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第十章 灯火 1 


 粉塵の収まらぬ丘を駆け上りながらジンは周囲を見回した。城から続いていた足跡は、かき消されている。いくら探しても見当たらぬ姿に、ジンは心臓にきりりと針で刺したような痛みを覚えた。胸元の衣服を握り締める。
 六日に一度しか日の昇らぬ夜の王国。当然『昼』の間は温度が上がり、雪崩が起きやすくなる。シファカは雪という存在すら知らぬものが多い灼熱の国出身だ。雪崩の可能性など頭になかったに違いなかった。少女に忠告しておくべきだったと己を叱咤し、そんな状況ですら、なかったと臍をかむ。
 全て、杞憂で終わって欲しい。
 城に戻ったら、玄関先にシファカが立っている。そうして、どうしたのと自分のことを嘲笑ってほしい。けれども人の証言から、彼女が一人、丘のほうへと歩いていったことが判っている。彼女にしてみれば、ただ、頭を冷やしたかっただけなのかもしれない。
 ふとジンは、狼の遠吠えを耳に入れた。下唇をかんで口元を引き締め、なだらかな丘陵を登っていく。くすんだ針葉樹林が雪崩に押されて、そこここで傾いでいた。
 雪の表面が溶けて、太陽の光を照り返す。眩しかった。水の帝国でも冬には雪が降る。けれどもここまで強烈に目を焼くものだとは、ジンは思っていなかった。
 その青白い光に満たされた空間に、動く影を見つけた。
「キユ」
 影の主の名を呼んで、足を取る雪を鬱陶しく思いながらジンは駆け出していた。
 キユはジンの姿を認めたらしい。一声吼えて、尾を振った。
 ジンは立ち尽くし、キユの傍らにぐったりと横たわっている娘を愕然と見下ろした。
「……シファカ?」
 雪崩の名残でか、表層が崩れている雪の上に横向きに横たわる少女は、呼びかけに対しても瞼すら動かすことはなかった。雪の上に屈みこんで、抱き起こす。すると手にぬるりと触れるものがあった。
 見て確認せずともこれがなんなのか、経験上判っている。
 息を吸っているのか、吐いているのか、自分でも判らない。喉を鳴らし、ジンは抱きしめたシファカの足元を見た。
 引きずってきた、跡がある。それは丘の一角の穴で途切れていた。その人の体によって作られた轍の傍らにある獣の足跡。キユの足跡が戻りしかないことから、どうやら彼女と共に埋まり、そして這い出てきたキユがシファカを引きずり出したのだろう。
 轍には、太陽の光の下で艶やかとすら言えるほどに、美しく輝く赤が滲んでいる。
 広げたジンの手のひらに、自らの温度でもって、蒸気をかすかに上げる、赤がこびり付いていた。
 それが、古い記憶を呼び起こした。かつて、塔の上から白銀の世界に身を投げた女がいた。自分と幼馴染の目の前で。自分と幼馴染は、こうやって、雪の上に赤を散らし息絶えた女を抱き起こしたのだ。
 なんの悪夢だろう。
 自分は幾度、雪の中で、この悪夢を目にしなければならないのだろう。
 どこからが悪夢なのだろう。どこからが暗闇なのだろう。もうその境界すらわからない。ただジンは、華奢な娘の体を抱きしめた。
「御免シファカ」
 ぐったりとはしていても、まだ息があって。
 動かさないほうがよいことは判っている。けれどもこの場に置き去りにすれば、彼女は失血の前に凍死するだろう。
「御免」
 娘を外套でくるんで抱き上げながら、ジンは呟いた。
 その呼気すらかすれるほど。
 繰り返し。
「ごめん」


 瞼を上げたシファカは、甘い花の匂いをかいだ。首をかしげつつ面を上げて周囲を見渡す。全く覚えの無いその場所に、自分はどうしてこのような場所で眠りこけているのだろう、この場所にきた経緯すら思いだせず首を捻った。
 あたり一面に草が多い茂った高台である。遠くには青い水を湛える広大な湖らしきものが見えた。それを遠くに眺めることのできる場所に備え付けられた墓石らしき白い石を目の前に、膝を抱えて眠っていた、らしい。
「あなた、何をしているの?」
 唐突に声がかかり、シファカは驚きに身体を震わせて頭上を仰ぎ見た。静かに墓石らしき石を見下ろしながら、女が一人、佇んでいる。
 腰まで届く、真っ直ぐな黒い髪に黒い瞳、白い肌、その肌の色よりもさらに白い、雪色の民族衣装を身につけた女だった。美しい女だ。とても。ただまとう雰囲気は幽鬼のようで、気配が非常に希薄だった。シファカはまじまじとその女を観察した。既視感、だろうか。どこかで、あったことがあったような、なかったような、奇妙な感覚に囚われる。
「何をしているの?」
 記憶の隅から女の存在を引っ張り出そうと百面相しているシファカに、再び問いが投げかけられた。女と、目があう。墨で塗りつぶしたかのような、光のない黒い瞳だった。その瞳に射すくめられて、居心地の悪さを感じたシファカは、思案しつつ目をそらした。
「あ、いや。……えっと、なに、しているんだろ」
 自分でもよく判らないのだ。どうしてここにいるのか。ここに来る以前の記憶は、薄靄がかかったように曖昧である。首を捻るシファカに、女が小さな笑みを零した。その瞬間、空気がぐっと和らぐ。まるで妹の零す笑みのような、華やかな笑い方をするひとだと、シファカは思った。
「自分でどうしてここにいるかわからないの? 貴方」
「えーわからない、みたいです」
 どう考えても、何故自分がこのような場所にいるのか、思い当たらない。
「じゃぁ、ここに来るまでの貴方は、何をしていたの?」
「ここに来るまで?」
「そう」
 シファカは痛む頭を押さえながら、自分は一体何をしていただろうと記憶をさかのぼった。だが、いまひとつ思い出せない。しかたなく、シファカは生れ落ちてからの記憶を順繰りに確かめていくことにした。
 父に与えられた剣。母に疎まれたこと。父の死。兵への入隊。
 旅人に会ったこと。革命。王の死。旅人を、愛したこと。彼に、置き去りにされたこと。
 彼の背を追いかけて、国を、飛び出したこと。
「旅を、してました」
 シファカは言った。
「旅をしてました。好きな人が、いなくなってしまって。彼を追いかけて、旅をしていました」
「貴方、お一人で?」
 女は驚きの表情を見せ、目を瞬かせた。シファカは頷いた。
「そう……。その恋が、叶うかもどうかも、判らないのに?」
「……はい」
 随分と、無謀なことをしたものだ。
 何も判らず、何も知らず、ただ、悔しくて。彼に何も告げられずに置き去りにされたことが、悔しくて。
 そして、ただ。
 ただ、会いたくて。
「その想い一つで、国を飛び出せてしまうものなのね」
 女は感心したのか、大仰に頷いて、やがて目元を緩ませた。
「かわいい人ね、あなた」
「……は? え、あ、どうも……」
 くすくすと笑う女に釣られて、シファカも笑みを零した。
 一頻り笑って、沈黙が戻る。女が再び石に視線を戻した。真っ白い、四角く切り取られた子供ほどの丈のある石は、角が磨耗して磨り減り蔦が絡み付いているものの、雨風に晒された様子もなくよく手入れが行き届いていた。誰かが定期的に、掃除に来ている。そんな感じすらする。
 中央に、文字が刻まれている。
 掠れた、文字が。
 身を乗り出し、目を凝らして、その文字を読み取ろうと苦心する。努力の甲斐あってどうにか読み取ることのできた言葉を、シファカは胸中で呟いた。
(れい、やーな)
 レイヤーナ。
 その名前を反芻した瞬間、刺したような痛みが胸を襲った。
 誰の名前であったのだろう。訝しりかけたシファカは、一瞬我に返った。名前。そうこれは、名前なのだ。何故自分がそれが名前であると認識できたのかはわからない。けれどもシファカはレイヤーナという言葉が名前であるという確信があって、ならばこの石はやはり墓石であるのだと、納得した。
 ただの記念碑かもしれないのに、この石は、墓石であると、確信した。
「私には」
 紅が掃かれた形よい女の唇から、再び言葉が紡がれた。
「大事な幼馴染がいたわ」
 紅が刷かれた形よい唇からもれるその哀愁の響き。
「二人。どちらも、とても愛していたのよ。けれども、彼らに甘えすぎていて、支えることは、できなかった」
 唐突な話題についていくことができず、シファカはただ当惑することしかできない。仰ぎ見た女は、僅かに目を細めていた。まるで、見つめる墓石の向こうに、何かがあるとでもいうように。
「そう。……愛していたのだけれども、傷つけてばかりで。二人に、どうしようもないほどの傷を残してしまった」
 女は独白を終えると、シファカにむかって微笑みかけてきた。手が、伸ばされる。シファカの髪をすいてくる女の指の先が、かすかに頬に触れた。その指先は、とびあがりそうなほどに冷えていたが、不思議と不快感は覚えなかった。
「貴方のように、未知の世界の扉を開く勇気があれば、なりふり構わず鳥かごから飛び出す勇気があれば、なにか、変わっていたかしら」
 寂しげに笑って、女は呟く。
「私は、あの人たちを、失わずに、笑って今も、生きていたのかしら」
 今頃言っても、詮ないことだけれども。
 そう女は付け加え、自嘲めいた微笑に口元を歪めた。今にも泣き出しそうなその顔が誰かに似ている。
 彼女の口にする言葉の意味の半分も、シファカは理解しえなかった。ただ、彼女がとても後悔していることだけはわかる。けれどもきっと、彼女は泣き嘆いて『それ』を悔いることは許されないのだ。
 どうなぐさめるべきか考えあぐねていたシファカの腕を、女が唐突に引っ張り上げた。
「立ちなさい」
「……え?」
「ここに貴方が来るのはまだ先よ。こんな形で、来ては駄目」
 皮膚の下に氷を詰めているかのような、ありえないほど冷たい手が、痛みを感じるほど強く、シファカの腕を握り締める。
 シファカは痛みに顔をしかめ、思わず女を仰ぎ見る。彼女が、苦笑を漏らして手を放した。傷ついた顔をしている。
 反射的に、シファカは謝罪の言葉を口に上らせた。
「……あ、ご、ごめんなさ」
「いいわ」
 女は構わない、と頭を振り、シファカの背を強く押した。
「それよりも早く行きなさい。呼んでいるわ」
「……呼んでいる?」
 女の言葉に、シファカは耳を澄ましてみた。けれども呼び声は愚か、風の音、草のすれる音一つ聞こえない。空気というものを、凍結してしまったかのように静かだ。踏み分ける、草の音すら、聞こえないのだ。
 ただ、女の声だけが、明朗に響く。
「いきなさい」
 力強く、そういわれるので。
 仕方なくシファカは背を押されるまま歩き出した。その先は森。色鮮やかな平たい落ち葉の敷き詰められた……。
「ねぇ」
 呼び止められて、振り返る。哀切に胸苦しくなるような微笑を口元にたたえた美しい女は、鈴の転がるような耳に優しい声で、シファカに懇願してきた。
「彼らを、お願い」
「かれら」
「あの人を、お願い」
 視界が湾曲して、すっと、景色が遠ざかる。
 驚愕に息を呑んだシファカの耳に、女の声だけが残った。
「ジンを、お願い」


 あのひとを。
 おねがい。


 ぱちっ、と。
 火が爆ぜた。そう知覚した。断続的に耳に届く音は、暖炉の火が爆ぜる音だ。この国に滞在するようになって慣れ親しんだその音。温かな布団の手触りを確認して、寝返りを打ったところで、はっとなる。
 自分は確か。
 轟音を上げる、雪に、呑まれて。
 豪速で記憶が巻き戻される。シファカは上半身を起こそうと力を入れるものの、指一本、ピクリともうごかなかった。頭が鈍く痛む。頭だけではなく、体中が酷く痛んだ。筋肉痛にも似たその痛みに顔をしかめながら、視線だけをめぐらせて現在の状態を確認した。身体のいたるところに白い包帯が巻かれ、薬品の臭いがつんと鼻につく。
 頭を動かし、周囲を一瞥して場所を確認。シファカも見覚えのある場所だ。城の客室の一室であるらしい。以前モニカが寝かされていた部屋と間取りは全く同じであった。
 ふとシファカは、窓辺の椅子に腰を下ろして外を見下ろすジンを認めた。窓枠に頬杖をついて、玻璃の向こうを見つめていた。既に、日は落ちてしまったのか、外は暗い。次に太陽を見るのは六日後となる。燭台に灯された、蝋燭の灯りに照らされた整った顔に、つい、シファカは呼びかけた。
「……ジン?」
 口にしてしまってから、呼ぶのではなかったと後悔が胸を支配する。シファカを射抜いた亜麻色の双眸はあまりにも冷ややかで、整った顔には表情の色が見られない。彼は、立ち上がり、ゆっくりと歩み寄ってきた。敷かれた厚い絨毯が、彼の足音を殺す。蝋燭が作り出す彼の影が、頼りなく揺れた。
「……ジ」
 見下ろしてくる双眸は、蝋燭の灯りを吸って糖蜜色に輝き、ただどこまでも冷えていた。手が、シファカの首に触れる。殺される。首筋を圧迫する指の感覚に息を呑んだシファカは、いつのまにこの人は指の爪を失ったのだろうと、場違いなことを勘繰った。
 彼に、殺されるならそれでいいと。
 瞼を閉じたその刹那。
 身体に落ちた重みにシファカは首をかしげた。


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