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第二章 王宮にて 2


「お姉さま? どうしたのですかソレ」
 予想通りの反応に、シファカは密かに嘆息をつかざるを得なかった。
場所はいつもの中庭だ。エイネイが酷く心配していたとセタがいうので、自室に戻る前に中庭へと寄ってみると案の定、エイネイと、皇太子殿下が居た。二人の反応は揃って同じで、脱いだ外套を腕にひっかけた姿のシファカをみるなり、驚きにか目を瞬かせて、まじまじシファカを観察したのだ。
「どうもしないよ」
 奇妙ななりをしていると思われているに違いない。慣れない衣服は、動きやすさを配慮してあっても人目があって動きにくかった。自分がこんな姿をしていると、さぞや珍妙であることは間違いないのである。絶対に、この衣装は嫌がらせだと[ほぞ]を噛みつつ、シファカは目を伏せた。
「すぐに着替えてくるから」
「着替えてしまうの?もったいない」
 そうエイネイの横で呻いたのは、皇太子だ。ハルシフォン・ダラゴナ・ロプノーリア皇太子。金の髪に褐色の肌、美しい緑の瞳は穏やかで、すこし線の細い感がある。が、頂点に立つものの特有の、静かに相手を威圧し、包み込むようにして捕らえてしまう雰囲気があった。
 彼に同意して頷くエイネイを見やり、この二人までそんな嫌がらせをいうようになったのかと、シファカは頭の痛い思いだった。眉間を軽く押さえ、思わずため息をつく。
「このままじゃ仕事ができません殿下。いくら私の格好がおかしいからって、そんな風にいうことないではありませんか」
 最近笑いの要素に欠けることが多くてもだ。自分が笑いものにされることは、いい気がしない。
 ところがさらに驚きの色を濃くして、エイネイは大層に声をあげたのだ。
「まぁお姉さま、おかしいだなんて誰が思うものですか! そんなにお似合いでいらっしゃいますのに!」
「……あはははは」
 エイネイの力説に力ない笑いを返し、シファカは笑顔で凄んだ。
「………ちょっとはりたおしていいエイネイ?」
「シファカ、エイネイは君が変ななりをしているといっているのではないんだ。とても――とてもよく似合っているんだよ。どうしたのその服」
「これは……」
 胸の辺りをそっと撫で下ろし、シファカは言葉につまる。どう説明したものか。お節介なナドゥの家の居候が用意したのだといえばいいだけの話なのだが、そうすればその“居候”について解説しなければならない。
 まごついていると、エイネイが唐突に手をうった。
「もしかして、ナドゥが? まぁナドゥったら、ほんと昔からお姉さまには甘いですわね」
「あ、ちょ、いや違うんだけど」
「……あら、ではお姉さまが?」
「……人のだよ。着替えがなかったからちょっと借りた」
「そうなのですか? ……まるであつらえたみたいにお姉さまにぴったりですのに」
 借りた相手が誰なのか、エイネイが追求してくることはなかった。それにほっとして、改めて自分の衣服を見やる。
 似合っている、という感想は意外なものだった。色は好きだけれども、こんな形、着慣れないし、自分のような身体の凹凸に乏しい人間が、着てもただ単に貧相なだけだと思うのに。
「公務はよろしいのですか殿下」
「あまりよろしくはないんだけれどもね。シファカまでそんなことを言わないでおくれよ。アムネーゼが急用で自宅に下がっているから、寂しがり屋のエイネイの傍にいるためという大義名分を得てようやく息抜きをしているんだ」
「アムが?」
「ご親戚が事故でお亡くなりになったのですってお姉さま」
「……殿下」
 ハルシフォンはエイネイの後ろでそっと唇に人差し指を当てた。シファカにはすぐ意味が通じる。この妹には、内緒にしておけ、ということだ。
 リムエラが、死んだのだ。
「本当は私も弔問に行きたいのですけれども、アムが穢れに当たるから来てはいけないというのよ、お姉さま」
「無事に式をあげたら慰問に行くつもりだよ。アムはおそらく二、三日は留守にしていると思う。シファカ、アムネーゼがこの甘えたをよくよく見張っておいてくださいといっていたよ。私からもお願いしてもいい?」
「ハルぅ? それは一体どういう意味ですの!?」
 言葉の応酬を繰り返す二人は、とても綺麗で清潔で、一枚絵のようだ。眩しさに目を細めていると、ハルシフォンは、にっこりとシファカに笑いかけてきた。
「具合が悪くなってナドゥの元に泊まったと聞いていたけれども、具合はどう?」
「……大分よくなりました。ご心配をおかけしたようで、申し訳ございません殿下」
 シファカは深々一礼した。が、ハルシフォンは深いそうに身じろぎをして、諭してくる。
「……いいかげんにその丁寧語やめないかシファカ。ここには私たちと君とセタしかいないのに」
 セタは中庭の入り口で欠伸をひとつかましていた。要するに会話の内容をしっかりと耳にいれることができるのは、数歩の距離にいる自分たち三人だけということである。それでも他人行儀のような口調を改めない自分に、少し苛立っているのだろう。静かに諭してくるハルシフォンの口調には力がこもっている。
 エイネイの夫になる男は、自分たち姉妹の幼馴染でもある。親を亡くした自分たちに王陛下はよくしてくれているが、それ以上に彼が兄のように自分たちの面倒を見てくれていた。ご兄弟は誰一人、この不毛の王国の暑さにやられて生き残れなかったようであるから、本当に妹のように思っているのかもしれない。
 とはいえ、本当の妹のよう、と思っているのなら、その双子の片割れを妃に据えようなどという気は起こさないだろうが。
 こうして二人で共有していくはずのものを、妹は一つずつ独り占めして行く。
 暗くなりそうな思考をおもわず振り払うように、シファカは微笑んだ。
「決まりですので」
 きちんと線を引いておかないと、気が狂いそうになるのだ。
 何かが、壊れていきそうで、恐ろしい。
「お姉さま、もうすこし休養をとられたほうがよろしいですわ。本当に、こちらにいるとお休みになられないのでしたら、もう一泊お休みをとられてもよろしかったのに」
 どこか重たくなってしまった雰囲気を払うように、妹が朗らかな声を上げた。それだけでぱっと周囲が華やぐ。ハルシフォンがへぇ、と目を見開いてからかうように笑った。
「エイネイ。そんなことをシファカに許して君は大丈夫なのかい? 昨日だってシファカが戻らないと散々騒いだ挙句に、寂しい寂しいとアムネーゼに漏らしていたのではないのかい? そう聞いたよ」
「ま。誰がおっしゃったんですの? 言いふらされてはおりませんわよね……?」
 真顔で呻くエイネイのその表情がおかしくて、シファカは笑った。妹は本当に無邪気だ。言いたいことをいい、したいことをする。その感情表現もとても豊か。みればみるほど心が和む。
 同じ形をして生まれてきたはずなのに、どうしてこうも違うのだろう。
 妹は、その笑顔を他者の指標として、存在そのものが輝かしいのに。

 自分の手は血にまみれ。
 自分の足跡は墓石となり。
 自分は。

「え、お、あんたちょっとな」
 ふと響いたセタの声に、シファカは我に返った。目の前の二人が怪訝そうな顔をしてシファカの背後を透かし見ている。シファカは瞬いて、背後を振り返り。
「うわ」
 身体全体に思いっきりのしかかった体重に、その場に崩れ落ちそうになった。
 身体自体はしっかり支えられていたので、決してそんなことにはならなかったのだが。
力強く抱きしめられた後、肩をつかまれぐっと体を引き剥がされる。すると目の前に怖いぐらいの綺麗な微笑を浮かべる男がいた。
「勝負に負けたのに逃げるなんて、いい度胸してるじゃないですかぁ」
 微妙にこめかみに青筋浮いていたりしたが、とりあえず綺麗な笑顔だ。
いるはずのないその存在に目を剥く。が、嫌がらせとばかりに男は笑いながらシファカの体を腕の中に閉じ込めた。男の匂いを吸い込みながら、真っ青になってシファカは叫ぶ。
「ななななな、なんであんたがこんなところにいるんだ!」
「俺?じっちゃんのおつかーい。シファカちゃんが黙って帰るもんだから、ことづけものができなかったんよ。ほら」
 片腕だけで器用にシファカの動きを封じ込め、男は懐からぴらっと一枚の書簡を抜き取った。ひらひらと眼前で振られる。おそらく、仕事受注書と明細書だ。
 勝手に帰ったのは確かに自分の落ち度である。言い返したいがそうもいかない。とりあえずこの腕から抜け出すべく、力いっぱい相手のすねを蹴り飛ばそうとしてみたが。
「うお」
 とかなんとかいって、相手はひらりと身をかわした。素早いことこの上ない。
ひとまず素早く間合いを開け、シファカは臨戦態勢[りんせんたいせい]をとった。男は両手を上げて降参の意を示し、自嘲気味に笑った。
「ずいぶん嫌われちゃったねぇ俺」
「いきなり抱きついてくれば誰だって怒るだろうが!」
「え? そう?」
 けろりとしてジンはいい、シファカはがっくり脱力するしかなかった。確かにこの優男、早朝の一幕を見てみれば、抱きつかれても拒絶されるということはすくないのかもしれない。だが男の顔は、どうみてもシファカが嫌がる姿を見て、楽しんでいるようにシファカの目には映った。敵意をむき出しに睨みつけてみるが、ジンはどこ吹く風飄々として、ただ静かにシファカを見つめ返すばかりだ。
 シファカが背後に並ぶ二人の存在を思いだしたのは、躊躇いがちに誰何の声が上がったからである。
「え、えーっと」
「……ど、どちらさま?」
 振り返ればエイネイもハルシフォンも、突然の来訪者に動きが止まっている。それはジンが通ってきたはずの出入り口で呆然と立ち尽くしているセタも同じだった。ただジンだけが、その問いに応じてにこやかに笑った。
「はじめましてぇ。鍛冶場からのお遣いで来ました。どうぞジンと呼んでください。よーろーしーくー」
「……はぁ?」
「ジン! 失礼だぞこのお二方は」
「あーうんシファカちゃんの妹さんとその未来の旦那さん。皇太子殿下でしょ」
 シファカの言葉をさえぎって、ジンが即答する。その返答はあまりにも当然といった様子だが、態度には緊張も敬意もへったくれもない。本来ならばたてるべき存在をさらりと無視して、ジンはぴらぴら書簡を振って話題を戻した。
「シファカちゃんコレどちらさまに渡せばいい感じ?」
「私が渡しておく」
 頭に響く痛みを努めて無視するようにしてシファカはジンから書簡を受け取った。後でロタに直接渡しておくことにする。大体、どうしてこの男、城にこんなに簡単に入り込むことができたのであろう。いくら小さな国の城で、機構はとても簡単だとはいえ、今は警備を強化している時期だ。ナドゥの遣いだといっても、待合室で待たされるのが普通である。
「団長!」
 ふとシファカは、息を切らしながら部屋に飛び込んでくるロルカの姿を見た。セタの横で膝に両腕をつき、空気を求めて肩を喘がせている。年はシファカよりも一つ下で、若いためか有り余る体力には自信がある彼なのに、その憔悴の仕様はどうしたということか。が、原因はなんとなく推測がついた。シファカは臨戦態勢をとき、腰に手をやりながら横の男をじろりと睨む。ジンはその視線にもにこにこ笑ったままだった。
「お、おま、だんちょ……そ、そいつ」
「……お疲れ様ロルカ」
 わなわなとジンを指差すロルカに、シファカはそういってやることしかできない。おそらく最初に相手をしたのがロルカで、彼の隙を見て待合室から逃げ出したのだろう。重要な書簡は代表者、遣い自らが責任ある職のものに手渡すのが、この水を分け合う不毛の大地での掟だから、追い返されることはない。宰相が直接出向く、ということは無いだろう。文官が彼に会うはずだった。大人しく待っていられなかったのだろうか。
(……いられなかったんだろうな)
 並外れた運動能力を秘めるジンだ。ロルカを撒くことなんて簡単であったのだろう。彼が短気なのかどうかは知らないが。
 シファカは仕方なくジンの腕をとって、引き攣った笑顔を浮かべた。
「ちょっとこい」


 かつかつかつかつかつかつかつかつ
 静かな廊下に足音だけが響き渡り、太陽の日差しに照らされて浮かび上がった濃い影が二つ、床を滑る。
 無言で歩くシファカに、ジンは同じく無言でついてきた。一般市民にありがちな、ものめずらしそうに周囲を観察することもない。それだけは褒められたことだとは思ったが、今となってはその沈黙さえシファカの苛立ちを増長させた。
 おそらく、彼が口を開いたら口を開いたで、また苛立つのであろうが。
 向かっている先はシファカが生活している宿舎だ。今は昼寝の時間帯であるし、皆部屋にこもっているか出所しているかのどちらかだ。人通りは少ない。
 たまに通りかかった女官や兵士は、シファカの様相を見て、そろって目を丸め、シファカとジンの行進を横目で見ながら足早に通り過ぎていった。
 自分の部屋の鍵を開け、乱暴に扉をあけ、男を蹴り入れた。ジンはへらへら笑ったままで、何も言わない。ばたん、と後ろ手に扉を閉めたシファカは、大きく身体全身で息を吐き、笑ったままの男を睨みすえた。
「……やだなぁそんなに怒らないでよ」
 シファカの無言の睨め付けに降参したのか、ジンが諸手をあげながら苦笑する。
「そんなに怒ってばかりだと可愛い顔が台無しになるよシファカちゃん」
「余計なお世話だ」
 ぴしゃりと即答して、シファカは拳を握り締めた。何が可愛い顔だ。自分が可愛げのない娘であることなんて、とっくの昔に承知しているのだ。
 ジンは両手を下ろして、シファカを黙って見下ろしていた。まだ、苦笑を浮かべたまま。
「……体は大丈夫?」
 彼の口から発せられた質問は、意外にもまともで当たり障りのないものだ。ジンは、城内を突っ切って歩いていたときもそうだが、卑しく周囲を観察するようなことはなかった。
 どちらかといえば、一瞥で全てを把握してしまえるようだった。扉の前に立っているシファカと彼は向かい合っているために、部屋の中を観察することができたのは入室する瞬間だけだったはずだ。しかし彼は踵を返すと、まるで慣れた部屋の中を歩くように迷いなく、椅子の元まで歩いてそれを引き出した。
「座ったほうがいいよ。まだ本調子じゃないでしょう」
「平気」
「シファカちゃん」
 柔らかく名前を呼ばれただけだが、視線が一転して厳しい。大人しく椅子に腰掛けると、いい子だね、といわれて頭を撫でられた。
「俺も座っていい?」
「……いいよ」
 もう一脚椅子を引き出し、小さな円卓を挟んでジンが腰掛ける。
 立場がちぐはぐすぎる。本来なら、自分が彼に椅子を勧めるべきだというのに。嘆息するシファカを他所に、ジンはにこにこ、能天気に笑っているだけだ。
 ジンは待っているのだ、と、シファカには判った。シファカが話を切り出すときを、待っているのだ。ここに彼を引きずってきたのは、自分であるのだから。
 仕方なく、シファカは口を開いた。
「……一体何しにきたんだ?」
「んー? だからじっちゃんのお遣い」
「それだけだったらわざわざあんたが来ることないじゃないか! 城とのやり取りをしている人は、あの工房にはちゃんといるんだ!」
 ナドゥの鍛冶場は国に認可され保護されている工房だ。何も生めず、何も育めないこの国が、唯一他の国に誇れるものが、ナドゥを頭とする鉄鋼精錬師[てっこうせいれんし]たちが作り出す、金物だった。あの工房はとても小さいが重要で、城とのやり取りも頻繁だ。当然それようの人間がいる。突然現れたジンに、応対したらしいロルカは疑心を隠せなかっただろう。
「あはははバレバレ?」
「隠しているつもりなのか!? それで」
「うむー。でもまぁシファカちゃん、俺がなんでここに来たのかとかそういうのは判っていると思うんだけど」
 約束破りはシファカちゃんだよ、と悪戯っぽく笑ってジンは言う。彼の言うことは正論で、それがさらにシファカの苛立ちを掻き立てる。
 ぎり、と歯を鳴らす。ジンは少しだけ目を細めて、頬杖をついた。
「ねぇシファカちゃん。本当に、刀を振り回すんだったらきちんと使い方を覚えなきゃ駄目だ。刀だけに限らないけれども……見合った使い方を覚えないと、武器はいうことを聞かないし、体を痛めつけるだけの結果になる」
「……あんたはその使い方とやらを知っているっていうのか?」
「少なくとも、まぁ刀はね。使ったこともあるよ」
「あれはかなり珍しい形だって聞いたけれども」
「そりゃ北大陸だったらかなり珍しいと思う。まだ世界の行き来が頻繁だった頃に、工芸品としてかなり輸入されていたらしいけれども、今はもうそんなことないだろうし。……じっちゃんから聞かなかった? あれは東大陸のものだよ。未だに頻繁に良く見かける」
 ジンがわずかに目を伏せ、呟いた。
 一瞬声の調子を落としたように思え、シファカは眉根を寄せる。が、気のせいだったのだろうか。すぐに面を上げたジンは変わらぬ微笑をたたえていた。
「刀に限らず、多分教えて上げられることはたくさんあるよ。勝負に負けたのはシファカちゃんの方じゃんね。今更逃げるなんて往生際悪いよー」
 微笑み、というよりもむしろ、面白いおもちゃをひたすらいたぶっている子供の顔であるが。
「刀の修復が終わるまでだよ。すぐじゃんね。つっぱってのちのち痛い目みるよりも、そっちのほうがいいと思うんだけどぉ。ねーってば」
「あぁぁぁぁぁぁもうわかった! わかったから! 判った。私が悪かったんだ言う通りにすればいいんだろう!? もう、なんなんだあんた! 一体なんの目的があってそんなことしようっていうんだ!?」
 ばん、と円卓を叩き、勢いに任せてシファカは立ち上がった。まるで犬か何かのような目で自分を見上げてくる男に怒鳴りつけながら、シファカは泣きたくなった。
些細なことでこんなに苛々してしまう自分自身に対して、泣きたくなった。
 最近つもりに積もっていたものが、この男相手に噴出してしまう。どうしてそうなるのかは判らない。けれども、それが止められず、苛立って仕方がないのだ。
 が、シファカの胸中を綺麗に無視し、男はシファカの問いにさらりと答えた。
「自発的奉仕」
「…………殴り飛ばされたいのならどうぞ頭をちゃっちゃと出せ」
「うわー冗談冗談冗談。いや冗談でもないんだけど、放っておけないっていっても信じない?」
 放って、おけない?
 シファカは男を睥睨した。何を言い出すのかと思えば、そんなことか。
 自分を放っておけないなどという人間は、二種類。そのどちらかの場合もある。一つは、妹エイネイへのご機嫌取り。ただジンは、先ほどエイネイとハルシフォンと相対したときも、関心が全く無いように見受けられた。権力に近づこうとするのなら、もう少し上手く二人に挨拶をするだろう。
 そして、もう一種類の人間は。
 妹と、常に比べられる自分への。
「……あんた、あたしを哀れに思っている?」
 哀れみ。
 まだ棘のように刺さって抜けない言葉が、いくつもある。

『ねぇシファカ。貴方本当に可愛げの無い子。どうしてそんなに可愛げがないのかしら。思い通りにならないあの人にそっくり。エイネイの爪の垢でも煎じて飲ませたいわね。あの子はあんなに可愛いのに。それも仕方がないのかもしれないわねあの人に貴方はとても愛されているもの。似てしまうのは仕方がないのかしら。それってある意味とてもかわいそうだわ。ねぇシファカ……』

 かわいそうな子。
 同じ卵から生まれながら、全く異なって。

 女官たちの嘲笑。下男たちの睥睨[へいげい]。抱きしめた剣の冷たさ。広い広い屋敷で、一つだけ伸びる自分の影。
 ひとりぽっちで、かわいそうね。
「……哀れ?」
 ジンは怪訝そうに首をかしげ、数度瞬きするとシファカの手をとった。ひんやりとしている手だ。剣を持つ者特有の硬さをもつ皮膚が、ざらざらしている。けれども、シファカの手を握りこむ彼の手つきは、壊れ物に触れるかのようだった。
「いったい……どこをどうすれば哀れになるのかなんて俺は判らないけれども、俺がシファカちゃんを気にかけるのは俺の個人的興味だ。なんで、哀れだなんて……思うの?」
「放して」
「シファカ」
 ぐ、と手を握りこまれる。綺麗な男の双眸。普段は亜麻の色であるそれは、暗がりに浮かび上がると、それはとても綺麗な黄金色になる。あまりに真っ直ぐな眼差しが恐ろしく、けれども、目をそらすことが出来ない。
「シファカ。どうしたんだ? とても泣きそうな顔をしている」
「…………っ」
 シファカは下唇を噛み締めながら、手を勢いよく振り払った。そのままその場に膝を抱えてしゃがみこむ。最初から、この男には情けないところばかり見られているけれども、たとえ子供のような姿をさらしたとしても、泣き顔を見られるのはいやだった。
「…………お願いもう帰って」
「シファ」
「お願い。もう帰って。あんたの言う通りにするから。ナドゥんところに明日行くし、そのときに剣の使い方を教えてくれるって言うんだったら、習いに行くから」
 だから。
 祈るように懇願する。
「…………帰って」
 誰かこの男をどこかへやってしまって。
 ひどいよ。
 必死に隠している心をどうしてそんな眼差し一つで暴いていくの。
 今まで誰も気付かなかったんだ。心の奥に鍵をかけて隠した悲鳴。
 どうして、この男はそれに気付いたのだろう。どうして、この男はそれを暴こうとするのだろう。
 まだ初めて出逢って、一日二日と経っていないというのに。
「…………窮屈そうに生きているなと、思ったんだ」
 伏せた視界にジンの足のつま先が映る。
「ごめんね。本当に、嫌がらせに来た訳でもなんでもないんだよ。本当に、本当にあのまま放っておくと、危ないと思ったんだ」
 ジンは沈黙し、ため息をついてシファカの横をすり抜けていった。
「今日も、休んだほうがいいよ」
 本当に途方に暮れたような声で、彼は一言残して部屋を出て行く。
 きつい日差しが部屋に差し込み、誰もがまどろみの中にいる時間帯の静けさは、感じるべきではない孤独を強調する。
 シファカは緩慢な動作で立ち上がり、寝台まで重い体を引きずっていった。
 昨日あれほど眠ったはずであるのに、一度寝台に倒れこむと、後は眠りの世界が自分を待つばかりだった。


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