第九章 その眼差しが重ね見る 3
その言葉に、押し黙る。
だって、あんなに、甘く名を、呼ぶのに。
ジンが背中に枕を入れて体勢を整える。シファカはその腕から抜け出すと、彼の伸ばされた脚に馬乗りになるような形でジンと向き直った。ちゃんと向き合う必要があると思った。抱きしめられたままでは、どこか気が散って話を聞けない気がする。
ジンが微笑んで、口を開く。
「俺にはね、大事な人が二人いて」
遠い在りし日に思い馳せるように、伏せられる瞼。思い出を指でなぞるかのように、一つ一つ、音は重さを持って紡がれていく。
「一人がレイヤーナ、一人がラルト……レイヤーナの夫で、俺の親友。二人とも俺の幼馴染でね。ラルトなんか生まれたときから一緒で、双子みたいにして育った」
ジンの語り口からその二人がどれだけ大事に思われているのかが判った。宝物の名前を呼ぶかのように、その二人の名前は一音一音が大事に発音されている。彼の親友、という人の名前も、シファカはあの夜に耳にしたような気がした。
「シファカが似ているのはね。そのラルトのほうだよ」
悪戯っぽいその響きに、シファカは思わず眉間に皺を寄せた。親友のほうに似ているってその意味はつまり。
「……男に似てるってことなのかソレ?」
思わずむっと口先を尖らせる。だがジンはあっさりと、それを肯定した。
「うん。何だろう。意地っ張りのところとか果てしなく不器用なところとか、物事を突き詰めて考えすぎちゃうところとかそれで煮詰まって気落ちしやすくて結構感情の起伏激しいし涙脆いし馬鹿正直だし生真面目すぎるし思い込み時々激しいしちょっとは柔軟になったんだろうけどでもあとそれから」
「それって全然いいところないじゃないか!」
「え。そう? あ、御免えーっとあとね。努力家のところとか……あと目が、似てる」
「……目ぇ?」
「うん。すごく真っ直ぐな、目。俺には真似できない」
褒めているのだか貶しているのだか。
一体その人はどういうひとなのだろう。自分に似ている?シファカは首を傾げつつ、もやもやっと想像力を働かせてみたりした。だがそれは出来の悪い粘土細工のような人型を脳裏でかたどっただけで、すぐに崩れ去っていく。
「でも容姿は全然似てないよ。当然。ラルトはまぁ綺麗っちゃきれいな男だけど、シファカは女の子だし、何よりもかわいいもんね」
「そんな風にご機嫌をとるな!」
拳をふりあげると、ぱすんとその手のひらで受け止められてしまう。もう片方の手で試みても無駄であった。ジンは機嫌よく、にこにこ笑っているだけである。能天気ともいう。
「本当だよ」
ジンの言葉は熱を帯びて、甘く囁かれる。
「かわいいよ」
かぁ、とシファカは血が頭に上っていくのを感じた。この男、口から実は生まれたのではないだろうか。よくもこんな歯の浮くような言葉を真顔で言えるものだ。シファカは俯き、ぎゅっと歯を噛み締める。この男といると、本当に自分が愛らしい少女か何かのように錯覚してしまいかねない。
自分が、そんな人間でないことを重々自覚しているからこそ、シファカは気恥ずかしかった。
「……れ、レイヤーナ、さんは、どうなんだ?」
「レイヤーナ?」
「……どんな人?」
ジンは再び、シファカの身体をそっと抱き寄せた。もう抵抗する気も起きない。段々、ただこの男は甘えたなだけなのだと判ってきていた。
「……君の妹さんにどっか似てるかな」
「エイネイ?」
「うん。誰にでも、無条件に愛されてきた人の特権。天真爛漫で、よく笑って、無邪気で、少し傲慢で、それすらも許せてしまうほどに、愛らしい」
「美人なんだ?」
「うーん。美人、かな。シファカより少し濃い黒髪と、白い肌をしてた。春風の妖精みたいですねって、誰か言ってたっけ」
黒髪に、白い肌。
(……あの、ひと?)
ジンが、きちんと目覚める寸前に、見た夢。
真っ白な平原。その向こうに連なる行列。影と死者の行進。ジンの手を引いていた、女性。
黒い髪の、幽玄な雰囲気をたたえる、美しいひと。
面を上げて、シファカは尋ねた。
「髪の毛、長い? 腰、届くぐらい」
「え? うん。確かに長かったけど……そうだな。腰、届くぐらいだった。何で?」
「……なんとなくそう思った」
やはりそうだった。
あのひとだ。
自分とは対照的な甘い雰囲気をかもし出す女性。
確かに、エイネイに少し似ているかもしれない。
「一つだけ、彼女に似ているところがあるよシファカ」
ジンが、複雑な表情に顔をゆがめた。
「……え?」
一拍おいて、彼が答える。
「どうしようもなく、弱いところ」
「……それ」
やっぱり、私のことを貶している? と尋ねようとした瞬間、ジンの腕が強くシファカの身体を引き寄せた。掻き抱く、という表現そのものの抱き方。顔がジンの胸に押し付けられて、息が詰まる。もがいて息苦しさを訴えると、彼の腕の力がぬけて楽になった。水中から呼吸のために浮上したときのように、ぷは、と息を吐く。
抗議しようと面をあげると、遠くに眼差しを投げかける、ジンの顔が視界に飛び込んできた。
震える声で、彼は言う。
「……彼女はとても弱くてね。不安定だった。きっかけを作ったのは俺たちだったんだけど。最初は俺もラルトもそれに気づくことが出来なくてね。彼女はどんどん笑顔を病んだものに変えていった」
「ジン」
「最初は無理に笑っていたんだと思う。俺たちが彼女に笑うことを望んでいたから。彼女も彼女なりに必死に泣くのをこらえていたんだと思う。無理に笑顔を作って、天真爛漫に振舞って、けれども、ある日を境に彼女はぷつりと切れて、わがままを噴出すようになり、笑顔を病ませて、壊れていった」
「……そのひと、どうなったの?」
「自殺した」
ジンのその言葉は、シファカを絶句させるに十分だった。見下ろしてくるジンの眼差しは、慈愛そのものであったけれども、それは身を切りさかんばかりの悲痛さに満ちていた。
あぁ、と納得する。
どうして、あの人がジンの手を引いていたのか。
彼女も、あの行進の中に埋もれているべき、一人だった。
連れて行こうと、していたのだ。ジンを。
「俺はねシファカ。シファカにそういう風になってほしくなかった。無理がでているのが、よく見えたから。シファカみたいな笑いを無理に作っているとね、いつか磨り減って壊れてしまう。人間はそれほど強くはなくて、本人が気づかないうちに、そうなってしまうんだ。そういう無理の仕方が、シファカはとてもレイヤーナに似ていたから、とても気になって仕方がなかった」
そう、とシファカは相槌を打ち、視線を伏せた。事情は理解できても、やはり同情からなのだという事実がシファカの胸を押しつぶす。同時に、非常に自分本位の思考しかもてない己に対して、嫌悪感がこみ上げた。
「……ジン、一つ訊いていい?」
「ん?」
「……そのひとのこと、愛してたの?」
親友の、妻だと、この人は言ったけれども。
やっぱり国を出た原因は、このその人の死にあるのではないかと、シファカは思った。
わずかな、間。
「……うん、愛していた」
ジンは一瞬の躊躇ののち、小さく頷いて言った。
とても、哀しくも甘い響きを宿す声音で。
シファカはジンの身体との間に腕を挟み、やんわりと距離を置いた。
「シファカ?」
ジンの身体の上からゆっくりと退き去る。このまま、抱きしめられているわけにはどうしてもいかなかった。そこはあまりにも心地よすぎて、自分がジンにとっての宝物であるかのような気分に陥ってしまう。
「私は大丈夫だよ」
シファカは笑った。泣きそうな顔をすると、絶対にジンは何かいうに決まっているから。
「私は、大丈夫だ」
本当はもっと別の言葉を言いたかった。けれどもどうあっても、今はその言葉をいえそうにない。
この人は、死者と自分を、重ねている。
ジンのいう、弱さというものが、今はなんとなく理解できる。ジンを刺してしまった、自分だから。
だけどもう、平気だった。このまま護衛の長の地位はセタが引き継ぐことになっている。ロタともきちんと話をつけた。
たとえもう、母の声を聞いたとしても、自分はその声には耳を貸さないだろう。耳にこびりついて放れなかった、あの叫び。それに囚われてしまった自分は、ジンを殺すところだったのだ。
自分を、きちんと律せねばならなかったのに。
今はもう大丈夫。
ジンの大事であった人のように、自分は、壊れたりはしない。
大丈夫。
「私は、その、レイヤーナさんみたいには、ならないから。ジンは、安心して」
寝台から降りて、もうそろそろ行かなくちゃいけない、とシファカはとってつけたように付け加えた。エイネイに呼ばれていたから、完全な嘘ではない。一歩二歩と後ずさって、くるりと背をむける。
扉を開くために手をかけると、ばん、とそれが背後から伸びた手によって閉じられた。
「な」
かち、と鍵が回される。そのまま背後から抱きすくめられて、後ろに引き倒された。
身体の収まっている先は、無論ジンの腕の中だ。
「そういうこと、いうから、安心できないんだ」
「離せジン」
「やだ」
「離せ」
「嫌だよ」
「離して」
「いやだ」
「いい大人が、子供みたいなこといってないで、離せ!」
「子供のようで結構。俺は離さない」
シファカの身体を抱きしめたまま、梃子でも動く気配を見せない男に、シファカは憤慨した。そんなことをしないで欲しかった。しないで欲しいと、口で述べているのに、どうしてこの男はわからないのか。
シファカは腕をついて体をねじると、ジンの首に腕を回してその唇に食らいついた。半ば、自暴放棄だった。
「あたし、ジンがすき」
唇を離して、シファカは告げた。
心臓が五月蝿いぐらいに音をたて、目頭が熱くなる。かたかたと、指先が震えた。なけなしの勇気をかき集めて告げる言葉。どうしてこんな風に、告げなければならないのだろう。甘い雰囲気は欠片もない。本当ならば、ずっと傍にいてほしいと告げることば。それなのに自分は、なぜか男を突き放すためにそれを口上している。
「私は、ジンが好き。だから、レイヤーナさんの代わりとか、その存在を重ねて、かまわれるのは迷惑だ。あたしがどうしてジンの顔を見なかったか? そんなの、決まってるじゃないか。じ、自分を通して、だれ、か、違う人をみていることが、わ、わかっちゃうからだよ」
泣いてしまう。
シファカは、どうにか涙をこらえた。ぎゅ、とジンの服を握り締めて、深呼吸。涙が零れ落ちないように、瞼をきつく閉じ合わせる。
「……ジンは、助けられなかった、その人の代わりに、私を助けたいだけ。私を、私が、だいじなんじゃない。……み、身代わりにされるのは、私はいや。ジンだからいや。いやだよ」
本当は、こんなことを言いたくはない。けれども、言わなければならない。さもなくば、いつまでたってもこの男は自分を死者と重ねるだろう。
優しくされるだけで、いいじゃないかと思う。
身代わりでも、それで優しくされるなら、いいじゃないかと思う。
だけど、だめだった。
この人が欲しかった。子供のわがままだ。自分だけのものとして独り占めしておきたかった。誰かの身代わりは真っ平だ。誰かと重ね合わせて見られるのは真っ平だ。
きゅ、と涙を振り切って、ジンを見上げて、シファカは告げた。
「だから、そんな風に誰かを重ねて、優しくするのはやめて。もう、かまわないで」
ジンが沈黙し、その腕が、緩む。
シファカは身体を起こしてジンの腕からすり抜けた。窓の外の光をみる。時間は夕暮れ。そろそろ本当に行かなければ、エイネイが拗ねる。それ以上に、この空間にいることが、苦痛だった。
だが。
「っつ」
腕が捕らえられ、がくんとつんのめる。振り返りざま、唇を奪われ、床にそのまま押し倒された。先ほどと同じだ。下半身をジンの身体そのもので固定される。
「やっ……ジ」
ン、の音は、そのまま口の中に封じ込められる。頬を両手で固定されながら、繰り返し唇をついばまれた。最初は浅く、徐々に深く、長くなっていく。ぴしゃ、という唇が濡れる音。舌を絡めとられる。余裕の無い、けれども優しい口付けが、シファカの口を蹂躙していった。
唇が離れて、熱の篭った吐息が双方から零れ落ちた。ジンの亜麻色の双眸は、今は黄金のように煌いて、目元を上気させるシファカの姿を映し出している。ジンの眼差しはあまりにも優しく、甘い。シファカはたまらなくなって、その首を引き寄せた。
再び、唇を貪ることに没頭する。唇というよりは舌での舐りあいに、とうにそれは口付けの域を超えているようにも思えた。
ジンの手が背に回り、シファカの躰をゆっくりと愛撫する。互いの体温が、高まり始める。
この一瞬ばかりは、身代わりでいいとシファカは思った。
それでいいと思った。
その口付けが、愛撫が、誰かを重ね合わせているというには、あまりにも優しすぎたから。
それで、いいと。
どうしようもないほどに、ジンが愛しかった。