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第五章 忘らるる都にて 3 


 どうも、釈然としない。
 ジンは寝台の上で寝返りを打ちながら嘆息した。
 予定通り、氷の帝国へぬけられるという。この森、ひいてはガヤを含めた土地全てを守護しているという長命種の女がいうのであるから、それは確実なのであろう。本来ならば喜ぶべきだ。厄介ごとは御免である。小さな国といえども権力闘争は権力闘争。首をつっこんでも、何の利益も得られない。現に、こうして指の爪をいくつか失ってしまったではないか。
 まだ白い包帯が巻かれたままの手を天井にかざして見やる。先ほど傷の具合を確認した折よりも痛みは確実に薄れてはいるものの、まだ残る鈍痛が、もしかしたらこの手を失っていたかもしれないのだ、とジンに警告する。
 まったく、割に合わない。万が一、死んだらどうするつもりであったのだろう自分は。ジンは嘆息した。
 死が恐ろしいわけではない。一度死のうとした人間であるから。そして死が恐ろしくないからこそ、ぎりぎりの博打のような道を歩むこともある。けれどそれは自分の命を生かすためだ。自分は、死ぬわけには行かないのだから。
 幼馴染が、そう望んだのだ。死ぬなと。ただそれだけを望んだのだ。なら自分は、生きなければならないのだ。自分の祖国において、自分が幼馴染にしたことは、それほど重いものであったのだから。
 無事に氷の帝国までぬけられるというのなら、それを手放しで喜んでもよいはずだ。なのにどうしてこんなに鬱屈としたものが胸中に溜まっているのか。
 アマランスが、あの国の騒ぎを収めるというのなら、それでいいではないか。アレクも傷が治り次第、彼女の助けを借りて国に戻るであろう。それで、いいはずだ。
 なのに引っかかるものがある。
 ジンは上半身を起こし、自分の身体の傷の具合を確かめた。胴回りに巻かれた包帯を解けば、筋肉の繊維は恐ろしく綺麗に塞がっている。狼たちにやられた傷が浅かった、ということもあるのであろうが。もとはアマランスに迎えに出るようにだけ、命じられていたという狼たちは、あれでもかなり手加減していたのかもしれない。こっちは本当に死ぬかと思ったのであるが。
 アマランスに言わせれば、どうやら狼たちにとってみれば、人間をここにいれることは多少抵抗があったのであったらしい。
 寝台から降りる。石造りの床は裸足の脚にひやりとして、けれども決して冷たすぎるということはなかった。魔力の吹き溜まりに建てられているという神殿は、温度が調節されていて過ごしやすい。寒くもなく、暑くもなく。
 立ち上がって、椅子まで歩み寄る。そこにかけられた衣服を身につけていると、寝台の傍に控えていたキユが面を上げた。このメス狼、アマランスに言わせればどうやら戦った折に、自分を上位の人間であると認識したらしい。常に傍に侍っている。その耳の後ろをなでてやると、彼女は気持ちよさそうに目を細めた。
 ジンは寝台の傍に置かれた青龍刀を持ち上げた。飾り気もなにもない、ただ実用のみを追求した肉厚の刀。鞘の縁と鍔の部分に精緻な彫り物がされてはいるが、それのみだ。そこで、嘆息する。
 赤瑪瑙の、玻璃球。
 この、何か納得がいかない理由は、それかと思った。モニカに手渡してしまった玻璃球。
 あの国から、ずっと自分の傍にあった玻璃球。それがモニカの元にあるから、こんなにも落ち着かないのかと。このまま氷の帝国へ行くのであれば、もうあれは、取り返せないことになるから。
 そうしたら、もう、あの荒野の地へ、戻る理由も、なくなる。
 会いたいと思ったのだ。
 一目でいい。顔をみて、あの土地に生きる少女が幸せであることを確認する。けれども恐ろしかった。直接顔を合わせるつもりはないけれども、万が一、彼女が自分を見つけでもしたら? 何をしにきたと問いただされて、答える術を、自分はもたない。
 その、理由付けのための玻璃球。あれがないと、自分はもう、あの土地に、戻ることはできない。
「弱いなぁ、俺」
 手で顔を拭い、自嘲気味に呻いた。
 あの、玻璃球のせいか、と納得してもまだなにか落ち着かない。ジンは青龍刀を携えると、廊下のほうへと歩き出した。
 散歩でもすれば、落ち着くものもあるかと、思ったのだ。


 忘らるる都。
 まさしくその通りだと、ジンは思った。
 アレクが眠るアマランスの居住区へ足を運んだときには判らなかった。あの時歩いた道は、全てきちんと掃除がなされ、生活の気配がしていたからだ。が、その空間から一歩外に出れば、荒れたと形容することすら難しいほどの荒廃した町並みが広がっていた。町、というには語弊があるかもしれない。けれども連なる楼閣やそれを繋ぐ回廊、渡殿。多くの棟。木の葉と雪に埋もれたその場所は、確かに、小さな都であった。
 人ならざるものの、都。
 かつては、神殿として、沢山の人を迎え入れていたという場所は、今は暗い森に閉ざされて、ひっそりと静まり返っていた。
 ところどころに植えられた木々は、氷の枝を撓らせ、夜風に散る葉は、積もった雪と共に踊って地に落ちる。蜘蛛の巣が氷を捉えてきらきらとほの暗い町の明かりに輝いている。人気はないのに、町だけは魔力によって明かりを灯し続けている。まるで、かつてこの場所をにぎわせた人々が戻ってくることを待っているかのように。
 ずいぶん、遠いところまで来たものだと思う。
 ジンは吐息が凍てついていくのを目の端で捕らえながら、空を見上げた。まだ、あけない夜。夜明けは明後日。広がる暗闇は、見えない未来を表しているかのようだ。
 まだ、迷っている。
 夜の王国にアレクと共に戻るべきか否か。
 小さな、玻璃球一つ。
 かなり上等なものだとしても、それだけだ。命をかけて取り戻す必要はないのだ。あれがあの、少女に通じるものだとしても、執着が過ぎる。
 そして、アレクとモニカ。
 自分の目の前で彼らは頻繁に口喧嘩をして、よく笑わせてもらいはしたけれども。それだけだ。あの二人がどうなろうと知ったことではない。置き去りにしていくべきであった。自分は、贖罪のために世界を流れる。国から出られない、幼馴染のために『目』になること。彼が望むとおり、彼の目の前で死ぬ、そのときまで。それが、自分の決めたことであったのだから。こんな場所で、足踏みをしている場合では、ないのだから。
『お前も、俺を見捨てていくのか』
『お願いよ。もう少しこの国に、留まれない?』
「くそ」
 近くにあった雪の塊を、ジンは蹴りつけた。
 丁度、そのときだった。
「お前にしちゃぁずいぶんと荒れているじゃないか」
「……殿下?」
 蹴り上げた雪散る狭間から、にやりと笑うアレクが、顔を出したのは。
 ざくざくと雪を踏み分けてくる人は、つい先ほどまで寝台で死んだように眠っていたアレッサンドロに他ならない。防寒具のそこここから包帯がのぞいてはいるものの、足取りはしっかりとして、顔色も悪くはなかった。むしろ、寒さからか頬が紅潮して血色よく見える。
「傷の具合はどう?」
「悪くはない。肩も動く、が、気分は最悪だ。薬臭い」
「あはは。それはしかたないでしょー」
 魔術。長命種が行使するので、魔法か。その力を借りて治療を行ってはいるとはいえ、基本は薬による処置である。薬のにおいが体中に染み付くのは仕方がない。
「湯殿、あるみたいだから後で身体洗わせてもらいなよ」
「阿呆。傷にしみるだろうが何を考えている」
「あ、それもそうか。でもほとんど皮膚つながってるでしょー。俺のがそうだもん」
 アレクは軽く舌打ちし、ジンは笑った。彼の様子が、あまりにも普段どおりであったから。回復したのだと、確認できて、つい笑みがこぼれる。彼の生死がどうなろうとしらない。そうはいいつつも、このまま死なれたら目覚めが悪い。
「殿下は何をしてるの?」
 雪を蹴りながら憮然とした表情でその場に佇むアレクに首を傾げると、怒鳴り声が返ってくる。
「散歩だっ」
「……そんなに怒鳴らなくても。でも殿下、もう少し安静にしてなきゃいけないんじゃないの?」
「うるさい。あんな散らかった場所で、小うるさい女についていられちゃ治るものも治らん」
「あ、アマランスには会ったんだ?」
「何なんだあの女! 古臭い口調して俺にいろいろぐちぐち説教をたれやがる! あれならまだモニカのほうがマシだ!」
「いやそれ多分モニカちゃんに失礼だよ。とーいうかさーアマランスのおねーさんにも悪いでしょう」
「おねーさん!? そんな年か!? 長命種だぞ何百年何千年生きているか判らんババアだぞ?!」
「うんそだね。だけどおばさんとかおばあさんっていうと、ものすごく怒りそうじゃん。手当てしてくれたのにさぁ。それの恩を、あだで返すつもりはないわけ、俺」
 あははと笑いながらジンは言った。しばらくして、アレクの冷ややかな声がジンの鼓膜に突き刺さった。
「氷の帝国まで送ってもらえるらしいしな」
「……殿下?」
「媚をうっておいたほうがいいだろう。この雪と夜に閉ざされた森を、一番安全にぬけられるだろうからな」
 皮肉であった。
 不快感に眉をひそめ、ジンはアレクを見返した。白い王子は、この荒廃した町並みに、あまりにもなじみすぎていた。この場所が人、あらざるものの居住区であったからかもしれない。長命種の血を色濃く残す彼は、この都の住人であってもおかしくはない。けれどそれ以上に彼をこの枯れた場所に同化させていたものは、彼が纏う空気であった。
 置き去りにされる、ものの。
「よかったな」
 ざざ、と背後の木から雪が落ちる。その音に混じって響く、明朗な白い王子の声。
「なにが?」
「氷の帝国へ、ぬけられるんだろうが。無事」
「そう、だけどね」
「だったら喜べ。まぁせいぜい死に損ないながら、貧乏に喘いで暮らすんだな」
「ひきとめないの」
 ジンは即座、馬鹿なことを口にしてしまったと後悔した。引き止められても、困るのはこちらである。どうしてそんなことを口にしたのか、自分自身に戸惑いながら青年を見返せば、彼は鼻でジンの言葉を一笑していた。
「引き止める? は。お前なんかもう知らん。早く行け。どこへなりといけ。俺は知らん」
 彼は、繰り返す。
「俺は、知らん」
 彼は、一人で国に戻るのだろうか。
 誰も、彼を王として、以前に人として価値を認めなかった国へ。
 暗闇に埋没する国へ。
「どうせ、最初から期待してはおらん。誰もが俺を置き去りにした。病で母上が亡くなった後は、俺の元に残ったものなど、おらぬ」
 アレクは、吐き捨てるようにそういった。そこまでして、誰も彼もが徹底的に彼のことを厭っているのかと問われれば、ジンは否という。けれども彼がそこまでいうのならどうしようもないであろう。日の光の下で生きられない彼は、まさしく夜の王国で生きるに相応しい申し子だというのに、夜の王国に対して関心が薄い。
 初めから、諦めているといってもよかった。
 彼の幼少の頃の体験をジンは知らない。けれどもそれは彼の心に深い影を落としたのであろう。
 ジンは、首をかしげた。
「殿下は、氷の帝国へ、こないの?」
 そこまで国に対して諦めているというのなら、ジンと同じく北へぬけてもよさそうなものであるというのに、彼はそれをしない。
 ジンの問いに対し、アレクはさも当然といった風に言い放った。
「モニカがいるだろう。あの阿呆、つかまったからな」
 その声音は、少し誇らしげであった。大丈夫だ。ジンは思う。彼は、大丈夫だ。まだその手の中に、大事なものを取り戻せる可能性が残っているのなら。
 アレクは続ける。
「戻って来いといいやがった。なら俺は戻らなきゃならん。あのくそ女だけは、馬鹿正直に俺を信じて疑わなかったからな。……世話の焼ける女だ」
 微笑みかけたジンは、次の瞬間アレクの言葉を耳にして顔色を失った。
「だから、俺のことなど気にするなといいにいかなければならない」
 愛して、いるだろうに。
 正面から口論を繰り返し、互いを認め合って彼らは笑う。呆れるぐらいに互いを馬鹿にしあって、それでもそこには、決して揺るがない信頼がある。
 それなのに。
 そのような間柄であるのに。
 突き放すと王子は言う。
「俺などについてきても、何の利益もないことを、あのくそ女にわからせなきゃならんからな」
 忘れて、しまって。
 この手のひらの、熱も。
 この男は。
 自分と同じことを、彼女に対してしようとしている――。
「そんなことをして、彼女が喜ぶはずない」
 そんなことをして、モニカが幸せに笑うはずが、ないのに。
「そんなこと誰にも判らんだろう」
「判るよ」
 ジンは断言した。
「何故」
「理由なんて……ないけどわかるよ」
「滅茶苦茶だな」
 アレクは不満げに鼻を鳴らし、ジンをにらみ据えてくる。ジンは静かに彼の双眸と相対し、嘆息した。
「殿下はそうやって、モニカちゃんに付いて来るなといって、それでどうするの」
「さぁな」
「考えてないんだ」
「考えるなといわれてもな。俺はどうせこの国でしか生きられん。太陽のあるところでは生きられんからな。この国で拒絶されればどうしようもない」
 確かに。
 彼は、白子。先天的に色素がないということは、太陽の光に弱いということだ。この国で生活していればさほど感じない不都合。今思えば、氷の帝国はガヤとは逆に白夜の国であるし、南に下ったとしても日々太陽は昇る。夜の時間が短い国もある。ガヤほど、アレクに適した国はないのだ。
 吐息が断続的に視界を染める。それは薄い膜となって、ジンの声を反響させた。
「君が王になればいい」
 アレクは面をあげ、怪訝そうに首をかしげた。ジンは彼を見つめたまま、繰り返した。
「この国で、他がなんと言おうとも、君が王になればいい。君が遠慮する必要は全くない。そうすれば、君はこの夜の国で生きることができる」
「お前は……いつも、本当にめちゃくちゃなことを」
「無理なことじゃないでしょう。ここは君の国なのだから」
 アレクは唇を引き結び思案しているのか黙りこくり、ジンは嘆息しつつ口を開いた。
「殿下――」
「なんじゃおんしらこないなところにおりよったか」
 かさ、という落ち葉と雪を掻き分ける音と共に、ジンの言葉を遮って姿を現したのはアマランスとキユであった。途中で姿が見えなくなったと思っていたら、彼女はアマランスの元へいっていたらしい。毛皮に沢山の雪をこびり付かせて尾を振っている。その様子をみると、狼というよりも少し強面[こわもて]なだけの犬のようだ。
「じゃぁな」
 嫣然と微笑みながら歩み寄ってきた長命種の女と入れ替わりに、アレクがジンの横をすり抜ける。名を呼ぶ間もなく、彼はぼすぼすと雪の上で足を踏み鳴らしながら、アマランスが来た道を歩いていった。
「なんなんじゃあやつ。勝手に寝台を抜け出しおったとおもったんに。どこへいきよる。キユ」
 名を呼ばれた狼はアマランスの顎による示唆に忠実に従う。雪相手に格闘しつつも確実に道をゆく王子の後を、迷うことなく真っ直ぐに追っていった。
「部屋に戻るんじゃないかな。大丈夫だと思うけどね」
「けれどあやつこそ、お目付けをつけておいたほうがえぇ。無茶ばかりしよるよ。それになんたる恩知らずか。あやつを追い出したいと思うたものたちの気持ちが少しわかる気がしたぞぇ」
「あーうんでもま、根は馬鹿正直な王子だよ。意外なところで優しいし。俺はけっこう好きだよ」
「心配か」
「は?」
「あ奴一人で、ガヤへ戻すこと」
 狼と戯れながら――もとい、狼と軽く戦いながら――楼閣の中へと消えていくアレクとキユを見つめながら、アマランスが問うてきた。
「そりゃぁね」
 ジンは肩をすくめる。
「心配じゃないわけ、ないよ」
 ここまで、付き合っておいてそれで。
「あやつと共にガヤへ戻るのか」
「……氷の帝国まで送ってくれるっていう話は?」
「おんしが望むのなら私はそれでかまわんが、気にならんのか?」
「気になるって……」
「最後まで見届けぬと、すっきりしないのではないかぇ?」
 首を傾げるアマランスの問いは別段意地悪や皮肉からきているわけではないようだった。ジンは苦笑する。その問いのばかばかしさに。
「最後まで見届けてどうするの。俺には関係ないでしょう」
 最後まで見届けたところで、どうなるものでもない。自分の身の危険がますだけで。そろそろいらぬ物事に首を突っ込むのも、潮時にしなければ。
 アマランスが意外そうに目を見開き、やや躊躇をみせて、ジンに静かに話を切り出してくる。
「おんし、今口にしたことの矛盾に気付いているのかゃ?」
「矛盾……?」
「一方では心配だという。一方では関係ないという。それでは矛盾しておろうて。心配ならばなぜ関係ないなどというのかぇ? そんな……そんな強引に、関係を絶ってしまわぬともよいと思わんかゃ」
「俺は殿下が死のうがどうなろうが、知ったことではない」
「知ったことではないというのに、おんし、そのような怪我までしてあの王子につきあっておったんか」
 ジンは、呼吸を止めた。
 アマランスの口にしたことが、あまりにも的を射ていたからだ。それは決して尋ねられたくなかった問いでもある。幾度ジン自身、繰り返したかわからない問いなのだ。
「心配して、どうなるのか、というたな、おんし」
 言葉に詰まっていると、アマランスがため息をついて肩を落とした。
「心配して、事態が改善されることはなかろうて。だがたとえ何も理由がなくとも、好いた他者の安否を気遣うことは、奇妙なことではないと思わんかゃ。なぜ、そのように理由を欲する。何故、心が赴いたままにしておかぬ。心配ならばあやつについていけばえぇ。そして最後、妾のところにもう一度くれば氷の帝国まで送ってやるよって。まぁ無理にとはいわぬわ。今すぐ送って欲しいゆうのであったなら、氷の帝国まで見送ってやろ。心配だからこそ、ここまで付いてきたのではないのかおんし。それを――」
「もういい!」
 思わず。
 怒鳴りつけたジンははっとなった。面をあげると、アマランスが驚きに目を瞬かせてジンを見返している。唇を噛み締めて視線をそらせば、彼女の手が伸びてきた。
「哀れな、英雄の末の、幼子」
 その手が柔らかく触れて、髪にこびり付いた雪を払う。幼子とはずいぶんな言い方だとは思ったが、腹は立たなかった。確かに長命種で数百は年を数えているだろう彼女から見れば、自分は幼子同然なのであろうから。
「何をそんなに、怯えておるのかぇ。好いておるだろう人々を、関係がないと、口にして突き放さなければならぬとは。何にそんなに縛られておる。心のままに動かねば、後々後悔するのみぞ」
 あまりにも率直に述べられた言葉は、容易く胸中に痛く響いた。こんなにあっさりと、動揺を顔に表すべきではないと、判ってはいる。だが、なぜか笑う気にもなれなかった。
「縛られて、身動きとれず、失ったものは、なかったかゃ。悔いたことは、なかったのかゃ」
「そんなもの……」
 ない、と。
 そういいたい。もしくは、後悔など大小含め、人生を歩んできて多々あると、笑ってしまいたい。
 けれども。
『ジン』
 耳に。
『だよ』
 残る。
『ジンが、好きだよ』
 少女の。
『ジン』
 声が。
 ――ジン。
 泣いていないだろうか。
 泣き虫の、少女。
 違う。
 泣き出したかったのは、自分のほうだ。
 失いたくなかった。あの伸びやかな存在に、どれほど自分が救われていたか。傍らにその存在がいるだけで、過去も、しがらみも、矜持も、幼馴染との約束さえ、忘れることができた。ただ、自分は物見遊山に世界を回る旅人であると、錯覚しそうになった。抱きしめれば嫌がりながらもその腕に収まっている少女。普段は難しい顔をしているくせに、何かしてやるたびに零してくれる彼女の……笑顔が愛しかった。必死になって生きているその不器用さが、泣きたいぐらいに愛しくて。手放したくなど、なかった。
 なかったのに。
 自分には、自分を縛るものが、多すぎた。
「俺には、もうない」
 もう叶わない。抱きしめることも、口付けることも。
 もう、失ったから。
 自分から、突き放したから。
 悔やんでも悔やんでも、それが、最善であったのだと。自分の過去にも、贖罪にも、あの娘を巻き込むわけにはいかなかったのだからと。
 アマランスは嘆息し、手に、吐息を吹きかけた。
「寒いの。中に、はいるかゃ。傷に、さわるて」
 外で長話はするものではない、といって、彼女は微笑む。だがすぐさま、その微笑に緩んだ目元は真剣な眼差しのために引き締められた。
「けれどこれだけは言わせや。もう、なくとも、これから、いるやもしれぬ。理由をつけて、突き放していては、後悔は積もるばかり。傷は、膿むばかりぇ。もう少し、感情に流されて生きてはどうかゃ。理性だけで行動全てを支配すれば、辛いだけぞ」
 アマランスが、言い含めるように、ゆっくりと繰り返す。まるで寒さに麻痺した肌に、熱が広がるときのような痺れを伴って。
「辛い、だけぞ」


 都の玄関は、森との境ではなく中央にある。
 不思議に思ったのは最初だけだ。魔術で空間を捻じ曲げればどうにでもなると、アマランスにあっさりといわれてしまったためだ。都の中央の雪深い広場に、阿舎[あずまや]が一棟建っている。不思議と雪を被らず、灯される燭台の明かりが温かなそこで、もし外にでるようなら待つように言われた。
 そこに足を踏み入れると、先にいた王子にぎろりと睨み据えられた。
「何だお前」
 ジンは即座に言い返す。
「何だはないでしょー。心配だからついていってあげようという優しい心遣いを踏みにじるものじゃないよ」
 笑っておどけるようにそういえば、アレクはただ憮然として押し黙る。一体何をたくらんでいる、と、その目がジンに向かって語りかけていた。
「何も、たくらんでないよ」
 肩をすくめて、彼の意を読んでジンは言った。
「厄介ごとは御免だといっていたのはどこの誰だ」
 アレクの声には拗ねた響がある。ジンは笑い、あっさりと頷いて肯定を示した。
「俺だね」
「お前」
「いいでしょ。気が変わったんだ。……モニカに預け物があるからね。それをとりに行くんだよ」
 アレクはまだ憮然としたままだ。まだ釈然としないものがあるのだろう。ジンは何か弁解めいたものを口にすべきか迷い、やめた。何を言ったところで突然考えを変えた理由を彼に納得させることはできない――ジン自身、未だに少し迷っているのだ。
 この、馬鹿馬鹿しい国の迷いごとに最後まで付き合ってやるべきか。
 けれども、見えるものもまたあるだろうと思った。
 この、夜の暗闇の中、拾い上げることのできるものもあるだろうと思った。
 時に流れに身を任せてみるのもいいだろう。
 自分には、もう失うものなど何もないのだから。
「おや、おんしもやはりもどるんかぇ」
 枯れた長命種の都の主は、狼数匹を従えさせ、鈴の音を鳴らしながら現れた。鈴と共に、さらさらとなる薄物の衣擦れの音。薄い唇の端にはからかうような微笑。そしてそれは、ジンに向けられていることは明白であった。
「ご長老の忠告は、聞いたほうがいいかなぁと思いまして」
「そうそう。小僧はおとなしゅうに年嵩の忠告は聞いたほうがぇえんよ」
 互いに笑顔ではあったが、間の空気が冷えた気がしたのは、気のせいではないだろう。
 だが切り替えの早さもさすがといったところであろう。一瞬だけ流れた空気をアマランスは笑顔で一掃して、アレクに向き直った。
「さて。お前の意志はどうかしらんが、妾たちはお前に王になってほしいでな」
「俺は……別に王になるために、戻るわけでは、ない」
 勝手なことを、とぼそぼそと口の中で転がすアレクに、アマランスが手を口元にあてて密やかに笑って見せた。彼女の手首に結わえられた鈴が、さらさらとその笑いにあわせて鳴り響く。
「だからお前の意向はしらんというたぇ。だがお前に王になってもらわな困る。森は、強いて言えば主神が、おぬしに目覚めた血に王を求めておるようでな。お前が王にならな、この土地は徐々に魔力の均衡を失うであろ。妾が王になってもよいが、そうなるとこの地に溜まる魔力が膨れて、人は住めぬようになる。亡者の、帝国のように」
「……どこのこと?」
 ジンの問いに、アマランスは無言で微笑を返した。それ以上は、その国について言及するつもりはないらしい。アマランスが王に就けば、人はこの地に住めなくなる。それはつまり、夜の王国の消滅を意味する。その部分だけジンは納得することにして、彼女の言葉に耳をもう一度傾けた。
「それは、困るであろうし、氷の帝国にも影響がでる。あの国の女王は妾の友人であるから、迷惑はかけとうないぇ。だから、何が何でも、おんしには王になってほしい。まぁその代わりいうたらなんやけど、キユを貸し出してやろ。役には立つ」
 狼の一団から離れて歩み寄ってきたキユが、ジンとアレクの足元に順番に身をこすり付ける。そのまま床の上に座した彼女は、きらきらと目を輝かせてジンを見つめてきた。
「観念しぃ。王とは、そんなものやて。王に生まれたものに、選択はない。王に生まれたものは、王であることを要求される。それが善き王か、悪しき王かは別としてな。王でないものを選択する権利は、ありはしない。すくなくとも、妾ら長命種の定義では――」
 僅かに瞼を伏せたアマランスの言葉の意味を、ジンは理解することができた。彼女がいわんとしていることは、運命のことだ。神の宣旨のことだ。それに従うことは、彼女らにとって、それは彼女らが平穏に暮らしていくための絶対である。それに、逆らうことは彼女らの中でありえない。
 けれど、人は必ずしもそうだとは言えない。人は、長命種よりももっと理屈を求める。ものに、縛られる。動きを、限定される。けれどもそれを覆そうとする、恐ろしく面倒な生き物なのだ。
「おんしが、タダヒトから疎まれてきたいうことは、想像がつくぇ。その外見であるしな。けれども、それいうても仕方ない。おんしは王になって、この国を治めてもらわな、妾ら夜の森の住人、人あらざりし神ならざるものは皆困る。何か、別にやりたいことがあるというのか。ないというのであったなら、一度定めにしたがって、それを全うしてみるのも手であるよ」
 密やかに笑ったあと、アマランスは言い含めるように繰り返した。
「観念、おしよ」
 アレクは彼にしてみれば珍しく愁傷に俯き、瞑目している。彼の黙想する顔を眺めていたジンは、アマランスの呼び声に従って面を上げた。
「ジン、おんしにも、一つ。昨日いうたことを覚えているかゃ?」
「覚えているからこその、選択だよ」
 その口調が、思ったよりも苛立っていることにジンは気がついていた。照れ隠しの意味が半分、本当に、こんな行動にでようとしている自分にあきれ果てている意味が、半分。
 アマランスは鷹揚に頷き、微笑んだ。まるで、母親のような慈愛を宿す眼差しをして。
「出逢った人一人ひとりを、大切におし。たとえ……相手が自分を裏切っても。出逢った人々を保身のためにないがしろにしていって、お前はそうして、最後にあの国に戻ることができるのか」
 絶句しながら、ジンは長命種の女を見返した。アマランスは確かに自分の祖国のことは知っていた。が、幼馴染の『約束』のことまでは知らないはずである。全てを見透かすかのような女の静かな眼差しに、ぞっと戦慄しながら、立ち尽くす。
「俺は……」
「一人ひとりを大事にしなぇ。全てを大事にいうんが難しいいうのは判る。けれども、大事に出来るはずの人間まで、ないがしろにしていくのはやめゃ。周囲にいる人間を、なんとも思ぅてないタダヒトもおるが、おんしはそうではなかろうて。相手を突き放すことがお前の優しさであることは理解できる。けれどもそうしておんし自身をすり減らしていくのであるなら、もうやめぇ。指一本腕一本うしなっても、それでも笑っていける人生のほうが、えぇやろて……。アレッサンドロ。おんしも、同じ」
 名を突如呼ばれたアレクは、ジンの横でゆっくりと頭を[もた]げる。胡乱なまなざしに、ゆっくりと光を宿しながら。
「己を……すりへらさないのなら、笑っていきられるのなら、余裕をもっていくべき道を、見渡せる。そうすれば、失われたとおもっていても、取り返せるものも、あるだろうて。判るな。取り違えるな。過去ばかりに囚われるな。タダヒトのくせに……後悔など、してどうにでもなるほど、お前たちの命は長くはないぞぇ」
 アマランスは微笑み、両手を広げた。さらりと鳴る鈴と布。気がつけば、目の前に空色の髪が流れ落ちている。
 ジンは女の腕の中に、アレクと並んで収まっていた。
 長命種の女の声は透き通っている。それは積もった雪が溶けて土に染みとおっていく音に似ている。
「優しく弱き幼子よ。おんしらに夜の祝福を」


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