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閑話休題 択郷の都 3


 夜の檻は、彼の腕と脚で形作られる。
 肩を寝台に押さえつける彼の手のひらは硬く、背中を這う唇は熱の塊のように熱く、時折刺すような小さな痛みが肌に走る。戯れだった。ことが終わった後の、戯れ。
 とろとろと眠りに落ちかけていると、ふとその熱が離れた。柔らかい、布が背に触れて、腕がするりと身体と敷き布の間に滑り込んでくる。気がついた時は彼の身体の上だった。いつものことだ。
 額をさらりと撫でられて、重い瞼を押し上げると、覆いかぶさってくる顔がある。くすくす笑いながら唇を受ける。触れる髪がひな鳥の羽毛のようにくすぐったい。しばらくして、彼は吐息した。髪を撫で続ける、手のひらはそのままに。
「明日は何しようか」
 二人揃って眠りに落ちるまで、短い会話を交わすのもまたいつものことだった。思いついたまま口にするので、支離滅裂になることもしばしばであるが。半分、互いに眠りの世界に入っている。ジンの声音もどこか遠く、彼の発言に馬鹿だな、とシファカは返した。
「明日じゃなくて、もう今日だよ」
 真夜中の鐘が鳴ったのを、きれぎれの意識の向こうで聞いた。おそらく、夜明けにもう近い。
「あぁ……そうだね。今日、か。……短期の仕事でも探しにいこうか。あと市場で買い物して……バールで酒と」
「ジン、この国のお酒気に入ったの?」
 ジンは何気なく酒を口にしてはいるものの、どちらかといえば付き合いで口にしていることのほうが多かった。酒に強くはあったけれども、自分から進んで酒酒と口にすることは滅多にないのに。
 この国に来てからは地酒が気に入ったのか、頻繁に嗜んでいる。
「んー……何だろう。慣れるとおいしかった。初めて飲んだよ。麦の発泡酒なんて」
「へぇ……私も呑んでみようかな」
「やめたほうがいいよシファカお酒に弱いもん」
「え? そう?」
「君、前回どんな風になったのか覚えてないね?」
 露骨にジンが嫌な顔をしてみせる。前回酒を口にしたのは、確かガヤにいたときだった。アレクの即位の祝杯を皆で上げたとき、酒を口にして……どうなったのだか、確かに記憶がない。モニカたちは元気にしているだろうか。狼のキユが思い出される。
 ふとシファカは、寝台の傍の書き物机に、ジンがいつも持ち歩いている冊子が置かれているのを認めた。手垢がついて、汚れて、角が擦り切れたそれ。けれども、ロプノールで見たことのある冊子よりは薄手で、表紙の色が違う。
「ねーこれ、みていーい?」
「ん? あぁ……いいけど、面白いものでもないよ」
 手を伸ばして手に取った冊子を、胸の上に置く。するとジンが身体の位置を、冊子が見やすいように少しずらした。彼はシファカの身体を片手で支えつつ、もう片方の手でゆっくりと古ぼけた紙をめくり始める。まるで、子供に絵本を読み聞かせる母親のようだ、と思った。
 冊子には、ジンの手で今まで旅してきた街の街並みや、仕組み、人々の姿が絵や文章の形をとって描かれている。その内容はかなり詳細で、よく食べられる食べ物や服装に始まり、名産品、風土、気候、伝承、宗教、時の領主の政治体系、豊かなのかそうでないかまで様々なことが克明に記されている。
「ジンって、絵、上手だ」
「かなぁ。まぁ下手ではないかも」
「いや上手。むかつくなぁ。なんでジンはなんでもかんでもできちゃうんだ?」
「シファカ不器用だもんね……ふがっ」
 鼻の先をぎゅっとつまんでやると、彼が情けない声をあげる。涙目で何かを訴えてくる彼に、知らないと顔を横に逸らせば、彼が見捨てられた子犬のように表情を沈ませることを知っていた。
「これ、新しくなってるよね。古い冊子、持ち歩いてないみたいだけど、どうしてるの?」
 彼の荷物を見ても、ロプノールのときに持ち歩いていた冊子は見つからない。売っているのか、と聞くと、彼は静かに首を横に振った。
「送ってるんだ。幼馴染に。あいつは、国から出られないから」
「……ラルト、さん?」
「そう。よく判ったね」
「そりゃぁ……ね」
 ラルト、という名前は彼が唯一、親しみを込めて呼ぶ名前だ。もう一つ、レイヤーナという名前がある。どちらも彼の幼馴染だと言うが、彼が幼馴染と口にするときは決まってラルトのほうなのだと最近学んできた。
 どうして国から出ないのか、と尋ねると、出られないのだとジンが訂正してくる。理由を尋ねるが、ジンは曖昧な笑みを浮かべるだけだ。ジンは自分の素性の話になると口を閉ざしたがる。それが最近の、シファカの不満だった。
 シファカは、冊子の中に魔術の記述を見つけた。最近通った街についての記述だった。確か、あの都市は魔術の研究が盛んである学術都市で、滅んだメイゼンブルからの元留学生、いまとなっては亡命者が、数多くいたのをシファカは思い出した。
「ねぇジン」
「……ん?」
「前から思ってたんだけど、魔術と魔法の違いってなんなんだ?」
 以前から思っていた。まじないと、魔術と、魔法の違い。
 ジンは時折まじないをする。病のときなど、手の甲に彼の血で小さな陣を描く。それは魔術と呼ばれることすらない魔力を発動させるための、まさしく、おまじないなのだ。
 けれども、一体何が魔術で、何が魔法なのか、よくわからない。魔法学と呼ばれるものが最盛期にあったのは、かなり昔のことなのだ。
「魔術と魔法の、ちがいねぇ……どういえばいいかなぁ。魔術は、発動に術式と陣形と、何かの媒体が必要なんだ。たとえば、杖を持ってる魔術師は多いけど、彼らにとってはそれが媒体なんだ。魔法というものを発動させるためのね。……陣形は、よく俺がまじないのときに描く奴。これを書くものはなんだっていいけれども、杖を媒体としている人は杖で書いたりするし、剣を媒体としているひとは剣の中に魔法の陣形が描かれてたりする」
「……ごめん。よくわからなくなってきた」
「いいよ。魔法の説明も聞く?」
「んー……うん。聞く」
 ジンは書き物机から鉛筆を引き寄せて冊子の空いている頁に十字を描いた。左上に魔術、右上に魔法、と記して。
「魔術には、平たく言えば、準備が一杯いるってことなんだ。難しければ難しいほど、沢山のものがいる。発動させるための条件だって、ある。魔法は、そういった制約をほとんど持たない」
「準備があまりいらないの?」
「そういうことかなぁ」
 魔術、の下に彼は媒体、術式、条件、と書いた。その横、魔法の欄には、対価、と術式、と書かれている。
「たいかってなぁに?」
「魔法は物をあまり必要としない。その代り、何か大きく必要なものがある。それが、対価。大抵魔法は身体に宿る内在魔力を対価として引き渡して、魔法を発動させるんだ。だけど自分の身体の中にある魔力だけで世界の事象を改変させるっていうのは、ものすごく労力がいることで。普通は、できない」
「じゃぁ魔術はその内在魔力で対価を支払う代わりに、いろんな違うもので補ってるの?」
「あー……そうだね。そうともいうかも。だけど魔術と魔法の決定的な違いは、動く魔力の量なんだ」
 少しずつ、彼の説明に熱が篭っていくのが判る。魔法、実は好きなのかもしれない。東大陸出身だというのに、彼の容姿は酷く西寄りなのだ。母親が、西の出身であるせいだという。
「魔法は強大な魔力を動かす。それは時に一つの国を滅ぼしたりもする」
「……へぇ……」
「……シファカ、実は今かなり眠い?」
「……んー……」
 頭上で。
 ジンが小さく嘆息したのが気配でわかった。お休みシファカ。手のひらが髪をゆっくりとなで、口付けが、落ちる。
 ジンはどうやらしばらく起きていたようだった。目が冴えてしまったのだろう。動いている気配が、少しだけ、していた。
 彼の少し冷えた身体が布団の奥まで潜り込んで来た時間を、シファカはよく知らない。


 ジンが用事があるといって、二人で立ち寄ったのは郵便の詰め所だ。彼は簡単な手続きをして窓口に茶色い小包を出していた。聞けば、あの冊子だという。ジンの懐で諸国を旅した冊子は、これから水の帝国にいるという彼の幼馴染まで、船に揺られて一人旅にでるのだ。
「書き終えたのか? 冊子」
「うん。もう一杯だったし。送ろうかなって」
 初めて立ち寄った郵便局は、綺麗な夕日色に塗られた壁を持つ建物だった。青く塗られた壁が並ぶ区画で、その色はひときわ、よく目立つ。大きく切り取られた窓の上は透かしの彫刻。玻璃製の風鈴があちこちで揺れている――どうやら玻璃はこの街の名産であるらしい。街のあちこちで、玻璃製のものを、見かけるのだ。
 郵便局の中は、綺麗に包装されたものから、ジンの冊子のように茶色の包み紙で包まれ、紐で厳重に縛り上げられたものまで様々だった。手続きを終えた包みには、札が取り付けられて奥へと運ばれていく。この奥で地域別に分別され、発送されるのだ。五百年前に水晶の帝国の将軍によって考案され、北の大陸全土に敷かれたという郵便制度は、世界のほぼ全域にその足を伸ばし、今でも高い信頼度を誇っているという。
「すごいね。ちゃんと届くのかなぁ?」
「届くよ。きちんと届かないと配達人には給料が支払われないことになってるからね。郵便料金は高いけど、それは専用の護衛を雇うためでもあるし。まぁ……時々事故やらなんやらで郵便物紛失もありうるけど、よほどのことがない限りは、きちんと届く」
 郵便局の外にでると、暑い日ざしが石畳を焼いていた。少し黄みを帯びた白の石と涼やかな水色の石によって綺麗に舗装された道。石と石の間には浜の砂が詰められていて、歩むたびにきゅっきゅと小さく音がなる。落ちる影は濃く、子供の頭ほどもある大きな葉を茂らせた街路樹が、潮風に枝葉を揺らしていた。その下を歩む人々は、皆頭に布を巻くか、帽子を被っている。珍しいのは麦わらで作った帽子で、つばの部分が広く、子供がよく被っていた。このグワバの北方には麦を産出する国があり、そこからの輸入品だという。ジンお気に入りの麦の発泡酒も、そこの品であるらしい。
「帽子を買いに行こうか」
「麦藁帽子?」
「シファカに似合うよ。きっと」
「そうかなぁ。あ、でも帽子は欲しい。ここの日差しもなかなかきついんだよ。ロプノールみたいには火傷は起こさないけど」
 故郷の日差しは、肌を焼く。外套を身につけなければ、肌は腫れあがり七日火傷に苦しむことになる。この場所の日差しはちりちりと肌を焦がしていくだけだけれども、目に眩しい光は肌に対して痛くもあった。
「その後玻璃細工の工房を見に行くのは?」
 ジンがシファカの手を引いて、顎で道の向こうを示唆した。この郵便局のある区画の向こうに、名産である玻璃細工の工房が軒を連ねているらしいのだ。
「いくいく。あ、ねぇ風鈴一つ買って部屋に飾ろうよ」
「いいよ、あーでもその前に」
 その瞬間。
 二人の腹がくぅ、と鳴って、シファカはジンと顔を見合わせ笑った。実はまだ、おきてから何も食事らしいものを取っていないのだ。
 笑いは健やかでよく響く。何を食べようかとか、何をしようかとかといった算段も、平和でなければできないことだ。
「私あれたべたい。この間見かけたあのでっかくて背中曲がってる変な魚」
「……あーもしかして、海老? シファカあれ魚じゃないよ」
「え……えび?魚じゃないならなんなんだ?」
「いやだから、海老?」
「だから海老って何?」
「だーかーらー……」


 今日は夕方から仕事がないのだといっていた。久々の休暇ではないか。ここしばらく、暇が全くないようであったから心配していたのだ。
 ティアレは離宮の回廊を歩いていた。離宮をぐるりと取り囲む通路の外では、よくよく手入れされた庭が四季折々美しい装いを見せる。昨日降ったばかりの雪が、東屋の屋根の上で太陽の熱に溶かされながら煌いている。その美しさに満足し、ティアレは少しだけ止めていた足を再び動かした。
「お帰りなさいませ」
「あぁ」
 部屋では既に、ラルトが長椅子で休んでいた。彼は身体を横たえて、古ぼけた冊子を読んでいる。横ではシノがお茶の準備に取り掛かっていて、ティアレが部屋に足を踏み入れたのを見て取ると、彼女は親しみの篭ったやりかたでもってティアレに微笑んできた。
 ラルトの横たわる長椅子に歩み寄ると、彼は少しだけ頭を浮かした。その間に身を滑り込ませれば、すとん、と頭が膝の上に落ちてくる。その少しだけ額に掛かる髪を指先で払ってやりながら、ティアレはラルトの機嫌がすこぶるいいことを認めた。
「ジン様からのお便りですか?」
「元気でやってるらしいぞ。あいつ」
 ラルトが真剣に読みふけっている冊子には、全く見覚えがない。けれども、それとよく似ているものなら幾冊か、枕元に大事にとって置かれていることをティアレは知っている。そのどれもが、今どこか遠い空の下に生きる、この国の宰相――ラルトの幼馴染による手記だ。
 冊子は、全くジンの近況には触れない。ただ彼が歩んだ国のことがつらつらと書き連ねてある。政治外交の上で十分すぎるほど重要な情報ばかり。手紙もなにも、彼の生活を記すものはなく――けれども、ジンらしいと、ラルトは笑う。
 冊子が届けられたときは、ラルトが上機嫌になるのは常であったが、今日は特に、といわなければならなかった。時々にやにやと、口端を吊り上げている。一体何があったのだろうと首をかしげたティアレに、ラルトは笑みを寄越した。
「あいつもあいつで幸せを見つけたらしい。なら、こんなに嬉しいことはないだろう」
「……誰がですか?」
「ジンだ。他に誰がいるんだ?」
 怪訝さに眉を潜めるティアレに、茶を渡してくるシノもまたラルトと同様くすくすと笑っている。何がそんなにおかしいのだろう。
 不意に、ラルトがほら、と冊子を差し出してきた。見てみろよ、と目配せしてくる彼の手から冊子を受け取り、ぱらぱらと頁を繰ってみた。
 めくる頁はどれも、以前の冊子のそれらと変わらないように見えた。ただ、内容が少しずつ、国にあわせて違うだけで……。食べ物、人々の服装、城や街の、風景。そういった、諸々の雑記。
「その中に、あいつの宝が書いてある」
「た、か、ら?」
 そういわれて、よくよく注視すると、ふとティアレは、風景画の中にいつも同じ姿が在ることに気がついた。若い娘の姿。最初は後ろ姿だけで、時折、横顔、正面からの姿もある。街の風景に埋もれるようにして。ジンの視線は、まるでその娘の行動を追っているようでもあった。
 途中、魔術と魔法の区別をつけるかのような走り書き。その後に、再び国のことが書き連ねてあって……。
「あ」
 最後の頁に、娘の寝顔が、描かれていた。かなりの近影で、娘は幸せそうに口元を緩ませて、眠っている。そして、その娘の絵で、冊子は終わっていた。
「よっぽど惚気たいらしいぞ。それとも無意識か? ま、なんにせよ、傍で眠ることを許せるような存在を見つけられたっていうのは、喜ばしいことだ」
「どうして隣でこの方が眠っていらっしゃると思うのですか?」
「その角度の絵を描こうと思ったら、隣で寝ていないと無理だな。大体、あいつがわざわざ女の寝床に忍び込んで、寝顔を落書きしておくってくるような、お茶目だと思うか?」
 そこでシノが爆笑し、失礼いたしました、と口元を押さえながら部屋を退室していった。おそらく、娘の部屋に忍び込んで変態のような必死さで落書きをしている、この国の宰相の姿を、思い描いてしまったのだろう。確かに、笑える想像ではある。
 膝の上で、ラルトは心底嬉しそうだった。ティアレは彼が、常にジンのことについて気に病んでいることを知っている。冊子が送られてきた、ということは、まだ国には戻るつもりはないのであろう。けれどもジンにとって世界は、もはや重苦しいばかりのものではないのだろう。それだけが、救いだった。
 ずっとずっと、ティアレの愛しい人は、幼馴染の幸せを、願っていたから。
「良かったですね、ラルト」
 ティアレが微笑んでそういうと、ラルトが瞼を閉じたまま、至福の表情で頷いた。


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