BACK/TOP/NEXT

閑話休題 択郷の都 2


 ばん、と窓を開けると、海辺独特の匂いが鼻についた。この街に入った時は、身体の不調もあって血生臭さばかりに気を取られていたので気付かなかったのだけれども。ジンは、この匂いを潮の匂いだよ、といった。潮の匂い。彼の言葉をそのまま繰り返すと、彼は笑った。
「海の匂いだよ。潮は、海の水のこと。海の傍は、こういう匂いがする」
「へぇ……。あの鳥は?」
「海猫」
「うみねこ。鳥なのに?」
「鳴き方が、にゃぁにゃぁ言って、猫みたいでしょ」
 いつのまにか、荷物を置いて背後に佇んでいた彼は、目を細めて窓の向こうに広がる碧を見やった。海。シファカが始めて目にする、広大な水を湛える大地の一部。
「ロプノールとは全然違う……ねぇ何で匂いがするんだ? 水なのに」
「シファカ」
 ジンは諸手を挙げて、降参の意を示した。口元は苦笑。目じりは優しげに下がっていたけれども。
「さっきから、質問ばかり」
 言われて、ぐっとシファカは押し黙った。確かに、その通りなのだ。この街はシファカにとって目に新しすぎる。ジンと再会するまで、目に新しいものは沢山あったはずだというのに、それほど感銘を覚えたりはしなかった。色々なことに必死でそういったものを学ぶ余裕を、あのころのシファカは持ち合わせていなかったのだ。
 ジンに再び出逢ってから、世界はシファカを歓迎しているかのような鮮やかさで目に映る。
「そんなに急いで学ばなくたって大丈夫だよ」
 ジンがシファカの髪を撫でながら、目を細めた。至上の幸福に浸っているかのように。そうしていつものように、甘い声をシファカに落とすのだ。
「向こうしばらく、ここに住むんだから」


「疲れてるんじゃないのかい?」
 マリオは言った。主語を抜かしていたが、一体誰の話をしているのかは明白であった。シファカの話である。
 ジンは巨大な杯を傾け、ちびちびと琥珀の酒の味を舌になじませていた。なれない異国の発泡酒は、舌に苦い。
「旅を始めて何年?」
 マリオの問いに、ジンはざっと年数を暗算した。『彼』と袂を分かったあの初春から、いったいどれほどの月日が経ったのか。そして、最初にシファカと出逢った年数も。
「俺は、四年。彼女は……多分、二年ぐらい」
「それまで、旅の経験なんかは」
「あの子は、ないね」
「ほらみろ。疲れているんだよ」
 マリオは杯の酒を躊躇うことなくあおり、天井を仰いだ。煙草の煙に汚されて、木目が黒く濁っている。その天井と、梁と、板とを挟んだ二階には、シファカがいる。マリオの生家が営んでいるという宿に仮宿を求めたのはつい先ほどの話だ。案外よい宿で、湯屋まで併設されている。かなり格安でいい部屋を用意してもらったことは、彼女に感謝しなくてはならないだろう。
 時折気安く声をかけてくる知り合いらしき男たちにひらひらと手をふりながら、マリオは言葉を続けた。
「そりゃぁあの子の剣の腕は認めるよ。あの若さでたいしたもんさ。でも、旅の玄人って感じがまるでしないしねぇ。どこか、あどけないじゃないか。無理に気を張って旅を続けてるんだろ。あんたが、旅をしているから」
「あぁ、わかっちゃうよね」
「そりゃね。星の数ほど旅人みてりゃね。わかるようになることだってあるもんさ」
 何時だったか。
 似たようなことをいわれたな、とジンは苦笑した。モニカだったか。女はもともと勘の鋭い生き物であるが、繰り返し『見る』ことでその勘の鋭さに磨きをかけることが可能であるらしい。
 判っている。自分のわがままが、彼女を引きずりまわしていることぐらい。彼女は何も言わないけれども、彼女は故郷を捨て置いてきたのだ。目を閉じれば、思い出すことのできる、あの、灼熱の土地を。
 あの場所には彼女の家族がいるはずなのに。彼女の妹のエイネイを筆頭に、ハルシフォン、ロタ、セタ、ナドゥ。ナドゥの工房の、心安い人々。そういったものを置き去りにして、彼女は自分の元へやってきたのだ。
 十九年、彼女を育て続けてきた国だ。そう簡単に捨てられるものでもないのに。郷愁の念に駆られることもあるだろうに、彼女は口に出さず、自分の後をついてくる。どこか、はしゃいですらみせて。
「判ってるよ」
 ジンは、胸中での言葉を繰り返した。判ってる。判っている。
 本当に?
「彼女は、あんたにとっての、何?」
「宝だよ」
「即答だね」
「他にいいようがないからね」
 笑ってしまうぐらい。
 彼女が愛しい。
 こんな自分に、残された宝だ。砂漠に与えられた一滴の水。飢餓に与えられたひとかけらの果物。暗闇に落とされた、光。
 宝という言葉以外に、どんな言葉を彼女に用意できるというのだ。
 ようやく一呷りした発泡酒は、喉に落ちる間もぱちぱちと弾けた。ただ、最初ほど苦くはない。よくよく冷やされたその温度は南の暑さを和らげる。
 ジンは微笑んだ。傍目からは、その酒の味に陶然となっているかのようにみえるだろう。
「なら大事にしなよ。ゆっくり休めてやりな。いい部屋を一部屋用意してやるよ。とりあえず一月二月、滞在してみたらどうだい?」
「……滞在?」
「考えてもみなかったって、顔だね?」
 マリオはありありと呆れの表情を浮かべてみせる。彼女は頬杖をついて盛大に嘆息する。その吐息にのせられたのは、シファカに対する同情であると、言及しておかなければならないだろう。
「なんなら半年。好きなだけいるといい。別に、ここに腰を落ち着けろっていってるわけじゃない。知ってるだろう。ここは択郷の都だ。少しぐらい滞在して、彼女を甘やかしてやりなよ」
「珍しいことをいうね。大抵、シファカを甘やかしすぎだって皆はいうよ」
「違うだろ」
 あっさりとしたマリオの否定に、さすがに驚くこととなった。ジンは僅かに瞠目して彼女を見やる。マリオは巻き煙草をくわえると、燐寸で火をつけた。白い煙が螺旋を描きながら天井へと伸びて消えていく。
「甘やかされているのは、あんただ。自分の都合で、あの子を振り回しているだろう。あの子を放したくないんだろう。馬鹿みたいに子供じみた独占欲だね。それを押し付けられているのに、気付かないふりをしているのか、鈍いだけか……絶対後者だとは思うけど、あんたを抱きしめてやってるのは、むしろあの子のほうだろう?」
 わっと。
 何か、芸が始まったのか、食堂内に歓声と拍手が響き渡る。健康な笑いは伸びやかに。今日の旅芸人はリオールの民だ。珍しいことだと、ジンは目端に幼馴染の母君とよく似た顔の女たちを捉えた。そういえば、シファカも彼女らとよく似ている。
「そんな、痛いところを突かれたって、顔、するんじゃないよ」
「そんな顔はしていない」
「ただアタシは、ゆっくりしたらどうだいって、いってるだけさね。そんな、腰を一時でもすえることに、おびえる必要はないだろう」
 そうして一拍おいて、彼女は表情を、旅の最中によく見せた不敵なそれに塗り替えていった。
「少しぐらい、あんたも蜜月を味わってみたらどうだいって、いってるのさ。あの子の初めての男なんだろう? あんた」
 煙を吐き出しながらのマリオの言葉に。
「月のものがきちんと始まったのだって、女になったって、ことだろう。甘やかしてやんなよ。嫌っていうぐらいにね」
 苦笑しっぱなしだったのは、ここだけの話である。


 一体どういう理由でグワバにしばらく滞在しようという方向になったのかはよく判らない。多分、自分のはしゃぎようを見たからだろう。月のものが終わるまで、ほぼ七日、マリオの宿に滞在していたわけであるが、最後の二日間ぐらいは具合も大分よくなって、ジンやマリオ親子たちと観光がてら街をぶらついた。その際の自分のはしゃぎ方は、自分自身あとから思い返しても赤面したくなるほどである。
 海。青天の霹靂といっていいほどの量の水を湛える真っ青な地平。すごいすごいと歓声を上げていたら、水平線というんだよと、ジンに訂正を受けた。ジンはグワバに来たのは初めてということであったが、港というもの、海というもの、グワバの特徴をよく理解していて、後で彼は水の帝国出身だったのだと思い返し、納得した。水の帝国でも、港のある場所の出身だったのであろう。
 シファカは部屋の掃除をしながら顔の筋肉が緩むのをとめられなかった。旅は嫌いではない。決して。次々と目に飛び込んでくる真新しいもの。移動の仕事を引き受けるたびに出逢う人種も考え方も様々な旅人たち。彼ら全てが、決して、良い人々ばかりとはいえなかったけれども――それでも、十九年ロプノールから出たことのなかったシファカにとって、心躍らせるには十分すぎるほど様々な経験を、旅は与える。
 旅は、嫌いでは、ないのだけれども。
 少しばかり、疲れていたことは、確かだったから。七日、短ければ三日程度で次の街へ移ることを則にしている節のあるジンが、しばらく住んでみようかと、いってくれたこと。どう考えても、それは自分のためにほかならないのだ。
 旅は危険が付きまとい、不自由も多い。一人で旅をしていたときに比べれば負担は格段に軽減した。ジンはひどく旅慣れていて、雨を凌ぐ場所や温かい食事などを、魔法のように容易に作り上げる。
 それでも。
 やはり、屋根の下の温かな布団が、恋しくあるときもある。雨の日、濡れぬ場所を探して凍えるまで歩き回らないでいいということ。襲い来る餓鬼や盗賊と殺し合いを演じなくていいということ。常に周囲を警戒して、眠らないで、夜明けを待つ必要がないということ。
 そういった一切合財を、しなくていいということが、愛しいと思えることもある。それを見抜かれていた、という点においては、苦笑せざるをえないのだが、きちんと自分のことも、意識の端ぐらいには置いてくれているのだとわかって、なんだか嬉しかった。
 シファカは布巾を拾い上げ、台所へと歩いた。マリオの知り合いから、格安で借り受けたらしい部屋は二階建ての集合住宅の角部屋。窓からは太陽の光がよく差し込み、海と街並み、そして波止場が見下ろせる。
 外壁が綺麗な色で塗られたその住まいは、藩主の城に向かう丘の途中にある。色のついた玻璃のはめ込まれた窓が綺麗で、台所と食堂、そして寝室が二つ。家具つきで、破格であったらしい。マリオ様様だとジンは笑っていっていた。流れ者の自分たちには、もったいなすぎる場所であった。
 掃除もあらかた終えて、あとは住居の手続きをしに出かけているジンの帰りを待つばかりである。
(なんか、照れる)
 鏡に映った自分の顔がやけににやけていることを発見したシファカは慌てて顔に両手を押し当てた。むにむにと頬を押しつぶしながら、硬く目を瞑る。何を照れる必要があるのだ、と自問してみるのだが、とにかく照れるのだ。
(だってこれってなんか新婚みた)
「シファカ?」
「うわ――っ!!!」
 叫び声を上げて立ち上がった自分を、ジンは瞠目して見返していた。彼の亜麻の睫毛が飾る瞼が瞬いている。両頬に手を当てて百面相する女を、彼は不思議そうに眺めていた。
「なにやってんのシファカ。鏡の前で」
「……いや、べ、べつに。あーうーおーおかえり」
「ただぁいま」
 彼はばさりと何かの書類を卓上に無造作に置くと、瓶から水を汲んで手を洗った。柄杓に直接口をつけて水を飲む横顔やら喉仏やらを眺めて、一人赤面している自分が馬鹿みたいだと、シファカは思う。
「どうかしたの? 百面相して」
 シファカはふるふると首を横に振った。今頭の中をのぞかれたくない。というか、近づかないで欲しい。
「シファカ」
 近づかないで欲しいと思っているのにこの男ときたら!
 胸中で歯噛みするシファカを他所に、ジンは容易にシファカの手首を捕らえて見下ろしてくる。
「放せってば!」
 唸ってみるが、ジンはおかしそうに目を細めただけで、沈黙している。絶対、楽しんでいる。何を楽しんでいるのかはわからないが、楽しんでいる。それだけは、判る。
「うー」
「……あぁもう」
 彼は嘆息して、腰を折った。口付けを軽い瞼の上に受けて、シファカはジンを仰ぎ見る。彼は陶然と顔をほころばせ自分を見下ろしていて、シファカの顎に伸びてくる彼の硬い皮膚を持つ指先に、肌が粟立った。
 これから、起こることが、なんとなくわかる。拒否しても逃げられない。怖いような、けれども幸福な、夜の檻に入れられる。
「君って本当、俺を困らせることに長けてるよね」
 どういう意味、と問う前に、シファカの唇はジンのそれで塞がれた。


BACK/TOP/NEXT