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第七章 ひかりよかげよ 1 


 気を失っていたのは、いかほどの間であったのだろう。
 身体を起こし鈍痛の響く頭に手をやる。確認した手のひらには、赤黒いものが薄く付着していた。出血はほぼ止まっているようであったが、痛むことには変わりない。
 シルキスはよろけながら立ち上がると、部屋の姿見まで歩み寄った。殴られた位置や傷の具合を、鏡を通して確かめる。医療の知識は一通りある。この程度ならば、大事無いはずであった。
「う……」
 呻き声に、シルキスは振り返った。娘が刀で切りつけた護衛役の二人が、傷口に手をやりながら、呻いている。歩み寄ると、一人が薄く目を開いた。
「……い、いしゃを……」
 シルキスは、衛兵たちの傍らに膝をついた。胸部が切り裂かれて、一見派手に出血しているかのように見られたものの、その実、切り裂かれているのは表面だけだ。手当てをすればすぐに治る。若いのに随分と手練であるものだ。娘の剣の腕前に感嘆しつつ、シルキスは絨毯の上に落ちていた、短剣を拾い上げた。
 美しい細工の施された護身用の短剣。柄に埋め込まれている赤い石は紅珊瑚。そこを指で触れて、シルキスは嘆息する。
「いつも、いつも、邪魔される」
 この短剣を師から奪ったときも。
 そして今も。
 シルキスは無言のまま、握っていた刃を兵士の胸につきたてた。
「……い、しゃ……うぐっ」
 付きたてた短剣に力を込めて、ぐっとねじる。苛立たしさを、そこに込めるようにして。
「し、しるきっ……ど、の」
「本当に」
『ごめんなさいシルキス』
「いつもいつも」
『シルキス』
 耳に蘇る声がある。
 泣き濡れた瞳を、思い出す。
『私、あなたの……に』
「いつも、私の邪魔を――」
『もう、なれない』
 短剣を引き抜いて、立ち上がる。
 ぽたりと零れた赤い雫は、絨毯に染み込み、その色を濃くして、じわりと広がった。


 王などはいらない。
 その横暴さで、光を奪っていくのなら。
 王などはいらない。


 ぬけた先は、棟と棟を繋ぐ広間。そこの、暖炉の中だった。
 火が落とされてかなり時間が経っていることは幸いだった。うっかり足を煤の中に踏み入れてしまい、もうもうと舞う灰に閉口しながら絨毯の上に降り立つ。ざっと周囲を見回し誰もいないことを確認して、ジンは呟いた。
「静か、だねぇ」
 重厚な石造りの広場は、天井が吹きぬけになっている。見上げれば天井の中央に向けて曲線が幾重も描かれ、その縁に花とつる草が彫りこまれている。広めに取られた窓には玻璃がはめ込まれ、そこには昔の信仰の名残だろう、色つきで狼や梟といった森の獣たちと、精霊の姿が描かれている。掃除がなされていないためか、蜘蛛の巣などで多少くすんではいたものの、それは雪明りによってくっきりと暗がりに浮かび上がって見えた。
 城の内部は寒々として、それは外でしんしんと降り積もる雪のせいだけではなく、人気がないせいであった。雪崩の騒ぎのせいで城の中を往来する人の数は確かに増えたはずであるのに、ジンとアレクが城を離れたほんの一晩の間に、まるで違う城に紛れ込んだかのように空気は冷え冷えとして。
 その中で、その音は、幾重にも反響して響き渡った。
 ぴぃ――……。
 鳥が甲高く鳴いたかのような、音だった。
 ぴく、とキユが警戒に耳を動かす。
「……何の音?」
 予想はつくのだが。
 ジンは確認のためにアレクに問うた。
「衛兵の警笛だ。……モニカか?」
「判らないけど。急いだほうがよさそうだね。シルキス・ルスが根城にしている塔ってどこ?」
「あっちだな。リシュオの塔のはずだ」
「それじゃ、いきますか」
「だからお前がしきるな――と。……リシュオ?」
「え」
 アレクに釣られて彼の視線の先のほうへと面を向ける。アレクが見つめるのはリシュオが保有する城の棟へと続く廊下で、ぱっくりと暗闇が口を開けている。人影は見られず、気配もない。けれどもアレクには、どうやら見えているようだった。彼の猫のような虹彩が、きゅ、と細められる。次第にジンは、アレクの見つめる先から徐々に近づいてくる人の気配を感じ取った。かつかつという石畳を踏みしめる音。やがて暗闇から現れた人物は、こちら二人の姿を認めたらしく、はっと息を飲み込んだ。
「兄上。ジン?」
 アレクが広間の入り口で立ち止まったリシュオに歩み寄った。まるでリシュオへとアレクを導くように敷かれた濃い色の絨毯が彼の足音を吸収する。月明かりに照らされて伸びた二つの影が、石畳の上を音もなく滑る。けれどもその影の主は、まるで光と影のように、対極で。
 ジンは嘆息して、アレクに続いて足を踏み出した。
「おいリシュオ。シルキスの奴は今どこにいる?」
「し、シルキス殿ですか?」
 眉をひそめるリシュオの傍らに、ジンは佇んだ。出来る限り穏やかな物言いを心がけて、追求する。
「いろいろ聞いてるとは思うけど。俺たちあの男を探しててね。どこにいるか知ってたら、教えて欲しい」
 リシュオは困惑したようだったが、アレクを真っ直ぐと見据えて尋ねてきた。
「知りません……。それよりも兄上本当なのですか。モニカを」
「モニカがどうかしたのか!?」
「あーもー殿下おちついてって」
 モニカの名前が出た瞬間、掴みかからんばかりのアレクをなだめて、ジンはリシュオに目配せを送った。黙っていたところで、彼にもいいことはない。即答を要求する目配せだった。
「……気を失って、シルキス殿に、連れられて、きました、が」
 躊躇いがちにリシュオはそう口にする。アレクはその回答にまだ不満をもっているようであったが、ジンは強引に間に割って入りそのリシュオの襟首つかむアレクの手を引き剥がした。オイ、と口先を尖らせるアレクを笑顔で黙らせて、ジンはリシュオの横を通り過ぎようとした。
 が。
「……なんのまねかな」
 ジンは前に回りこんだリシュオに優しく問いかけた。リシュオは両手を広げてジンの前に立ちはだかっている。嘆息して、その手を押し避けようとしたが、リシュオの腕に込められた力がそれを阻んだ。
 ジンの傍らで距離をつめたアレクが、弟王子を睨み据える。
「どけ、リシュオ」
「どきません……」
「リシュオ」
「どきません兄上。私は、兄上に問いたいことがあるのです」
「……聞きたい、ことだと?」
 リシュオは、小さく頷くとアレクに向き直った。
「兄上は、この国で、王になる気が、おありなのですか?」
「……なに?」
「兄上は、この国で、この国の民人を治める善き王になるおつもりが、おありですか」
「お前一体何をいって」
「答えてください兄上!」
 リシュオが、このように声を荒げることは珍しい。リシュオはしばしアレクを真っ直ぐ見据えていたが、不意に視線をそらした。彼は絨毯の上に視線を落とし、ため息交じりの呟きを零す。
「私は、別に王位が欲しいとも、それを兄上から奪おうとも思ったことはありません。ですが、この国の人たちが幸せであってほしいとは、思っています。……兄上も、含め」
 タダヒトの、王子は告白する。異形の王子が持ち得ない、眩しいまでの潔癖さと純粋さで以って。
「シルキス殿は、おっしゃっていました。王はいなくとも、国は機能することができるのだと」
「なに?」
 アレクが怪訝そうに片眉を歪める。それも当然か、とジンは天井を仰ぎ見た。
 王、女王、皇帝、女帝。
 王侯貴族、と呼ばれるものに支配される縦の構造。
 封建と呼ばれる政治体系が、世界では一般的だ。全てが横一列の国など、ありえない。どの国でもなんらかの形で王はいるのだ。獣と人が地に近いところに根ざし、その上に長命種と精霊族が、さらにその上には伝説と謳われる竜が。頂点には主神が君臨する。そういった自然構造のように。
 四角錘[ピラミッド]の形を組み合わせた揺るがぬ世界基盤。
 シルキスは、人はそれから逸脱できるのだと、そう述べている。
 人の世界に、王は要らない。
 平等な、世界。
『民主化』
 民が己を主として、誰の支配も受けぬ世界を確立するための、その論理。
 リシュオは続ける。
「兄上が、王になって幸せだというのなら、私はそれでもかまいません。ですが、王になることが、兄上の幸せに、繋がらないというのなら」
 王にならなければ。
 アレクは自由だ。
 アレクは何か考え込むように瞑目していた。が、面を上げ、一回り小柄な弟を見下ろした彼は、静かに尋ねる。
「お前は、この国にいるんだな」
「……私はこの国から離れません」
「……なら俺は、王になる」
「……兄上?」
「お前がこの国をでないというのなら、俺はこの国に残る。王になる」
「こ、この国に残ったとしても王になる必要はないのですよ兄上!?」
「五月蝿い! なるといったらなる! 悪いか?!」
「この国には王が必要なんだよ、リシュオ王子」
 吃驚[きっけい]にだろう、声を荒げるリシュオに、ジンは口を挟んだ。え、と面をむけてくる彼に、ジンは嘆息して言葉を続ける。
「この国には、王が必要、らしい。アレクが王とならなければ、この国は崩壊するそうだよ。この土地の主である長命種、そしてこの国の初代の王、さらには眠りについている主神……彼らの契約によって、アレクが王でなければならないらしい。詳しい説明は省略するけど、神との契約はこの世界では絶対だ。人は忘れていても、未だにそういう[のり]が世界には存在する。世界の各地に、神や魔女の呪いが存在するように」
 裏切りの帝国。そう呼ばれた国がある。
 世界には、人だけでは計り知れない力が渦巻いている。それが魔力だ。世界の血脈。時にそれは呪いとして国一つを、星の数ほどの年月を経てもなお苛む。たとえ魔力が呪いの全てではないとしても。呪いの根幹として人々を苛む。
 この国にたまる魔力は、神と長命種、長命種と人との間に交わされた契約に則って、契約外のことが行われた場合、国を滅びへと導くだろう。
 アレクは必要だ。この国の王として。
 そう、長命種の女が言った。アレクは王になるために戻るのではないといっていた。けれどもリシュオが残るのなら王になるといった。
 たとえ憎まれても。たとえ疎まれても。たとえ孤独でも。
 リシュオや、モニカが生きる国の存在を護るために。
 小さな小さな、暗闇に灯り灯す国を生かすために。
 いくらリシュオが聡明な青年でも、それら全てをきちんと理解して納得するのは難しい。魔力の流れも、神の力も、見えぬものには単なる迷い言としか思えないからだ。
 自分は、裏切りの帝国で生まれた。
 だからだ、とジンは思う。馬鹿げた神の力も、運命も、信じざるを得ない。けれどもリシュオはそうではないだろう。
 納得のいかない顔をしているリシュオに、一つ、人間の論理でジンは付け加えた。
「たとえ魔力どうのこうのというものがなくとも、シルキス・ルスが論じるその民主化とやらは、決して機能しない。この国は王を失ったその瞬間、離散していくことになると思うよ」
「……一体、どういうこと?」
「おいジン。お前、あいつの狙いがわかったっていってたな」
「シルキス・ルスが証明したいことっていうのは、まさに国が王を失っても、国が滅ばないかどうかだよ」
「……あぁ? どういうことだ?」
 アレクのその問いの最後と。
 ぴぃ――……。
 警笛が、重なった。
 はっと息を呑む。警笛の位置が、近かったからだ。
 青龍刀の柄を握りなおす。足元でキユが警戒のために毛を逆立てていた。
「リシュオ王子。君は、本当にあの男の場所を知らないんだね?」
 ジンのその問いに、リシュオが躊躇いがちに静かに頷く。そう、とジンは微笑むと、前触れなしに、手刀をリシュオの首に叩き込んだ。
「リシュオ!?」
 アレクの叫びを聞きながら、ジンは意識を失ったリシュオを腕で支えた。男の重たさに閉口しつつ、壁の傍まで引きずって身体を横たえる。
 リシュオの傍らに膝を突いたまま、ジンはアレクを仰ぎみた。彼は複雑そうな表情で自分たちとリシュオを見下ろしている。安心して、とジンは苦笑する。
「気絶させただけだよ。それより……あの警笛、誰が追われていると思う?」
「……モニカか?」
「うん。まぁモニカちゃんじゃなくても、目的の御仁はあとからでもやって来そうっぽいよね?」
 あの男、口封じのために反逆者を捕らえた場所に自ら赴きそうな気がするし、また逆に悪さがばれてシルキス自身が追われているのなら、願ったり叶ったりだ。
「いくか」
 外套の前を直すアレクに。
「ようやく指揮を執れてよかったね殿下」
 笑ってそういったら、殴られた。


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