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第九章 暴かれた心 2 


 モニカは痛む足を引きずって廊下を歩いていた。
 ジンと話をしてくる、といった彼女は、部屋に戻ってきていなかった。上手くいったのか、と安心していたのもつかの間、与えられた部屋から見下ろした外に、一人防寒具も身につけず走っていくシファカを見つけたのだ。慌てて上着を掴み取り部屋を飛び出したモニカは、階下に向かってひたすら歩いていた。本当は、医者に絶対安静を言い渡されていたのだが、そんなことを言っている場合でもない。事態が尋常ではないと告げていた。
「あれ?」
 苦心して階段を下りたところで、風に揺れている部屋の扉にモニカは目を留めた。ジンに、割り当てられている部屋。幾度か尋ねたことのある部屋であった。アレクの寝室と同じ間取りのその部屋からは、暖炉の明かりが漏れている。けれども人の気配が薄く、恐る恐る扉を開いて中を覗くと、床の上で放心したように座り込むジンを見つけた。
「ちょ、じ、ジン大丈夫? どうしたわけ?」
「……モニカ、ちゃん?」
「大丈夫? 何そんなところで放心しちゃってるのよジンらしくもない」
「いや俺よりもむしろ君のほうが絶対安静なんじゃ……。ちょ、ちょっとまって椅子を出す」
「そんなことどうだっていいのよ。ねぇシファカちゃんは?」
 この場所に彼女が来たのは確かだった。慌てて立ち上がり椅子を引いてくる彼の腕に縋って尋ねる。ジンは言葉に詰まったのか唾を嚥下し、顔をそらして自嘲気味に笑った。
「さぁ」
「さぁって」
「どこかへ、いった」
「ちょ、そんな言い方ないでしょう? ねぇジン、貴方シファカちゃんに何言ったの? あの子、さっき防寒具もなしで外に出て行ったのよ」
 普段、笑みを浮かべて余裕ある態度を崩すことのないジンが、このときばかりは顔に露骨な動揺を見せる。彼は酷く酷く傷ついた顔をして、淡白に知らない、と言い放った。
「……知らない、ですって?」
「そうだよ、知らない。後は、彼女がどこへ行こうと俺の関与するところじゃない」
 顔をそらしたままそう呻く彼の頬を、モニカは怒りに任せて叩いていた。普段なら、彼は絶対にそのようなものを受ける人間ではない。けれども今、ジンは、モニカの平手に頬を赤く腫らしても何も言わない。沈黙し、視線をそらしている。
 その、卑怯さが。
 余計に許せなくて。
「あ、あなた、よくそんなこといえるわね!」
 彼の尋常でない痛々しさを哀れむよりも先に、彼の不誠実さに対する怒りが勝った。
「シファカちゃん、ずっとあなたのこと、探してたんですって。ずっとずっと、しんどい思いして、あなたのこと探してたんですって。黙っていなくなったあなたを。危険な目にあって、女の子一人で、貴方のことずっと、探してたんですって! それなのに、何!? 知らない!? あなた、ちゃんとあの子に向き合ったの!? 何酷いこと言ったわけ!?」
 自分はこの国から出たことがない。
 けれども多くの国を流れてきた人々を見知っている。
 旅は身体に沢山の傷を与え、心を理不尽でもって痛みつける。旅は、良いものを与えるよ。旅人はいう。沢山の人々にあえる。良い人にも。悪い人にも。
 女の旅人は、理不尽な目にあう確率が男よりもぐっと大きいことを、モニカは知っている。身体的な不平等に付け入る輩は多いからだ。心地よいはずの故郷を一人離れて、腰に下げる獲物一つを恃んで、世界を回る。
 一体、どれほど辛い行いなのだろう。
 シファカは、それを耐え忍んできた。弱音も吐かず、一人で乗り越えてきた。本当は、とても弱い少女だろうに。
 彼女のその全ては、この男に会うためだった。
 この男に、もう一度抱きしめてもらうためだった。
 それを。
「いいなさいよ。貴方あの子になんて!」
「……て、ないって、言った」
「……え?」
「なんとも、おもってないと。迷惑だって、言った」
 そのシファカを、ジンは手ひどく突き放した。
「……あ、なた、ジン!」
 怒りに、モニカは言葉を失いかけた。怒りに戦慄く唇が、暴言を吐き出さんと無意識に開かれる。だがそれよりもジンの叫びが部屋に轟くほうが早かった。
「仕方がなかったんだよ!」
 ばん、と円卓に、上のものが飛び上がるほどに強くジンの平手が叩きつけられた。振動に思わず身を萎縮させながら、モニカは怒声を上げた男を見返す。引き攣った、余裕のない男の表情。彼のこんな顔を、モニカは初めてみた。
「仕方、なかったんだ」
 彼は繰り返す。
「俺だって言いたくなかった。愛していると、すんなりいえるようならどれほど楽か! お前に何がわかるっていうんだ! 何がわかるっていうんだよ!」
 子供のように、地団太を踏みながら叫び返してくる男は、一体誰なのだろう。
 モニカは一瞬放心して男を見つめ返した。ばつの悪そうに口を閉ざした男は、眉根を寄せて視線を足元に落としている。沈黙が部屋を満たし、暖炉の火が爆ぜる音と、窓の外から子供たちの笑い声が響いていた。
 言うべき言葉を失って、モニカは泣くことすら出来ずにいる男を見つめる。
 なんて。
 なんて不器用な人。
 自分の幼馴染もいい加減に不器用だ。蓄積した周囲への不満と寂しさをどう表現したらいいのか判らない馬鹿王子。彼以上に、不器用な人など居ないとおもっていた。ずっと。
(あぁ)
 モニカは瞼を伏せた。
(どうしてアレクが、彼に惹かれたのか)
 どうして他者を寄せ付けない彼が、ジンを酷く気に入ったのか。
(判った気がする)
 似ているのだ。
 他人を突き放すことで、護ろうとする、その歯がゆいぐらいの不器用さが。自分の身ばかりをすり減らしていくその哀しいばかりの優しさが。
 けれども、そんなもの、優しさだと、自分は認めない。決して、認めたくはない。
 モニカは、前触れなくジンの襟首をつかみ上げた。驚きに見開かれる男の亜麻色の双眸を睨みすえる。普段なら、決してこんなこと許されない。けれども彼は酷く弱って、モニカの暴挙も穏やかな眼差しで受け入れていた。
「私には、わからない」
 静かに告げる。どうして自分が泣きそうになっているのか、わからないまま。
「貴方が背負うものも、彼女を遠ざける理由も、貴方を縛るものも、何も私にはわからない。だって知らないもの。私は貴方の過去も何も。私が知っているのは、貴方の名前と、貴方が、シファカちゃんが追いかけてきた男の人だということと、そして、貴方がシファカちゃんを大事におもっているのだと、いうことだけ」
「……モニカちゃ」
「大事なんでしょう? だから、シファカちゃんのあの、赤い宝石、ずっと持ってたんでしょう? 落としたときも雪だらけになって探して、必死になって拾った私から取り返そうとしていたんでしょう? ねぇ、私には判らない。そんなに大事なら、どうしてせめて向き合ってあげないのよ。女の子が、たった一人で、旅をするって、男の人がそうする以上に大変なことだわ。身体、傷だらけにして、ずっと、探していたって。貴方が尋ねた町の人にしらみつぶしに貴方のことを尋ねて。そんな子を、関係ない、ですって!?」
 どん、とその胸を叩く。ジンの身体は傾ぐことなく、逆に縋るモニカを支えるようにして立っている。
 仰ぎ見る男の顔は舞いの面のように青白く、表情は窺い知れない。焦点の合わぬ、亜麻色の双眸。暗い、金のような、その色。
 哀しくなる。
 そんなに冷えた目をするほどに動揺をみせるのに、何故、あえて突き放すのか。
「なんとも思ってないって、どうしてそんなことがいえるの! 好きなら、大事なら、愛しているなら! 愛しているって、ちゃんといいなさいよ! 一緒に行けないなら、どうして一緒にいけないのか、理由をきちんと話してあげなさいよ! それが本当の優しさでしょう!? それが本当に向き合うっていうことでしょう!? 貴方がしていることは、それは優しさじゃないのよ! 貴方、自分が傷つきたくないがために、おびえてあの子のこと突き放しているだけよ!」
 そんな優しさの示し方、相手も自分も、一番酷く傷つくのに。
 まるで、それが一番互いに傷つかない方法なのだというように。
「ちゃんと向き合ってあげてよ! せめて! あのこ、ほんとに……」
 もう一度胸を叩くために振り上げた拳の手首が、ジンの手によって捕らえられた。はっと我に返り、モニカは男の顔を再び見上げる。彼の表情は相変わらず冷たいまま。感情は全く読めなかったが、瞳の焦点が扉のほうへと向けられていた。モニカの手首はまもなく彼の手から解放される。
「……ジ」
 ジンは沈黙したまま、モニカの横をすり抜けていった。椅子にかけられた上着を片手で掴んで、そのまま扉のほうへと歩いていく。
 扉が開き、彼の姿が消え、そして後ろ手に閉じられた。
 モニカはため息をつきながら、ジンが引き出した椅子に腰を落とした。興奮状態がおさまり、今更のように足が痛み出す。苦悶の表情を浮かべつつ身体を折りながら足をさする。するとふと、絨毯の上に並ぶ赤い玻璃球がモニカの視界に飛び込んできた。
 モニカは椅子から離れてその双子玉の傍らにしゃがみこんだ。斜めに、少し距離を置いて並ぶ玻璃球。まるで、すれ違い続ける彼らのよう。
 モニカは指で小さなほうの玻璃球をつついて転がした。かつん、と音をたててもう一つの球に当たった玻璃球は、絨毯に支えられて、まるで寄り添うようにして、それ以上転がることはなかった。


 ゆめをみていた。
 やさしいえがおで。
 まえとおなじように。
 だきしめてくれるゆめ。


「あーもーやだっ」
 ぐす、と鼻を慣らしながら、シファカは雪を掻き分けていた。糸で切ってしまった手は、じくじく酷く痛むし、泣きすぎで頭がいたかった。鼻の奥がつんとして、涙が凍って瞼が張り付きそうだ。けれども温かい布団の上に倒れこんだら、そのまま悪い夢に囚われそうで、シファカは防寒具も着ず外に飛び出したのだ。
 もともと基本の衣服も厚手に作られている。興奮もあって、最初は暖かかったが、すぐに失敗だったと悟った。しばらく歩いて、凍えそうになる。 体を抱いてぶるりと身を震わせ背後を振り返ったシファカは、自分の足跡と、後方に広がる城を見つめた。
『なんとも、おもっていない』
 とても、すがすがしいぐらいにそう明言された。
 会いたかった。
 会いたかったとても。
 ようやく会えたという感動は、刹那絶望に変わった。あの、向けられたことのない冷ややかな眼差し。哀切とも異なる、相手を真っ向から切り捨てる冷たい目。ジンはそれを自分に向けて、何しにきたのだと自分に問うた。
「馬鹿みたいだ」
 シファカは呟き、胸中で反芻した。馬鹿みたい。
 夢を見ていた。
 あの甘い声で自分の名前を呼んで、真綿でくるむように抱きしめてくれる夢。温かな体温。優しい眼差し。胸の奥に宝物のように仕舞いこんでいた記憶は玻璃細工のように粉々に打ち砕かれた。
 自業自得なのだとおもう。
 少し考えればわかることなのだ。理由はどうあれ、彼は自分を不毛の王国に置き去りにしていったのだから。最後まで、彼はあの国で優しかった。それは、彼なりの最後の思いやりだったのかもしれない。
 こんな、土地まで追いかけてきて。
 考えずとも判ることだ。迷惑だと。
 涙すら、霜になって凍てつく土地。
 シファカは雪の上に腰を下ろした。凍えようがもう知ったことではなかった。自分は、彼に命を与えられたのだとおもう。いつも自分は死ぬことを模索していた。妹を護りながら、命を消化したかった。そんな自分に、周囲に愛されていると、生きろと切望されていることをわからせたのは彼だった。
 その彼が。
 自分を、いらないと、いって。
 ぱたりと大の字になって寝そべれば、久しぶりに見る太陽がある。空の色は澄んだ青。透明な宝石のような色だった。
 世界はこんなにも美しいのに。
 心は泥に沈んだように暗澹としている。
 雪に埋もれていく、身体。
 昔、夢を見たなと、シファカはおもった。死者の葬列の夢。そこにジンが連れて行かれそうになった夢。あの場所も、こんな銀色に塗りつぶされた場所で。そのときはまだこの冷たい粉が、雪という水の結晶であることを、シファカは知らなかった。
 あの時は、ジンが引き返してきたのだ。
 今度は、もう。
 誰も。
「ここで死んだら、エイネイ、泣くかな」
 もう、国には戻らないつもりで別れを告げてきたから、きっと自分が死んでもその事実は伝わることはないだろうけれども、双子だから、何かわかることもあるだろう。双子とはそういうものだから。
 閉じた瞼の裏に、がんばれといって肩を叩いてくれた人たちの姿が思い浮かんだ。彼らに御免と謝って、シファカは鼻をすすった。泣き叫んでも、もう、彼はきっとあの夢のようには駆けつけてはくれない。抱きしめてもくれない。手を、握ってくれることさえ、名前を、呼んでくれることさえ。
 きっともうないのだ。
「……ジンの、馬鹿やろー」
 小さな呟きは、聴くものもなく、ただ静かに積もる雪に吸収された。
 ごん……
「……なに?」
 鈍い地鳴りの音を雪越しに聴いて、シファカは上半身を起こした。ぱらぱらと雪が肩からこぼれ落ちていく。シファカは注意深く周囲を観察しながら、立ち上がった。
 ご……
「また」
 断続的に、地鳴りがする。
 悪寒がして、シファカは身体を抱いた。刀の紐を腰に結びなおして先ほどつけた足跡を辿っていく。
 ふと。
 ぱらりと、雪が髪に掛かった。
 また降り始めたのか、と空を仰ぐが、そこには青空が広がるばかり。雲一つ無い蒼穹だ。雪の降る気配は全くなく、一体どこからこの吹き付けてくる雪はきているのかとシファカは首をかしげた。
 ずっ……
 鈍い、音がした。
 何かが、滑り落ちてくるような。
 背後を振り返ったシファカは、白い六花が煙と化して襲い掛かってくるのを見た。
 それを、雪崩と呼ぶことを、シファカは知らなかった。


 追いかけて。
 そうして何をいうのかはわからない。
 廊下を早足で歩き上着に袖を通しつつ、ジンは胸中で独りごちた。
 脳裏には沢山の声が響いている。生まれてから今までの。最初に生々しく刻まれているのは母の声。その次は自分が初めて殺めた人の声。怨嗟の声もあれば、幼馴染たちの笑い声もある。手に入れたものよりも、失った数のほうが多い、人生。
 いつもいつも。
 暗闇を歩いていた。
 手探りで、誰が信頼に足るのか、光を求めるようにして、歩き続けてきた。
 生れ落ちてから今までの間に、たゆまなく続く暗闇に、やがて光に対しておびえるようになった。
 光を手にして、慣れた頃に、失ったときのあの喪失感。
 絶望と、足元を捉える深遠の闇の濃さ。
 手放した光。
 けれども、手放したとおもったそれは、自分の足元を照らすために自らやってきた。
「ラルト」
 遠い水の帝国で、何十万の民の命をその背に背負っているだろう幼馴染の名を呼ぶ。
「許して」
 唇から零れる、懇願を聞き届けるものは、ここにはいない。
 それでも、呟かずにはいられない。
「許して」
 贖罪に徹すると決めたのに。
 それに、関係の無い娘一人を、巻き込むことを。
 手放したものを、もし、再び取り戻すことができたそのあかつきに――。
 ずん、と
 地鳴りがした。
 ジンは館の外に飛び出して、膨れ上がった光量に目を瞬かせた。手を額に翳して、足を踏ん張って立ちくらみを防ぐ。それでも揺れる大地に、ジンは顔をしかめた。遠くで、子供の悲鳴。
 陽光にようやくなれた目に飛び込んできたのは、雪崩だった。
 小規模ながらも雪煙を上げるそれは、地面をすべり落ちていく。幸いにも町には被害が及ばなかったものの、あと少し位置がずれていたら、この城ごと飲み込まれていただろう。
 安堵の吐息を吐きかけたジンの視界に。
 雪崩の起きた丘へと続く、雪の上に残された足跡が飛び込んできた。
 一つは人の。その横に並んだ、狼の足音。
「……シファカ?」
 滑り落ちてきた雪にかき消された足跡の先には。
 人影は、見られない。
 太陽の光に解かされた積雪の表面が、宝石の屑を撒いたかのように光り輝いていた。


 失ったものを、取り戻すことは。
 できるのですか。
 もし、取り戻すことができたなら。
 取り戻すことが、できたなら……。


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