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第一章 異形の王子 1 


 街に入ればいたるところに灯された橙の明かりが、舞い降る雪に反射して美しい。積もった雪は鮮やかな色彩で塗られた家々の屋根壁を美しく彩る。だが、それを、のほほんと眺めていることはできない。雪が降り始めると寒さを防ぐ意味をもって例外なく二重扉が閉められてしまうために、うっかりすると家の中に入れなくなることもあるのだ。
 こんな街中で凍死は御免被りたい。
 しかも目的の場所は、町の入り口付近に――つまるところ、城から一番距離を置いたところに――あるため、とろとろしていればユキダルマになること確実であった。
 旅を始めてもう二年半を過ぎる。覚えきれないほどの国を回ったが、これほどまで降雪の多い場所は初めてだった。
(ドジ踏まなきゃこんなところに来る必要なかったんだけどね。あ、こんなところ、っていうのは失礼か)
 屋根から雪が滑り落ちる音を耳にしながら胸中でこっそりジンは呟いた。
 居心地はそれほど悪くはない。この年月で、排他的な住人の中に己を溶け込ませるのは慣れているし、住人も思ったより気さくだ。雇い主である、アレクは、文字通り傍目から見て天上天下唯我独尊であるが、決して悪人ではない。多少腹に据えかねることがあったとしても、それは育ちのせいであると思えば納得できる。ひねたところがあるのは、他と異なる外見からくる劣等感めいたものを抱いているためだろう。彼のことを、理由は特にあげることはできないのだが、なぜかジンは気に入っていた。でなければそろそろ一月になろうかという長さの滞在をしたりはしない。
 そもそも、ジンがこの国に滞在する羽目になったのは、以前滞在していた国における失態が原因だった。そのせいで山に逃げ込むこととなり、さらに雪が降って遭難した。そこを通りがかったのが、アレクの一行だったのだ。
 最初は体力が回復したら素早くと国を後にするつもりであった。が、あのアレクに逆らえる希少な人物として周囲になぜか引き止められてしまい、自分自身も久方ぶりにゆっくりしたかったことも重なって、今に至っている。
(また怠け癖がでてきたのかなぁ)
 自嘲の笑みを浮かべながら、胸中でジンは呻いた。
 定住。
 出来ないとわかりつつも、酷く疲れているときに、それを考えることが多くなったのだ。
 もともと退屈を嫌う性分だった。旅をすることは驚きの連続で、飽きがない。旅そのものに飽いたという感じでもない。ようするに、どこかに帰りたくなった。自分は根無し草なのではなく、放浪癖がありながらも、どこかに巣を持っている、そんな人間なのだとようやく知った。
 そして孤独。
 当てのない一人旅。街から街へ渡っても、その驚きの新鮮さを分かち合う人間が自分には居ない。獣でも飼おうかと考えたことがある。だが獣は人間ほど強靭ではなく、気候のささいな変化についていくことができずにすぐ死んでしまうだろう。
 妙に人恋しくなって、自分を慕ってくれる人間がいると、ついつい長居をしがちになってしまうのは、そのせいだ。
 明日、別れも告げず自分は旅立つかもしれないのに。
(吹雪がやんだら、潮時かな)
 ここに長居しているのは、今吹雪の季節に入っているからだ、と言い訳している。雪嵐の節と呼ばれるその時期が終わるのは、もう少しあとだ。
(長いなぁ)
 手袋に包まれた指を、滞在の日付を数えるために折りかけて、いや、と頭を振った。
(数ヶ月、いた)
 半年近い日数。
 あそこには。
 気候に邪魔されたわけでもなく。誰に引き止められたわけでもない。
 自分の、意思で。
 小さく嘆息して、立ち止まる。
 たちどまっていられる余裕はないのに。
 
 白いものが降り注ぐ。それは、病んだ女の微笑と赤い記憶に通じている。
 その彼方、暗闇の空が広がっている。天は世界に遍く通ずる。それは、同時に泣き虫の少女にも通じている。

 ないてない?
 ひとりで、ないていないですか?
 短気で意地っ張りで不器用で必死で。
 泣き虫なひと。
 あなたは今、ないていないですか。
 あの、灼熱の土地で。
 ――知っている。急に孤独が身に染み出したのも、どこかに帰りたいなんて思い出したのも。
 あの土地の熱に当てられたときからだと。

 ぼさぼさぼさっ
「うわっ」
 突然街路樹から滑り落ちてきた雪を頭から被り、ジンはその場に尻餅をついた。冷たさに顔をしかめながら口の中の雪の塊を吐き出す。すると近くから、積雪の音に混じって忍び笑いが漏れ出した。
「ふっふふふふっ……」
「……モニカちゃん」
「あはははははっやだ何ジン! 貴方でもドジなことをすることはあるのねぇ」
「俺でもって、モニカちゃん。俺だってドジ間抜けと一般的に言われることをいたしますよ」
「あはははははは」
「あーもー。そんなに笑うことないじゃんね。それより早く玄関開けて。俺凍死しちゃう」
 肩の雪を払いながら、ジンは窓から顔をのぞかせる娘に唸る。
 この国でジンを除けば唯一アレクに屈しない娘は、まだ笑いに肩を震わせながら悪戯っぽく言った。
「運がいいわジン。この窓が最後の雨戸だったの。コレを閉めたら貴方に気付けないところだったわ」


 モニカ・ベレッサは、街の唯一の食堂にして宿<トキオ・リオ・キト>の看板娘だ。年老いた主人に代わってほぼ一人で宿を切り盛りしている。年は二十歳。利発そうな大きな瞳と肩口で一つに束ねられた髪は胡桃色。ソバカスが目立つが、それでも肌は冬の国特有の透けるような白を保っている。この国特有の厚手の生地を何色も継ぎ合わせて作られた衣服を身につけて、よく働く。器量もそれなりによいし、何より気立てがいいので国中の男たちの憧れの的、であるらしい。
 何事にもさばけた気性であるし、男勝りなところがあるため、街男たちは言うに及ばずアレクまでもがすっぱりさっぱりすげなく付き合いを断られているわけであるが。
「全く。またアレクね。私を説き伏せに言って来いとかってえらそーに命令したんでしょう」
 防寒具の着脱を手伝ってくれながら、モニカが口先を尖らせる。
「うんその通り」
 ジンが笑って頷くと、彼女は腰に手をやりながら鼻息荒く吐息した。
「この大雪に人をたたき出すやつがどこに居るっていうのよあの馬鹿王子。今日コテンパンにやられた腹いせね」
「あーそうそう。用心棒雇ったんだって? あのオウジサマ追い返すなんてなかなかじゃん。まぁそのせいで超機嫌悪かったわけだけど。俺やつけて来いって言われたよ」
 厚手の上着と引き換えにモニカが渡してくれた手ぬぐいで雪だらけの身体を払っていると、彼女が上着を口元にあてて必死で笑いを堪え始めた。やがてその声量は大きくなる。最後には爆笑となって、玄関広間にモニカの声が響き渡っていた。
「あはははははははははは」
「……どしたのモニカちゃん」
「あはははあの馬鹿王子! アレクったら何にもジンにその様子じゃ話してないんでしょう? そうでしょう?」
「話すって、何を?」
「女の子にやられたんだよ」
 静かな声が、モニカの笑い声に割り込みジンの問いに答えた。
 ひょい、と天を仰げば、階段の踊り場の手すりから身を乗り出してくすくす笑う青年がいる。短く切られた真っ直ぐな黒髪に白い肌。瞳は黒。物腰落ち着いた雰囲気のある青年。彼を構成する雰囲気も色合いも、決して似てなどいないのに、どことなく面影がアレクと似通っている。それもそのはず、彼はジンの横暴な雇い主の実弟に当たるのだ。
 リュシオ・ロト・フォッチェス。
 夜の王国ガヤの第二王子。
 とんとん、と拍子を刻むように足音を響かせ階段を下りてきたリシュオは、モニカと同じく口元に堪えきれないといった笑いを湛えていた。
「兄上が今朝コテンパンにやられたのは、モニカと同い年の女の子だよ、ジン」
「お、女の子? モニカちゃん女の子を用心棒に雇ったの?」
「用心棒なんかじゃないわ。お手伝いよ」
 ようやく笑いを収めたモニカが、胸を張りながら言った。
「お手伝い?」
「三日ほど前、商人たちがやってきたのはジンも知ってるよね?」
「うん」
 吹雪の季節にしては珍しく、なかなか大きな商隊が国にやってきたことは知っている。ジンと同じく、半月ほどは国から出ようとはしないだろう。太陽が昇らないことによって、視界を奪われるこの国で、吹雪まで加われば道を認識することは難しい。
「おかげで満室なの。当然ここに逗留しているわけだけど」
 ちらりと二階の客室に視線を寄せて、モニカ。いつもは空室になっている部屋は軒並み扉が閉まっている。ばたばたという足音、時折笑い声が上の階から響いていた。
「ちょっと長丁場になりそうだし、私一人じゃ世話追いつかなくて」
 肩をすくめるモニカに、あぁ、とジンは納得した。
 祖父の姿を見かけず怪訝に思ってたずねたとき、今年は雪嵐の季節が始まる前に隣国に湯治に出かけているのだ、とモニカの口から聞いていた。詳しい人数はわからないが、確かに部屋全てが埋まっているというのなら、いくら食事時は厨房や給仕の手伝いがいるからといって、そのほかの世話は彼女一人でやらなければならない。その仕事量は、たった一人の手に余るものがあるだろう。
「でもこの国にそんな強い女の子はいないよね。護衛の子?」
 そろそろ一月。国民の顔はある程度は把握している。モニカと同年の少女なら幾人かいるが、そんなあの武術にはそれなりに秀でているアレクを返り討ちするような大それたことできるとは思えない。となれば考えられる可能性は一つだけ。最初に想像した通り、商隊の護衛役だ。
「うん」
 リシュオが頷いた。
「護衛役の、女の子だよ。同じ商隊について入ってきたんだ」
「もうすっごく可愛いの! なんかね。ぎゅーって抱きしめてあげたくなる感じ」
「え? そんなに可愛い? 彼女」
 どうやらリシュオの趣味ではないらしい。首をかしげる彼の背を、モニカは遠慮なくばしんと叩いて笑った。
「やぁねぇ殿下ってば。可愛いじゃない。それとも男と女では可愛いの基準が違うのかしら?」
「かもねぇ。まぁ僕にとってはモニカのほうが可愛いよ」
「あらぁありがとうございますね殿下。シチューの量を、おまけしとくわね」
「すみませーん」
「あ、はーい。じゃ、またあとでねジン。失礼いたします殿下」
 姫君がするように衣服の裾を軽くとって一礼した彼女は、客の一人だろう。男に呼ばれて慌しく奥へと引っ込んでいく。
 その背中を見送っていると、ぽん、と軽く肩を叩いてきてリシュオが笑った。
「何時までもここで立ち話する必要もないよ。早く暖炉の前にいって温まろう。それに、貴方に紹介したい人がいるんだよ、ジン」


 ようやく雪が止んだのは、夜半を過ぎたころだった。
 眠る場所ぐらい提供するのに。気を利かせたのか男共はこの寒空の中、あの城まで散歩するらしい。ご苦労なことだと小さくなる背中を見送る。気があったのか、話で大いに盛り上がっていた。彼らの談笑がひときわよく耳についたのを思い出す。その内容は難しすぎて、モニカにはちっとも理解できなかったが。
(あんなにお酒飲んで。すっころばなければいいけれど)
 彼らの足取りを案じて、モニカは小さく嘆息し、踵を返した。
 と。
「あら」
 ふと、きらりと光るものがあった。
 あの三人のうち誰かが落としたのだろうか。拾い上げて、軽く翳してみる。太陽が出ていないので、透かし見えるわけではないのだが。
(珍しい石ねぇ)
 その美しさに、モニカは感嘆の吐息をもらした。
 親指の爪ほどの大きさの、赤い瑪瑙。水晶球の形をしたそれは白い筋がとても綺麗に刻まれており、玻璃だろうか、透明なもので包まれた表面は美しく磨かれている。取り付けられた飾り紐には切れた跡がある。その紐も艶のある美しいもので、とても上等なものだと判った。
(持っていればだれか探しに来るでしょうし)
 価値あるものだ。ならばなくしたと気がつけば、取りに来るであろう。
 そうでなければ、自分のものにしてしまえばいいだけだし。紐を新しいものに付け替えて首飾りにしてもいいだろう。これだけ綺麗なのだから。
「モニカさん」
 呼び声に、モニカは面を上げた。
 自分の姿を認めてざかざか大またで雪を掻き分けてくる姿がある。今朝、遣いにやっていた、[くだん]の手伝いの娘。短く切られながらもさらさら揺れる艶やかな黒髪と、小麦色の肌。少しつり気味の大きな瞳は紫金色。頬を紅潮させながら、細い手足を命一杯動かしてこっちへ歩み寄ってくる。表情やそのしなやかな身体はどこか子猫を思わせる。背中には布に包まれた身の丈半分ほどの棒を背負っていて、一度見せてもらったことのあるモニカには、それが何なのかすぐわかった。
 見慣れない形の剣。彼女の獲物だ。獲物を持ち歩かないと落ち着かないとジンから聞いたときは物騒ねぇと笑ったものだが、それはどうやら旅人共通であるらしい。歩み寄ってくる娘もまた同じくだった。
 普段雰囲気や身のこなしに隙がないのだが、雪と着慣れない防寒具とに悪戦苦闘しながら懸命に歩み寄ってくる娘は愛らしい以外のなにものでもない。目の前に立った娘は、頬を紅潮させたまま、ばつが悪いとでもいうように俯いた。
「ごめん帰ってくるの遅くなっちゃって。雪に捕まって外でれなかっうわ!」
 あぁなんて可愛いのかしら本当にもー!
 たまらんわぁ、などと親父心丸出しで娘に抱き付いたモニカは、身体を放すとにっこり笑った。
「ぜんぜんかまわないわそんなの! 大変だったでしょうここまで」
「あ、うん。話には聞いてたけどホントすごいねこの雪」
「ごめんねー。雪ふりそうだったのにお願いした私が悪いの。ご飯食べてきた?」
「ううんまだ」
「じゃぁ早くはいってご飯たべちゃいましょ。ようやくみんなが寝てくれて、ひと段落ついたところなの」
 はにかんだような娘の笑いをみて、モニカはうっとりとなる。男よりも女の子のほうが、断然かわいいわよねぇと。
 この国に同じ年頃の女は少ない。しかも言い寄ってくるのは男ばかりだ。同性とほとんど遊んだりおしゃべりに興じたりした記憶をもたないモニカは、突然生活に入り込んできた娘が可愛くて仕方がなかった。
 宿に入ろうとしたモニカは、背後から気配が失せていることに振り返った。
 門のところで、娘が遠いどこかを見つめている。それは六日に一度しか白に塗り替えられることのない漆黒の空を眺めているようでもあるし、もっと異なる遠いところを見つめているようにも見えた。
「どうしたの? シファカちゃん」
 ん、と顔を上げた娘は、なんでもないというふうに頭を振って、雪かきのなされた玄関への道を注意深く、けれども早足で歩いてくる。
「なんでもないんだ。寒いね」
「そうね」
「……まるで、死者が通る場所みたい」
 娘の最後の呟きは、扉の閉じる音に混じる。
 モニカは上手く聞き取ることができなかった。


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