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第五章 忘らるる都にて 2 


 狼が着替えを運んできたことに、少々驚きつつ素直にそれに袖を通した。着替えたらその狼――キユ、という名であるらしい――について部屋に来いといって、アマランスはさっさと退室してしまっている。寝台の横に青龍刀が立てかけられているのを見つけて、身支度を整えたジンは寝台に腰を下ろしながら刀を鞘から抜き放った。天井の光は、一体どういう原理であるのかは知らないが招力石とは比べ物にならないほどに明るい。その白い光に刃を翳して、刃こぼれを点検した。
 刀は、一度手入れされた形跡があった。湾曲した肉厚の刃は、すらりと銀に輝いて、そこに傷は見当たらない。
「さて、どうしたもんでしょうかねぇ」
 ジンは、ぱちん、と刃を鞘に収め、腰に下げた。それだけで髄分と落ち着きを取り戻す。どうやら、かなり緊張していたらしい。自分が緊張などと……久方ぶりの感覚に、ジンは苦笑したい気分であった。
 身体の傷はほとんどが癒えている。先ほど傷の具合をアマランスに確かめられたのであるが、ジンが驚くほどに、それらは皆綺麗に治療されていた。急に身体を動かしさえしなければ、感じる痛みは重度の筋肉痛程度だった。神経をじかに抉るような重い痛みは、すっかり消え去っている。
 が。
 手の、包帯は外すなといわれた。凍傷が、酷かったらしい。
『タダヒトの治療であったのなら、おぬしの指は今頃なくなっているよ』
 怪我の様子を確認したアマランスは、脅すかのように意地悪くそうジンに囁いた。
『どうにか持ち直したが、爪が死んでしまったのは我慢しや。使いにくい思うやろけど、しばらくそのままにしとき』
 手の包帯には腐りかけていた神経をきちんと元の通りに修復する魔術がかけられているらしい。包帯をしていたとしても、きちんと指は動いた。たとえ爪のいくつかが失われたとしても、指がきちんと十本揃ったままであるのなら上出来であろう。自分は、運がよかったのだ。
 指どころか、もしあのままであれば、自分は死ぬところであったのだから。
『ジン』
「……死ぬなって、ことだろうねぇ」
 言われずとも、判っているのに。
 確かに、頻繁に綱渡りを行っていることは否めないが。
 立ち上がりながら、暗闇で聞いた声を思い返す。あれは、誰の声だっただろうか。少女のものか、それとも幼馴染のものか。もしくはそのどちらでもあるかもしれない。郷愁に胸を、懐かしい響き。そのどちらも、もう遠いものであるはずなのに。
『……て…こいよ』
 何かを、請われた気がする。だが、思い出せない。
 所詮は夢だと、ジンは頭を振って立ち上がった。大人しく寝台の傍に侍っていたキユが、耳と尾をぴんと立たせて立ち上がる。微笑んで、いこうかと促すと、彼女は四本足をとたとたと言わせて、部屋の外へジンを導いた。
 廊下はこざっぱりとして、飾り気もなにもない。白い石畳に白い天井。白い壁。ただ窓を囲むようにして、花の彫刻がなされている。よくよく見ると、同じ白でもその花の彫刻にだけ微かに色が付けられているようだった。
 回廊を照らす部屋は太陽のそれに似て、久方ぶりに拝む強い光は目に[こた]えた。瞬きを繰り返しながら先導するキユを追う。彼女は時折ジンを振り返っては尾を振りながら追いつくのを待っていた。その見上げてくるきらきらした瞳を見て、ずいぶん好かれたものだと苦笑する。アマランス曰く、彼女の一族は雄と戦って、己を征服したもののみに従うという性質があるらしく、先日の彼女らとの戦闘で、自分たちは認められたようだった。
 歩いた距離は、それほどでもない。
 キユに案内された部屋は、それまで見てきた場所全てと[おもむき]が違っていた。いたるところに張られた色鮮やかな織物に絵画、見たことのない造詣[ぞうけい]の細工。施された魔術文字、積み上げられた書物に、画材らしきものが床に散らばっている。鉢植えが部屋の隅に追いやられており、その近くの椅子にはいかにも脱ぎ散らかしたばかりの服がひっかかっていた。
 趣、というよりも、ずいぶんと、生活感のある部屋である。
 そのあまりの生々しさに、ぐっと親しみがわいたような気がしてジンは苦笑した。足の踏み場がないのには、閉口せざるを得ないが。
「来たね」
 部屋の中央の椅子にゆったりと腰を下ろして、アマランスが微笑んだ。彼女は手でこねていた粘土細工らしいものをぽいっと部屋の端に放り投げ、喜々とした表情で立ち上がる。床に転がりかけたその塊を、口を使って宙で上手く掴み取ったのはキユであった。彼女はそれを加えたままどこかへ仕舞いなおしてくると、水が入っているらしい器に顔を突っ込み、必死に口元を洗い出した。不味かったらしい。
「愚かねぇキユ。どうせまた出して散らかすんだから、そのまま床に放り投げておけばよいとゆうているぇ」
「あのーたぶんこの部屋にこれ以上足の踏み場がなくなったらこまるという無言の意思表示じゃないんですかねぇ」
「あ? なんかいうたかぇ?」
「……いえなんも」
 ごほん、と咳払いをすると、傍らに戻ってきた雌狼が、疲れたように頭を振る。どうやらこの狼、アマランスの世話役であるらしい。なんとも人間臭い仕草にジンは笑い、アマランスに向き直った。
 ちらりと、目線だけを、部屋中央の寝台にやる。蚊帳らしきものに覆われた寝台の上では、眠る人の姿がある。ジンの目線の動きをみてとったのだろう。アマランスは笑い、おいで、と手招きをしてきた。足元に転がる玩具を慎重に避けて、寝台に歩み寄る。そこにある顔をみて、ジンはすかさず尋ねた。
「生きてるの?」
「おんし、勝手に殺しな。よう見や。呼吸しとろうて」
「うん」
 アレク。
 アレッサンドロ・ロト・フォッチェス。
 寝台の上で安らかな寝息を立てていたのは、彼に他ならない。顔色はあまり良いとはいえないが、呼吸音は穏やかであった。身体のそこここに巻かれた包帯が痛々しいが、それは自分も同じことである。人のことはいえやしない。ときどきひくひくと動く耳がおかしくて、ジンは笑った。
「生きてるね」
「安心したかぇ」
「そだね。まぁここまで付き合ったんだし、生きていてもらわなきゃ困るよ」
「おや可愛げのない」
 アマランスが口元に手をあてて密やかに笑う。彼女の笑いに合わせて手首の鈴がさらさらと鳴った。やがて、キユが懸命に頭で椅子を押してジンの傍まで寄ってきた。そこでぱたぱたと尾を振られて待たれれば、座るしかない。実際、椅子を勧められて助かってはいた。いくら傷がある程度は治癒しているとは言えど、体力が追いつかないのだ。
「こやつの名前を教えてたもれ」
「アレッサンドロ。皆はアレクって呼んでる」
「ほぅ。それで、何ゆえ一国の王子が、このように怪我だらけ、あのように雪まみれで、倒れていたのか、聞いてもよいかぇ?」
 キユの耳の後ろをなでてやっていたジンは、そのアマランスの何気ない問いに、身体を強張らせた。振り返ったその先に、膝を組んで悠然とジンの返答をまつ彼女の姿。ジンは重い身体をゆり椅子の背にもたせ掛けて、苦笑した。
「やっぱり王族ってわかるの」
「妾はこの土地の護りよ。この一族のことは、よう見とる。しかも珍しい。祝福が現れている王子が」
「祝福?」
「血が、あらわれてあるであろ。メトセラの。祝福といわなんだか。ガヤでは、神に愛されている証として、誰からも尊ばれるはずぞ」
 ジンは噴出さずにはいられなかった。彼女の発言は、あまりに現実と食い違いすぎている。おそらくアマランスは、過去の夜の王国のことを語っているのだ。筋肉が引き攣り怪我に響くために、大そうに笑えないこちらを、彼女はおかしな目で眺めてきた。
「何がおかしいのかぇ」
「祝福どころか、殿下は化け物扱いされて国を追い出されたんだよ。で、たまたまその現場にいた俺は、なぜか巻き込まれてこんなところにいるわけ」
「ばけもの?」
 アマランスは不快をあらわに眉をひそめた。
「馬鹿いうでない。メトセラの血は、主神に近い証なぇ」
「だけど、俺がメトセラという呼称を知らなかったように、長命種だけじゃなく、もう精霊種族はほとんど人の記憶から消えているといっていい。人は神を忘れているから」
「罰当たりめ」
「時間の流れだよ。仕方がない」
 アマランスは額に手をあてると、はーっと盛大にため息をついた。椅子の背に重心を移して足を組みかえる。彼女は傍らに眠るアレクの顔を見つめながら、顎をしゃくった。
「…………王の一族も堕ちた。これだけ血が濃く現れているのなら、一もなく二もなく、昔は王にすえていたゆうに」
「そうなの?」
「夜の王国は、人の国ではない。もとは獣と我らメトセラの一族のもの。それを、魔女の頼みで人に分け与えたのが始まりよ。魔女とゆうても『始まりの』ではないぞ。もっとあとの魔女のことぇ」
 ジンは頷いた。魔女が決して多くはないものの、幾人も時代に渡って現れていたことを知っている。幼馴染が愛した魔女もそのうち一人であるが、もっとも有名なのは、五百年前の毒の女帝や、魔の公国の創世主である『聖女』であろうか。
 彼女のいう魔女とは、時の流れの中、幾人か存在する魔女の一人だ。この土地の近くに、昔暮らしていたのであろう。
「この国の王族は、元は司祭だったって殿下にきいたけど」
「メトセラの長の娘と婚儀を結んだ司祭の末が今の王族となっているはず。間違ってはおらぬよの。いくら魔女の頼みでも、タダヒトに主神から与えられた土地を容易には貸しだせん故、血縁関係を結んで、タダヒトを親族、ということにしたんぇ」
「詭弁だねぇ」
「失礼な。我らメトセラはタダヒトよりも神や世界の制約に縛られておるだけなんぇ。何をするにも、頭を使わなければならぬだけやて」
 ジンはようやく納得していた。何故昔は、長命種の血が王の証なのか、アマランスの言い方にすこし引っかかっていたのだ。要するに、夜の王国の王族とは、司祭というよりも土地の契約者の代表のような意味合いを持つのであろう。この土地は獣と人あらざるものの土地。ハルマンがいつかそういっていた。
 この土地は長命種の土地なのだ。その土地を親族が借り受けているということにしているのなら、そのもっとも近しい血縁が、契約の代表者――すなわち、王、ということである。
 ヒトでありながら、長命種の血を残す異形の王子。長命種側にしてみれば、彼こそが土地を借り受けるヒトの代表、王に相応しいということなのであろう。
 だが、人の立場は少し違う。
「まったく、外では一体何がおこってるんぇ? 少し目を離した間に、好き勝手やられてはこまるよ」
「仕方ないよ。人はメトセラよりも早く命を消費してしまう分、いろんなことを忘れていきやすい生き物なんだから」
 アマランスは肩をすくめ、眉間に皺を寄せてアレクを見つめた。異形の、白い王子。忘れられた血を継ぐ、夜の申し子。
「おんしも不運やったね。いらぬことに巻き込まれて」
「不運?」
 アレクを見つめたままぽつりとアマランスが漏らした言葉に、ジンは思わず鸚鵡返しに尋ね返していた。不運。そう、確かに不運であろう。
「あぁ……そうだね。不運、かも」
「何はともあれ、まぁここまで来たら平気やろうて」
 面を上げたアマランスは、にこりと微笑んだ。不安を払拭する、明るい微笑だ。だがこの場でそのような笑みを浮かべられても、ジンは当惑するしかない。
 アマランスは、言う。
「あの土地のことはとりあえずどうにかするよって。傷が治ったらおんしを氷の帝国まで送り届けてやるに、安心おしよ」
「氷の帝国まで?」
「あぁ」
 アマランスは頷き、ジンは違和感を覚えた。アレクはともかく、自分に対してそこまで面倒をみる義理もないはずだ。端的にいってしまえば自分は彼女にとって部外者だ。長命種とは、よほど人情に厚いのだろうか。それとも、夜の王国の王となるべき人間を命がけで守ったとして、義理でも感じているのだろうか。
「何故?」
「さて、何故であろうな」
 アマランスは誤魔化しにも似た笑いを浮かべた。
「身体の具合はどうぇ?」
「さっきも言ったけどね。驚くほどいいよ」
「傷が治るまでゆっくりしていくがえぇ。どうせこの場所は魔力に歪められて時の流れがガヤとは異なる」
 ジンは尋ねた。
「ここはどこ?」
「忘れらるる都と言わなんだか」
「それは聞いた。だけど、それだけでわかるわけないじゃんね。この土地の人間なら判るかもだけど」
「ふむ、確かにそういえばそうよな。まぁもっとも、忘らるる都という呼び名も、最近妾が考えたのであったよ」
「……判るわけないじゃん」
「細かいことは気にしてはならぬぞえ」
 からからと笑うアマランスに、ジンは盛大にため息を落とし、肩をわざとらしく落として見せた。が、彼女に気にする素振りは見られない。実際の年齢はわからないが、おそらく自分の数十人分の年月は軽く生きているはずだ。それだけ長く生きてもいれば、意外にいい加減にも無神経にもなるのかもしれない。
「この土地の神殿の名前よ」
 アマランスは笑いを収めると、窓の向こうへと視線を注いだ。大きく壁を切り取った窓からは、外の景色が良く見える。仄明るく発光する、連なる宮殿の白い屋根。
「昔はこれでもメトセラが数多く暮らしていたんぇ。この場所に。主神から授かりし土地の主として、妾らメトセラは在った。初めの頃は、人もよう来た。メトセラは主神に続いて、信仰の対象であった」
「じゃぁここは、神殿なの」
 森の奥に、あるという。
 アマランスは、それがどうかしたのかと、頷きながらきょとんとジンを見返している。やはりそうだったのかと、きちんと確認することができて、ジンは安堵の吐息をついた。
 自分たちは、きちんと目的の場所に着いたのだということを、とにかく確認したかった。
 朽ち果てた神殿を予想していたため、長命種がまだ暮らしているという事態は、かなり意外な展開ではあるが。
「ほかに、誰か住んでるの? ここ」
「メトセラはもう妾だけ」
 あっけらかんとした物言いではあったものの、アマランスの表情が一瞬沈んだことを、ジンは見逃さなかった。だが沈みかけた空気を払拭するように、彼女がにやりと笑う。
「しみったれた顔はする必要なぃ。メトセラは妾一人であるが、同居人であったら腐るほどいるからの」
「腐るほど?」
「キユたち森の住人よ。狼と梟、鷹、妖精やエルフもおるにはおるんぇ。ただおんしらの前には、誰も姿を見せたがらんだけでな」
「なるほど。もしかして、嫌われている?」
「嫌ってはおらぬぇ。ただ、人は判らぬ。我らと似ていながら、想像の付かぬ生き物であるよ。そやかし、誰も極力、係わり合いになりたくないだけぞ」
 彼女の言葉は、暗に人間の特殊性を非難していた。彼女の言葉には人間に対するどうしようもない諦めが滲んでいた。嫌ってはいないが、馴れ合えない。人との関係は、彼女ら長命種や精霊たちにとってそのようなものであるのだろう。
「それにここ最近、土地の機嫌が悪ぅてな。雪も多いし、雪崩も多い」
 アマランスはそう続け、何気なく相槌を打ちかけたジンは引っかかるものを感じて顔をしかめた。
「雪崩? それって、昨日の?」
 自分はてっきり、シルキスがなにか工作をしたものと思い込んでいたのであるが。
「何。何時のことぞゃ? また雪崩があったのかえ?」
「……町の近くでね。いくつか民家もやられてたよ」
「なに? またかぇ?」
 どうやら彼に関係なく、雪崩は起きたものらしい。
 アマランスは組んだ足の膝の上に頬杖をついて、薄い眉をきつく寄せた。明らかに疲れた様子で、まったく、と彼女は低く呻く。
「まぁ原因がわかってよぅやった。そうか。あれらは我らとの契約を打ち切ったか」
「契約?」
「先もいわなんだかゃ。この土地は主神から、我らメトセラが受け取ったのであると。妾が死なぬかぎり、ガヤはメトセラ、もしくはその血を継ぐもの、ということになる。つまり、こやつであるな」
 そういってアマランスは眠るアレクに一瞥をくれた。
「こやつを追い出したというなら、大地が怒るに決まっておるよ。妾かこやつに土地の権利を形だけでも返還せぬかぎり、やがて大きな天変地異となってタダヒトを襲うこともあるぇ」
「だけど殿下には弟がいるよ。どうも裏で糸を引いている奴は、その第二王子に王位を与えたいみたいだけど」
「は? ……奇妙なこと。素奴は、こやつのようにメトセラの血は現れておるのかぇ?」
「……限りなく普通のひとだねぇ」
 ジンが思いだせるリシュオの容姿は、確かにアレクのものと似た面影を残すものの、タダヒトのそれだ。アレクのように白子でもなければ、耳の先や虹彩に人のものと違うものが混じっているわけでもない。
 アマランスは顎をしゃくり、おそらく、と仮定した。
「妾にも厳密にはわからんが。こやつ、アレクというたな? アレクのほうがメトセラにより近い。近いほうを、王にすえよ、ということではないかぇ? もしくは、その糸を引いてるゆう奴が、王位を次男坊に与えるつもりが、毛頭ないかじゃ」
「それは……」
 どういう意味だ。
 アマランスの言った、前者の意味はわかる。
 が、後者――シルキスに、リシュオに王位を与えるつもりが、ない?
 だったら何のために、あの男はこの騒ぎを起こしているのだ。いや、ありうるかもしれない。そもそも自分は、彼の狙いを何一つ判っていないのだ――。
 眉間に皺を寄せたジンのそこに、アマランスの指がひたりと触れた。その、気配の無さに驚愕しながら面を上げる。アマランスは目元を細めてくつくつと笑っていた。
「……まぁどちらにしろ、それにそれが原因でこの夜の王国が不安定になっていることは確かぞぇ。が、おぬしには、関係のないことであろうよ。これ以上は。余計な詮索、する必要はないよて」
 アマランスは唐突に立ち上がり、アレクの頬をおもむろにうにっとつねった。彼に目覚める気配はなく、ジンはただ彼女の突然の行動の意味がわからず目を丸める。
「まったく、何時まで寝ておるのか。よく寝る子ゃ」
 振り返ったアマランスは、そういって笑った。


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