま]の片割れ。落ちたものを自分が拾って、そのままここまで持ち歩いていた。
 紐が、切れたのだろう。結び目だけを残して、その玻璃瑪瑙が姿を消していた。
一体どこで取り落としたのだろうと、身体を起こして眉根を寄せる。昨日の昼、ここを出発するときにはあって、確かシルキスの話を聞いているときにも指で触れた記憶があって。
 つまるところ、<トキオ・リオ・キト>から城までの道中でそれを落としてしまったということだ。
 別にそれを落としたから悪夢を見たというわけでもないだろう。だが。
「……なんか、嫌な感じ」
 すっかり目が覚めてしまったと、嘆息する。
 もうひと寝入りするつもりであったが、できそうにもない。仕方がなくジンは、青龍刀を放り出して身支度に取り掛かった。
 どこかに転がっていってしまったらしい、小さな珠を見つけに。


 夜が明けない、ということにはどうにも慣れない。日中眠り、夜に活動するようになるとこうなるのだろうか。だが六日を経たないとこの土地では太陽は昇らないし、星だけが移動する。月も昇らないのだ。ただ夜の黒と雪の白だけが世界を塗りつぶす。街に灯される明かりは、人の命の灯火にも似て、この暗き深遠の国を形作っている。植物が育つのは、ひとえにここが魔力の『脈』の上に位置するからだという。
 夜が完全に明けると、まず点灯師が街を走る。そうして街灯に明かりを灯すのだ。招力石の魔の明かりは、夜を遠ざけることはないが、一時的に街の中を朝にする。それを合図に人々は寝台から体を起こし、活動を始めるのだ。
 その、誰もが活動的に一日を始めようかという時間に一人、ジンは眉間に皺を寄せて唸っていた。
「うー」
「もうやぁねぇジンってば朝っぱらから辛気臭い顔やめてよ」
 朝食を給仕しながら、モニカが憮然と口を尖らせる。厨房から呼ばれた彼女は、皿の隣に乱暴に水差しを置いて、慌てて引き返していった。
 給仕されたばかりの朝食は、温かな湯気を上げてジンを誘っている。だが食欲は爪の先ほどもない。食べなければならないのは重々承知している。またこの国を出て行くのだから。
 が。
(まさかアレ一つでこんなに気落ちするとはねぇ)
 朝食皿に浮かぶ、穀物とヤギの乳の粥を匙でかちかちかき混ぜながら、ジンは小さく嘆息した。
 結局明け方から今までかかって探したのだが、例の瑪瑙玻璃は見つからなかった。おかげで雪まみれ。引き返しながらもう一度探してみようとしたところを、うっかりモニカにとっ捕まって湯を浴びるように言われた。どうやら凍えそうななりであったらしい。水を吸って重くなってしまった防寒具は、現在モニカの住居の暖炉の前で乾燥中である。
 失ってしまったこと自体もそうであるが、何よりジンを当惑させたのは、あんな小さな玻璃球一つが深く心に食い込んでいたという事実だった。考え事をする際、手持ち無沙汰の際、剣を抱えてあの珠を弄るのがここ一年ほどの癖になっていたから、今でもつい無意識のうちに、手が本来、珠のあった場所を探ってしまう。そうして失ってしまったことに気がついて、悄然となる。
 本日何度目かのため息をついたところで、茶を運んできたモニカが呆れた声を上げた。
「本当にもうどうしちゃったの? あの馬鹿王子がまた何かやらかした?」
「モニカっちゃん。君ぐらいだよ公衆の面前で堂々と馬鹿王子馬鹿王子って殿下のこと呼ぶのさぁ。前から思ってたけど、よくそんなんでこの国から追放されないよね」
「幼馴染だもの」
「え? そんなんでいいの理由」
「赤ん坊の頃から一緒なのよ。ケツの穴まで見合ったような間柄を――まぁちっさい頃だから覚えてないけど……、放り出すようならあいつは正真正銘類まれなる馬鹿で薄情な王子ということになるわ」
「ケツの穴って……」
 会話を聞いていた周囲がくすくす忍び笑いをもらす。この娘もいい加減羞恥心とか知らんよなぁと苦笑したジンは、唐突に彼女が正面の席に腰を下ろしたことに目を剥いた。
「どうしたの? モニカちゃ――」
「ねぇジン。貴方、国から出て行くの?」
 頬杖を付いて覗き込んでくる娘の眼差しは真っ直ぐだ。そこには確信の色があった。
 なんだかんだといって、モニカは人の機微に聡い娘だ。おそらく、この国で一番。
 大雑把な気性ながらも、配慮は細やか。それは時折垣間見せるこのような鋭さに起因するのだろう。
「うん」
 ジンは正直に頷いた。隠し立てしても仕方がない。
「何時」
「雪嵐の節が終わるまで、と思ってたけど気が変わった。早ければ『夜明け』と共に」
「……ため息ばっかついてるのはそれが原因?」
「いや、そうでもないけどね。どうして?」
「私、ジンこの国気に入ってるのかと思ってたの」
 椅子の背にもたれかかり、きし、と木をきしませて、モニカが口先を尖らせる。そうしている姿は、年相応の娘のものだ。
「だからこの国に居つくのかと、ちょっと期待してたのよ」
「気に入ってはいるよ。でも俺、一箇所に留まれない」
「知ってるわ。他に帰る場所がありますっていう、そういう顔してるもの」
 思いがけないモニカの発言に、ジンは目を丸めた。顔をしかめて反論する。
「帰る場所なんて、ない」
「うそぉ。物心ついたときから旅人見てきたモニカちゃんを舐めないでよね。貴方にはきちんと帰る場所がある。そこへ向かって旅している最中の顔だわ。本当に帰る場所がなくなって、漂泊している人の顔はね、もっともっと、別なのよ。ジン。貴方の顔は、どんなに長い旅路でも、帰る場所を目指しているひとのだわ」
「……モニカちゃん」
 言葉を失う、ということはこういうことをいうのだろう。苦虫を噛み潰した表情を我知らず浮かべ、ジンは閉口したまま、にっこりと笑う食堂の看板娘を見返した。笑って誤魔化す気力はなく、かといって真剣に取り合って、一から十まで事情を解説してやる気は毛頭ない。厨房のほうから呼び声がかかり、返事をしながら立ち上がった娘の細い首にふと、ジンは見慣れない紐を見つけた。
「……珍しいね。何か下げてるの?」
「え?」
「首」
 ごまかしの代わりに発した言葉だった。モニカは、あぁこれ、と紐をするする引っ張り出す。するとその先にくくりつけられているものがぷらりとジンの眼前で揺れた。
 赤い、縞瑪瑙玻璃。
 はっとなって慌ててそれを掴もうとするが、モニカが身を引くほうが早かった。それを素早く胸元に仕舞いなおしたモニカは、なんなの? と眉間に皺を作る。
「ちょ、ねぇちょっとそれどこで拾ったの!?」
「ええ? あぁ玄関の前で――あ、もしかしてこれ、ジンの落し物なの?」
 あせって立ち上がった拍子に、水差しに腕が当たった。あっと思ったがもう遅い。それは食卓の上から落下して、陶器のそれは派手な音をたて、床に叩きつけられ砕け散った。顔を片手で覆って、あーっと呻く。屈みこみ大きい破片をかき集めるモニカが、食事時にだけ交代で手伝いにくる少年に、掃除道具を持ってくるように頼んだ。
「ごめんねーモニカちゃん。うっかりしてた」
「いいわよ別に。ジンって普段抜け目ないくせに時々思いがけなく迂闊よね。それよりもコレ、そんなに大事なもんなの? 慌てて水差し倒しちゃうなんて」
 唇を引き結んで、小さく嘆息する。昔幼馴染が嘆息の数をどうにかして減らしたいと呻いていたことを思い出す。今は彼の気持ちがわかるなぁと、泣きたい気持ちになりながら頷いた。
「俺が朝探してたの、それ」
 少年が持ってきた不要の紙を広げ、破片を順番にその上に収めていく。足元も水びだしだった。本当に、調子が狂いっぱなしだ。
「へぇ。もしかして恋人の、とか?」
「――恋人ではないけど」
 自分が、手ひどく傷つけてしまった少女の。
 鬱になりそうだ。
 笑顔を取り繕ってジンは面をあげ、懸命に床を拭く娘の手から雑巾を受け取った。
「俺が後しとくよ。まだ忙しいでしょう」
「あらそう? ありがと」
「だって俺がこわしちゃったんじゃんね? それぐらいはするよ」
「じゃぁお願いしてもいい? ごみと道具は後で厨房の裏に」
「あ、でも裏に行く前にそれ返して」
 立ち上がりかけたモニカの手首を取る。だが勢いよく立ち上がってジンの手を払いのけた娘は、腰に手を当てながらにっこりと笑った。
「い、や」
「モニカちゃん」
「だって私コレなかなか気に入っちゃったのよ。簡素だけど上等な感じで」
「あのね――」
 悪戯げにふふふ、と口角を持ち上げる娘に閉口する。返せ、と繰り返すうちに徐々に語調が強くなっていくのがわかった。単に意地悪なだけか、それとも本気であの瑪瑙玻璃が気に入ったのか――おそらく後者だろう。モニカは悪戯心だけでそのようなことをする娘ではないし、確かにその玻璃珠は上物で、年頃の娘が好むものだ。モニカが楽しげに、幾度目か断った後、ジンは笑顔で、子供をあやすような甘ったるい声で、かつ冷ややかに宣告した。
「いいこだから、早く返して。モニカちゃん――じゃないと、その腕切り落とすよ?」
 その声音に本気の色をみてとったのか、一瞬周囲の空気が凍りついた気もするが気にしない。実行するかどうかはともかく、このまま嫌だと彼女が突っぱねるようなら、実力行使も考えなくもない。比較的気に入っている娘であるので、手荒なことはしたくはなかったのだが。
 聡い娘であるから、モニカもそれを冗談で流すようなことはしなかった。一瞬表情を凍らせた後、笑顔をどうにか取り繕っていた。そういうところには感心できる。なかなかまねできることではないことを、ジンは知っている。
「……わかった」
「ん。いいこ」
 モニカが頷いたのを見て取って、ジンは微笑んでやった。立ち上がって、彼女が首から紐を外すのを見守る。だが瑪瑙玻璃を受け取ろうとしたところで、その突き出された拳が強く握られた。
「――モニカちゃん?」
「ねぇ」
 いい加減にしないと、と続く言葉をさえぎって、モニカが瑪瑙玻璃を握り締めたまま拳を引き、微笑に口角をほんの少し上げた。
「コレを返す代わりに、約束して」
「何を」
「ほんの少しだけ、この国の滞在を伸ばしてくれない?」
「……どうして?」
 もうすぐ、この国の平和は壊れるだろう。
 そうなる前にこの国を脱出したいのがジンの本心だった。近頃、情に引きずられることが多くなった。出て行く前に何かが始まってしまえば、首を突っ込んでしまうこともある。それはどうしても避けたかった。大体この国に流れついたのも、前の国で迂闊にも戦乱に巻き込まれ、上手く抜け出せなかったことに起因するのだ。
 深い積雪は恐ろしい。雪嵐も。滅多なことでは移動しないほうがよいに決まっているが、それでも全く移動できないわけではない。一番近いのは氷の帝国。その領内に入ってしまえば、雪嵐も止むはずだ。
 モニカは珍しく伏せ目がちになり、しおらしい表情を浮かべると、声を潜めて話し出した。
「ほら、だってアレク。貴方のこと気に入っているじゃない?」
「っていうのかねぇ」
「そうよ。あの人は気に入らない人は絶対傍に置いたりしないのよ、ジン」
「……だからって、何で俺がもう少し滞在してあげなきゃいけないのさ?」
「せめて、あの人がきちんと即位する、雪嵐の終わりの祭りまで」
「悪いけどモニカちゃん」
「コレ返してほしくないの?」
「だから言ったでしょう? 返さないんだったら実力行使でいくよ」
「そしたら飲み込むわ」
「腹を裂かれたくないのなら」
 どうぞご自由に、とおどけて肩をすくめる。モニカは冗談かと思っているだろう。だが言った限りは実行するつもりだ。もしも彼女に渡す気がないというのであればの話だが。
 同時に、そこまでしてでもあの小さな玉を取り戻したがっている自分にも、嗤ってしまう。
 モニカは肩をすくめて小さく嘆息し、はい、と瑪瑙玻璃を押し付けてきた。
「アレクの周りには誰も居ないんだもの。少しぐらい、長居してあげてもよくない?」
 拗ねた口調で早口に述べたモニカは、後はよろしくね、といい置いて踵を返した。朝食の時間はまだ始まったばかりだ。人はひっきりなしに食堂を出入りしている。忙しい看板娘が、ジンばかりに、かまっていることは出来ないはずだった。
 雪のせいで少し湿ったままの前髪を掻きあげる。ため息混じりに、ジンは小さく吐き捨てた。
「誰も居ないっていうのは、俺みたいな奴をいうんだよ、モニカちゃん」
 自分がここにたっているのも、手のひらに主から離れた瑪瑙玻璃があるのも、全て。
 自分が愛した人々を、突き放した、その結果なのだから。


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