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第十章 語られなかった言葉 1


 ジンは、連日連夜、書庫に篭っている。
 ジンに会いに行ったらしいセタがシファカにそう告げた。シファカ自身も遊んでいるわけにも行かず、セタに引き継ぐ仕事の整理、欠員が出たことによる編成替え、人員の補充に目の回る日々であった。エイネイのお茶にも頻繁につき合わされたし、事後処理に人手が足りず、雑用もかなりやらされる羽目になった。
 ジンには、あれから会っていない。
 思い出すだけでも体が火照るような口付けのあと、ジンの手が衣服にかかった。だがシファカは逃げ出した。あの状況で、躰を許すのはよくないことに思えたし、嫌だった。恐ろしかったというのもある。聞き知ってはいても、未だに経験の無い身だったから恐怖に身体が萎縮した。
 幾度か書庫と部屋を往復する彼を見かけたが、シファカは声をかけなかった。逆もあっただろう。気さくにハルシフォンと廊下で討論している姿を見かけたとき、一瞬目があったが、それとなく逸らされた。
 エイネイはそんな自分たちになぜか腹を立てている様子だった。茶に呼ばれるたびに、きちんと様子を見に行かなくてはなりませんわ、と言い含めてくる。やんわりと相槌をうち、彼女の弁を流しながら、シファカはため息をつく毎日だった。


「……あ」
 城といってもこの不毛の王国の城は他国のそれに比べればかなり小さな規模である。道も頻繁に交差するので、人とは会いやすい。むしろこの瞬間まで、鉢合わせしなかったことのほうがおかしいぐらいだった。
「よかった。探してたんだ」
 廊下の角でばったりと顔を合わせたジンは、どこか安堵めいた微笑を浮かべ、何事もなかったかのようにシファカを彼の自室に誘った。


 書物で散らかっていたはずの彼の部屋は、きちんと片付けられていた。
 思わず驚きに目を見張る。
「……どうしたの、どっか行くの?」
「うん。じっちゃんのところ。飯がまずいーって叫んでたから」
 あぁそうか、と納得する。ジンはナドゥの家政夫だった。実際彼の料理の腕は、城の厨房長のものにも負けないほどのものだ。さぞやナドゥは食事を恋しがっているだろう。先日ジンの様子を見にやってきていたから、そのときに帰宅の催促を彼にしたに違いない。
「ごめんね、お茶もなにもでないけど」
「いいよそんなの」
 座って、と促され、シファカは寝台に腰掛けた。椅子と円卓すら、片付けられてしまっていて、他に腰を下ろすところがなかったからだ。ぷらぷらと足を動かして、シファカはジンを観察した。彼は外套を着込み、青龍刀を腰に下げ、あの擦り切れた記帳を懐に仕舞いなおしていた。
「今から帰るんだ?」
「じゃないと遅くなるから」
 そんなものか、と思いながら窓のそとを見る。時刻は昼を少し回った頃。今から帰宅すれば、確かに夕食の準備には間に合うだろう。

 会話が、続かない。

 何も今呼び出さなくてもいいのに、と思う。会話なら、必要であるなら自分がナドゥの工房に赴けば済むことだし、またその逆も可能なのだ。
 沈黙に痺れを切らし、シファカは腰をわずかに浮かせた。
「……ねぇジン、私仕事」
「シファカ、ちょっと聴いてくれる?」
 ジンが微笑んで、窓枠に腰を預ける。腕を組んで、こつんと額を窓の玻璃にあて、彼は目を細めて眩しそうに城下を眺め始めた。

「……俺はね、レイヤーナをとても愛していた」

 ジンがそう切り出したことにより、この話はこの間の続きだと知れる。再び寝台に腰をおとしながらシファカは、眉間に皺を寄せた。彼の口から、他の女性への愛の言葉を耳にするのは、あまり気分のよいものではない。
「……とても。……けれどもだからといって、俺は君にレイヤーナを重ねたことはない。確かに、レイヤーナみたいに壊れていく様を、みたくなかったっていうのはあるよ。だけど、それはほかでもない君だからで。似ていたっていうのは、興味を引かれたきっかけに過ぎない。俺はねシファカ。君が、泣く姿はみたくなかった。他でもない君が、泣く姿を見たくなかった」
 ジンは窓枠から離れ、ゆっくりと一歩一歩を踏みしめるかのようにシファカの元に歩み寄ってきた。こつこつという靴音が、まるで時を刻むかのように規則正しく、閑散とした部屋に響き渡る。
 目の前で立ち止まったジンは、にっこりと笑って言った。
「だって考えてもみて。いくら似ているからって、それだけの理由で命放り投げたり、俺はしないよ。剣の前に飛び出すなんて、絶対。大体俺、死ぬ場所は決まってるんだ。その場所でないと、俺は死んだらいけないことになってるの」
「……死にかけでナドゥに拾われたんじゃないの?」
「あう。それ言わないで」
 ジンは苦笑し、シファカは険しくしていた目元をほんの少し緩めた。
「……ともかくね、シファカ。俺は、シファカも大事。シファカが、とても大事だよ。……俺は……うん。それを、言いたかった」
 ジンが膝をその場について、シファカの手をきゅっと握り締めてきた。信じて、と真摯に乞われる。誠実な眼差しで見上げてくる彼に、シファカはふっと微笑をもらした。
「……うん」
 信じる。
 一番に、愛されていないことぐらい、判っている。
 判っているけど、それでも愛して欲しかった。
 今はとりあえず、身代わりなんかではなかった、というジンの言葉を信じることにする。
 信じなければ、ならなかった。
 ジンは泣きそうなほど柔らかい微笑を浮かべた。すっと立ち上がって、シファカの額に口付けを落としてくる。そこに花びらのように触れた優しさと熱に、シファカは思わず手をやりながら呻いた。
「……なんでしてくるの」
「唇のほうがよかった?」
「ジン!」
 思わず拳を振り回す。ジンが、笑って飛びのいた。相変わらず身の軽い男だ。
「なんなんだ全く! ナドゥに怒られるぞ! 行かなくていいのか!?」
「シファカもその男勝りな言葉遣いやめよーね」
「よけーなお世話だ馬鹿!」
「怒った顔もいいけどやっぱり笑ってたほうが可愛いよ?」
「殴られたいのか!」
 ジンがけらけら笑いながら部屋を出て行く。シファカは頭から湯気を出す勢いで、ジンを睨みつけていた。シファカの怒りの矛先を受け流すかのように、扉をゆっくり彼は閉めにかかる。
 ゆっくりと扉にさえぎられて消えていく、ジンの身体。
「じゃぁ」
 扉が閉じる間際に、囁くような声が部屋に響いた。

「さようなら、シファカ」

 ぱたん
 掠れた響きを持つ囁きは、扉の閉じる音によって余韻を断絶させられる。
 完全に閉じられた扉を睨みつけて、シファカは鼻息荒くため息をついた。散切りに斬られたままの髪先を指で玩び、唇を尖らせる。
「男勝りで悪いか馬鹿。怒ってばかりで悪かったな! あーもー、なんなんださよならって」
 囁きが、脳内で反芻される。

『さようなら、シファカ』

「……別れ、みたい、に」

(別れ)

 呟きながらシファカは、嫌な予感に思い当たって、さっと青ざめた。
 今までだって、ジンと自分は家が離れていた。街中で、稽古が終わったあとに、二手に分れる。ジンはナドゥの工房へ、自分は、城の宿舎へ。
 だが。

『またねーシファカちゃん』

 さよならなんて、別離の言葉。
(……ジンは今まで、一度だって使ったこと、なかった)
 シファカは弾かれたように寝台から立ち上がり、飛びつくようにして部屋の扉を開け放った。勢いのあまりに足を滑らせ躓きながら、もう一度体勢を立て直して廊下を駆け出す。
「お、お姉さま!? どうなされたんですの?」
「御免エイネイまた後で!」
 妹を含め、すれ違った女官や兵士が目を剥くなか、シファカは急かされながら走った。焦燥感が身を焦がす。警鐘が、頭の中で鳴り響いている。
 気のせいで、あってほしい。
 突如、どん、と曲がり角で勢いよく人にぶつかり、シファカは気持ちのよいぐらいに転倒した。
 ごっと腰をしたたかに打ち付ける。痛みに顔をしかめ、腰をさすると、同じくどこかにぶつけたのか頭をさすっているセタが居た。
「いったたたた、な、なんだ団長そんなとこで何急いで」
「ジン見なかった!?」
「……はぁ?」
 シファカは立ち上がり、セタの襟首を掴んで揺すった。
「ねぇジンだよジン! 見なかった?」
「……え、あ、さ、さっき城門で顔見たけど」
「ありがと!」
「え? お、おいー」
 駆け出したシファカの背中に、怪訝そうなセタの声が投げかけられた。
「だんちょーぉお?」


 乾燥した熱風が吹きさらす街を汗だくになりながら駆け抜けた。慣れたナドゥの工房までの道。城内を走ったときと同じように、多くの人が外套も着込まず走る自分を振り返る。
 いつか、これと同じように必死で町を走ったことがあった。
 そのときはジンが自分の追われている様をみて、追いかけてきてくれたのだ。
 あれが、初めてだった。
 初めての出逢いだった。
「ナドゥ!」
 工房は火が入っていて、若衆がひしめきあい、熱気で身体ごと外へ押し出されそうになる。かん、きん、と鋼を叩く音。それがシファカの声に反応して、わずかな間収まった。
「……どうしたシファカ? 外套も着ず汗だくで」
 布で額の汗を拭いながら呼び声に応じて進み出てきたのは無論ナドゥだ。彼は若衆たちに仕事の続きを手でさっと指示し、シファカを日陰に呼び込んだ。汗を拭くために木綿の布を差し出してくるが、頭を振ってやんわりと断る。呼吸を整え、胸に手を当てながら、シファカは呻いた。
「じ、ジン……ねぇジンどこ?」
「ぁあ? どうしたってお前」
「か、帰って来てないの?」
 口を噤んだナドゥの襟首に縋って、シファカは叫んだ。
「ジンはどこ!?」
「……あの馬鹿。シファカに黙って行ったのか?」
 ナドゥは顔に浮かんでいる皺をさらに深めた。憤りの滲む声色。
「……え?」
「……昨日出発のキャラバンだつってたぞ? あの阿呆……あ、おいシファカ!」
 土間に上がりこんだ土に足を滑らしそうになりながら、シファカは半ばナドゥを突き飛ばすようにして踵を返した。工房を飛び出して、キャラバンの発着場へと向かう。場所は町の正門だ。門が閉じられるのは、夕刻。
(ジンは、昨日の、キャラバンでいかなかった)
 思い出す。
 廊下の角で鉢合わせしたときの、ジンの安堵の笑顔。
『よかった、探してたんだ』
 おそらくジンは、自分を探して、出発を遅らせたのだ。自分は仕事で、一箇所に留まっていなかったから。昨日会うことができなくて、探していたに違いない。
 キャラバンは毎日出入りするものではない。今日出発のキャラバンが、あるとは限らない。上手くいけばキャラバンを探す彼に会える。

 幾度も。幾度も。幾度も。

 胸の痛みに苛まれるその都度。
 もう目の前に現れないで、どこかへ消えてと自分は願った。
 だというのに今になって自分は、愚かなことに彼がどこかへ行ってしまうという可能性を失念していた。
 彼はナドゥの家で働く居候の前に、旅人だった。
 国から国へと流れる、異国のひとだった。
 あまりにも近くにいすぎて、あまりにも、彼の部屋を訪ねたら、名前を呼んだら、にっこり笑って迎えてくれることに慣れすぎて。
(馬鹿だ私)
 何もわかっていなかった。
 本当に愚かだった。

 お願い。お願い。お願い。
 間に合って。
 イカナイデ。
 オイテイカナイデ。


 正門は閉じてはいなかったものの、既にその準備に取り掛かっていた。
 正門前の広場は閑散としている。キャラバンが居れば、それなりに賑わう場所だ。だが今はぽつりぽつりと帰路に着く人影がみえるばかりだった。
 シファカは通りかかった手近な商人らしき男の外套を捕まえた。なりふりは、構っていられなかった。
「あの、すみません今日キャラバンは出発しましたか!?」
「あぁ? あぁ出たけど……」
「何時!?」
「何時って、さっきだよ。ていってもまぁ一刻ほど前になるか」
 ほら、と男は正門へと伸びる馬車の轍を指差した。もうほとんど人の足跡などで消えかかってはいるが、それは確かに、そう昔ではない時間に馬車が数台、正門をぬけたことを指し示している。
「……一刻、ほど、まえ」
「何でも昨日出発のキャラバンが時間を遅らせてたんだ。護衛役の都合がつかなかったとかで……」
 がくんと
 身体全体の力が抜け落ちるのを感じ、シファカはその場にへたりこんだ。隣の男が慌ててシファカの腕を掴む。
「お、おい大丈夫か嬢さん!」
 だがいくらその男がシファカの腕を引いても、シファカはその場から動くことができなかった。城から走り通しであった身体は、指一本動かすことすら億劫であるとシファカに訴えている。やがて男は反応を見せないシファカをそのままに、どこかへ歩き去っていった。
 正門の、格子の向こう。白い太陽が赤みを帯びて、褐色の地平の彼方へ吸い込まれていく。
 その地平に向かって、薄く轍が見える。
 ジンが護衛をしているだろう、キャラバンの馬車の、轍。
 泣くことも出来ず、叫ぶことも出来ず、シファカはぼんやりと、風に攫われ消えていくその後を見つめていた。


 夕闇が周囲を支配し、点灯師が灯りを入れに駆け回り始めた頃に、シファカの背後で立ち止まる、人の気配があった。
「ねぇ」
 シファカは背後を省みた。そこには見覚えのある顔が哀れみの眼差しをシファカにむけて佇んでいる。金の豊かな髪と、ふくよかな身体。
 名前は、確か。
「……とり、しゃ」

 トリシャ。

 通りに店舗を構える衣装屋の、女主人だ。
 彼女はシファカの様相を舐めるように観察すると、その髪をわしゃわしゃと掻いた。眉間に皺を寄せて、盛大に彼女はため息をつく。
「……あーもー何。そういうことね。……まったく」
 ぼんやりとシファカはその顔を見上げた。トリシャは不機嫌という文字を貼り付けたかのような表情をしており、乱暴にシファカの腕を掴むと、そのまま力任せに引き上げた。
「いたい」
「いいから立ちなさいなんて格好してるの年頃の娘が。しかも外套も身につけないで。肌火ぶくれになるわよ放っておいたら」
「……でも」
「立ちなさいシファカ。そんなところで呆けてたって、ジンは戻ってこないわ。現れたりもしないわよ。私見送ったもの」
 ほら、と促されてしぶしぶ立ち上がる。衣装屋の女主人の手によって、強引に先導されるまま、シファカは住宅街のほうへと緩慢に足を動かし始めた。


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