BACK/TOP/NEXT(閑話休題)

終章 常闇の燈国 


「うむ。まぁよいのではないかぇ」
「ありがとうございます」
 シファカの検査を終えたアマランスは、医療用具を片付けながら衣服を着てよいぞと笑った。
 小規模とはいえども雪崩に巻き込まれたシファカは、ここ一月の間長命種の女の下に通っていた。外傷はなくとも、臓器や骨の具合まではわからない。そこで、ジン曰く医療に長けているらしい、長命種の女の出番となったわけである。
 森の最奥にあるとされるその長命種の都には、ジンが連れていた狼――キユの案内に従えば、城からほとんど歩かずにたどりつけてしまうから不思議である。初めて見た亜種族の女は、珍妙なしゃべり方とややこしい言い回しをするものの、シファカに対して親切なことこの上なかった。どうやら、話し相手に餓えていたらしい。
 きちんと身体の具合を見ていたのは最初の三日ほどで、あとは検査と称した茶会に呼び出されていただけのような気がする。そしてそれは、ジンが痺れを切らして迎えにくるまで続くのだ。
 頷いて、横に畳まれ置かれた衣服を手に取る。頭から上をかぶっていると、陶器や金属の触れ合う音に混じって長命種の女の呟きが聞こえた。
「やれやれ。つまらぬの。とうとう嵐が明けてしもうたぇ」
「私じゃなくてもモニカさんとか来ると思いますが」
「そうじゃな。珍しく、妾は人里に下りるかもしれぬぇ。あの王子が、戴冠式に出席せぇと頭を下げに来おったからの」
「え!? アレク殿下が?」
 どういう風の吹き回しだろう。彼との付き合いは浅いシファカではあるが、彼の暴君ぶりはモニカから聞き知っているし、最初に自分に勝負を仕掛けてきたときの横暴さを見れば、彼が他者に対して頭を下げるなどと言う行為はありえないといっていいほどだ。驚きである。
「ま、あの王子にも思うことがあるということであろうて。そんなことより」
 アマランスは小さく頭を振ると、ゆり椅子に腰を深く下ろして天井を仰ぎ見た。盛大にため息をつきながら、彼女はぼやく。
「でもつまらぬの。数百年ぶりの話し相手ゃったのに」
「……数百年、ですか」
「ま、何はともあれ、なかなか楽しい時間であったぇ」
 アマランスはその青銀色の髪を白い指で掻き揚げながらくすくすと笑った。ありがとうございます、ともう一度頭を下げた。今日は出立の準備がある。彼女のお茶と長話に付き合うことはできない。アマランスもまたそれを重々承知しているようで、別れの挨拶をしながら微笑んだ。
「ジンは来ぬか」
「あの人もあれでいろいろ忙しいみたいなんで」
「恩知らずなやつであることよ」
「でもよろしく、と伝えてくれといってました」
「元気でやれぃと伝え。そしておんしも」
「はい」
 おいで、と腕を広げられ、シファカは当惑しながら長命種の女の下に歩み寄った。ふわりと抱きしめてくる女の身体は、冷たくもなく熱くもなく。人より精霊や神に近いという亜種族の体温は、真綿のように軽く温かい。さらさらと揺れる青銀色の髪が鼻先にふれてくすぐったかった。
「元気でな。おんしらに、祝福を」
 そう落ちるアマランスの声は、まるで子供の旅立ちを見守る母のような響きをもって、シファカの耳元に落ちた。


 今年の雪嵐の節は、真に嵐の少ない節であったと、ハルマンが言った。
 これで少ないほうだったのか、と雪嵐の節を終えた今、ジンは晴れ上がった空を見上げてげんなりとした。ほぼ一月、毎日毎日雪雪雪。それもちらちらというかわいいものではない。視界さえ遮るホンモノの吹雪だ。それすらも、かわいいと住人は言う。本当の雪嵐は、雷を伴うものであるらしい。
 この国で過ごして二ヶ月と少し。もう当分雪はみたくはない。
 今年は積雪が少なかったですなぁとのほほんと言われれば、そうですか、とジンは頷くしかできなかった。
 吹雪の季節も通り過ぎ、短い春を間近に控えた夜の王国は賑わっている。足止めを食らっていた商隊が氷の帝国へぬけるということで、その準備のために皆方々に走り回っているからであった。今日はその出立の日だ。ほぼ一月もこの小さな国にいればそれなりに顔見知りもできるというもので、しかも町の一部を雪崩が襲った際に、手伝いとして活躍していたものたちも商隊の中には多くいるものだから、住人たちは皆彼らの出立を名残惜しんでいた。
 ジンもまた、彼らに付き合って氷の帝国まで上る。シファカが護衛の仕事を受けているためだった。彼女とともに仕事を請けていた護衛がこの国に住み着くことになり、ひとり分穴が空いていたせいもあって、ジンの旅の参加は快く彼らに受け入れられた。
「よし。ま、こんなもんかな」
 荷物運びの、見たこともないほど、毛の長い駄馬に荷物を固定している縄の具合を点検して、ジンは頷いた。この縄が緩むと後が大変なのである。全て荷物を点検し終え、一度<トキオ・リオ・キト>に戻るべく踵を返したジンは、歩み寄ってくるみなれた顔を認めた。
「……殿下?」
 むっつり仏頂面で踏み固められた雪の上を歩いてくるのは、ここ数日姿を見ていなかった、この国の第一王子である。
 戴冠式を間近に控えた彼はその準備で忙しい。ジンのほうも出立の準備で慌しくしていたため、顔を見ることがなかったのだ。政治に慣れるためにリシュオやハルマンとともに執務室に篭りっぱなしの彼が、この町まで降りてくるのは久しぶりのことであった。
「どうしたの殿下?」
 首をかしげたジンに、小さく嘆息した彼は低く呻いた。
「ちょっと付き合え」


 モニカ・ベレッサは忙しい。人生初の忙しさなのではないか。そう勘繰りたくなるほどである。
 指折りで今日しなければならないことを数え上げていく。ここ最近は戴冠式の準備で城に召喚されることが多くなっていたが、今日ばかりは宿に掛かりきりにならなければならない。ほぼ一月以上、この宿を家にしていた商隊が氷の帝国に向けて旅立つのである。商隊出立の準備として、携帯食糧を用意しなければならなかったし、彼らが出立すれば掃除洗濯に忙殺されることになる。次くる商隊の先陣が既に到着しており、モニカの宿を予約していた。
 商隊が落としてくれた金で懐はとても暖かくはあったが、旅立つとなると寂しくもなる。その上彼らはシファカとジンを連れて行ってしまうのだ。あの二人、ここで家もって生活してくれないかしらぁ、とおもってみたりもするのであるが、ジンは一つのところに腰をすえる気は毛頭ないらしいし、シファカはその彼について旅をすることを微塵も嫌がっていない。
 というわけで、その可能性は残念ながら皆無だ。
 アレクは即位すれば以前のように構ってはくれなくなるし、いやだわ寂しくなるわとモニカは箒の柄に顎を乗せながらため息をついた。
「あ、お帰りシーちゃん」
「ただいまモニカさん」
 もう伝説だとばかりおもっていた、長命種の神殿まで出かけていたはずのシファカが、傍らにキユを従えて戻ってきた。かちゃりという鍔鳴りの音を響かせ腰から刀を下ろした彼女は、手伝おうか、と箒に手を伸ばしてくる。
「いいわよ。出立の準備は?」
「終わった。私の荷物は纏めてあるし……さっき商隊のほうによったら、荷物の準備は終わってるみたいだったから。本当は忙しいかな、と思って早く帰ってきたんだけどな」
「そっか。じゃぁジンと二人でゆっくりしておいたらどうなの?」
 シファカはモニカの言葉に苦笑すると、肩をすくめた。
「これから二人で旅するのに」
「ま、それもそうよね」
 商隊の護衛として氷の帝国までは大人数であるが、その仕事が終わればあとは二人旅だ。嫌でも四六時中一緒なわけで。今から二人でいなくても別にかまわないだろう。相手がどう思っているのかは、モニカには判りかねるが。
「ま、覚悟しておきなさいよ。多分ずっとあの調子でしょ?すごいべったり」
「……ジンのことをいってるのか?」
「そうよほかに誰がいるの?」
「べったり、かなぁ? まだちょっとぎこちないというかなんというか、国にいたときよりも、かなりあっさりしてるんだけど」
「え!? あれで!?」
 モニカの声量に、シファカがぱちぱちと瞬きを繰り返す。モニカはきょとんとしているシファカをまじまじ見つめて、はぁ、とため息をついた。
 あれで、あっさり、していると。
 ジンのシファカのかわいがりかたといったらもう。アレクが鳥肌を立てていたぐらいなのだ。
 まず、目が違う。シファカを常に幸せそうに目元を緩めて視線で追いかける。会話するとき、その声は耳触りよく優しい。抑揚を抑えて、静かに、まるで子供に絵本でも読み聞かせるときのような音律。それから絶対傍から放そうとしない。他の男が彼女に声をかければ夢に見そうな怖いぐらい冷ややかな笑顔で威嚇する。
 そして、シファカの発言には大抵逆らおうとしない。
 まさしくそれこそ全身でこの子のことを愛しちゃっていますと主張している。
 へぇ、と思わず遠い目をしてもしかしてあれでも自分たちに遠慮しているのかもしれないと、モニカは二人きりになった以降のシファカの受難をすこし心配してみたりした。当の本人はモニカの目の前で、訝しげに、眉間に皺を刻むばかりだが。
「判らなければいいのよ。そういうほうが幸せってこともあるわ、シファカちゃん」
「……はぁ」
「ま、すること無かったら一緒に台所に立ちましょ。出発前にお茶を振舞うのだけれど、それを沸かさなければならないの。そのついでにこの間一緒に焼いたお菓子の残り、二人でこっそり食べちゃいましょうよ」
 シファカが小さく笑い、頷いて、モニカの言葉に賛同した。モニカは掃きだしていた[ごみ]塵取[ちりと]りで手早く取り払い、掃除道具を抱え上げて歩き出した。
 横に並ぶシファカとのおしゃべりも、今日がとうとう最後なのだとおもうと。
 少し泣きそうな自分がそこにいた。


「こんなところまで呼び出して何の用事なのさー? 殿下だって暇じゃないでしょ?」
 雪の踏み固められた白い道を歩いた先は、雪崩に呑まれて家が倒壊した場所だ。雪嵐の節が重なって、復旧が進んでいないのが実情である。彼らは現在城で暮らしている。もともと長命種の神殿に使える神官たちの居住区、殉教者たちの逗留所としての役目を担っていた城だ。部屋も有り余る。避難民たちは、窮屈な生活はしていないはずであった。
 住民たちも移動して、倒壊した住居がそのまま雪に埋もれて小高い丘になっているこの場所を、今は訪れる人もほとんどみられない。周囲は静かなもので、灯篭の明かりに橙色に照らされた雪が薄暗がりの下で沈黙している。
 アレクはむっつりと唇を引き結んだまま黙りこくり、いつものことであるが眉間に皺を寄せて、どこともしれぬ場所を睨みすえている。肩をすくめてジンは、根気よく待つことにしていた。伊達に彼に二月も付き合っているわけではない。短気では、彼に付き合うことなど不可能なのである。
 春嵐の節を過ぎ、雪も降ることが徐々に少なくなっていた。もう二日、ジンは降雪を見ていない。氷の帝国では雪は降らない。そう聞いている。この間の降雪が見納めだったか。どうでもよいことに思考をめぐらせていると、ようやくアレクが口を開いた。
「俺は、王になる」
「うんそうだね。もうすぐ即位式じゃんおめでとう」
 彼の神妙な口調に、笑いながらジンは相槌を打った。その瞬間、アレクの不機嫌が顕になる。その表情の険悪さに気付かないふりをしつつ、ジンは笑みを彼に向けた。
「どうかした?」
「お前、この国に残る気はないか?」
「ないよ」
 ジンは即答した。この国に残る気は毛頭ない。それは最初から告げてあったはずだった。
 ジンは向けた微笑はそのままに、小さく首を傾げてみせた。彼の言葉の意味が、わからないとでもいうように。
 アレクは苛立たしげに足元の雪をけりつけ、ジンを振り返った。欲しいものを手に入れるために必死に親にねだる子供のような顔だ。
「残れよ」
 かみ合わせた歯の間から搾り出すような彼の言葉に、ジンは問い返す。
「どうして?」
「ここまで言わせたらわかるだろうが馬鹿めが」
「馬鹿だからね、俺は」
 彼のいわんとしていることは明白すぎるほど明白なのではあるが。
 これは悪戯心だ。
 弟がいたらこんな感じだろうと思う。自分には下の兄弟がいない。異母兄なら両手にあまるほど、かつていたが、その誰もと親しい交流を図ったことはない。兄弟、という概念が薄い自分にとって、アレクは手のかかる弟のようなものであったのだ。ジンは今更のように納得して、顔を紅潮させ羞恥との狭間で唸っているアレクを見つめた。
「俺の、片腕として、この国に、いろ」
 切羽詰った感が滲み出ている彼の言葉に、ジンは苦笑した。
「あはは殿下面白い顔―」
「ふざけるのはよせ貴様! いつも俺が真面目に話しているときに貴様はいつもいつもいつも――!!」
「ごめんね」
 ジンは軽く足元の雪を手のひらで救い上げながら、謝罪した。その転じた声音にアレクが押し黙る。怪訝そうに眉根を寄せる彼を視界の端に収めながら、ジンは続けた。
「俺の答えは否だ。前もいったでしょう殿下。俺は一箇所には留まれない。そして俺の仕えるべき主はただ一人だ」
 水の帝国に残る幼馴染。
 自分が主君として仰ぐのは、生涯ただ一人、彼のみだ。たとえ永久にかの国へ、彼の元へ、自分が戻ることはなくとも、彼以外の誰かを主君として仕える気は毛頭ないのだ。
 だがその事情をしらぬアレクは、別の姿を思い浮かべたようだった。
「……あの女がか?」
「シファカ?」
 名前を上らせると、アレクは頷いた。ジンは頭をふり、空を仰いだ。そういえば、しばらくこうやって星を眺めることもなかった。夜の国。下ばかりを見れば暗闇。
 上を仰ぎ見れば、光がある。
 月は昇らない。その代りに瞬く星々が、夜の闇を薄めて足元を照らし出す。その光量は灯篭のそれにも勝るとも劣らず、どうしてそのことに気付かなかったのだろうと、ほんの少し前までの自分にいかに余裕がなかったか思い知らされる。
「彼女は違うよ」
 温かな。
 足元を照らす、灯りのような。
 取り戻せるとは、思っていなかった。
「今いる人たちを大事にしなよ殿下」
 こんな偉そうなことのいえる人間ではないけれど。苦笑いを浮かべつつジンは付け加える。
「ハルマンのじっちゃんとかさ。リシュオ王子もそうでしょう。それから、モニカちゃん。いい加減に告白したほうがいいよ絶対」
「おまっ……」
「傍にいろって、それいう相手間違ってるよ殿下。俺じゃないでしょ彼女でしょ」
 ぱくぱくと口を閉口させるアレクは、顔を白くさせたり青くさせたり赤くさせたりしている。その百面相具合に噴出すのをどうにか堪えつつ、ジンは笑いに喉を鳴らした。全く、みていて飽きない青年だ。自分が何者にも縛られない漂泊の民であったのなら、彼の元で働くことも、選んでいたかもしれない。
 けれども、現実ではありえない可能性だった。
「俺ってきっと馬鹿正直に弱いんだねぇ」
「何の話だ」
「こっちの話だよ」
 幼馴染もそうだしシファカもそうだ。彼らは嘘が吐けない。仕事の上では幼馴染は上手く嘘をつくが、自分に対しては馬鹿がつくほど素直というか、正直者である。カマをかければすぐに引っかかってくれるのだ。シファカも同じ。シファカは幼馴染よりもさらに質が悪い。カマをかけられたとか、自分で墓穴を掘ったとか、そういったことにも気付かないのである。
 そして、アレク。彼もまた悲しいぐらいに不器用で正直者だ。こういった人間に、弱いのだなと苦笑する。自分とは遠くかけ離れている人種だから。手の届かない憧憬の対象として、焦がれる部分があるのだろう。
「ねぇアレク」
 吐く息は白く、清浄だ。紡がれた音はよく通った。
「俺みたいな人間は、君には必要はない。もう十分沢山回りにいるでしょう。頑張りなよ。君は、きっといい王になれるよ。理不尽を、知っている人間だからね」
 無論善き王となれるか否かは、努力次第だ。資質はあると思うのだ。要はそれを腐らせないようにすればいい。苦労はするだろう。いままでのツケもある。人の信頼というものはえてして得にくい。それにくわえて彼の異形。反発するものは多いに違いないのだ。
 アレクは閉口し、眉をひそめた。顎に手を当てて小さく思案の仕草をしてみせた彼は、哀しみとも喜びとも取れぬ複雑な微笑を口元に刻んだ。
「お前、初めて俺の名前を呼んだな」
「あれーそうだっけ?」
「まぁいい……見ていろよ」
「ん?」
 足元の雪を踏み固めて遊んでいたジンは、腰の横で静かに拳を握り締める王子を見た。自分の無力さと理不尽さに対して、いつも苛立ちを顕にしていた王子は、その薄桃の双眸に静かな決意めいた光を宿して不敵に笑った。
「見ていろ。貴様が永住したくなるような国を作ってやる」
「できるのかねぇ」
「今は出来ん」
「で、そんな……きぱって」
 胸を張って主張することではないと思う。肩をこかすジンに、彼がむっと顔をしかめた。
「今はといっているだろう。そのうちだ。そしてお前がこの国でくらしたいといっても、俺は知らん。たたき出してやるからな」
「はいはいがんばってね」
 踵を返しひらりと手を振る。その瞬間背中に叩きつけられるアレクの叫び。
「真面目に聞けー!」
 ジンは両耳を敢えて手で塞ぎつつ応対した。
「真面目に聞いてるよ。いちいち叫ばない」
「こっちをむけー」
「つべたっ。殿下雪投げないでよーいいオウサマは些細なことでおこったらいけないよー」
「貴様一度死んで来い!」
「やだ。俺死んだらシファカ泣くもん」
「いつから貴様そんな平然と人前で惚気る男になりさがったー!」
「人の勝手でしょうが」
「にへにへ笑うなぁぁぁあぁぁっ!!!!」
「あー五月蝿いよー」
 もう何がなんだかわからない意味不明の応酬を半ば強制されて続けつつ、ジンはざくざく雪を踏み分けた。
 もうこの応酬をすることもないけれど。
 口元に微笑が浮かんでいることぐらいは、自覚していた。


 雪の固まりに当たったのか、馬車が跳ねた。
 幌を固定する鋼の縄に手をかけて身体を支えながら、ジンは外をのぞいた。その傍らには、ぺたりとその場に膝をついて、身体を支えて同じように外を覗くシファカ。商隊の人間もそれぞれ、ジンの背後やシファカの傍らで遠ざかる国を見つめている。暗い山間に連なる橙の光は、まるで命の灯火のようだ。暗闇の中で、ただ一つ輝いている明かりは、遠ざかるに連れて森に覆われて消えていった。
 一人、また一人と周囲の人々が幌の奥へと入っていく。外気は酷く冷たい。誰も好き好んでそれに触れ続けていたいとは思わないだろう。
 動かなかったのは、自分と、シファカだけだ。
「寂しい?」
 語りかけると、彼女は遠ざかった国を眺めるように向けていた視線を上げた。浮かべられる、微笑み。
「大丈夫だよ。これから、沢山の国へいくんだろう?」
 ジンは無言のままシファカの髪に触れて、中に入るように促した。ゆっくりではあったけれども、走る馬車が切る風は、針のむしろに触れるかのように肌に痛い。
 幌の中に入る瞬間、ジンは針葉樹林によって細切れに流れる景色の中に、狼を従えた女を見つけた。長い髪が風に流れて、月明かりのように冴え冴えと輝いている。雪に埋もれそうな白い腕を掲げた女は、すっと手を振った。別れの、挨拶だとすぐにわかった。
 狼の遠吠えが聞こえる。女が従えていた狼は幾匹もいる。けれども遠吠えたのは一匹だ。キユだろう。最後の最後までシファカや自分に従っていた狼を思いだし、ジンは微笑んだ。
 がたん、と再び馬車が揺れる。
「大丈夫?」
 幌の奥に先に入っていたシファカが再び歩み寄ってきた。平気、と彼女を安心させるために微笑んでみせる。微笑み、返される。長居していた国を離れるとき特有の物寂しさが、即座に温かいもので満たされる。ジンはシファカの肩を軽く抱いて、背後を振り返った。暗い夜に埋没した森のもうどこにも、長命種の女の姿は見当たらなかった。


 夜明けの陽が玻璃をすかして美しく広間を飾る。祭壇に佇むのは美しい長命種の女だ。青銀色の髪を背に流し、白い衣を身につけた女は、肉の厚い濃い緑の葉で作られた冠を跪く新しい王の上に乗せた。
 立ち上がった新王は、広間に集まった民人を睥睨する。これから新しい時代が始まるのだろう。国を夜明けへ導くか、それとも暗闇の中へと叩き落すかは彼次第だ。
 集まった人々は、初めて目にする伝説の長命種の女にまず目を奪われ、その横でかつての横暴振りを潜めて、堂々と威厳を保ち振舞う異形の王に息を呑んでいた。彼は、笑った。人々を前にして、全てを嘲笑うかのように、薄く。
 その微笑が、彼を認めなかった民人たちへの挑戦であると、気付いているのだろうか。
 長命種の女が、高らかに声を張り上げた。
「今ここに、新たなる王の誕生を宣言する――……」





暗い夜の深遠の縁で、行くべき道を見失うというのなら。
弛むことなくもがき歩け。
その先に、お前は見つけるだろう。
童歌が歌うその国を。
北の北。神眠る土地へ通じるという、夜の闇すら取り込む暗き大地の果て。
獣と人と人ならざるものが住まいし深遠に、明かり灯す小さき王国。
人の。
迷いに灯火掲げる小さき王国。
常闇の燈国と。
歌われる国を――……。


BACK/TOP/NEXT(閑話休題)