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序章 嵐


 嵐だった。
 礫のような水が天から降り注いでいる。黒く濁った底見えぬ海は捩れ、うねり、それによって生じた高い波が、幾度も甲板を洗った。
 奴隷船の船乗りたちの怒号は、雨の音と船の上げる悲鳴じみた軋みにかき消されている。足を滑らせながら縄にしがみつく彼らの口の動きすら雨に霞んで、見て取ることは難しい。足にずしりと重い、拘束具と鎖。そして肌に痛い雨。これらの冷たさだけが明瞭だった。
 彼女は祈っていた。
 何に対してかは判らない。自分たちは、神殺しの国の民。祈るべき神を持たない土地の民。何に対して祈っているのか、彼女にはわからない。
 けれども、祈るべきことはあった。
 どうか、どうか、どうか。
 親愛なる主君とその后の行く道に、影が差しませんように。
 気絶させられた折に殴打された、後頭部を蝕んでいた痛みも、雨の冷たさにかき消されている。思考は、明瞭だった。
 どうかどうかどうか。
 祈るべきことはただそれだけだった。自分のちっぽけな命一つで、この願いが叶うなら安いものだ。甲板に続く階段を上りきることも出来ず、流れ込んでくる海水を浴び、それでもどうにか壁にしがみ付いて、鉛色の空を仰ぎながら、彼女は祈った。
 どれほど、そうしていただろう。手足の感覚はやがて痺れに塗りつぶされ、音は沈黙に取って代わられる。一瞬、絶対的な静寂に包まれた彼女は、船先に佇む男を見た。
 後姿を向けている。けれども、彼女にはその男が一体誰なのか判別がついた。懐かしい男だ。かつてその存在だけで、心満たされることがあった。
 もう、今彼女が立つ世界には、いないはずの男だった。
 男がゆっくりと振り返るにつれ、胸中をどうしようもない愛しさが支配していく。それは長く忘れていた感情だった。痛みを伴う愛しさは、遠い昔、重石をつけて心の奥底に沈めた感情だった。
 男が、微笑む。
 幻影なのか。幻影なのだろう。あぁとうとう、迎えがきたということだろうか。まぼろばの土地へ、自分を連れて行こうというのか。
「フィル……」
 呟いて、手を伸ばし。
 横殴りに甲板を舐めた大量の水が、彼女の身体を大蛇の如くうねる海へと引きずりこんでいった。


 時は、数日前に遡る。


 暁、本殿は雪と見間違[みまご]うほど濃い霧に沈んでいる。春も近いというのに、酷く肌寒い。ここ数日温かい日和が続いていたものだから、なおさら寒気が身に染みた。
(嫌な霧だわ)
 シノは寒さに己の肩を思わず抱いて、奥の離宮へと足を急がせた。歩いても歩いても、目的地である奥の離宮にたどり着かない。歩いているのはそれこそ目を閉じていてでも道を誤ることのないような慣れた回廊であるはずであるのに、霧に沈んだ道は一寸先すら定かではなく、まるで迷宮にでもはまり込んでしまったようだと、シノは独りごちた。
 自分がこの宮廷に召し上げられたのは、幼少のころより付き従っていた大臣家の娘レイヤーナが、正妃として宮廷入りしたころと時を同じくする。その頃はどこもかしこも殺伐として、日差し暖かな日ですらどこか冷え冷えとした空気が宮廷内に立ち込めていた。もう、十二年も前になる。慣れていなかったこともあって、頻繁に道に迷った。濃い霧と肌を粟立たせる冷えた空気は、あの頃を思い出させる。
 あの頃の、なんとも形容しがたい嫌な空気と同じものを、この濃い霧から感じた。
 シノの仕事は暁と共に始まる。女官長という職務は、シノから睡眠というものをよく削り取った。それに不都合を感じたことはないが、こういった朝は、何も考えず温かな布団の中で泥のように眠っていたいと思わないこともない。
 早く、奥の離宮へ。
 急ぐ必要はない。皇帝は今地方への視察へ出かけているし、皇妃は体調が思わしくないのか、近頃朝は寝台の上でゆっくりと過ごす。奥の離宮に待機している女官たちは多少おしゃべりなきらいがあるものの、監視の目がなくとも与えられた仕事はきちんとこなす。急ぐ必要はない。判ってはいるが、一刻も早くこの場から抜け出したいと、気持ちが急いた。
「……か?」
 ふとシノは、明らかに人の声と思われる空気の震えを耳に入れ、足をとめた。
 回廊を歩いていたはずであるのに、いつの間にかいくつかある東屋へと続く渡殿に足を踏み入れていた。奥の離宮へと続く渡殿とはまた異なった、細い朱塗りの橋である。欄干に手をかけ、橋の下をみると、流れる小川の傍で男が二人顔をつきあわせていた。
 一人は知らぬ顔だが、もう一人はよく知りえている。古株の大臣の一人で、顔を合わせたことは一度や二度ではない。シノは怪訝さに眉根をよせ、耳をすませた。濃い霧のせいで、二人は自分の存在に気づいていないようだった。
「……で?」
「できれば。そう、難しいことでも……はずだ。今の……ならば」
「……の懐柔を?」
「……れは、難しいだろう。古くから……に仕える……だ」
「では……」
「……を」
「なるほど。……では」
(……何の、話を?)
 話の詳細は聞き取れないが、それが自分の主に仇為す内容であることは、気配で判別できた。シノはゆっくりと後ずさった。息を、足音と、気配を殺して。
 だが次の言葉を耳に入れた瞬間、シノは思わず息を呑まざるを得なかった。
「皇妃の、暗殺を」
 からんっ……
 大きく後ずさった拍子に、踵で蹴り飛ばしてしまったらしい小石が橋から転げ落ちた。はっとなったときには既に遅く、欄干の下にいた二人の瞳が、シノの姿を捉えていた。慌てて踵を返し、駆け出そうとした瞬間、後頭部に鈍く鋭い痛みが走る。痛みを堪えきれずその場に膝を付いたシノは、まるで霧に溶け出すように遠のいていく意識を手放さないように必至だった。
「……ティアレさま」
 朝露に濡れた草の感触を頬に感じつつ、唇から零した呟きは、おそらく誰の耳にも入らないのだろう。


 その日、一人の女官が水の帝国から姿を消した。
 それが、全ての始まりだった。





迷走序曲



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