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第七章 ひかりよかげよ 2 


「こ、のっ……!!!」
 刀を鞘に収めたまま、相手の喉笛を付く。呼吸の止まったその衛兵の腹に蹴りをいれて踏み倒しつつその背後に控えていた衛兵のうなじを刀で小突いた。ごっという鈍い音。男の呻き声が響いて、衛兵はその場に昏倒する。
 モニカの手を引きながら、どれほど走ったのか。シファカは息を切らしながら周囲を見回した。天井が吹き抜けになった、広い廊下は今まで逃げ惑った場所とは少し様子が異なっている。温度はことのほか低く、曲線を描く天井近くに連なる飾り窓からは雪明りに暗闇薄められた外が見える。いつも以上にどことなく仄明るいのは、『夜明け』が近いからだろうか。
 たかが城の中、とはいえども曲がりくねり、階段を駆け下り、上り、部屋に飛び込んでは、乱闘をして。
 そろそろ、限界だと、シファカは思った。
 ようやく外が見えている。けれども扉はまだ見えない。城はぐるりと堀で囲まれているため、窓から飛び降りることはならない。もし飛び降りれば、飛沫の先から水は凍てつき、自分たちは氷の彫像として飾られることになるだろう。
 逃げることだけでも体力を使うのに、その上、人を斬らないで逃げているためにさらに労力を使う。モニカが、嫌がるためだった。二度三度と人が斬られるところを目撃したらしい。もう嫌なの、と彼女はいい、ならばと刀を抜かないことを承知したわけではあるが、それは厳しい条件をさらに過酷なものに変えていた。
 モニカもそれが判っているのだろう。厳しい状況では、何も言わない。こうやって、シファカが刀を引き抜いて、襲い掛かってきた衛兵を斬りつけても。
 返り血が、衣服を汚しても。
 最後の衛兵がどさりと倒れたことを確認して、シファカは来た道を振り返った。死屍累々。誰も殺してはいないけれども。
 シルキスに、言葉巧みに騙されたらしい人々。
 自分はともかく、この国の住人で、顔見知りでもあるだろうモニカまで襲えてしまえるほど、彼の話術は巧みで、そして彼の囁きは魅力的であったらしい。アレクを追放すること。王位をリシュオに譲ること。それでも酷いと思う。握るモニカの手は雪に負けず劣らず冷たくて。その顔色は蒼白で。最初は気丈に襲いくる人々に怒鳴り返していたモニカも、警笛に追い立てられ、笑って会話をしたことがあっただろう人々に、剣や農耕の工具を振りかざされるうちに、口数を減らしていった。彼らは自分たちを生かして捕らえたがっていた。シファカにしてみれば笑ってしまえるほど彼らは腰が引けていたのであるが、慣れぬモニカにしてみれば武器を振りかざされるだけでも十分恐怖だ。
 額の汗を軽く手の甲で拭ったシファカは、嘆息して近くのひときわ大きな扉を指差した。
「……モニカさん、この扉は、外へ続く、ものじゃないんだよね?」
 その扉は、廊下の中央にどんと存在を主張していた。重厚で、華美。縁には蔓草をあしらったものらしい文様が掘り込まれ、古代のものと思われる文字が刻まれている。時を重ねた分の艶が滲み出る、木扉だ。
 モニカは首を横に振った。
「玉座……の、間への、扉よ」
「え? こんなところに?」
「その扉の一つ。玉座の間へ続く扉は、沢山あるの。もともと、礼拝堂だった、らしい場所だから」
「入ってみようか。ちょっと、休憩」
 隠れられそうな場所の有無は、シファカはこの際考えないことにした。自分にも、そしてモニカにも休憩が必要だ。走り通しなのである。
 取手に手をかけると、鍵が掛かっていなかったらしい扉はあっさりと開いた。
 扉がいくつもある、ときいたときは、いまいちその意味を理解できなかったのだが。
 その空間に足を踏み入れて、シファカは改めて納得した。
 玉座の間。つまるところ、謁見の間だ。ここ、夜の王国ガヤはシファカの出身国である湖の王国ロプノールよりも規模は小さい。けれども城の規模はここのほうが大きかった。元はこの城自体が町の機能を果たしていたというのだから、それも頷ける。
 つまりこの玉座の間は、城の中央に位置するのだ。がらんどうの空間の中へと歩を進めて、シファカはぐるりと広間中を見回した。
 この国に来る少し前、警護の仕事で足を踏み入れたことのある歌劇会館のような、つくり。
 一番奥の半円状の舞台の上に、椅子が一つ据え置かれている。その背後には頭から外套を被った女の像。白い石膏の女は慈愛の微笑を口元に浮かべて静かに玉座を見下ろしている。
 その女のさらに背後には彩色された玻璃の壁。この北の地区には良く見られる技法なのだろうか。蒼い髪の女と、狼や鳥を描きこんだ玻璃の壁は、ディスラ地方の霊廟をシファカに思い起こさせた。
 荘厳な。
 神聖な。
 ぴんと張り詰めた空気が城の中心の空間を満たしている。
「凄いね。本当に、玉座の間っていうよりも礼拝堂っぽい――」
 シファカは笑いながら、モニカを振り返り。
「……モニカ、さん?」
 その笑みを、凍てつかせざるを得なかった。
 身体が強張り、表情を消す。
 冷ややかな目で、その、モニカの口を押さえ羽交い締めにする男を見据えた。
 嘆息して、呻く。
「時間がなかったから仕方なかったんだけど…あんたをやっぱり、無理してでも拘束しておけばよかったよ。シルキスさん」
「ですがあの一撃はかなりきましたよ。頭が未だに痛みます。一針二針程度は縫わなければならないかもしれません」
 冗談めかしに言われる言葉。だがその手には小ぶりの短剣。夜の暗がりに鈍く輝く銀の刃が、モニカの細首を捉えていた。
 モニカの表情は引き攣って、口元を押さえられているせいか、呻き声一つ漏らさない。
「この娘、殺してもかまいませんか?」
 優しいとすら思えるほどの甘い声音で尋ねてくるシルキスに、苦々しくシファカは問い返す。
「……何をすれば解放してくれるんだ?」
「とりあえず、その物騒なものを床に」
一瞬眉をひそめたシファカは、モニカの首筋に赤い雫が浮かぶのをみて、嘆息した。仕方なく、刀を手放す。硬質の音をたてて、支えを失った刀は鞘ごと床に落下する。かたかたと小刻みな刀の震動に合わせて、双子の玻璃球が床の上で転がり円を描いた。
「こちらへ。両手を挙げたまま」
 唇を引き結んだまま、シルキスの指示に従って歩を進める。首を横に振るモニカに、シファカは安心させるために微笑みかけたが、大してその効果はないようだった。彼女のまなじりには涙が浮かび、唇は強く引き結ばれている。
 距離が詰まると、シルキスは乱暴にモニカを突き飛ばした。肩から倒れこみ床を滑ったモニカに、怒りを募らせたシファカは弾かれたように面を上げる。
 が、喉まででかかった怒りの言葉は、腹部を突如襲った苦悶の呻きに取って代わられた。
「ぐ……っかはっ」
 腹部を襲ったのは、シルキスの膝だった。体勢を立て直す間もなく再び蹴りが繰り出されてくる。避け切れなかったそれはシファカの脇腹を直撃した。衝撃をまともに食らった身体は容易く吹き飛ぶ。先ほどのモニカと同じように床に叩きつけられて、シファカは呼吸困難に跳ねる身体をどうにか落ち着かせようと咳き込みながら瞬きを繰り返した。
「……大人しくしていればよかったのに」
「……し……るき」
「私は私のものにならないものは嫌いです。お分かりですか?」
 短く切られた髪をぐしゃりと握られ頭を上げさせられる。そのまま身体を持ち上げられ、シファカは痛みに声にならない悲鳴を上げた。


「殿下」
「何だ」
「行き止まりなんだけど」
「それがどうした」
「ちなみに今開こうとしている扉の先は?」
「玉座の間だ」
 警笛に呼ばれて道を歩いたはいいものの、たどり着いた先は袋小路。硬く閉じられた扉が一つ壁に埋め込まれただけの場所であった。とてもではないが、警笛の出所であるとは思えない。
 珍しくアレクが勝ち誇ったような顔をしてジンを見返してきた。腕を組んだまま胸を張り、知らんのか、と彼は笑う。
「玉座の間は城の各部に繋がっている。こっちのほうから警笛は確かになっていた。ということはここを経由して音が響いていたと考えるのが、妥当だろうが」
「へー。殿下も馬鹿じゃなかったんだねぇ」
「……きさま」
 ひく、と口元を引き攣らせるアレクを無視して、ジンは扉に張り付いた。もう怒鳴りつけてくる気力もないのか、アレクはただ肩を落としてくる。キユに向かってぶつこらと、不満の愚痴を漏らしているところは、子供っぽいというかなんというか。
 笑いかけたジンは、扉のむこうから、だん、という何かが叩きつけられる音を聴いた。それに続く女の悲鳴。ジンが口を開く前に、アレクが呻いた。
「モニカだ」
 ちょっとやめなさいよ。
 扉の向こうで、モニカがそう叫んでいた。ぼそぼそとモニカのものではない人の声も木扉を通して耳に届く。ジンはアレクと顔を見合わせると、同時に二人で鍵に取り付いた。


「あんた! シーちゃんに何かしてみなさいよ! 許さないわよ!」
 掠れた声で、肩を押さえながら叫ぶモニカの声を、靄が掛かった意識の端で聞いた。蹴り付けられた場所が酷く痛む。骨、もしくは内蔵が傷ついたと、シファカは腹部に手をやりながら判断した。膝に、上手く力が入らない。
「髪、痛い」
「あぁ、失礼いたしました」
 ぱっと手を放される。シファカは床の上に膝をついて身体を圧し折り、咳き込んで喉に詰まったものを吐き出した。赤黒いそれは白い床にぺしゃりと付着し、存在を主張する。
 血の痰を吐き出したことで呼吸が楽になったことを実感する間もなく、再び蹴りが入る。今度は身体をねじってどうにか急所をよけたものの、床の上を派手に転がる羽目になった。
「く……」
「シー……!」
「うるさいですよ。モニカ・ベレッサ」
 床の上で身体を圧し折るシファカの元へと歩み寄るシルキスが、何気なく手首を動かす。その動作を確認することはできなかったが、続いて響いたモニカの悲鳴と彼女の太ももをざっくりと刺し貫く短剣を見れば彼が何を行ったのかは一目瞭然だった。
「も、にかさ……」
 頭上に影がさす。見上げたシルキスの瞳は冷え冷えとして、けれどもどこか寂しげだとすら思える哀しい光を宿していた。誰かを懐かしむような、それと同時に襲い来る胸の痛みに耐えているかのような、そんな表情をして、彼は自分を見下ろしている。
「……何を、したいんだ……?」
「証明を」
 以前問うたときと同じように、彼は一言即答した。彼の行動が読めない。何をしたいのかわからない。ただ彼はいつのまにか人々の心の中に入り込み、説得でもって城にいる彼らを掌握していた。
 そうしてアレクを追い出して。
 彼は、証明したいという。
「しょうめい……なに、を」
 いつもはぐらかされていた問いは、哀しい響を含んでシファカに落ちる。
「過ちを」
「……あやま、ち?」
「私が学んできたことの意味。そして、どうして私が『彼女』を失うことになったのか。全ての過ちを、私は知りたい」


 暗闇、から。
 この暗闇から。
 抜け出せるのなら。
 この国一つを舞台装置に仕立てるぐらい。
 愛する人を幸せにするために学んだそれは。
 愛する人が悲しいときに、何も役には立たなかったから。
 せめて、証明したかった。
 せめて、学んだ全てがきちんと機能するという、その。
 事実だけでも。
 もう、彼女の望みは叶えられそうもなかったので。


「私は貴方が嫌いです」
 シルキスがシファカの傍らに膝を突き、吐息が掛かるほどの距離でそう囁く。
「貴方の面影は、私にいやなものばかりを思い出させる」
 面影?
 動かした唇は音を紡がず、その代りにシルキスのそれでふさがれる。
 朦朧とした意識がその一瞬で覚醒し、シファカは力のかぎりを振り絞って男を突き放した。
 急激に身体を動かしたためであろう。鈍痛が身体中を襲い、それ以上に生々しく残る唇の感触が、吐き気をシファカにもよおさせた。
 床の上に爪を立てる。ぎ、という石をこする音。そのまま見上げたシルキスは、冷ややかな眼差しでシファカを見下ろしていた。
 男を睨み返しながら、シファカは滲む涙をどうにか堪える。
 そこで思うのは自分のふがいなさに対する嫌悪と、場違いなほどの強い感情だ。
(あいたい)
 今すぐ。
 あいたいあいたいあいたいあいたい。
 この、身体全てを消し去ってしまいたいような吐き気は、きっと彼に笑いかけられれば消えてくれる。
 ぎゅ、と拳を握り締めたシファカは、唐突に気配を空間に割り込ませてきた乱入者の声を聞いた。
「シルキス!!!」
 その声は、求める声ではなかったけれども。
 求める姿は、従えていた。


「シルキス!」
 様子を見てから襲撃すればいいというのに。
 馬鹿正直に大声で己が存在を主張し、真っ直ぐにシルキスの元へと駆けていくアレクに、ジンは眉間を思わず押さえて天を仰いだ。
 彼のその暴走の原因は判っている。足を短剣で縫いとめられた娘の存在のせいだ。シルキスから少し距離を置いて[うずくま]るモニカの存在を、あの王子が無視できるはずもないのだ。
「お早いおいでで」
 振り返ったシルキスは、嬉しそうに笑った。その足元に、もう一人誰かが蹲っている。シルキスがその存在を隠すようにして佇んでいるため顔などは判別できないが、どうやら女のようだった。
(……なんだ?)
 ジンはぞわりと、背に戦慄が走るのを感じていた。理由をも判らず、心臓が早鐘のように鼓動する。奇妙な予感……そう予感だ。何か恐ろしいものをみる気分で、ジンはシルキスが陰になってみることのできない女の姿を歩み寄りながら確認すべく目を凝らした。
「シルキス貴様! 一体、モニカに何をしやがった!」
「お待ちしておりましたよ」
「きいているのかオイ!」
 シルキスの眼差しは、つかつかと歩み寄るアレクを無視し、自分に向けられていることは明白だった。
「貴方に会わせたい方がおりまして」
 その病んだ目を真っ向から見据えて、ジンは唇を引き結ぶ。
「……会わせたい、方?」
「貴方のお知り合いだそうですよ。ジン殿」
 く、と笑みに喉を鳴らしたシルキスは、足元の女の髪を勢いよく引き上げた。
「いっ……」
 娘の唇から呻きが漏れる。首を掴んで娘の身体を支えなしたシルキスが、捉えた猫を突き出すように、娘の身体をジンのほうに向けて掲げた。突き出された娘は、重たそうに瞼を上げる。輝く紫金の双眸が細められ、ぱちぱちと瞬きし、ジンの姿を映し出した。
 ぎくりと。
 身体が強張る。
 ざっと自分自身の身体から血の気がひくのを、ジンは感じていた。
 体温が一気に冷えて、唇と喉が渇く。呼吸が上手くできず、喉の奥からしゃくりあげたような呻きが漏れた。瞬きを繰り返す。けれども視界からその存在はなくならない。
 黒い髪。浅黒い肌。気の強そうな紫金の双眸に、細い手足。甘い匂いがすることを知っている。抱きしめた身体の温かさも。
「貴様いい加減にしとけよその女がジンの知り合い? 馬鹿いうなジンはその女と面識がない――」
「シファカ」
 鼻で笑うようにシルキスに向かって言い放っていたアレクが、驚きの目でジンをかえりみた。そうして彼の姿は意識から消失した。彼だけではない。モニカも、シルキスも。
「ジン」
 鼓膜を震わせたその音は、脳髄をじん痺れさせ、思考を停止させる。ジンは渇きに喉をかきむしりたい衝動に駆られながら、世界でたった一つ色づく娘を見つめ返した。
 再び、唇から音が漏れる。
 幾度となく、喪失に嘆いたその名――。


 シファカ。


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