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第六章 暗闇の先に 3 


 六年前。
 海に囲まれた小さな国で記された本があった。そこに説かれているのは人と王の関係について。そして近代的民主主義と呼ばれる論理だ。かつて、水晶の帝国で考案され、実行に移されていたその論理を説いた本は、民人の心に波紋を投げかけ、最終的にはその小国を滅びへと導いた。
 著者の名前は、シルキス・ルス。
『民主化教本』
 一人の、王監査役が記した本である。


「だから、何がわかったんだ何がどうした何をいそいでいるいいかげんに答えやがれ!」
「殿下五月蝿い」
「きーさーまーがー答えればすむことだろうが!」
「キユちゃんみたいに黙って走ってよー」
「狼はしゃべらん!」
 一体どういう理由があって作られたのか。城の内部に静脈のように張り巡らされた通路の湿度はじっとりとして、流れる冷えた風は必要以上に体力を奪う。ジンは足早に、城の上階と続いているとみなされる階段を駆け上っていた。横に並ぶのはキユ。そして少し遅れて、アレクが続く。
「おい! 何がわかったかぐらい言え! そうしたら黙って走ってやる!」
 ジンはため息をついて足を止め、背後を振り返った。どうやらその唐突さに、静止が間に合わなかったらしい。つんのめりそうになったアレクが、ジンにぶつかる手前で怒声を張り上げる。
「いいかげんにしろ貴様ぁ!!!」
「理由だよ」
「……は?」
 無駄口を叩くつもりは、ジンにはなかった。彼が望むとおり回答を口にしたというのに、アレクは首を傾げるばかりだ。ジンは微笑んだ。
 繰り返す。
「理由だよ」


なかないでおうじさま。
ひとりぼっちでなかないで。
だれもがあなたをおいていくけれど。
わたしはここに、いつまでもいるから。
くらやみのひかりとなるように。


 モニカは枕に顔を伏せつつ、寝台傍の棚に置かれた水差しを探り当てた。高杯に水を注ぎいれて喉を潤す。食道を水が滑り降りていくその一瞬一瞬を感じながら、思わず顔をしかめた。招力石で、その水を温めておくべきであった。あまりの冷たさに、食道が凍てつきそうだったのである。
 はぁ、と嘆息し、寝台の上に仰向けにごろりと寝そべった。このようにごろごろと一日を過ごすのは何時振りであるのだろう。そろそろ久方ぶりに『夜明け』を迎えるであろう外を眺めやる。窓の外は相変わらず暗い。古い童謡に歌われるとおり、この国は確かに常闇だ。その夜闇の濃さを改めて確認しながら、再び嘆息。
 喉にそっと触れてみる。シルキスに奇妙な薬を飲まされた後、いくら喉を震わせても、音が紡がれることはなくなっていた。ただ、空気の抜ける音が響くばかりで。覚えていろあのくそめがね男、と、もともとかわいいシファカに言い寄っていたということもあって、モニカの腹にたまるシルキスへの恨みは拳一発で収まらないこと確実だ。頭の中で片眼鏡の異国人をとりあえず殴りつけ蹴りつけ、ふーっと怒りを乗せた吐息をついた。
(アレクは、無事なのかしらね)
 天井に手を掲げ、つめの先が赤黒く変色していることをモニカは認めた。アレクの血だった。
 赤い血。
 自分と同じ血だ。彼に流れるのは。時の流れも同じ。なのに彼があまりにも綺麗過ぎるので、誰もが恐れる。その美しさは、獣や神のそれだから。確かに、人の美的感覚で言えば、綺麗といわずに奇異、というのであろうが。
 ただ、それだけだ。
 彼の耳がとがっていることだとか、暗闇で猫のように煌く双眸だとか、色素がないことだとか。
 そんなことは、モニカの髪が栗色でジンの髪が亜麻色でシファカの髪が黒色でという程度の違いしかモニカにはもたらさない。
 けれども、彼を認める人はあまりにも少なかった。
 正式な王家の血を継ぐ、彼の母のみで。その母も、畸形のアレクを生んだことに対する周囲の責めに耐え切れず自ら命を絶ったのだ。
 それ以来心に決めたこと。あの孤独な王子の傍に、いてやること。小さな小さな国の人々の心に巣食った、闇に光さすそのときまで。
 けれど。
 この国の人々は、もう、その闇を払うつもりはなさそうだ。
 リシュオを、王に祭り上げるという。
 最後まで、アレクを彼らは認めなかった。
 この夜の王国は、獣と精霊と隣り合わせの国ではなかったか。元は、人ならざるものと手を取り合って作られた国なのではなかったか。
『化け物……!』
 アレクを傷つけた、自分もよく知った町人の一人が、アレクに向かって放った言葉。
 自分と同じでないと認めない人の醜さ。
 童謡は歌うのに。常闇の燈国と。本来ならば夜陰に紛れて生きることしか出来ない人々が、灯りを灯して堂々と、人と共に生きられる国であると。
 そう、歌うのに。
 どこで、取り違えたのだろう。
 どこで、その灯火を消してしまったのだろう。
 この国は、何時になったら夜明けるのだろう。
 かた。
 寝台の上で、再び眠りの世界へ落ちようとしていたモニカは、その物音で引き起こされた。最初に目線が向かったのは扉であるが、そこには人の気配は全くない。気のせいかと目を閉じかけ、再び響いた物音に、それが幻聴なのではないということを確信する。
 耳を澄ます。かたかたという、板か何かが触れ合う音は、壁の一角から響いていた。のっそりと上半身を起こして、目を凝らす。円卓の向こう側の壁。それが、微妙ではあるが。
 動いている。
 次第にその振動は大きくなり、突如。
 ごとん。
 壁がぬけた。
「――――っ!?!?!?!?」
 口元を押さえる必要もなく、声を奪われた喉は悲鳴を上げることができない。ただ、かたかたと床の上で震動する元壁の一部を寝台の上から見つめていたモニカは、ここ十日ほどで聞きなれた娘の声を耳にした。
「いっ……」


「たたたたたいたいたっ。お、押さないでくださいよっ手が挟まっているんですからっ」
「だからまず最初に手は抜くようにいいませなんだか」
 背後からぐいぐいと身体を押してくるハルマンに抗議の声をあげると、しれっとした言葉が返ってきた。シファカは眉間に皺を寄せて嘆息する。穴は通り抜けるには確かに十分な大きさがあったが、勢いが必要だった。
「よっ」
 穴から這い出て立ち上がる。身体の埃を軽く払う。その際に視界の端に、影が写った。影に沿って視線を動かせば。
「モニカさん」
 ぱくぱくと口を動かして、モニカが驚愕の表情で立ちすくんでいた。彼女の驚きも理解できる。突然壁から人が這い出てくれば、誰だって驚かずにはいられないだろう。
 それに、自分は確か正面堂々と、<トキオ・リオ・キト>へ戻ったことになっていたのだ。その自分がこんな泥棒のような真似をして登場するのならなおさらだ。
 シファカは彼女の夜着の袖を強く引いた。
「逃げるよ。ここから」
 モニカは一瞬顔を怪訝そうに歪めたが、即座にシファカの言葉に応じていた。シファカがこのようにして現れた理由を、想像することができたのであろう。
 モニカが寝台にとって返し、傍の椅子にかけられていた上着を手に取った。それを慌しく着込みながら、彼女が引き返してくる。
 と。
 がちゃ
 唐突に、正規の入り口が開いた。
 佇んでいたのはシルキスだ。彼は背後に二人の護衛らしき人間を従え、扉を開いた体勢のままで眉をひそめたが、くっと喉の奥を笑みにならした。抑揚を押さえた涼やかな声が、明朗に部屋に響き渡る。
「逃げた鼠が鼠捕りに掛かりましたか」
「ハルマンさん!」
 シファカは刀を抜き、踏み出すと同時にいまだ壁の中の通路にいるハルマンに向かって叫んだ。近くのモニカを手繰り寄せて、壁に向かって突き飛ばす。がたん、というかなり派手な音。モニカがよろけた拍子に、椅子が倒れたらしかった。
 モニカを突き飛ばした反動を使い、シファカはシルキスに向かって駆け出した。彼の背後では護衛の男たちが、剣を抜き放つ。力勝負は分が悪い。シルキスの横を駆け抜けて素早く男二人の懐に飛び込み、その腹部を立て続けになぎ払う。ぱっと赤い花が咲いて、傷口をかきむしりながら、彼らはその場に崩れ落ちた。
 即座身体が振り返りざま刀で宙を一閃していた。殺気を、感じたのだ。頭で感じるよりも身体が空気を読んで反応する。積み重なった経験から来る、本能のようなものだった。
 空気を裂いた拍子に、金属音をたてて刀が何かを弾き落とす。叩き落されたそれは、空中で回転し、とすっと軽い音を立てて絨毯の上に突き刺さった。
 短剣だ。
 その上で視線を一瞬とめたシファカは、続けて身体を総毛立たせる殺気に、刀を振り上げながら頭上を仰いだ。ぎん、という金属音。シルキスの手には、どこから取り出したのか、もう一本、小ぶりの剣が握られていた。
 そして一瞬遅れて、伸びてくる。
 手。
「っいっ……」
 剣と剣の狭間を掻い潜って伸びたシルキスの手は、蛇のようにシファカの喉元に喰らいついた。ぎり、と首に指が食い込み、呼吸が止まる。シファカは息苦しさに顔をしかめつつ、刀に込める力を、一端抜いた。
「……く……あ」
 刀を持つ手とは別の手で、喉に喰らいついたままの手を引き剥がそうと努力する。だが一体どのような力の込め方をしているのか、食い込んだ指は少しも緩むことがなかった。
「いい顔です」
 薄く開けた瞼の隙間から覗く男の顔は、薄く笑っている。残虐と呼ぶに相応しい、歪んだ微笑。
「……し、るき」
「どうして、いつもいつも、私が望むものは、私から離れていくのでしょう」
 一体、シルキスが何を言わんとしているのかが、判らない。
 問いかけたシファカは、シルキスの背後に伸びる影に目を見開いた。モニカが、燭台を掲げもってこちらにかけてくる。その足音を聞き取ったシルキスが、シファカを絞首する手を緩めた。欠乏した空気を力いっぱい吸い込みながら、シファカは膝をついて、刀を返す。
 ごっというぶれた鈍い音。モニカが手にしていた燭台が、見事シルキスの後頭部を殴打していた。ソレと同時に、シファカの刀の柄がシルキスのみぞおちに食い込んでいた。弾き飛ばされた短剣が、音もなく絨毯の上に落下し、一瞬遅れて、男の身体が大きく傾いだ。
「シファカ殿!」
「ハルマンさん後で合流しましょう!」
 老年の域とはいえども体格が優れているハルマンは、壁の隠し穴を通過することができない。しばらくしてこの場を離れる彼のものと思しき足音が部屋に響いた。悶絶して崩れ落ちたシルキスの身体を横たえて、シファカはモニカを仰ぎ見た。
 燭台を手にしたまま、小刻みに震える娘。
「大丈夫。死んでないよ。気絶しただけだから」
 その一言で、モニカの身体から力がぬけたのがわかった。いくらモニカが気丈な娘とはいえども、人を殺したことはないのだろう。顔面が蒼白で、今にも泣き出しそうになっている。こんな小さな平和であった国では、兵士ですらその握る剣で人を傷つけたことはないのではないか。怖かったに、違いない。
「ありがとうモニカさん」
 安心させるように、シファカはモニカに微笑んでやった。彼女は弱弱しく首を左右に振った。
 目が、彼をどうするのかと、言っている。
 シファカは立ち上がって血を簡単に払い、刀を鞘に収めた。双子の玻璃球がちりりと揺れる。そうだなぁと首をかしげて、何か具合のよいものがないかと部屋を見回した。
「とりあえず、何かで縛っておかないと。衣装箪笥の中にでも放り込んでおいたほうがいいな」
 ふと、扉の向こうで影が揺れる。シファカは無意識のうちにその影を目で追った。ちらちらと蝋燭の炎に合わせて蠢く影は、人の形を、している。
「でないとあとあと人に見つかって騒ぎになってもこま、る」
 衣服を纏った、影。
 否。
「し」
 人、そのもの。
 シファカとモニカは、そこでようやく、開いたままになっていた扉のむこう、廊下で佇む兵士の一人を認めた。まだ若い。そして見覚えがある。トキオ・リオ・キトの食堂に、頻繁に顔を見せていた兵士だ。
 状況は、最悪。
 返り血を浴びた自分と、血の付着した燭台を握るモニカ。そして絨毯の上に折り重なる兵士とシルキス。これはまさしく、先ほどモニカからきいた、彼女がジンとアレクと逃げる羽目になったいきさつと同じではないか。
 シファカは舌打ちし、刀の柄に手をかけて飛び出した。
 兵士が、笛を口に加える。
 ピーっという、耳障りな警戒の音が、廊下に反響を伴って響き渡る。
「……め……駄目! シーちゃん!」
 背後から響いたモニカの声に、鞘から刀を抜きかけていたシファカは、即座鞘に刀を収め、その鞘ごと刀を振り回した。打撲音が響いて、兵士はあっさりと横倒しになる。壁にくったりと身体を預けて気絶している兵士を見下ろしながら、シファカは呻いた。
「モニカさん、声」
「……くすり、きれた……かな。だから、こいつ、きたの、かも」
 モニカの声はしゃがれてはいたものの、しっかりと発音されていた。その事実に安堵しかけ、のんびりしている場合ではないと、気付く。
 シファカは、モニカの手をとって駆け出した。
「逃げるよ!」
 どこへ、とモニカが掠れた声で問うてくる。
 判らない。判らないけれども。
 たとえ彷徨い逃げ惑う暗闇の先に。
 光がなくとも。
 今は逃げなければならないのだと、そう、理性が告げていた。
 ここで殺されて、会いたい人に会えるかもしれないひとかけらの希望すら打ち砕かれるのは、御免であったから。


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