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第九章 暴かれた心 1 


 久方ぶりの、日差し。
 ほんの数日間だったというのに、今回の夜の間は特に様々なことがありすぎたせいで、余計にその日差しを久しく感じる。ジンは椅子に腰掛け窓の外を見下ろしていた。雪で遊ぶ、子供の姿が見える。久方ぶりの『昼』で、はしゃいでいるのだろう。傍らではキユが[はべ]って日差しに気持ちよさそうに目を伏せている。一見、微笑ましいその光景。
 が、外のすがすがしさとは相反して、この部屋の空気は重苦しかった。
 ジンに与えられた部屋だ。間取りはアレクの部屋と大差ない。広い寝るためだけの部屋で、天蓋つきの寝台と書棚、書き物机、円卓、長椅子。それら備え付けの家具が具合よく配置されている。暖炉の火はよく部屋を暖め、日差しの光に加えて招力石の灯りもある。部屋はこんなにも居心地がよいのに。
 こんこん
 程なくして響いた扉の音に、ジンは嘆息した。
「どうぞ」
 窓の外を眺めたまま、応じる。
 おずおずと足を踏み入れてきたのは、無論、黒髪の剣士の娘だった。


 身の回りの世話をする狼は、なにもキユ一匹ではない。けれどもあのメス狼ほど慣れていない獣たちは、人の嘆息にも似た仕草で頭を落とし、柔い布を傷つけないように緩く脱ぎ散らかされた衣服を引きずっている。その様子を視界の端で捕らえながら、アマランスは久方ぶりに日の昇った空を見つめていた。薄い魔力の膜が虹色に揺らめいて空にかかっている。膝の上で寝こける赤子の獣の頭から背にかけて、ゆっくりと撫でながらアマランスは薄く笑みを浮かべた。
「彼らはいつも不器用な生き方をする」
 つい先日、この都を訪れた客人二人。一人は自分と同じ長命種の面影を残す夜の国の申し子であった。もう一人は西の大陸の血を濃く継いだ英雄の末であった。英雄の末は彼も含めて、幾人も知っている。
 だいたい、自分を訪ねるものの誰もが、奇妙な星めぐりをしているものたちばかりなのだ。その誰もが皆不器用で、愚かだ。拙い生き方しか、彼らはできない。
 アマランスは瞼を落とした。強く儚い彼らが、倖せになれるよう。
 祈りを。
 天に掛かる虹の幕に捧げた。


 シファカは部屋の入り口から動こうとせず、ただ両手を前で組んで俯いていた。短く切られた髪が光を反射して揺れている。綺麗な黒髪。以前、無造作に彼女の手で切られた髪。そのまま、短いままにしていたらしい。
 以前から華奢な印象のある少女だった。どこか硬質の透明な青さがあったのに、それがそぎ落とされて綺麗になっている。日に焼けていた肌は色が薄くなって、濡れた瞳は水に沈めた宝石のようだ。丸みを帯びた身体の線は、衣服の上からでも十分すぎるほど扇情的だった。
 会いたかった少女。
 夢見てまで。
 けれども決してこのような再会の仕方を望んでいたわけではない。こんな、あの灼熱の地から遠く離れたこの場所で。
 入り口に佇んだままの娘に、ジンは小さく噴出し笑いをして立ち上がった。立ち上がり、棚に歩み寄って茶器に被せられた布を取る。
「何をぼっとしてるの。こっちに来たら? お茶入れるから」
 かちゃりという陶器の触れ合う音に、足音は混ざらなかった。気配は、動かない。ジンは茶器を触る手を止めて面を上げた。シファカは、先ほどの位置から動こうとはせず、ただ伏せていた面をあげて、射抜くような眼差しでジンを見つめていた。
 紫金の、双眸。
 その眼差しに、惹かれたのだと。不器用ながらも、必死に、前をみるその眼差しに。
 思い出す。
 記憶が蘇る。
 あの、白い砂が吹き荒れる、褐色の大地を。
「シファカ」
「お茶を飲みにきたわけじゃないんだ」
 シファカはそういい、刀の飾り玉をもてあそんだ。かちかちと揺れる、赤い瑪瑙の玻璃球。
 ジンは彼女に向き直り、それで、と続きを催促する。自分でも驚くほど、冷ややかな声が紡がれた。
 シファカの華奢な肩が震える。けれども彼女は、目をそらさなかった。
「私、ジンのことが、好きで」
 [しぼ]り出すように。
「会いたくて」
 震えた唇から。
「会いたくてたまらなくて」
 震えた声で。
「それで、後を、ずっと追いかけてきて」
 紡がれる告白。
 シファカは一度唇を噛み締め、どうやら呼吸を落ち着かせようとしているようだった。泣き出す寸前。幾度となく、彼女が泣く姿をみてきた自分だから、よくわかる。
 眩暈がする。
 そんな理由で追いかけてきたのかと。
「……それで?」
 憎んで。
「……うそつきって、いいたくって」
 憎んで。
「……それで?」
 憎んで。
「いっしょに、いるって、いったのに」
 憎んでお願い。
「……それ、で?」
 微笑んだ。今まで、策謀を腹に抱える王侯貴族を相手に培ってきた、演技力全てを注ぎ込んで。
 出来る限り、冷ややかに。
 心が悲鳴を上げる。
 顔の筋肉が悲鳴を上げる。
 ぎしぎしと、何かが磨り減っていく。
 精神が、磨耗していく。
 彼女が、今度こそ押し黙った。唇を傷つけるほどきつく噛み締めて、刀の鞘を握る手を土色に転じさせて。
 どうして、こんな風に。
 どうしてこんな風に言わなければならないのだろう。
 彼女が、きちんと彼女の家族に囲まれて、笑っていてくれたなら。
 こんな風に彼女を傷つける言葉ばかり、吐き出さなくてもいいのに。
 彼女が自分を追いかけてきて。
 愛情を示す言葉を吐いて。
 本当は泣き出したいぐらい幸せで。
「……私、ジンに大事にされているんだって、思った」
 それなのに。
「……ずっとそんなことないって、思い込もうとしていたけど。ジンは、私にいつだって優しかったから」
 それなのに。
「……やっぱり、わたしのことなんて、どうでもよかった?」
 自分は彼女を突き放す。
「そのあたりにいる、ふつうのひととおなじだった?」
 彼女を。
「わたしは――」
 自分に潜むこの狂気から護るために。
「勘違いしないでシファカ」
 え? と上げられた面。困惑と、期待の混じったその視線。その視線に射抜かれるだけで、全てを吐露してしまいたくなる。けれどもそういうわけにはいかないのだ。彼女に、自分の荷物を背負わせるわけにはいかない。自分の矜持に巻き込むわけにはいかない。彼女は、しかるべき人にきちんと愛されて、幸せになるべき娘だから。
 自分が、自分みたいな人間が、その可能性を摘み取ってしまうわけにはいかないのだ。
「俺が人に優しくするのは、そうしたほうがその土地になじみやすくなるから。一種の処世術だよ。君のその感情は、俺に優しくされて、困惑して、恋心と勘違いしているだけだ。君は、寂しがりやだから。本当は俺のことなんて、なんとも思っていやしない。一時の熱に、浮かされているだけだ。俺も、君の事なんて」
 愛している。
「なんとも」
 愛している。
「おもっていない」
 愛しているのに。
 刹那、顔面に何かが叩きつけられた。
 足元に、弾んだ球体が二つ。双子の玻璃球は、ジンの足元の絨毯の上に、音もなく転がった。引きちぎられた飾り糸。シファカの手は糸を千切った拍子に傷ついたのか、赤く染まって雫を零していた。その雫を見て、蒼白になる。駆け寄るために足を踏み出しかけ、ジンは思わず名を呼んだ。
「シファ」
「わたしは」
 ぽた、と。
 絨毯に染みを創った雫は、赤い雫だろうか。
 それとも、彼女の頬から零れる透明な雫だろうか。
 大粒の涙をはらはらとこぼしたシファカが、血で染まった手で目元をこすった。ただでさえ赤い目元がさらに赤さを増して、華奢な震える肩が痛々しく、ジンはかける言葉もなくただその場に立ち尽くす。
「私、本当に」
 彼女はひく、としゃくりあげて、消え入りそうな声で呻いてきた。
「本当に、ジンのことを、あいしてるのに」
 雷を受けたような衝撃が脳髄を貫いて、ジンはただ泣き濡れる娘を見つめ返した。瞬きを繰り返して涙をこぼしたシファカは、俯いて踵を返す。扉が開き、彼女の姿が闇に消えた。突然身を起こしたキユが慌てたように彼女の背を追いかけて、半開きの扉の向こうへと姿を消す。暖炉の火が爆ぜる音だけが響く部屋で、ジンはその場に腰を落とした。もう立ち上がる気すら、起きない。
「は……はは」
 顔を手で拭ったジンは、その手のひらが濡れることすらないことに気がついた。
 人には、感情がある。
 哀しみを感じる心があって、生きるにはただ邪魔にしかならないそれを、人が引き受けることができるのは、泣くという行為があるからだと、聴いたことがある。
 涙をこぼせるから、哀切を感じても耐えられるのだと。
 けれども、磨耗した心にはそれすら許されない。
 目元を押さえた手のひらに、涙は零れない。
 ただ、渇いた喉から。
「ははははははは、はははは」
 哄笑だけが、漏れた。


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