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第八章 重なりし軌跡 1 


 少しやつれていた。
 痩せた、といっていいのかもしれない。精悍さが、少し増していた。深い亜麻色は光の加減でとろけるような金色に転じる。光を受けた髪も同じく。伸びた髪が無造作にうなじで束ねられているのも、まえと変わらず。無精ひげが伸びて、疲れた顔をしていたけれども。
 目の前にいるのは、確かに探していたそのひとだった。
 シファカは泣きそうになりながら名前を呼び、そして、冷たい死の宣告のような響きの、求めていた男の声を聞いた。
「その子は、誰」


「そのこは、だれ」
 ジンは刀の柄尻を握り締めながら、シルキスに向かって吐き捨てた。対峙する男は眉をひそめ、静かに問うてくる。
「この娘は貴方の知り合いではないのですか?」
 ジンはシルキスの腕の中で息を呑んで蒼白になっている娘を見つめた。黒い髪、紫金の瞳。自分が灼熱の土地に置き去りにしてきた少女。
「知り合いだよ。俺が、見ているその幻影が、[かたど]る少女は」
「幻影?」
「そう」
 低い笑いが喉の奥から漏れ、肩が揺れる。見据えた先にある少女の姿は、ここにあってはならないものなのだ。
「何をしたの? どんな魔術? まじない? どうやったのかは知らないけれども……よく、出来た幻影だ」
「貴方は、この娘が全くの幻だと」
「俺の記憶を基礎にして、引っ張り出したの?」
「貴方ともあろう人が、私がそのような小細工を講じる時間がありましたか」
「その子がここにいるはずがないんだよ! ホンモノじゃない! 本物であるはずがないんだ!」
 地団太を踏み、ジンは声を荒げた。モニカとアレクがその声量に驚いたのか、身を一瞬震わせる。シルキスの、片眼鏡の奥の冷めた瞳がジンを捉えている。ジンは肩で呼吸をしながら、奥歯を噛み締めた。
 愛してしまった、少女。
 もう、誰も愛さないと決めていた。失ったものが多すぎたから。それなのに、心の中にいつの間にか入り込んでいた少女。病むほどに愛していた女のように失いたくなくて、壊れるほどに愛していた幼馴染のように決別したくなくて、自ら、手放したのだ。
 幸せになってほしかった。
 自分の全く関係のないところで。
 どうかどうかどうか忘れて。
 忘れてしまって。
 全部。
 全部。
 繋いだ手のぬくもりも。交わした、たわいの無いおしゃべりも。
 自分がいたという記憶全てを忘れて、歩みだして欲しかった。
 それなのに。
 それなのに、少女はここにいる。
 シルキスの手の中にある存在が、幻影ではないことはわかっていた。成長していたから。青い果実のように未成熟だった少女は、少し丸みを帯びて、娘になっていて。その瞳が濡れていて、心の中をかき乱す。
 耳を塞ぎたい衝動に駆られながら、ジンは唇を噛み締めた。
「ジン」
 名を呼ばないで。
「ジン」
 幻影が。
「ジン」
 幻影でなくなってしまうから。
 胸を占める痛切さに、苦渋の表情を浮かべて面を上げる。
「……シファカ」
「……あぁ、やはりこの娘は、貴方の大事なものであったのですね」
 シルキスは目元を歪ませ低く笑った。喜びと、哀切と、矛盾する感情を押し込めた笑いだ。シファカの首を圧し折る勢いで彼女の肌に食い込む指に、ジンは顔をしかめる。
「……その子はあんたが証明したいこととは全く関係ないはずだよ」
「いえ。一つまた証明できましたよ」
「……何を」
「私が欲しいものは、常に、他の誰かのものになってしまうということ」
 シルキスがシファカの首を掴む手に一度力をこめ、放した。眉根を苦痛に寄せた娘ががくんとその場に膝を突く。
「そして、私のもとには、なにひとつ、のこらない」
 床に手をついて、シファカが激しく咳き込む。シルキスは嗤い、短剣の握られた手を振り上げた。ぞっとする。今からどう踏み込んでも、刀を抜いても。その一条の銀が娘を貫くほうが早い。
「シファ――……」
 ぐゎ、と。
 獣の唸り声がした。
 いつのまに回り込んでいたのか、キユがシルキスの真横の席から飛び出していた。飛び出す獣に、驚愕の眼差しを向けてシルキスが短剣を握る手の手首を返す。キユはシルキスが繰り出した剣戟を器用に潜り抜けるとその肩口に食らいついた。
 だん、というシルキスが肩から倒れこむ音が響くのと、ジンが青龍刀を鞘から抜きながら踏鞴[たたら]を踏むのはほぼ同時であった。シファカが首を片手で押さえながらもう片方の腕を伸ばし、刀を掴む。シルキスが身を起こした瞬間には、ジンの刀の切っ先と、シファカの刀の切っ先が、それぞれの位置からシルキスの首を捉えていた。
 薄皮一枚の位置に据えられた二本の刃に冷ややかな視線を向けて、シルキスは沈黙する。
 ジンはその男を見下ろしながら、静かに告げた。
「馬鹿げているよ」
 馬鹿げている。
 瞼を下ろして反芻する。馬鹿げている。
「……君が論じた理論は欠陥だ。王なしに生きられる国のあり方を説いて実行するには、君の国もこの国も無知すぎる」
「……あぁ、思い出しましたか」
「君の師匠、だね。会ったことはあるよ。君の国が滅びた経緯も知っているけど、それをこの国に持ち込んで一体どうなるの。王がいて、平和に機能している国を強引に民の手に明け渡したところで、君の理論が達成されるわけじゃない」
「おいジン、いい加減にお前説明しろ。俺には一体なにがなんだか」
 いつの間にか場所を移動していたアレクが、モニカの腿に布を当てながら、眉をひそめる。ジンは目を開いて目の前でシルキスが跪いていることを確認しつつ彼の問いに答えた。
「シルキス・ルスが証明したかったのは、王なしで国が機能するかどうか……彼が昔、彼の祖国で説いて、大きな暴動に発展した理論だよ。彼は一度、王座を継ぐつもりの全く無いリシュオ王子の手を通して、この国の民に王座を分け渡す、つまり、王という存在をなくしてしまうつもりだった。民主化、っていうんだけどね。けれどもこの論理は欠陥が証明されている。そうであるのにこの男は、たまたまたどり着いたんだろうこの国で、こんな馬鹿げた茶番劇を演じてまで、その理論を証明しようとしていた」
「……なぜ?」
「さぁ。それは本人に聞かないとねぇ?」
 ジンはシルキスから視線をそらさずに、口元を笑みに歪めた。刀を握る手が、じっとりと汗ばんでいる。視界の端にシファカが映っている。いったいどうしてこの騒ぎに巻き込まれたのかは知らない。けれども事情も何も飲み込めていないのは彼女も同じはずだった。けれどもそんなことはどうだっていいというように、彼女は自分を見つめている。刺さるその視線が痛く、苦しい。そんな泣きそうな顔をしてこちらを見つめないでほしい。全てを放り出してしまいたく、なるから。
 きちんと、こちらのけりをつけなければ。
 彼女と向き合うのは、それからだと。
「もう一つの、未来ですよ」
 シルキスが、自虐めいた嗤いに肩を揺らし、そう呟いた。
「学んできたことがあったのです。心血を注いで、学び培ってきたことが。きっとそれは、大切なものを護る力になるのだと信じて。けれども結果、私の大事なものは指をすり抜けて失われ、私の学んできたことは全くの無駄だと判った」
 片眼鏡の奥の瞳はどことも知れぬ彼方を見やり、口元は自嘲に歪む。
「せめて、一つぐらい、正しかったと。失われなかった未来もあったのだと、ただの自分の力不足だと、運命などという理屈で全てを片付けてしまわないために、私には必要だった。学び、培ってきた知恵。師と、決別した意味。失われてしまった生きる指針を取り戻すために。誰を傷つけてもかまわない。何を壊してもかまわない。その呪いも怨嗟も責も、厭わない。ただ……私の選択以外、何も、間違ってはいなかったのだと」
「それを馬鹿だというんだよ」
 ジンは嫌悪をもって吐き捨て、空いている拳を握り締めた。過ぎ去ってしまった過去は取り戻せるはずもなく、そこに取り戻せるかもしれない可能性を見出しても、結局は同じことだ。
「全てが運命であろうがなかろうが、力不足であろうが。失われてしまったものは、どうにもならない。失われてしまったものは取り返せない」
「取り返せます」
 シルキスは、断言した。ジンを見上げてくる眼差しは、何かに縋る子供のように泣きに歪んでいる。見開かれた瞳の奥に、彼の必死さと痛切さを見る。
「取り返せます。取り返すために、私はもう一度、過去も未来も、見渡せる場所に立たなければならない。そのためには、何が間違っていたのか、見極める必要がある。だから私は証明しなければならなかった。間違っていたのは、私の選択であると。そのほかは、間違っていなかったのだと。運命にもてあそばれただけではないのだと。決して、そんなことはないのだと」
 バタンっ……
 扉の開く音は唐突に、そして盛大に広い空間に轟いた。続けて部屋を満たす足音。人の気配。ジンは面を上げ、アレクは立ち上がって周囲を見回した。まだ残っていたらしい衛兵。武装した住民たち。そのうち一人が躊躇いがちに前に進み出て、小さく呻く。
「これは……」
 彼らが戸惑うのも、当然だった。
 どうやってシルキスが洗脳したのかはわからない。けれども彼の言葉に説得されて自分たちを追い回していたのは彼らだ。今この場には、彼らの真の主と、彼らにリシュオという存在を通して間接的に命を下していた男と、追い掛け回していた少女と、自分と……役者が揃っている。
 ジンとアレクを追い回していたのは、男たちを殺した犯人であると自分たちをみなしていたからだ。もしかしたら、モニカを傷つけたから、という理由も入っているのかもしれない。それなのに住民たちを傷つける相手としてみなされていたアレクはモニカを手当てし、けれども自分とシファカはそれぞれの剣でシルキスを殺しに掛かっている。その傍には獣が控え、シルキスには特に抵抗するようすも見られず。この状況に陥っているジン自身、混乱しているのだ。踏み込んだばかりの民人が、状況を飲み込めずに当惑するのは、当然のことであった。
 ジンは動けず、シファカも動くことはできない。モニカも失血からか、いつもの気丈さは失せて青ざめている。ただ一人、アレクだけが立ち上がり、決然として民に命令を下した。
「この男を今すぐ捕らえろ」
 アレクの声は低く、けれどもよく通った。まるでそれは神の宣のように。広い王座の間に、荘厳に。
「国の内部をかく乱した。見逃すことはできない。今すぐ捕らえろ。今すぐだ」
「……し、しかし」
「貴様らの王は一体誰だ!?」
 だん、と足を踏み鳴らしながら、アレクが轟然と叫んだ。その声量に民人の誰もが萎縮する。白い異形の王子は苛立たしげに胸をはり、震える手で各々の武器を握り締める彼らを睥睨した。
「何時から貴様らはこの男の下僕になった。容易く人の口車に乗ってばかりの愚か者めが! 命令だ! 誰か縄をとって来い!」
「お、俺たちに、王はいらない。お前を、王などと、俺はみとめ」
「それを愚かだというのだ自分で自分の行く末すら決めれんばか者たちが! この男の言い分を聞きながら、それが本当にどういう意味だかわかってもいないのだろうが!」
「……は?」
「おいジン」
「……何?」
 刀の柄を握りなおしたジンは、シファカの向ける刀の切っ先がシルキスの首筋を捉えていることを確認して面を上げた。細められた色素の薄い瞳が、不安げに揺れている。そういえばこの男はまともに人の前に立って命令したことはないのだと、ジンは思い出した。人の上に立つということは言動に責任を持つということで、アレクは今初めて、その責任に向き合ったのだ。
「先ほど国が無知すぎる、といったな」
「言ったね」
「その民主化、というやつは、つまり国民が馬鹿じゃ機能せんという、そういうことか?」
「そういうことだね」
 王なしで機能した国はたった一つだ。水晶の帝国と呼ばれた、剣の帝国ディスラのみ。皇帝はいたが、政治機構には全く関与していなかった。その国が皇帝なしで運営が可能であった理由はただ一つ。
 国民全てに徹底して施された、政治教育だ。
 シルキスの国も、この夜の王国も、教育というものは高価なものだ。識字率は低く、結局執政できる人間は限られてくる。たとえ民主化が成功しても、誰が執政するかで暴動が起きる。教育が徹底されていたとしても、自分で考え、生きる道を選びとることのできるものたちが民でなければ、自分自身の人生の王になれるものたちが民でなければ、民主化は成功しない。人とはえてして怠惰であり、最終的には政治に参加することを放棄するからだ。民主とは、全員の政治参加が原則である。表面だけの理論を説かれて、そこまで行き着く民人がいったい幾人いるか。おそらく、皆無に等しいに違いない。
 アレクは、ジンが零した言葉からそれでも核心は理解したのだろう。
「貴様らに王座をあけわたして、すべてが丸く収まるというのなら大人しく玉座などくれてやるわ! だが貴様ら、単純に考えてわかるだろうが! 皆それぞれあれをしたいコレをしたいと望みがある。お前は兄弟たちがあれをしたいこれをしたいというものを一つに簡単に纏め上げることができるか?」
 人の望みは千差万別。対して政治の方向性として叶えられることは限られている。王は、それを纏めなければならず、民全てが政治に関わるというのなら、誰もが政治には自分の望みを妥協することも必要なのだと、理解しておかなければならない。
 けれども、それは無理だ。
 すくなくとも、今の世界は未熟すぎるから。
 アレクの声はまるで梁のように芯をもって、人の心にずんと響く。
「物事の善悪を、簡単に線引きすることができるか? 王をなくすということは、それを纏める責任者がいなくなるということだろうが! 自分で自分のこともきちんと決められん、ただ今まで古い慣習にしたがうしか能のない阿呆どもが、自分と異質なものを、自分の身かわいさに排斥するしかない、自分の身だけがかわいい阿呆どもが、百集まって国を纏め上げることができるだと? 笑わせるな!」


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