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第六章 暗闇の先に 1 


 眼下に広がるのは、見慣れた夜の王国の街並みだ。
 背後を振り返っても、空恐ろしいほどの沈黙を内包する暗い森があるばかり。そこには忘らるる都の面影はない。全てが夢幻であったのではないかと思うほど。
 が、呆然と森をアレクと並んで見つめていたジンの足元に触れるものがあった。キユ。夜の森に住まう唯一の長命種の女に従うメス狼は、雪の上に座してジンとアレクが動き出すのを待っている。
「おい、寒いぞ」
 目を細めて城を眺め見やり、防寒具の上から羽織った外套の胸元をかきあわせながら、アレクが不平を漏らす。ジンは吐息の白さと頬を刺す冷気に顔をしかめながら、その呻きに応じてやった。
「当然でしょ殿下。外なんだから」
「どうにかしろ」
「無茶言わない」
「お前魔術使えるだろうが火を出せ火を」
「簡単なまじないだとかはそりゃ使えますし、難しいのも手順さえ踏めばどうにかなるけど。正規の魔術師じゃないんだから突然火を出したりとかってできませんって、何度といったらわかるのさぁ殿下」
「無理でもやれ」
「あー俺もうこの人についてきたの間違いだったのかもーと早くも後悔で一杯ですともえぇ」
 はらはらと泣くまねをするジンの足元を、キユがくいと口で引っ張ってくる。早く先へ、と彼女に顔で催促された。とうとう痺れを切らしたのか、足早に丘を駆け下りていく狼を眺めながら、ジンは呻いた。
「結局キユちゃんが賢いよね」
 丘を駆け下りれば、身体ぐらい温まるに決まっているのだ。


 がしゃん
 その、錠前の降りる音がシファカの意識を揺り起こした。瞬きを繰り返してじくじく喉を押さえると、即座に意識途切れる寸前の記憶が脳裏を駆け抜ける。どうやら牢屋に入れられたらしいということを、周囲を確認と同時に認識して、シファカは跳ね起きた。
 格子のむこうに佇むのは、シルキスだ。
「このような場所にしばらくとは言えど貴方を閉じ込めておくこと、どうかお許しを」
「そんなこというんだったら、最初からするな! 一体なんの真似だ!? あんた何が目的だよ!?」
 即座に吼えると、シルキスは柔らかに目を細めた。嬉しそう、ともとれるかもしれない。このように怒鳴られて何故そこでそのように喜色を浮かべるのかが判らず、シファカは困惑に身を引いた。
「……何」
「目的など、何もないといったほうが、正しいのかもしれません」
「……どういう意味だ?」
 シルキスはにこりと微笑んだ。実に無邪気に。そしてどこか、哀しそうに。
 何故この男が自分に対してこのような笑みを見せるのか、理解しかねる。
「……シルキス?」
「部屋が整うまでお待ちを。すぐに迎えにこさせます」
「ちょっと!」
 遠ざかる足音。シファカは思わず格子に飛びついていた。顔を格子と格子の間にねじ込んで、小さくなっていく背中に向かって叫ぶ。
「あんた、一体何が狙いなんだよ! 私の質問に答えてないぞ!」
 牢屋のある廊下は薄暗く、壁に灯される松明が唯一の灯りだ。吐く息は白く、握った格子は氷柱のようで。シファカの声はその狭い通路を走るようにして響いた。
 その声に、引き止められたのだろうか。
 シルキスが立ち止まり、背中をシファカに向けたまま、囁くような呟きを零す。
「私は、証明したいだけですよ」
「……証明?」
「私が、学んできた全てを。そうして……見出したいものが、私にはあるのです」
 刹那、響きわたる奥の扉が閉じられる音。その、空気の動きと共に揺らめく松明の炎。
(一体、何なんだ)
 シファカは膝を抱えながら胸中で繰り返した。何なのだ。
 一体、何が起こっているのかがわからない。モニカの筆談によって、彼が何かをたくらんでいるらしいということはわかった。アレクを、追い出したがっていることも。
 だが、モニカも誰も、それ以上のことはわかっていないのだ。ジンなら、何か知っているかもしれないと、モニカがシファカにそう語ったが、彼もアレクと共に行方知れずのまま。誰も、何がこの小さな国で起こっているのかわかっていないのだ。
 ジン。
『ジン・ストナー・シオファムエン』
 シルキスは、彼のことをそう呼んでいた。聞いたことのない名前。本当に、この国にいるジンは、自分の知っているジンなのであろうか。自分が追いかけているジンなのだろうか。どこかお調子者で、自分をからかって、馬鹿みたいに強くて、苛立たしいぐらいに頭が切れて。
 でも不器用で。
 不器用に、優しくて。
『シファカ』
 とても、柔らかい音律で、自分の名前を、呼ぶ人。
 子供みたいな顔で、泣きそうに笑う人。
 こんな、遠くまで。
 呼気が、白くなる北まできて。
 理由のわからない騒ぎに巻き込まれ、牢屋に入れられている自分は、一体何をしているのだろう。
「馬鹿、アホ、間抜け」
 膝を抱えて周囲を観察する。考えろ。シファカは自分に言い聞かせる。刀が取り上げられていることが、より一層自分を心細くさせていた。こういうときは、決して慌てても、あせっても、恐れてもいけない。霧の中、闇の中を歩いていくときは、恐怖によって盲目になる。見えるはずのものまで見落としてしまいやすい。それが一番恐ろしいことであると、自分を律していくことが大切なのであると、ジンがそういったのだ。湖のほとりで、稽古をしていた。馬鹿みたいにへらへらして、シファカに甘い飲み物を手渡しながら彼がそういったのだ。何気なく。けれどとても重要なことを。
「弱虫、へたれ、ガキ」
 シファカがいれられている場所は個室で、典型的な、地下牢であるようだった。備え付けのものは寝台と、用を足すためであるらしい穴のみで。他にはなにもない。ぴたん、と雫の零れる音に天井を仰ぎ見れば、氷柱が下がっている。
「大嘘つき」
 次に確認するのは錠前。魔術を施したものではない、ごく普通の錠前らしいことに、シファカはほっと安堵した。これが魔道具の類であるならば、完全にお手上げであるからだ。
「おお、うそつき」
 一緒にいるって、いった。
 まもるっていった。
 あのひとは私をおいていった。
 いま、私はこんなふうに牢屋に閉じ込められているのに。
 背中が、まだ遠い。
「嫌い」
 すき。
「嫌い」
 すきです。
「大嫌いだ」
 だいすき。
「馬鹿野郎。全部あんたのせいだぞ」
 あいたいよ。
「ジン」
 がん、と格子を叩きながら、そこに額をつける。頭を冷やすことが必要だった。涙を堪える必要があった。今、なく場所ではない。泣けば涙が凍るだろう。睫毛に付く水滴が、鬱陶しくて仕方がないのだ。
 指先の感覚はなく、外に出るために防寒具を身につけていたことが幸いした。もしそうでなかったとしたら、確実に凍死していただろう。
 部屋を準備するだのなんだのといっていたが、そのまえにこのような場所に放り込むなとシルキスにいってやりたい。閉じ込められるにしてももう少しましな部屋が腐るほど城に眠っていることを、自分は知っているのだ。
 とにかく、あの男は一発後で殴るとして。
 この錠前をどうにかしなければ。
 髪の中に手を突っ込み、軽く後頭部をまさぐったシファカは、聞き覚えのある声に動きを止めた。
「シファカ殿」
「……ハルマン、さん?」
 今まで、斜迎いの牢に、彼がいることに、どうして気付かなかったのだろう。
 自分の迂闊さに思わず頭を抱えたくなりながら、シファカはその声の主の名前を呟いた。
「無事、だったんですね」
 予想通り、捕えられてはいたが。
「おかげさまで」
 アレッサンドロの近習である老人は、余裕の笑みに皺を深くして頷いた。よかった、と安堵するもつかの間、いつからそこにいたのであろうと表情を強張らせる。自分を落ち着かせるためとは言え、いろいろ、口走ったような気がするとかしないとか……。
「あ、え、と。さ、さっきの独り言、きいて、まし、た?」
「は? 独り言、ですかな?」
 真剣に首を傾げるハルマンに、シファカは胸をなでおろした。どうやら聞かれていないようだ、と気を取り直して面を上げたシファカは、この状況にあって余裕の笑みをみせるハルマンを見た。
「全部お前のせいだぞ、の前あたりですかな」
 紳士に見えて、実はこのご老人、そうとう意地が悪いのかもしれない。
「…………あーえーうーえー」
「まぁ、なかなか面白い批評を聞かせていただきました。あの男をそう評するのは、貴方ぐらいではないですかな」
「……はぁ」
「そうですか。あの男、弱い部分を見せられる相手が、ちゃんとおったのですなぁ」
 くすくすと笑う老人に、シファカは緊張感をそがれて髪から手を抜いた。寒さに身体を縮めつつ、できるかぎり格子に近づき身体を傾ける。声は明朗に響くものの、こうしなければ斜向かいの相手と会話しづらかった。
「……ハルマンさんと、ジンって、親しかったんですか?」
「付き合いは先ほども行った通り、一月ほどですが、殿下を諌めるためにともにあれこれとやりましたからな。この国では、殿下やモニカ殿についで、親しいほう、といいたいですな。あの男が、私をどのようにみているのかはわかりませんが」
「……どのようにって?」
「冷酷薄情な男ですからな。親しくしているかのようにみえて、あの男にしてみれば、案外、通行人一と同じ程度にしかみていないかもしれないという、そういう意味です」
「え?」
 シファカはきょとんと、目を丸め、ハルマンを見返した。彼の言葉の意味が、よく、判らなかったからだ。
「人当たりの良い男ですが。それは処世術の一種でしょう。意外に根気よくものごとに付き合ってはくれますが、最後の一線では、相手を簡単に切り捨てられる。そんな男にみえましたな。それは私がいろんな人間をみてきたからこそ、いえることですが。まだ三十路そこそこで、よくもまぁあんな技術を身につけたものです」
「……えっと。それは」
 しみじみとハルマンの口から語られる男の姿は、意外とはいえども、納得のいくものであった。
 だれにでも、やさしくて。
 だれにでも、親しくて。
 けれども、最後の一線は、踏み込ませない。
 切り捨てられる。
 だからこそ。
 自分も置いていかれたのだろうか。
 収まりを見せていた不安が、再び頭をもたげる。旅の途中、繰り返し繰り返し己に問うたそれ。
 追いかけて、追いかけて、万が一、追いついて。
 そうして、自分はどうするのだろう。彼になんというのだろう。彼は、自分になんというのだろう。
 伝えたいことがあったのだ。馬鹿。阿呆。一緒にいるといったくせに。大嘘つき。
 大好き。
 好きであったと。
 一緒にいてほしいのだと。
 一緒に生きたいのだと。
 けれども、彼は自分のことをどう思っていたのだろう。
 大事にされていたことはわかる。けれどもおいていかれたということは結局、ジンにとって自分はなんでもないただの町の少女に過ぎなかったのではないか。追いかけてきた自分を、奇異の目でみるのではないか。再会してから、考えようとおもっていたことであった。再会してから考えればいいと。蓋をしてきた、思い。
「そのような沈んだ顔をなさるな」
「え?」
 ハルマンの言葉は優しく、そして苦笑を含んでいた。彼と再び目を合わせれば、皺を深くして微笑む老紳士の姿。
「先ほども、私はいったでありましょう」
 彼は、穏やかな抑揚でもって言葉を続けた。
「残酷で冷酷な男ですと。薄情ともいいますな。ですが、気に入った相手には、そうでもないようですよ。貴方は、大事にされていたのでしょうなぁ」
「……どうしてそう思うんだ?」
 しみじみと、まるで自分たちのありさまを見てきたように呟くハルマンに向かって、シファカは疑問の声をあげた。だが彼は、シファカの問いにさらりと応じる。
「でなければ、貴方のような若い女子が一人で世界を旅しようなどと思わないでしょう」
「……それは」
 自分は。
 酷く無知であったから。
 外を旅する、ということがどのようなことであるか、よく判っていなかったのだ。女の身がどれほどその行程を困難にするかも。路銀はすぐ尽きたし、情報の集め方もよくわからず、失敗ばかりを繰り返した。それなりにきちんと身を立てて、旅をできるようになったのはつい最近のことなのだ。
 その、文字通り泥水をすする困難さを、知っていたら自分は荒野の国を飛び出していただろうか。
「それにです」
 言いよどむシファカをからかうような笑みを浮かべて、老人は言った。
「大事にしていない相手の持ち物を、いつまでも肌身離さず持ち歩くような男には、見えませんでしたので。あぁ、貴方をみたら、さぞや驚くのでしょうな。その顔が、見てみたい」
 なかなか。
(ずぶといひと)
 牢屋の中に押し込められているというのにけらけらと笑う老紳士に、ついシファカは釣られ笑いをしてしまう。くつくつとのどの奥で必死に笑いを堪えていると、ハルマンが唐突にさて、と話を切り出した。
「緊張はとけましたかな?」
 ぎくりと。
 その問いで身体が強張る。弾かれたようにハルマンを見やれば、彼は穏やかに微笑んでいる。言うべき言葉を失ったシファカの代わりに、ハルマンは切り出した。
「焦燥や恐怖は、人の判断力を鈍らせます。お役にたてましたかね?」
「……え」
「ゆっくりと考えましょう。ここから出る方法を。とりあえず私は、この国にいらぬ厄介ごとを持ち込んでくれたらしいあの男を一つ殴りにいきたいので。あせっても、この場所から抜け出せる方法は思いつかんでしょう。寒さに、老体は堪えますが」
 ぶる、と身震いしてみせるハルマンに、シファカはもう一度笑う。そして即座、表情を引き締めた。髪の中に手を突っ込みながら、あの、と躊躇いがちに切り出してみる。
「どうかなさいましたか」
 シファカは、髪の間から引き抜いたものを、松明の灯りにかざしてみせる。
 銀色の、針金。
「こんなもの、あるんですけど」
 それが鈍く橙の光を受けて輝いた。


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