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第二章 王宮にて 1


「忘れるな」

 しわがれた声で老人は繰り返し忘却を禁ずる。虚無の支配する碧い柱の前で。
「忘れるな」
 何よりも始めに覚えた言葉がそれであった。まるで鎖のように身体をがんじがらめに絡めとる言葉。他の者たちは瞑目し、その老人の声に耳を澄ましている。
「忘れるな」
 忘れたいといったところで。
 髪の一房爪の先までに染み込んだその言葉を。
 もう自分は取り払うことなど、できはしないのだ。


 目覚めは早かった。
 夜明け鳥の啼きと共に目が覚めて、シファカは軽く伸びをした。久方ぶりに良く眠ったせいか、体が軽い。手首やら肩やらの、解けかかった包帯を完全に落とす。肌を確認すると、まだ傷跡自体は残っているものの、鬱血の跡も、他の傷跡も随分と薄くなっていた。
 睡眠は最大の医療というが、こんなにも体が軽くなるものだとは、シファカは露と思わなかった。
 下着のまま体を軽く動かして、あらかじめ部屋においてある水で簡単に体を拭く。湿布薬という薬の臭いが未だに取れない。あの薬はとてもよく効いたが、その反面つけた部分の皮膚がかさついており、朝肌を清めたらきちんと香油を塗りこむようにとジンに言われた。その香油も薬効があって、傷にいいのだと。
 いわれた通りにすることが、途轍もなく癪だ。が、あのナドゥが荒野で拾ってきたという男のいうことは一つ一つが正論だった。正論ゆえに、腹が立つ。
 何故、あんな軽い男が。
 昨日一晩一緒にいて思ったことだが、ジンはとにかく言動が軽い。誰にでも気さくに、陽気に話しかける。そして馴れ馴れしい。その雰囲気に、あのナドゥさえ呑まれている気がするのだ。だというのに、シファカには妙に辛辣なのである。陽気且つ気さくであることはシファカに対しても変わりがないが、その言葉の一つ一つが、妙に引っかかる、持って回った言い方をするのだ。
 という訳で、もともと人見知りするシファカの彼に対する好感度は最悪もいいところであった。
 実は、今日から稽古をつけるからと半ば強引に約束を取り付けられてしまい、このままずるずると刀の修復が終わるまで、何かと理由をつけて引き止められそうで頭が痛いのである。実際その声はシファカの胸中の触れて欲しくない部分まで届いてしまうので、顔すら合わせたくないというのが本音だった。
 が、ここまで体が軽くなったのは、やはり彼のおかげであるし。
 うーんと呻きつつ、シファカは服の着替えに取り掛かった。無論昨日ジンがどこからか調達してきたというあの赤い服である。焚き火に薄められた夜のような濃い赤は、決して嫌いな色ではない。それは黒を重ねると良く映えて、むしろ頻繁に黒い服を着込むことが多いシファカが、帽子[ターバン]の色として好むものだった。
 だが、形が形である。上半身の線を綺麗に浮き彫りにする上に、襟ぐりが広い。ふちも綺麗に銀糸で縫い取られていた。袖は手の甲を覆う形でゆったりととられており、裾は長め。この国の衣装として、白くゆったりとした下とで一揃え。どこからどうみても、立派な女物の衣装。
 動きにくいわけではない。むしろ余分な布が動きを邪魔せず、シファカの動きすら考えに入れて揃えられた衣装だった。身の丈もきちんと合っている。まったく、どのようにしてこんな衣服を手に入れてきたのか聞きたいぐらいだ。
 そして案外その方法は、推測するまでも無かった。
「えーなんでよ遊びにいくって約束したじゃない」
「あんねー俺今日はお仕事あるのって、さっきからいってるっしょ」
 聞きたくもない、と思ってしまった声が、聞き覚えのない声と共に窓の外から飛び込んできた。嫌だ嫌だなぞと思いつつ、ついつい窓際をこっそり覗いてしまう自分も、いい加減馬鹿だと思う。二階からそっと覗けば、ひょこひょこ動く淡い亜麻色の髪と金色の髪に包まれた頭、二つの頭が見えた。
「酷いじゃない昨日うちのお店で服買ってったとき、お金なかったのに渡してあげたのに」
 服。
 ということは彼女の店で調達したのか、と納得しかけ。
 金髪頭がそっと亜麻色頭に寄り添う。思わずシファカは窓を背に、その場にしゃがみこんでいた。自分でも笑いたくなるほどの勢いで、しかも心臓をばくばくさせて。
 情けない話なのかどうか。ともかく自分にはそういう免疫がない。自分の妹は、皇太子に人前で抱きついたりしないし。周囲は男か年配女性。親しく付き合う同年代の少女はそれこそ、仕事上妹のエイネイ以外にいないのであるから仕方がない。
(……な、なに他人事でこんなに赤くなってるんだ……)
 こんな風に隠れているのも馬鹿馬鹿しくて、そろりとシファカは体を上げる。金髪頭はますます亜麻色頭に密着して、シファカには到底真似できない甘い声をあげていた。
「ねぇってばー」
「今度のお付合いの貸しにしておいてよ。俺ほんとに今日はお仕事やらお手伝いやらいろいろ入ってのー」
「何よぅツレナイ。大体ジンってば、なんで泊まっていってくれないわけ? たまには朝帰りぐらいいいじゃない」
「あのねぇ」
 亜麻色頭は疲れたようにため息をつき、ふっと頭を動かした。一度だけ、朝もやに薄められた曖昧な影が、短い間重なり合う。
「はい。これで今日はおしまい。仕事忙しいんだから、そっちだってお店あるでしょ」
「ひっど。なによもう」
 シファカは黙って立ち上がり、背に流れる髪を手早くまとめると、壁にかけられた外套を取り出した。
 剣がないが仕方がない。部屋を簡単に整えて、ありがとうございましたと一言残す。
 そうしてさっさと、この居心地がいいはずのナドゥの居室から逃げ出したかった。


「どうしたんだ?」
 朝一番、鍛冶場に火を入れにいく。一通りの下準備をこなしておいてから、残りは出所してきた弟子たちに任せ、朝食をとろうと部屋に足を踏み込んだところで、ナドゥは外套を着込んだジンと鉢合わせした。
 この飄々とした青年が、珍しく渋面になっている。腰には青龍刀がつるされており、朝食時であるというのに今から出かけようとしているのは明白だった。
「ちょっとやられた」
 本当に悔しそうに、そう呟きながら、すれ違いざまにジンは一枚の紙切れを手渡してくる。遣いまわしの紙切れには、「ありがとうございました」とたった一言が殴り書きされていた。
 シファカの文字である。
「ついでにじっちゃんの仕事も片付けてくる。コレ渡しに行けばいいんでしょ?」
 ひらひらと振られたのは、武器修理の明細書だ。シファカにでも託ければいいと思い、棚に仕舞い直していたものだった。いつの間に取り出したのであろう。
「オイ、戻ったのなら別にそこまでする必要はないだろう」
 シファカが突然この居室を飛び出すなどとかつてないことではあったが、大人しく昨夜泊まっただけでもナドゥにとっては驚きであった。どれだけ疲れていても、彼女は決してここで夜を過ごして羽を休めようとはしない。彼女は、ナドゥにさえ弱みを見せることを恐れている節があった。
 この場所で夜を明かした、ということはよほど彼女が疲れていたことを意味し、そして出ていったのは、ある程度回復したからであろう。自分がどう引きとめたところで、あの頑固者の少女が帰るといったら帰ることを、ナドゥは知っていた。
 それをわざわざ追いかけていく必要もない。が、振り返ったジンは肩をすくめて言ったのだ。
「大有りだよ。あの子きちんと怪我治してないのに。なんであんなに命を粗末にするんだか。一人で頑張りすぎて。じっちゃんもあの子大事なんだったら、無理強いにでも休ませなきゃ駄目だよ本当に」
 その口調から、彼がわずかに憤慨していることが見て取れた。それが酷くおかしい。思わず噴出してしまった自分に、ジンが首をかしげる。
「……どったの?」
「いや何、お前自分の顔鏡で見たか? 女房に逃げられた旦那の顔みたいだぜ」
 ジンは一瞬、何を言われたかわからない、という顔をした。ぱちぱちと目を瞬かせ、素っ頓狂な声をあげる。
「…………はぁ!? じっちゃんとうとうボケた?」
「ボケるかど阿呆。シファカだっていい大人なんだ。もう十九だぞ。自分のことは自分でけりをつけるだろう。事実あの子は、子供の頃からずっとそうしてきたんだ」
 両親を亡くしたときから。
 いや、もしかするとそれ以前から。
 彼女は剣を振るって、たった一人で立ってきた。
 ジンはますます眉間の皺を深くした。おや、と思う。こんなに露骨に、彼が不機嫌を出すことは出逢ってから今日まで見たことがなかったからだ。
「……最初は背伸びして、その後背伸びをやめることができなくなっちゃっただけなんじゃないの?」
 ジンはすっと、何かに思いを馳せるかのように目を細めた。ひっかかるその物言いに、ナドゥは鸚鵡返しに問い返す。
「背伸び?」
「みんな馬鹿だね。あの子あんなに不器用なのに、どうして気付かないんだろ。甘えることも上手くできなくて。あぁいう子は、吐き出し口がないと壊れて、擦り切れていってしまうのに。……じっちゃんも気づかないんだ? 間抜けとしか思えない」
「…………お前な」
「御免。言い過ぎた」
 そういって一瞬後には、ジンの顔はいつものとぼけた、陽気な青年のものになっていた。相変わらずこの青年の変わり身の早さには、驚かされる。
「ま、そういうわけで俺出かけてっちゃうからねー。朝ごはんとお昼ご飯は作ってあるからそこで温めてねじっちゃん」
「おいジン!」
 ひらひらと手を振って、家政夫はそそくさ出て行ってしまう。その背中が見えなくなったところで、ナドゥは台所に入り、作ったばかりと思われるなべの中身を柄杓ですくい、口をつけた。
 見かけはとても大雑把であるのに。
「……旨いな」
 味付けはやはり上等であった。


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