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第八章 重なりし軌跡 2 


「……な、なら、あんたは一体どうなんだ…?」
 恐る恐る震えながらも問うてきた男は、アレクの一瞥をまともに引き受けて萎縮した。獣の虹彩を持つアレクの一瞥は、必要以上に鋭く人を射抜くのだ。アレクはだが視線をくれただけで、男の問いの続きを待っていた。
「あんたは、何時だって横暴だった。俺たちに対して、好き勝手振舞って。あんたらが、王だなんて、俺たちには耐えられない」
「アレクは最初から横暴だったわけじゃないわ」
 口を開いたのはモニカ。失血で青ざめた唇を一度引き結んだ彼女は、アレクの腕に縋りながら立ち上がる。真っ直ぐな眼差しで、周囲を見渡して。
「あんたたちの心無い言葉に、この馬鹿はどう反応していいのか判らなかっただけよ。それでも、こいつは決して、無理なことをあんたたちに叩きつけたりはしなかったでしょう? 馬鹿だったけど、そこはきちんと守ってわよ。あんたたちの言葉に、じっと耐えてたわよ。何も判ってない大人たちが、勝手なこと言わないでよ!」
「俺が」
 アレクはモニカの頭に手を触れさせて、視線を揺るがすことなく周囲を見渡していた。窓から差し込む夜明けの光に照らされて、白子の透明な輪郭があらわになる。暗闇の中の一筋の光のように、おぼろげに輝く輪郭。
 目を細めて、ジンはアレクを見つめた。
「王の器であるかどうかは、俺が王になってから貴様らが改めて決めればいい。貴様らに渡したほうがいいとおもうのなら俺は遠慮なく貴様らにこんな国押し付けて出ていってやるわ。だがな、今は貴様らの君主はこの俺だ。命令する。この男を、捕らえて牢に入れろ。それから医者を呼べ。湯を沸かして休める部屋を整えろ。そうすればお前たちのこの反逆も、不問にしてやる」
 しん、と。
 当惑からか、それとも怯えからか、広場には痛いほどの沈黙が広がった。処女雪の平原のような。僅かな空気の震えすら、肌に伝えるその静寂。
「何をぼっとしておるのか」
 そこに割り込んだ声は、ハルマンのものだった。集まる民の間から、一体何をしていたのやら、薄汚れた姿で、けれども堂々と人々を睥睨している。彼は冷ややかに一同を見回し、小さく告げる。
「我らの王が、命令しておるぞ」
 ややあって、雷を落としたかのようなアレクの怒声が、その場に響き渡った。
「散れ!」
 兵士も農民も。
 武器を取り落としながらわたわたと散っていく。数人が縄をもって恐々と駆け寄ってきた。ジンはその縄を受け取って、目を伏せているシルキスの腕をねじり上げた。抵抗するつもりはないらしく、彼の手を離れた短剣が音をたてて地に落ちる。男の手首を縄で結わえたジンは、その手を押さえたまま青龍刀を鞘に収めた。兵士数人にシルキスを手渡す。ここから先は彼らの仕事。牢屋に、連れて行くだろう。右往左往する人々越しに、運ばれていくモニカが見える。アレクは一言二言彼女と言葉を交わし、兵士たちにぎこちないながらも命令を下していた。何かを、乗り越えたのだろうと思う。暴力と暴言でしか、自分の苦しみを訴えることしかできなかった彼が、一つ。責任に向き合えるようになった。
 微笑を口元に浮かべかけたジンは、すぐ傍で、ぱちんという、もう一つ刀を鞘に収める音を聴いた。
 シファカだ。
 彼女もまた立ち上がり、首を少し押さえたあと、まっすぐにこちらを見返してきた。
 現実に、立ち返る。
 何を言うべきか。
 どうしたら、いいのか判らない。
 こんな形での再会は、全く想定していなかった。
 シファカの刀に、二つの玻璃球が揺れている。モニカに護り代わりに預けた玻璃球。彼女の手を通して、シファカの元に戻ったのだろう。シファカはぎこちなく微笑んで見せたあと、表情を消して俯いた。
 手が、伸びてジンの服の袖に躊躇いがちに触れる。傷だらけの指先をみて、息を呑む。なんて指をしているのだろう。もともと傷の多い少女だった。男に混じって剣を振るっていた娘だったから。けれどもそのとき以上に、指が荒れている。肉刺が潰れて硬くなった皮膚。痛々しい、傷ついて裂けた指先。
 今すぐその手をとってかき抱きたい衝動に駆られた。
 そんなことをするわけには、いかないから。
 抱きしめれば、もう、離せなくなるから。
「……き、ちゃ、った」
 そう零す娘に、ジンは冷ややかに告げた。
「何しに来たの」
 シファカが、弾かれたように面をあげる。振り払いはしなかったが、身じろぎしたジンから、彼女の指は容易く外れる。
 指を、宙に浮かせたまま。
 シファカは言った。泣き出す寸前の、震える声で。
「あいたか、た、んだ」
「……そう」
 笑うことすら。
 できない。
 ただ、冷たく突き放すことしか。
 けれどもここから動くこともできなかった。根が張ったかのように足が動かない。目を背けることすらできず。
 ただ、娘の泣きそうな眼差しを受け止める。
 シファカは唇を噛み締めたあと、小さく笑って、小首をかしげた。
「きたら、だめだった……?」
 限界だった。
 ジンは顔を背けて嘆息した。これ以上言葉を吐くことも許されなかった。口を開けば、何をいうか自分でもわからない。ただ血の気が失せるほどに拳を握り締め、下唇をかんだ。血の味が、舌の上に広がる。
 視界の端に、娘の傷ついた顔が、映った。


「牢屋につれていくの?」
 兵士二人に地下牢へと連行されている最中、そう声をかけてゆく手を阻む男がいた。
 面をあげずとも判る。そこにいるのはこの国の第二王子だ。リシュオ・ロト・フォッチェス。雪に埋もれていた自分を助け匿い、介抱したのがこの男だった。
「は……」
「兄上が戻ってきたんだね」
「はい……」
 殿[しんがり]役を務める兵士たちがリシュオに応じる。視線を感じて、シルキスは面を上げた。そこにあるのは責めの眼差しではない。表情の読めない、凪の海のような静けさを湛えたそれが、憔悴した男の姿を映していた。
「ここからは僕が連れて行くよ。牢屋まではすぐだし」
 淡々としたものいいだが、強制力のある囁きに、シルキスは首をかしげた。青年の発言の裏の意図が汲み取れなかったからだ。リシュオはシルキスを見ようとはせず、柔らかな微笑を二人の兵士に見せていた。
「僕が責任をもって連れて行くよ。兄上にもそう伝えておいて」
「え、殿下お一人で」
「そうだよ。さぁいって。いろいろとしなければならないことは、あるはずだから」
 嫌われ者のアレッサンドロならばいざ知らず、リシュオはこの国で人気の高い王子だ。彼という存在を通すことで、民を簡単に手中に収めることができたのは確かだった。兵士たちは顔を見合わせると、シルキスを拘束している綱の端をリシュオに手渡し、一礼して踵を返す。彼らの足音が廊下の彼方で途絶えたところで、リシュオが綱を強くひいた。付いて来い、という意味だろう。シルキスは黙って従って歩いた。世があけて朝ぼらけの光に沈む廊下は、やけに目に痛い。
 光とは、これほど眩しいものであっただろうか。首を一つ傾げた頃に、リシュオが一つの扉の前で不意に足を止めた。
 そこは、地下牢へ続く扉ではない。
 裏庭へと続く扉――……。
「……どうか、なさいましたか?」
「一つだけ、聞かせてほしいのですが」
 リシュオが向き直り、抑揚の無い声音で尋ねてくる。表情の読めない顔に正面から向き合ったシルキスは、彼の言葉を静かに待った。
「貴方が、その、貴方の理論を、証明しようとしたのは、貴方が生きるためであったのですか?」
「……どういう意味ですか?」
「貴方が」
 リシュオが、光差す窓の外を眩しそうに見つめた。六日に一度だけ差し込む太陽の明かり。まだ日が昇って間もないためにその光は頼りないものの、暗闇になれた目にとって、その光量は十分すぎるほどだ。
「この国にたどり着いたとき、貴方は死にたがっていたようでしたから。むしろ死ぬために、この国に来たようでしたから」
 この国に、たどりついたとき。
 吹雪だった。
 死者を見た。長い長い死者の列を。連れて行って欲しいと思った。もう自分には、何も残っていないから。
 世界を流れて、それを確認して。
 ただ、道連れにしたかったのかもしれない。
 自分自身の破滅に。
 この、自分を助けた小さな国を。
 孤独は暗闇にそのまま通じる。その暗闇から抜け出すために。[すが]るようにして。
「そうですね」
 シルキスは微笑んだ。
「生きるために」
『シルキス』
 取り戻したかったものがあって。
『ごめんなさいシルキス』
 もう、取り戻せないものがあって。
『私はもう』
 けれどもその失われたものは、自分を失ってもなお、自分に生きろといったので。
「いきなければ、ならないからこそ、私は」
 この煉獄に、道連れにしたいと思ったのだ。
 リシュオは微笑み、シルキスの背後に回りこんだ。首をかしげてつかの間、ぶつっという、縄の切れる鈍い音がする。驚きに目を見開いて背後を返り見る。リシュオが、微笑んで、シルキスの背後から手を伸ばし、扉を開けた。
 日差しに表面を煌かせる、白銀の世界。
 ひやりとした風が、頬を差す。
「……中庭をぬけて、裏の塔に入り、そこから裏山にぬけると、山小屋があります。そこには非常時の食糧と防寒具が置かれているはずです。使ってください」
「……貴方は」
「そこから山を登りきると、氷の帝国の灯りが見えます。その灯りを導に山を下れば迷いません。山の頂から向こうは、氷の帝国の領地です。吹雪には、当たらないはずですから。それが、最短の道です」
 前に進み出て朝日の光あふれる中庭の奥を指差すシルキスを、眉根を寄せてリシュオは見つめた。振り返った彼は、寂寥を含んだ微笑でもってシルキスを迎えた。
「たとえ僕を利用しただけだとしても。私の話を真剣に聞いてくれたのは、貴方でしたから」
 初めての友人を得た気がして、嬉しかったのですと。
 リシュオは言って、シルキスの背を押した。きゅ、と足元で鳴る雪の音。当惑の表情を取り繕うのも忘れて、シルキスはリシュオを見返した。いつの間にか手に握らされていた彼の短剣。ゆっくりと、閉じる扉。
 ぱたんと音をたてて閉じられた扉は、こうして自分と他者との世界を断絶した。


 くるりと踵を返したリシュオは、やや距離の開いた廊下の端。自分を睥睨している兄を認めた。久しぶりに窓から差し込む陽光を避けるようにして兄は暗がりに佇む。けれどもそれでもなお、光の下に立っているかのように神々しい。穢れのない白を宿した王子。自分はいつも、この同腹の兄に畏怖を抱いていた。
 同じ母の腹から生まれたというのに、この差は何なのだろう。それは兄も感じていたことであろう。自分が勉学に勤しんだのは、彼から受けるその畏怖感を克服するためだったといっても良かった。
 王は彼がなるものだと、ずっと思っている。
 今も昔も。その、神に近しい姿に魅せられてから。
 畏怖など克服することは出来ないのだと、理解してから。
「逃がしたのか」
 リシュオは恭しく頭を垂れた。二人の間に横たわる関係は兄と弟のそれではなく、王と家臣のものに他ならない。
「はい」
 肯定して、リシュオは笑った。誰かに去られる寂しさが、自然に笑みに滲む。
「処罰は受けます」
 言い訳はするつもりはなく。ただ、シルキスには生き方も、死に方も、彼自身の手で決めて欲しかったのだ。
 彼は初めて、自分を正面から向き合ってくれた人間であったので。
 国の民が自分を慕っているなどと、嘘だ。
 彼らはただ、アレクに感じる畏怖を誤魔化すために、自分に目を向けているに過ぎない。自分たちは古き神の律に従う夜の王国の民だ。誰もが、一体誰が真の王なのか、本能で知っている。
 自分は民の道化だった。自分に王は向かない。王になるつもりもない。いつの間にか兄も自分も押しつぶす民人の期待とかけ離れたところで自分を見つめるシルキスのことを、自分は決して嫌ってはいなかった。
「兄上」
 リシュオは面を上げ、兄を見据えた。白い異形の王子の目が細められる。猫のように、狭まる虹彩を真っ向から見据えてリシュオは問うた。
「王になって、あなたは幸せになれますか?」
 幼い頃、よく遊んでくれたことを覚えている。彼が自分を突き放すようになったのは、母が死んだ頃だった。たった一人残った家族を失わないために、兄が選んだ方法は、距離を置くことだった。横暴に振舞って、自分たち兄弟の距離を広げることだった。
 この国に王は要らない。王が幸せになれる国でないのなら。
「幸せかどうかはしらん。そんなこと、考えたことはない」
 兄はいつもと変わらぬそっけない口調で答えた。
「そうだな。だが、もし家臣共が俺のことを馬鹿にせず、この外見で侮らず、命令を聞くようになったら、俺は満足するだろう」
 リシュオは俯いた。
 ずっと恐れられ疎まれ続けてきた兄。民が望むままに暴君を演じ続けてきた兄。彼は、国民に己の存在を認めさせるという。彼の言ったことは果てしないことだ。小さな国でも、民の数は決して少なくはないのだから。
「リシュオ、それは俺一人の力では、それは無理だろう。俺はモニカのいうところの、馬鹿王子だからな」
 そこには卑下の響はなく、ただ事実のみを述べているという淡白さがあった。
 リシュオは面を上げた。兄の双眸に宿る瞳は静かで、それは朝焼けに沈黙する雪に似ている。あれほど感じていた畏怖を、覚えない。粛々とした、まるで洗礼を受けるような心持ちでアレクを見つめ返したリシュオは、初めて、王としての兄の命令を受けた。
「俺を助けろ。それで今回のことは不問にしてやる」
 リシュオは再び恭しく頭を垂れ、その場に膝をついた。
「御意に」
 小さな呟きから一拍おいて、足音が近づいてくる。頭を抱かれて驚きに目を瞬かせていると、耳元に馬鹿が、という呟きが落ちた。
「泣き叫んで見せればいいものを。お前は友人を失ったんだぞ」
「あに」
「可愛らしく甘えて見せればいいのだ弟の癖にお前は常に生意気な。たった二人の兄弟だというのに」
 リシュオは頭を垂れたまま、嗚咽を漏らす。やがてその嗚咽は朝の陽光がゆたう回廊をしとしとと満たしていった。


 王座の間を、人が慌しく往来している。ハルマンは無理をしたためかそこここが痛む身体を引きずり、年波には勝てないと苦笑を浮かべた。
 周囲は窓から差し込む夜明けの光に満たされて、久方ぶりの太陽の光は、玻璃越しとはいえども目に痛い。
 光の眩しさに無意識に日陰を求めたハルマンの目に、一組の男女が映った。
 人の往来は、誰も彼らが見えていないかのようにその傍を通り過ぎる。鈍重な空気が、その二人の周囲を満たしていた。太陽の光も、届いていない。まるでその場所だけ、夜のまま、置き去りにされてしまったかのように。
 彼らは、向かい合って俯いている。重い沈黙。誰も声をかけるものはなく、二人の顔見知りのハルマンですら、そうすることは躊躇われた。
 ジン。
 シファカ。
 二人の旅人は、唇を噛み締めて、黙りこくっていた。
 互いに、血の気を失うほどに拳を握り締めながら。


 ざく、と。
 自らの重みで固さを増した雪を踏み分けたシルキスは、背後を振り返った。徐々に遠ざかる堅牢な城が眼下に広がっている。久方ぶりの太陽の光を受けて輝く城の眩しさに目を細めて、シルキスは胸中で呻いた。
 なんて、お人よしだろう。
 なんて。
 天を仰ぐ。まだ、早朝で、空は白いのに。
 その白さが目に痛い。
 また、ひとり。
 そう仕向けたのは、この自分。
 シルキスは喉から笑い、その頬につめたい感触を感じた。それが冷気に凍てついて、水晶のように煌きながら落ちていくさまを視界の端で捕らえる。
 歩き出す。
 霞む光の下に見える、冬の森。
 くらい。
 くらい。
 暗闇のなかへむかって。
 再び。


 王国の夜はあけた。
 けれども僕らはまだ。
 暗闇の中。


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