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第二章 王宮にて 3


 その不器用な生き方がとても似ていると思った。
 とても。


 照りつける日差しは、衣服の裾からのぞく肌をじりじり焦がす。かといって外套を着込むわけにもいかない。汗は滑り落ちることなく砂粉を吸って、口の中はざらざらという感触。まとめているはずの髪がまとわりつく。耳につく、歓声。
 ごっ、という音を立てて、握っている木刀が弾かれた。
 次の瞬間には手の中の剣は弾き落とされる。首元にひたりと付けられた木刀の切っ先。
 シファカはため息をついて、両手を挙げた。目の前のジンが木刀を引く。さらに周囲を満たしていく歓声。それが誰から誰へと送られているものなのか、確認する気もおきない。
 汗で張り付いた前髪を上げながら、ジンが悪戯げに笑った。
「だからシファカちゃん。そこは力任せにしたら弾かれるだけだっていったでしょう」
 大地に転がり落ちた木刀を拾い上げながらジンの忠告をきく。笑顔で頷く気力もなかった。完膚なきまでに打ちのめされるとはこのことだ。体中全てを悔しさが満たしていく。人生のほとんどを剣の修行に費やしてきた身としては、情けなくて涙がでそうだった。
 が、それもわっと集まってきた部下たちに阻まれた。誰も彼もが、拍手喝采を送っている。ジン、という来訪者は、瞬く間に人の輪に呑まれていった。
「すげぇなあいつ!」
 そうシファカの肩を叩いてきたのはセタだ。普段彼がこのようにして興奮するのは珍しい。団長を打ち負かした名も知れぬ存在に、周囲が沸き立つ。
 シファカも伊達でその名を背負っているわけではない。シファカの剣の技量は、ほとんどの兵士たちならば打ち負かすに足るものだ。シファカが面と面をつき合わせて勝負をし、引き分けに持ち込まれるのは護衛団の名を冠している数名のみである。
 シファカは人ごみの間をなんとか縫って、目立たないようにしてその場を離れた。
口の中の砂を洗い流してしまいたい。
 そうしてこのこみ上げる苦さが、砂のせいであると証明するのだ。


 場所は王宮訓練場。王宮の裏手に備え付けられた小さな広場である。ここで衛兵は日々の鍛錬を行う。ナドゥの家では狭く、稽古をつけてもらった一日目、転んだ際に井戸で頭を思い切りぶつけてしまったので、出来ればこちらで行おうとシファカはジンに提案をしたのだ。それなりの地位にあるシファカが許可を取り付けるのも容易く、また家政夫であるはずのジンは家事もそこそこに切り上げて、シファカの訓練をみていた。そんなふうに仕事を放り出していいのか、と尋ねても、ジンはいいのいいのと手を振る。家事業は抜かりなくおこなっているから、と。
 まず、一通り先日の復習をした。稽古をつけてもらったのは合計でも一日足らず。それでもシファカには、ジンの剣の技量は実に抜きんでているということがわかっていた。足運び、体の動作、目の配り方、一つ一つに無駄が無い。緩急をつけて動かされる身体は、信じられぬほどに素早い。
 そして動きは必要最小限であり、次への移り変わりも滑らかだ。ためしに兵士五人がかりでかかってもらったが、完膚無きまでに彼らは打ちのめされた。力のごり押しが効かない。押せばするりと引き、ぎりぎりまでひきつけられて、避けられないところで返り討ちにあう。そのあまりのあっけなさに、シファカも含めて一同呆然としたものだ。
 ジンは同時に教え方も上手かった。物事の要点をよく心得ていて、教えるべき部分を決してはずさない。実際今日教えられたことは、有益なことばかりだ。この国に女で剣を振り回すものは多くない。付いていた師はみな男であり、女の身で剣を振るうことの難しさを、理解しているものはすくなかった。
 が、ジンは男の身でありながら、何故かその部分を理解していて、丁寧にシファカの弱点を説明し、正しい刀の握り方、手首の使い方、踏み込み方、女の身体だからこそ活かせる技をあれこれ、ひとつひとつ口と手をつかって教えていった。次第にその様子を聞きつけた兵士たちが訓練場に詰めかけ、最後には大観衆となり、復習の意味合いをこめて手合わせをしている頃にはかつて無いほど人が手狭な訓練場にひしめいていたほどだった。
(礼を、いわなければならないのだけれども)
 ジンに言われたとおりの剣の持ち方に変えただけで、腕にかかっていた負担がかなり軽くなったことは理解できた。体の動きを急に変えることは難しいが、ジンが丁寧に解説してくれた動きは、実に効率のいい動き方だということもわかっている。
 本来ならばこちらから頼み込んで教えてもらうべきものだ。それを彼は自らすすんで伝授してくれた。
 感謝こそすれ、恨めしく思う理由など、どこにもないはずなのに。
 水に浸しておいた布を軽く絞って顔を拭く。井戸で新しく水を汲んで口をゆすいだ。けれども口内に広がる苦さは取れない。
「失礼いたします」
 井戸口に緊張した面持ちの少女が立っていた。小間使いの少女だ。衣服の裾を握り締めたまま表情を強張らせている少女に、シファカは面を上げた。
「……どうかした?」
「あの、宰相閣下がお探しでいらっしゃいました」
 少女は怯えたような表情を見せ、早口でそう告げると一礼をし、踵を返した。小間使いの少女が、女の身で剣を振るう自分に怯えるのはいつものことだけれども、今日はなぜかそれが酷く痛く思えた。


「王陛下が会いたがっておられる」
 ロタの執務室に足を運ぶと、開口一番彼はそう告げた。どうせ会うのは気心知れたロタだからと、ある程度身なりを整えてきたものの、それでもまだ土の汚れがかすかに残る衣服のままだ。彼の言葉にぎょっとして、シファカはしどろもどろ言葉を紡いだ。
「な、なんだよそれならそうといってくれれば……あーこれから服着替えてこなきゃいけない」
 ロタと国王に会うのではわけが違う。体も清めなければならないし、きちんと身なりを整える必要がある。それだったなら一度部屋に戻ってきたときに全てきちんとしてきたのに、とシファカは臍をかんだ。宰相の執務室から兵舎までは距離がある。町の端から端まで歩くような距離ではないが、往復となると面倒だ。
 ロタは腕をかみ、髭の綺麗にそられたあごを撫でながら笑った。
「ついでに髪も洗って来い。女官は待たせてあるからな。衣服は一昨日着ていたもので。洗濯し終わっているんだろう?」
「…………一昨日?」
 ロタの言葉の中に、不穏な響きを汲み取って、シファカは思わず鸚鵡返しに訊きかえした。服装を指定してくることは良くあるが、一昨日の、という曖昧な表現が気に入らない。ロタが、笑みに口角をあげた。
「妃殿下から拝聴した。一昨日は女物の服を身につけていたらしいじゃないか珍しい。それをどうやら王陛下がお耳にいれられたらしく、是非ご覧になりたいと仰せなのだ」
(…………あれか!)
 今日ジンに返すつもりだったあの服。篝火の明かりに触れた夜の色、濃い赤の。
 ロタはくすくす笑っている。シファカは思わず顔をしかめ、どうにか反論を試みた。
「……で、でもロタ。あれは借り物なんだ。返さなきゃならないし……」
「そんなもの待たせておけ。王陛下のご命令で、強引に返してくれなどという人間はおらんだろう。それとも何か。陛下のご命令をつっぱねたいほどの理由があるのかシファカ」
「…………ありません」
 その言葉はため息と共に唇から零れた。
 脳裏に部屋の隅に畳まれ置かれた衣服を思い描く。そしてそれを身につけた自分の貧相な姿を。あんな姿を陛下の前にさらすことになるなんて。今朝方あたりにでもエイネイが顔を合わせたときに、陛下に話題をふりまいたのであろう。妹に咎はない。あるとしたらジンだ。あんな服を、貸し与えなくともよかったのに。彼の衣服を、もしくは工房の若衆の誰かの衣服を、借り受けられればそれでよかったのに。
 いや、そもそも一番悪いのは体調管理ができていないまま、小さないざこざに巻き込まれ、彼に助けられるという醜態をさらした自分自身なのであるが。
「ならさっさと着替えて戻ってこい。陛下はお待ちかねなのだからな」
 シファカの胸中を知ってか知らずか、ロタが笑いを含んだ声音でそう言った。


 ウルムト・ケーナ・ロプノーリア。
 それが現在この不毛の大地を統治する王の名前である。若い頃は兵を率い、部族の小競り合いが絶えないこの地を平定してまわった。だがその最後の遠征で賢人議会と思われる集団の襲撃にあい、酷い傷を負った今は、寝台に縛り付けられている。とはいえども基本的には何事に対しても精力的な王であり、他人の手をかりて城中を動き回るということもしばしばだった。シファカはその『助け』の筆頭で、頻繁に散歩のお供につき合わされている。
「おぉ。来たな」
 本に栞を挟み、ぱたんと閉じて脇に追いやると、ウルムトは上半身を起こした。病身の王にありがちな、暗い影は見当たらずに、健康的によく日焼けした王だ。日々の日光浴と上半身の鍛錬を怠らないためであろう。政務も携わる量こそ若き頃の半分以下に減ったと聞くが、変わらず良く学び、下々の声を、他の部族の声を聞き入れる。その勤勉さはハルシフォンも脱帽で、彼は彼なりにこの王の影に苦しむこともあるのだろう。
 シファカは一礼をして部屋に足を踏み入れた。シファカも良く見知った護衛が扉の脇に立っている。王は手で彼らを下がらせ、同時にシファカに向けて手招きをする。日あたりのよい明るい部屋を横切り、寝台の横の椅子に腰を下ろした。
「ご機嫌はいかがですか? 陛下」
「あぁなかなか悪くはないな。ロタの奴は相変わらず口うるさいがな。あ奴も嫁の一人でもいいかげん取ればいいのに。まったく硬くてならない」
 心底鬱陶しがって、ウルムトは深く嘆息した。思わずシファカの口元に笑みが浮かぶ。ウルムトも釣られたように豪快に笑い、そしてシファカの姿を観察するなり目を細めた。
 その眼差しにぎくりとなり、シファカは慌てて行儀よく手を膝の上に揃えた。そうして、少しでも衣服が隠れればいい。
「すまないなシファカ。私としたことが、ぶしつけにじろじろ観察してしまった」
 ウルムトは照れたように顎にはやした髭をさすり、だが、と続けた。
「お前がそのような女子の服を身につけるところをみるなどと、私は初めてではないのか。なぁシファカ?」
「…………お見苦しい姿をさらしてしまい申し訳ございません、陛下」
「おいおいシファカ。誰がそのようなことをいうておる。少し立って、くるりと一回りしてみてはくれぬか。嫌がらせではないぞ。いうておくがな」
 愉快そうに肩を揺らす王に、シファカは小さく、気取られぬように吐息を零した。他人にこの姿をさらすのは本当に嫌でたまらないのだが、王の命とあっては仕方がない。シファカはしぶしぶ立ち上がり、くるりとその場で一回りしてみせた。よく、新しい衣装を身につけたエイネイが、シファカの前でそうするように。
 柔らかな袖と長めにとられている裾が、ふわりと舞って衣擦れの音を立てる。
 ウルムトは顎をしゃくりながら、うんと頷いて微笑んだ。
「誰が見立てたのだ? シファカ」
「……ナドゥ師のところに出入りしている若衆の一人ですが」
「ふむ……いやいや。悪かったな、ありがとう。腰をおろしてくれ」
 腰を下ろしたシファカは、ウルムトの機嫌がすこぶるいいことを知った。比較的健康的に過ごしているとはいっても、やはり体調を崩しやすくなっている王は、近頃も三日ほど熱を出していたときく。その彼がここまで機嫌よくあるのは珍しいことだ。それを知れば、道化になったことも少し救われる。似合いもしない衣服を身につけている滑稽さが、彼の気分を和らげるのならこれぐらい一回や二回。
 と、思いたいのにどうしても苛立ってしまうのは、この衣服が思い出したくない男から借り受けているものだからであろう。
「どうしたシファカ。すこし難しい顔をしているな」
「……そうですか?」
 笑顔を取り繕ってシファカは両手を再び膝の上に揃えた。ウルムトは何か言いたげな顔をした。が、彼はそのまま口を噤み、静かに瞼を伏せた。
「……昔、ジッジォが心配していたな」
「父上が? 何をですか?」
「お前の育て方を間違えたのではなかろうかと。剣を与え、戦場に連れ歩き、日焼けして男に混じって笑うお前をみて、一度だけジッジォはそう漏らした」
「……ち、ちうえが」
 そんなことを申したのですか、という問いかけは、シファカの口の中に飲み込まれて消えた。頭ががんがんしている。けれども笑わなくてはならない。自分を娘かなにかのように可愛がってくれている王に対して、余計な不安を抱かせるようなことをしてはならないのだ。
「が、まぁあやつの杞憂だな。こんなにも真っ直ぐに育って。お前はよくやっているよシファカ。最近顔を見なかったから、心配していたのだ。体を休ませるように言ってやってくれ、とエイネイが言ってきたよ。ろくろく休みもとらず、体に悪いだろう」
「……先日とらせていただきました。ご心配には及びません陛下」
「そうか? だが」
「エイネイは心配性ですよ。……まぁ血縁者を、思うのはわかります。私もエイネイが怪我をしたとなれば、大いに慌てるでしょうし」
 昔エイネイが熱をだして寝込んだことを思い出す。猫にひっかかれただけで、幼い彼女は熱をだした。あれはもう両親が他界していたころの話だ。自分とハルシフォンは心配に倒れてしまいそうになりながら、交代で彼女に付き添った。
 自分が倒れたら、エイネイも同じことをするだろう。つまりは、その程度のことだ。それに彼女はこれから自分より数多くのことを心配していかなければならない身の上なのに、自分のことにこんなふうにかまけていてもらっては困る。ただでさえ閉鎖的なこの国は、世襲制が多く、血縁を優遇しがちの部分があるのだ。
「……そうか。……だが、油断は禁物だ。体を良く休めなさい。怪我というのは、治せるのなら治してしまっておいたほうがいい」
「……はい」
 怪我で上手く体を動かすことができなくなってしまった人だから、いうことには説得力がある。実際、シファカの体の傷は一昨日その前、まるまる二日休んだせいで、かなり良くなってはいるのだ。万全のときとさして代わらぬほどに動けるし、この状態なら、普通の生活をしているかぎり怪我の治りは悪くは無い。
「陛下、お時間です」
 軽く戸を叩く音と、文官の声が響く。自由時間の終了の合図だ。
「もう少し気を利かすということを知らんのか。せっかく若い娘と二人きりでいられる時間なのに。なぁシファカ」
 茶目っ気たっぷりにそう呻くウルムトに、シファカは苦笑を返した。席をたって一礼する。
「では失礼いたしました陛下。どうか陛下も体をよくお厭いくださいますよう」
「シファカ」
「……はい?」
 真剣な王の声音に振り返り、向き直る。
 父の親友であったこの国の王。その眼差しはいつも娘を見るように優しいが、それはある種の責任感からくるものであると、シファカは知っている。彼の自分に向けられる眼差しが、本当の意味で娘になろうとしているエイネイとはまた違っていることも。
 ウルムトは、『あの場所』に居たのだ。
 最初から、その眼差しには痛みがある。
「……託か何かございますか?陛下」
 沈黙した君主に、シファカは柔らかく尋ねた。
 ウルムトは静かに微笑んで言った。
「……いや。お主も体をよく労わるべきだシファカ。体と……お主自身を」
「……は?」
 意味がよく判らない。けれども顎で静かに退室を促され、シファカは再び頭を下げた。
 向けた背中に、王のかすれた声がかかる。
「シファカという存在を、大事にしなさい」


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