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第十章 語られなかった言葉 2


 連れ込まれたのは、彼女が経営しているという衣装屋の二階だった。
 色鮮やかな布地が並べられる一階店舗を抜け、階段を上がる。二階の廊下に連なる一番端、夕焼け色で調度品を纏めた部屋に押し込まれる。寝台に腰を下ろして待つように言われた。いわれた通りにすること数時、一階から、たらいと水差し、それからいくつかの小瓶を持ってトリシャは現れた。
「ほら服脱いで」
 いきなり何を言い出すのかと思えばそれである。シファカは黙りこくって、トリシャの表情を観察した。トリシャは眉間に皺を寄せ、日焼けに紅くなり始めたシファカの腕をぺしりと叩いた。
「ひっ」
「ほら。身体清めて早く薬ぬっとかないと明日大変なことになるわよ肌。火ぶくれで十日苦しみたくなかったら、いう通りにしなさい」
 触れられただけで痛むということをトリシャの行動によって確認したシファカは、大人しく衣服を脱いだ。下着になって、寝台に腰を下ろす。薬を混ぜた水に浸した布で、トリシャがシファカの手足を順々に拭い始める。ぬられるとすっとする水だ。火照った肌に心地よい。
 されるがままになっていると、ふと手を止めたトリシャがじっと上目遣いに見つめてきた。
「ね」
「はい?」

「あんたジンと寝たの?」

 一瞬、何を言われたのか判らず凝り固まる。だが意味を理解すると同時にシファカは火が噴出しているのではないかというほどの熱さを頬に感じた。
「………っな、なぁ、何言ってるんだ!」
「あーその反応じゃまだね。だけど接吻ぐらいならいってるってところかしら。やぁねぇつるっつるのお肌してるくせに、どうして誘惑してちゃんと引き止めておかなかったの?」
 背中向けて、と指示を出される。シファカの反応を見て面白がっているのは明白だった。しぶしぶ背中を向けると、再び水を絞った布を当てられた。
「……ジン、トリシャのところには、挨拶にきたのか?」
「えぇ。……旅の服を買いにきたわ。丁度あの広場近くに用事があったから、見送ってあげたの。用事をすませて通りがかったら、あんたが呆けて座ってるんだもの。びっくりしたわよあたし」
 ぴしゃ、と水の跳ねる音がする。布をたらいに落としたのだろう。次にシファカの背に触れたのは、濡れていない布だった。それで、トリシャが水滴を丁寧にふき取っていく。
「……あんたには、言わなかったのね。国を出るって」
「……うん」
「馬鹿ね。さっきも言ったけど、なんであんたちゃんと抱かれて引き止めておかなかったの? 一度関係があれば、絶対にジンは置いていったりしなかったわよ。ちゃらんぽらんに見えてそういうところかっちりしてるもの」
「……嫌だったんだ」
「……なんで」
「わかんない……だけど……ジンが、好きなのは、私じゃ、なくて」
 あの人は、死者をみている。
「……はぁ? ちょっとまってあんた何言ってるの」
「だって」
「だってもくそもないわよほらこっち向きなさい」
 トリシャがシファカの頬を乱暴に両手で挟みこんで、強引に向き直らせてくる。その際に肌が触れて、痛みが走った。顔をしかめるが、すぐにその痛みより、トリシャの真剣な眼差しのほうに意識が向かう。
「一体、どこの、だれが、あんたのこと好きじゃないっていうの」
「……ジンが、あたしを」
「馬鹿おっしゃい」
「だって、一度も、好きって、言ってくれなかった」
 代わりに残していった言葉は、『大事』だった。
 シファカも、大事。
 それは、愛情表現の言葉ではあるけれども、シファカが求めていたものではない。
 トリシャはますます顔の表情を険しくした。至近距離で見つめているシファカのほうが、萎縮してしまうほどだった。
「あんたジンの一体どこ何をみてそんなこというの。もう一度言ったらぶん殴るわ」
「……どうしてそう思うの」
「どーうーしーてーぇ? あんたね。アレだけ大切に、もうこれ以上ないぐらいに愛しちゃってますっていう風に扱われておいて、わかんなかったの?あんたに私最初喧嘩吹っかけたでしょ? そのあとジンってば私に絶交持ち掛けてきたのよ。もう親しくしてくるな。仕事も手伝わない。これからは単なる客と店主で。こわかったんだから。取り殺されるかとおもったわよ」
「……え?」
 間の抜けた声をあげながらシファカは面を上げた。その様相は鳥が豆鉄砲を食らったときのそれに等しかっただろう。
「……よくわかんないけど、ジンは結構愛してるとかそういう言葉を使うの、怖がってた節があったわ。だけどあの態度でわかんないわけ? でなかったら相当の鈍よあんた。あたし、あんたらのこと、見かけたのよ喧嘩吹っかける前にね。あんなジン初めてみたわよ。ジンは誰にだって優しい奴だけど、あんたにはあんな風に世話焼いて、必死になって、とろとろの笑顔であんたのこと見てたじゃない。全身でこの子を愛してますって主張してたわよあの馬鹿。好きなのは、私じゃない?じゃぁ誰なのよ」
「……もう、死んだ、ひと」
『……俺はね、レイヤーナをとても愛していた』
「……似ているから、気になったって……」
 平原で、ジンの手をとっていた、美しい人。
 ジンが、惜しげもなく、愛を口にする人。
 シファカは、トリシャの言葉を反芻し、噛み締める。
(……ジンが、私を、愛していた?)
 優しかった。
 優しかったけれどもそれは。
『信じてシファカ』

 俺は、シファカを彼女に重ねてみたりはしていない。

「……あ、れ?」
「……死んだ人と重ねてみたとでも思ってたのあんた。呆れた。ジンは言っとくけど、そんなに器用じゃないわよ。恐ろしく頭のいい奴だけど、人だって簡単にあしらえちゃう奴だけど、大切で仕方がない人にはとんでもなく不器用で、真っ直ぐ当たるしか能の無い奴だと私は思うわ。女の勘だけど」
 トリシャが呆れも通り越した、という投げやりな口調でジンについての考察を語った。そしてシファカの頬を離して、水に浸していた布をゆすぎ始める。彼女が固く布を絞りにかかる姿を瞳に映しながら、シファカは唇を動かした。
「……わかんない」
「は?」
「……わかんない。そんなの、言葉で、いって、くれなきゃ」
『大事だよ』
「わかんないよ。私、そんなの。わか」

『笑ってシファカ』

 泣かれるのが、とても辛いから。
 気になって仕方がなくなるから。
 無理に大丈夫と、口にしないで。

 口付けを、交わした。
 最後に。
 甘くて、甘くて、甘くて、躰にこれ以上ないほどの愛撫を受けた。
 わかっていなかった。
 あぁあんなに。
 あんなに。

『シファカ』

 優しい声が、耳の奥に蘇る。
 ぽた、と雫が頬を零れた。
 あんなに。

 自分は愛されていたじゃないか。

「……あたし、なに、聞いていたんだろう」
 最後まで自分が大事で、彼の語る言葉の一つ一つに、きちんと耳を傾けていなかった。
 彼はあんなに、自分のことを慈しんでくれていたのに。
 それを繰り返し繰り返し、突き放したのは他でもない自分だ。
 なんて馬鹿なのだろう。
 なんて。

「うぁああああぁあああぁ……」

 シファカは声をあげて、涙が視界を汚すのを、許した。
 何故、こんなに泣いてばかりなのだろう。ジンはそんなこと、自分に望んではいなかった。だが体中の水分が、涙という形で次から次へ、飽くことなく零れ落ちていく。シファカは身体を圧し折り、喉を潰れるほどに震わせ、肺を引きつらせて泣いた。
「……どんな事情があるのか知らないけど、ジンは多分国から国を渡らなきゃいけない事情でもあったんでしょうよ」
 トリシャがため息混じりに呟いた。
「だけど本当にあんたとの恋にのめりこんだら、ここから動けなくなる。だからそうなる前に、ジンは出て行ったんじゃない?」
「あた、あたし、ジンが好きだった」
 嗚咽の合間に主張する。声が裏返り、まともに聞けるようなものではなかったとしても、主張せずにはいられなかった。
「あたし、本当に好き。好きなの。だ、だけど怖かったんだ。怖かった。だ、だってもし、もし、いらないって、そういわれたらって、あんたなんか、い、いらな、いって、いらな、って、そんなの、言われたら」

『あんたなんか、生まれてきた価値がないわシファカ』

 そんな風に、笑顔で言われたら。
 彼は誰にでも優しくあるひとだから。取り違えてはいけないと思った。それをひたすら自分に言い聞かせた。彼が自分を抱き寄せる瞬間、他の人にもこんな風にするのだろうと、いつも思った。
 思い込もうとした。
「誰がそんなこというのよ」
「でも、も、もし言われたらって、思ったら、わ、私」
「……あたしが断言してあげるけど、あんた、愛されてたわよ。羨ましいぐらいに」
 愛されている、というものが、どんなものなのか、判らなかった。
 あんなに、胸苦しいものだと、暴力的に自分をかき乱すものだと、思わなかったから。
 けれども今ならわかる。

 一つ一つ、愛を語るわけではないけれども、慈しみと優しさと至上の愛情をこめて囁かれていた言葉たち。
 宝物を閉じ込めるかのような、抱擁。

 けれども。
「だ、だけど、なんであたしのこと、置いて、いくの。置いてっ……! い、いっしょにいてくれるって、言ったの。一人にしないって、いってくれた。だから、思わなかった。い、居なくなっちゃうって、こんな、こんな風に、いなくな、う、て、私、わた、思わなかった……!!」
 一人ぼっちが嫌だといった自分に、彼は言った。
 自分がいるからと。
 ちゃんといるからと。
 そういったのだ。
 あれだけ散々自分勝手な言葉を吐いておいて、たったその一言を心の片隅で強く信じて、彼がどこにも行かないだなんて思っていた。
 なんて傲慢なのだろう。
 どうしてそんな傲慢な考えに至れるのだろう。
 自分の愚かさを、呪った。
「ジンがそんなこと言ったの?」
 吃驚だろうか、息を呑んだトリシャが、呻くようにそう尋ねてくる。
 シファカはぐしゃぐしゃの顔を手の甲でこすりながら頷いた。
「……呆れた。そこまで言われておいて気づけないなんて。あのねぇ。ジンは遊びの相手でもそんなこといわないのよ。流れ者だってこと、ちゃんと自覚しているし、嘘でも下手な言葉言えば相手が酷く傷つくことがあるって、理解しているわ。嘘つく相手だってきちんと選ぶ。あぁ何で相手があんたみたいな阿呆な小娘なの? あんとき旦那が居なければ、本当に私あいつを落としにかかってたのに……!」
「だ」
「シファカ」
 ぐ、と両肩をつかまれる。トリシャの淡い色の瞳が、シファカの紫金の瞳を捉えた。目をそらすことは許さない、という意志を雰囲気一つで伝えて、トリシャが口を開く。

「あんた、追いかけなさい」

 静かに、トリシャが言った。
「追いかけなさい。ジンもぎりぎり追い詰められてたに決まってるのよ。そんな言葉口にするなんて、ほとほと引き返せないぐらいに、あんたのことが大事だったにきまってるの。明日、キャラバンじゃないけれども同じ国境まで出る旅芸がいるわ。話付けてあげるから一緒に行って追いかけなさい」
「でも」
「でもだとかだってとか、そういういいわけの言葉口にするの、あんたもいい加減やめたらどうなの!」
 トリシャが雷を伴うような勢いで、シファカを怒鳴りつけてくる。その経験したことの無い怒りの剣幕に、シファカは思わず身を震わせた。
 シファカの肩を掴む彼女の手に、ぐっと力が篭る。その指先は、わずかに震えているようにすら思えた。
「大事なら追っかけなさい。好きならすがり付いて食らいついて、相手が振り向いてくれるまで粘るのよ。あっさり諦められるなら、たとえ相手が好きだといってもそれまでなの。嫌でしょう? こんな終わり方をするのは嫌でしょう?終わるにしても、もっとちゃんと話をつけたいでしょう? 大事な人っていうのはね、そうやって勝ち取っていくものよ。アレコレ言い訳並べて、引き下がっていたら周りからみんな居なくなってしまうのよ。あんたは脈あるんだから、行きなさい。行って何が何でもおいついて、ジンを馬鹿野郎と殴りつけてやりなさい! 返事は!?」
「は、はい」
「……よし」
 トリシャの手が肩から離れる。彼女は腰に手をあて、うんと頷いてから、もう一度たらいのなかの布を絞りなおした。それを涙と鼻水で汚れた顔に当ててくる。
「……あたしはね、無理だったの。ジンには、旦那のこと相談してたんだけど……長い こと、上手くいってなかったのね。だけど、いろいろ言い分けつけて、放っておいたら、駄目になった」
 ほんの少し寂しげな微笑を浮かべて、トリシャがぽつりと呟いた。
「……いい? まず追いついたら殴って、馬鹿野郎といって、それから寝室に誘惑するのよ。抱いてくださいってきちんといいなさい」
「え。ちょ、なんでそんなことになるんだ」
「あの馬鹿を引き止めておくには、一番手っ取り早く且つ効果的な方法だからよ」
 至極真面目な顔でそう宣うトリシャに、シファカは思わず憮然となった。
「……なんだそれ」
「ま、そこまでいかなくても、自分の鈍さを謝るのね。あとは強引に押しの一手。大丈夫よすぐに堕ちるわ。今日だって国から出るときのジン、ものすごく後ろ髪引かれてますって顔してたもの。あんたのこと、絶対気になって仕方がなかったのよ」
「そうかな」
「そうよ」
 トリシャが鼻息も荒く乱暴に、乾いた布をシファカに手渡してくる。
「……あんたはジンと違って、この国の人間なんでしょう? 何年この不毛の王国で生きてるの。この国は、自分から食らいつかないと生きていけない国よ。まがりなりにも、その年まであんたは生きていたんでしょう? ……もし自分の足で獲物を奪い取ってこなかった生き方をしていたというのなら、あんたはよっぽど幸運で、他の人に愛されていたのよ。だから、気づかなかったのよ。ジンの愛情に。愛されていることに、慣れすぎてね」
「……違う」
 自分は、愛されてなどいなくて。
「何が違うの」
「ちが、だって……あた」
 全て愛情は、妹に、独り占めされて?
 果たして、本当にそうだったか?

 妹は妹の努力でもって、それを勝ち取っていたのではないか。
 自分は、母親の言葉を言い訳に、逃げてばかりだった。
 逃げて、ばかりだった。
 父も、自分を守って死んでしまった人々も、誰もが。

『生きろシファカ』

 ちゃんと自分を愛してくれていた。
「……うん、そうだね」

 自分が、馬鹿だった。
 自分が、愚かだった。
 自分が、弱かった。

 ただ、それだけなのだ。
 シファカは瞼を下ろした。拭いたばかりの頬を、また涙が伝っていく。
 それを指先で払って、シファカは微笑んだ。
「そうだったんだ」
(もう、大丈夫)
 もう大丈夫。平気。もう、子供のように泣いたりはしないから。
 もう、惑わされたりはしないから。
 本当に、今度こそ大丈夫だから。
「……あんたそうやって笑ってるほうが可愛いわよシファカ」
 トリシャがにっこりと微笑んで、立ち上がった。
「何着か旅の服見繕ってあげる。餞別にあげるわ。服着て一階においでなさい」
 勢いをつけて立ち上がりざま、たらいを持ち上げたトリシャが、そのまま水の重みに千鳥足になりつつ戸をくぐる。
 シファカは慌ててその背中を呼び止めた。
「トリシャ」
「なによ?」
「……ありがとう」

 この人は、真剣に自分のために怒ってくれた。
 それは、とても貴重だと思った。

 トリシャが照れたように少し頬を紅潮させる。彼女はごまかしのように肩をすくめて、ぼそぼそと呻いた。
「いいわよ。……それよりあたしがここまでしてあげてるんだから、頑張るのよ。そうじゃなきゃ、灼熱と冷気にさらされて、土被っても生き延びる、不毛の王国の民じゃないわ」
 そうでしょう? と確認をとってくるトリシャに、シファカは微笑を浮かべたまま頷いた。


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