第十章 灯火 2
「生きてる」
首の脈を測ったあと、頬に触れてその温度を確認する。髪をなでて、その手を滑らせ布との間に差し入れて、シファカの背に回したジンは、彼女の肩に額を押し付けて華奢な身体を掻き抱いた。
細く、息を吐く。
「生きてる」
きちんと。
この腕の中で。
「ジン……?」
頬に触れた彼女の手を握りこんで、ジンは首を横に振った。彼女の体は、記憶そのままのぬくもりを宿している。その腕に掛かる重みが、彼女が生きている実感となってジンの胸を熱くさせた。
長命種の女から借り受けた、狼がいなかったら。
シファカはおそらく、そのまま雪に埋もれたまま凍死していた。
雪崩の起きた場所でも、一番端に位置していたのが幸いだったか、奇跡的に外傷は少なかったものの、きちんとした医者に見せていないのでまだ判らない。いくら医療の知識が自分にあるとはいっても、それは応急処置的なもので、臓器が酷く傷ついていればできることなど皆無に等しい。息はあっても、呼びかけてもぴくりとも動かない娘に、このまま永久に目覚めなかったらと、ぞっとしない想像をめぐらせたりもした。
きちんと。
きちんと生きている。
生きて、動いている。
それだけでもう。
ジンは細く息を吐きながら、掠れた声で呻いた。
「馬鹿か君は」
「……ば、ばか?」
「馬鹿だよ」
身体を離して見下ろした娘は、何かいわんと口をぱくぱく動かしていた。ジンは喉の奥で低く嗤い、繰り返した。
「馬鹿だ」
シファカはとうとう閉口し、ぱちぱちと瞬きを繰り返しながらジンを見返している。視界が白く滲み、シファカの輪郭がぼやけるにつれ、自分を見つめ返してくる娘の表情に当惑が混じっていった。
「……ジン?」
「こんな、ところまできて。大人しくいればよかったのに。こんなに、傷だらけになって」
寝台に横たわる娘の手は、小さな傷で痛んでいた。裂傷。肉刺の潰れた跡。硬くなった皮膚。割れた爪。
手だけではない。腕や、脚や、腹部や。手当てをする上でみた柔肌の上に、うっすらといくつもの傷跡が残っていた。女一人の身で、旅をするならば傷は避けられない。けれどもこれほど傷を残さずとも、旅をする方法はいくらでもある。けれども、この娘はあえて危険な道を選び取っていたのだ。それが、自分へ続く最短の道だから。
旅をするうえで、自分はいくつも綱渡りをしてきた。彼女は、その足跡をそのまま追ってきたのだ。
「こんなに」
馬鹿だ。
「傷だらけに、なって」
こんな自分を追いかけてくるなんて。
真っ直ぐすぎるにもほどがある。
「……いいたい」
シファカは下唇を噛み締め、言葉を一度区切るとジンから顔を逸らした。枕に顔の半分を埋めた彼女に、ジンは聞き返す。
「え?」
「……言いたい、言葉が、あったんだ」
握らしめられたかけ布が、皺を作る。その、血の気が失うほど握られた娘の手に視線を落としたジンに響く彼女の言葉は、どこか遠かった。
「一緒にいるって言ったのに、ジンは突然いなくなった。あんな、だまし討ちみたいにして。頭ん中、真っ白になって、何も考えられなかった」
シファカの手がジンの襟首に掛かる。縋りつくようにして彼女は体を起こした。自力で起き上がれないほど衰弱している身体。襟元に掛かる手に込められた力も頼りない。
「だって、好きだったんだ」
寄せられた身体は、やはり華奢だった。額が胸に押し当てられる。震える肩に、ジンは恐る恐る触れた。
「一緒にいるっていってくれたのに。したいこと、たくさんあったのに。教えて欲しいことも、話したいことも、一杯、あった。なのに言う前に、黙って。あんなふうに、騙して!」
どん、と拳が胸に叩きつけられる。掠れた声が繰り返し紡がれ、自分がどれほど、彼女を傷つけたか。覚悟していたつもりだったのに、今まざまざと事実を見せ付けられる。
本当は、こんな風に、傷つけたいわけではなかった。
本当はただ。
本当は真綿でくるむように抱きしめて、花を愛でるように愛したかった。愛したい――今も、そう思っている。
けれども。
怖かった。
何時だって、失うことが。
もう失うものは何もなかった。暗闇を手探りで彷徨うことにもなれた頃だった。今腕の中で怪訝そうに首を傾げる少女は、一筋の陽光のようだった。自分にとって。
失うことに対して、精神は磨耗する。何も感じなくなる。
そんなこと、嘘だ。
失えば何か一つ壊れていくものがあった。
精神を鈍化させるために泣くことを忘れたふりをした。目を離した隙に失うことが怖くて、深く眠る方法を故意に忘れた。助けて欲しいという叫びは笑顔の奥に仕舞いこんで、失うものを作らないように他人から距離を置いた。
なのにこの娘はあまりにも、簡単に自分の心に滑り込んできてしまったので。
その笑顔があまりにも、愛しかったので。
こんどこそ、この子を失えば、自分の心は壊れると。
だから、手を放した。
自ら目を閉じ、自ら耳を塞ぎ、自ら手を放して。
シファカを守るのだと、理由をつけて。
本当に守りたかったのは、自分の心だ。
なんて浅ましい自分。なんて卑しい自分。
そんな自分を愛しているという、何も知らない愚かで愛しい。
「シファカ」
彼女の泣き濡れた頬に触れながら、言葉に詰まってジンは俯いた。言い訳することなど出来ない。自分は確かに彼女を騙すようにして置き去りにして、手ひどく傷つけたのだから。
憎まれてもいいと。忘れてしまわれてもいいと。そう思って。
シファカは言葉に考えあぐねているのか、口を開いては噤むことを繰り返していた。彼女はやがて躊躇いがちに、自分を抱いた。背中に回される手はぎこちなく、薬のにおいがする。人の胸に抱かれるなんて、子供のとき以来だと馬鹿げたことを考えた。
「君に、会いたかったよ」
ジンは縋りつくようにして顔を埋め、嗤い混じりに呟いた。
彼女の身体を掻き抱いて。掠れた声はくぐもって、部屋に響く。
「何とも、思ってないなんて、嘘だ」
失うことが怖くて怖くて、彼女を突き放したのに。
そうして守れる心など、どこにもなくて。
「会いたかった」
遠ざかれば遠ざかるほど、あふれる愛しさと切なさと。
君を手放した後悔に、身が引き裂かれそうだったよ。
「会いたかった……!」
繰り返し。
夢に見るほど。
この存在に焦がれていた。
どうしようもないほど。
強く、強く。
焦がれていた――……。
「……いってることが」
ふと、水に小石を投げ入れるように、ぽつりとシファカの呟きが落ちた。
「言ってることが、むちゃくちゃだよ」
シファカの手が、ぱたりと脇に落ちて、ジンは面を上げた。仰ぎ見た娘の顔は、文字通り、滅茶苦茶だった。涙にまみれた顔はお世辞にも綺麗とはいえない顔。
「一緒にいるっていったり、突き放したり」
子供が泣くような泣きじゃくりかたで、ぐすぐす鼻をならして、彼女は肩を揺らした。
「大事っていったり、なんとも思ってないっていったり」
「シファ」
「あい、あいたかった、なんて……ジンは嘘ばっかりだ」
嘘ではない。
会いたかった。
そればかりは、嘘ではない。
けれど彼女の言葉を否定する術を、自分は持たない。何時だって、甘い嘘に全てを包み、彼女を欺き続けてきたのは、他でもない自分だからだ。
「大嘘つき」
彼女には、自分を罵る権利がある。
「約束破り」
彼女には、自分を憎む、権利がある。
「大嫌い」
彼女は顔を歪めて、繰り返す。
「ジンなんて大嫌い!」
ジンは静かに瞼を下ろした。誰も責めることなどできない。シファカの言葉に耳を傾けながら、冷ややかに嗤う。
「大嫌い……」
こんどこそ、自分は全てを失ったのだと。
「だい、きらい……」
ただよかったと思った。彼女とこうして再び出会えて。出逢えたことが僥倖だと思えた。自分に、彼女を引き止める力はない。二度三度、彼女を突き放したのは他でもない自分だから。この国で別れれば、もう二度と、今度こそ会うことはないだろうと思った。
どん、と拳が胸に叩きつけられる。力の篭らない拳は、胸に押し付けられたまま止まっている。本当なら、起き上がることも辛いのではないかとジンはようやく我に返って、項垂れたまま肩を震わせている娘が怪我人であったことを思い出した。
「だい……」
「シファカ」
「すき」
寝台にきちんと寝かせようと肩に添えかけた手が止まった。
ジンは首をかしげて、娘の肩に添えた力に軽く力を込めた。華奢な肩は容易く起こされ、先ほどと変わらない、目元を真っ赤に腫らした彼女の顔が現れる。
「大好き」
呼吸が、止まる。
彼女はごしごしと目元を手の甲でこすった。全く、彼女は時折こうやって、酷く子供じみたことをする。そんなことをしたら、目元がさらに赤く腫れてしまうだろうに。
「こんなに、酷い男なのに」
シファカの手が衣服の裾を強く握り締めた。血の気のない、震えた、手。
「何でこんなに大好きなんだろう……」
その、彼女の手を握りこんで。
身体を抱いて。
ジンは吐息を飲んだ。
喉が渇いて、焼けるように熱い。目の奥が痛く、視界が白く濁っている。浅い呼吸を幾度も繰り返し、ジンは汗ばんだ手で、握り締める彼女の手のひらの感触を確かめた。
頬に、何か伝うものがある。
そっと、背中に手を這わせて、娘の身体の輪郭を確かめた。年頃の娘にしては、痩せた身体だとつくづく思う。最後に、強くその身体を抱きしめて、俯いたジンは唇に触れた水滴の正体が、涙だと知った。
「会いたかったよぉジン……」
腕の中で泣きじゃくる娘を抱きしめて、ジンは目を閉じた。頬を伝うものが熱く、それはあの、灼熱の土地の熱を思い出させる。
もう、取り戻すことはできないと思っていた。
失うばかりだと思っていた。
ひくっとしゃくりあげて彼女は呟く。
「おいて、いかないで……」
夢を。
思い出した。
一面が雪に覆われた世界で、一人の童女が泣いていた。置いていかないでと、童女が泣きじゃくっていた。
その顔に、シファカの顔が重なる。
懇願されるまでもない。
もう、手放すことはできないと知っていた。
もう、離れることなどできないと知っていた。
縋るシファカの身体を強く抱く。声にならない声を上げて、ジンは泣いた。
愛していると、繰り返し囁きながら。
はらりと。
実に唐突であった。周囲も驚いたが、実際一番驚いたのは自分であったといえる。なんの、前触れもなかった。思い煩うことなどなにもない。何も。
集う人々は心安い人々ばかりで、焼かれたばかりの茶菓子を茶請けに、北方の珍しい茶を囲んでいる最中だった。日差しは穏やかで、女官の笑い声が廊下から響いている。のどかで平和そのものの、この一時に。
涙が、頬を伝った。
「……どうなさい、ました?」
すぐ傍らで、女が首をかしげた。その笑顔が、引き攣っている。ことん、と茶器が円卓の上に置かれ、彼女の手が頬に伸びてきた。
「わから、ない」
愛しい女の手を握りながら、静かに、頭を振る。
涙は後から後からと零れて、止まることがない。ただ、静かな涙だった。泣くという行為に付随する息苦しさや目の奥の熱は一切感じない。ただ、水滴だけが静かにこぼれ落ちていく。
「判らないけれども」
そっと衣服の胸元を握り締めた。
「なんだか」
ひたひたと、何か胸を満たしていくものがある。この、体中を潮のように撫でていくものの正体を、自分は知っている。
水の帝国の皇帝は、瞼を閉じて、微笑んだ。
「なんだか、ひどく幸せな気分なんだ」
暗闇を。
歩いていた。
どこまでも。どこまでも。続く暗闇の中を。
暗闇は踏み越えてきた血の跡をその濃い色で隠すが、同時に視界も奪い去る。手探りで、歩くことには慣れてはいたが、それでもこの闇では孤独が酷く身に染みた。周囲を見渡しても、誰もいない。それはそうだろう。そうならないように、仕向けたのは自分自身なのだから。自業自得だと嗤いながら、歩き疲れて、腰を下ろした。
静まり返る暗闇は、雪の日の夜を思い起こさせる。積雪は、音を吸収するから、ひどく積もった夜は、ものの輪郭が雪によって潰されたあげく、まさしく音のない世界となる。ジンは嘆息して、目を閉じた。血の臭いだけが身体にこびり付いている。自分に残されたものといえば、それぐらいなものであった。
泣くこともできず、眠ることもできず、ただ、暗闇の一点を見つめて。
そうして、どれほどたった頃だろうか。
さくりと、雪を踏み分けるときにも似た音が耳元で響いた。砂を踏みしめる音のようでもあった。軽い足音は、徐々に近づいてくる。足音のほうへと目を凝らしていたジンは、眩しさに目を細めることとなった。
眩しい?
首をかしげたジンの眼前を、突如灯りが占め、その中を人影が揺らめく。瞬きを繰り返して目を慣れさせたジンは、そこにランタンを持って佇む娘を見つけた。
娘は不機嫌そうにジンを睨みすえていた。名前は思い出せなくとも、彼女のことは知っている。酷く、愛して、酷く、傷つけた。
暗闇の向こうに、置き去りにしてきた、娘だった。
娘は小さく微笑んだ。慈悲深い、微笑だった。全てに赦しを与える微笑だった。そうして彼女はジンの傍らに屈みこんで、ジンの手元の、明かりなどとうに消えていたランタンに火を移した。
暗闇が、たちまち薄まる。闇に沈んでいた空間の全貌があらわになった。
光だけではなく、音や、匂いまで、閉じ込められていたというのだろうか。
光に満たされた空間は緑の芳香を於ァたせ、水の流れる音をジンの耳に蘇らせる。聞きなれた、音だった。その、見渡せる景色を、自分は知っている。この場所で泣いたこともあれば、幼馴染たちと笑いこけて馬で遠駆けしたこともある。郷愁に胸掬われていると、娘が、ジンの手を引いた。
――立って。
ジンは、請われるままに立ち上がった。娘は笑い、照れくさそうな笑顔を浮かべてそっと手の指を絡ませてくる。彼女は彼女の分の灯りを高々と掲げると、行こう、といった。
――どこまで?
そう問うた自分に、娘は少し拗ねたような表情を浮かべて、即答した。
――ジンが行くところへ、どこまでも。
何をいっているのだと、言わんばかりに。
ジンは当惑し、笑い、そうだね、と頷いた。ジンは娘の手を引いて、笑った。
――いこうか。
手元の明かりは煌々と道を照らし出している。暗闇はおびえたように姿を隠し、二度とジンの足元を掬うことはなかった。
二度と。