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第九章 その眼差しが重ね見る 2 


 ジンの世話をしていたせいで、彼の部屋に篭っていた自分は、訪れるのが大分遅れてしまっていた。
 久しぶりに向き合ったロタは、さして憔悴した様子もなく、ただ少し老いをみせて椅子に腰掛けていた。
「殺したければ殺すがいい。お前にはその権利がある」
 訪れたシファカに対するロタの第一声がそれだった。
 ロタは賢人議会の頭としてそれなりの役割を与えられてはいたものの、空いている時間は全て一室で過ごすように命じられていた。いわゆる軟禁である。ロタもそれに逆らう素振りはまったく見せず、彼のしていることといったら読書と、書類の整理だった。
「……それ、何の書類?」
「……政務のな。引き継ぐのならまとめておかなければならん。私にしか判らないものも、数多くあるから」
 そう言うロタは、ほんの少し寂しそうに目を細めていた。宰相という地位と仕事を、彼は愛していたのだろう。実際、傍で見てきたシファカはよく判る。彼はその職務に手を抜くことは一切なかった。手を抜けば、王家を失墜させ国を滅ぼすことなど、容易にできたろうに。
 それを口にすると、彼は淡白に言った。
「別に国を滅ぼすことが目的ではなかった」
「じゃぁなに」
「……単なる妄執だ。あまりにも繰り返し説かれたがために、身体にこびりついてしまったのだよ」
 彼は窓の外を眩しそうに目を細めて見つめた。鳥だろうか。黒い影が太陽の光を遮ってひらりと空を舞う。それを目で追いかけながら、ロタは言葉を続けた。
「自分では判っていた。止めたい。こんなことは、馬鹿げたことであると。だがあまりにもこびり付いた言葉に、どうしても萎縮してしまうのだ。皆は私の弱さが原因だというだろう。それもまた真実だ。最終的にこうすることを選んだのは確かに私だからだ」
 ロタの語る言葉一つ一つ、シファカにも思い当たる節がある。繰り返される言葉。耳にこびり付いたその音律と意味。
 それに引きずられて、自分を見失った。呪いに当てられて正気を失う、ということはあぁいうことをいうのだ、と。今も身体を凍てつかせる生々しい記憶――ジンをこの手で切りつけてしまったこと――を思い返しながらシファカは静かに目を閉じる。
 確かに引きずられたのは自分だ。繰り返し呪詛にも似た言葉を吐き続けたのは母であり、自分の非ではないと、親しいものならいうかもしれない。
 けれど確かに。
 それらを跳ね返すだけの屈強さを身につけられなかったのは、自分の責任であるのだ。
 ロタが、自嘲めいた響きでもって小さく呟いた。
「ただ、訴えたかっただけなのだろう」
 目を開くと、そこには悄然と、子供のように小さく肩を落とす男がいた。
「子供と同じ原理だ。泣いて、訴える。暴力で、訴える。それと同じ。地下に押し込められて、我々の時は止まったままだった。そうなったのは、お前たちのせいだと、訴えたかった。苦しい、哀しい、痛い。ここから抜け出したい。だから、助けてくれと、訴えたかった」
 それにしては、多くを犠牲にしすぎたが、と、ロタは苦渋の響きでもって呟いた。
「それで、私を殺さないのか」
 思い出したかのように顔を上げる彼に、シファカは小さく頭を振った。
「……あんたを殺して、なんか変わるのか? ロタ」
 ロタを殺したところで、父は戻らない。
 何も変わらない。
 許すことはできない。それでも彼にしてほしいことは刀の錆になってもらうことではない。泣いて訴えても、刀をふるって訴えても、失われたものはもう戻ってこないのだ。それよりも彼には、まだ取り戻せる何かがあるだろう。
 たとえば。
 その手元にある書類をまとめることだとか。
 外交で活躍してもらって、キャラバンの出入りをもっと大きくすることだとか。
 今まで得た湖についての知識を、国に譲り渡すことだとか。
 そうしてこの不毛の王国を、少しでも豊かなものにしていってほしいと思った。
 罪を犯した彼に、そのようなこと、もう一度望むことはできないのだろうけれども。
 ふと、ロタが何かを思い立ったように面を上げた。
「シファカ。ジンというあの男は、元気になったのか?」
「意識が戻ってから医者と女官のいうことも聞かず、あちこちふらふらしてるよ。どうして?」
 ロタは少しだけ思案顔になり、シファカに微笑んだ。
「シファカ、お前あの男を好いているだろう」
 一瞬、その言葉の理解に遅れてしまう。
 次の瞬間には、血が沸騰したのかと思うほど、体が紅潮していた。ぎくしゃくと笑みを浮かべて、シファカは微笑んだままのロタに低く呻く。
「………………な、なに突然」
「きちんと捕まえておけ」
 意地悪げに呟かれた一言に、シファカは憮然となる。どうしてそんなことを、ロタに心配されなければならないのか。
「……余計なお世話だよ」
 そう呟いて乱暴に扉をしめ、シファカは細く嘆息した。


 ジンは一度覚醒すると、目覚しい回復を見せた。もともと内在魔力が高いのだ。常人では治らないような傷も、魔力が高ければ持ち直す。ジンが丁度それに当たって、この分だと普通に歩けるようになるまで早いでしょうと言われ、事実、すぐに動けるようになった。
 その丈夫さに脱帽ものであると、医者は述べる。急所が外れていたことも幸いしたらしい。喜ぶべきことであるが、ジンが体力を回復し、饒舌になればなるほど、シファカは口数を減らした。それに怪訝さを見せたのは妹だったが、彼女は何も言わなかった。
 恐ろしかった。
 告げたいことがあった。話したいことがあった。けれどもそれは喉元で何かに押さえつけられているかのように留まってしまう。
 恐ろしかった。
 身代わりと、言われてしまうことが。
 拒絶されることが、今更のように怖かった。


「しーふぁーかー」
 ロタにあった帰り、軽く訓練場で汗を流す。部屋に戻る途中、頭上から降ってきた声に、シファカは渡り廊下を仰ぎ見た。上には欄干に重心を預けて、ひらひらと手を振っているジンがいる。怪我をして、半月もたたないうちに動き回るようになった彼は、今日も王宮の中をうろうろしている。その行先はもっぱら書庫であるということをシファカは知っていた。ハルシフォンに許可をもらって、こもっているらしい。
 彼もまた、丁度その帰りであったのだろう。腕には数冊見るからに重そうな書物が抱えられている。気まずさから無視しようとすると、ジンの、ひょい、とその足を欄干にかける姿が視界の端をよぎった。
「わー馬鹿! そんなことするな!」
 慌てて振り返って彼の行動を止める。渡り廊下からここまでの距離は成人三人分の身丈は軽くある。通常なら止めたりはしないが、今はいくらジンでも、病み上がりの身である。まだ完全に塞がっていないだろう。傷に触りかねない。
 するとシファカのとる行動はわかっていた、とでも言いたげな意地悪な微笑を口元に刻んで、彼は言った。
「俺部屋にいるから後で来てねシファカ」


 彼が目覚めるまで入り浸っていた部屋に、今はほとんど足を踏み入れることがなかった。きちんと身体を清めて、衣服を着替えなおし、手元に戻ってきた刀を腰に提げて扉を叩く。どうぞぉ、と間の抜けた返事が返ってきて、シファカは眉間に皺を刻みながら扉の取手に手を掛けた。
 ジンの部屋は王宮の客室で、自分の部屋よりも幾分広い。だがいつの間にかその部屋は積み上げられた書物によって、散らかり放題だった。ジンは椅子に腰を下ろして、先ほど渡り廊下で抱えていた書物を真剣な表情でもって開いている。あまり見られることのない表情だ。じっとその横顔に見入っていると、彼は手早く栞を挟んで書物を閉じ、シファカに向き直った。
「座って。今ちょっと片付けるね」
 ジンはシファカのために椅子を引き、円卓の上を片付け始めた。とはいえど、本を積み重ねて寝台の上に置くだけだ。ジンはそのまま、忙しなく茶の準備などを始める。熱の招力石を茶器に落とす音が小さく部屋に響き渡った。
 シファカが卓に近づくと、書きかけの本が一冊開いたままになっていた。ジンがことあるごとに何かを書き込んでいた、あの冊子だ。いけないと思いながらもついついぱらぱら頁をめくってしまう。簡単な写生と細かい書き込み、地層の図形、人々の風景が、ありのままに描かれているそれは、どうやらジンの旅の記録のようだった。
 影が射して、すぐ傍にジンが佇んでいることに気づく。ばつの悪さに唇を引き結び、素直にシファカはそれを差し出した。
「……御免」
「いいよ。ありがと」
 ジンはシファカを咎めることもせず、差し出された冊子を受け取って寝台の上に放り置いた。大事なものじゃないのかな、とシファカは思った。あんなに、手垢がついて、擦り切れているのに。
「立ってないで座りなよシファカ。はいコレ」
 差し出されたのはまた見たこともないお茶。乳白にほんの少し紅がかかった色をしているそれは、つん、と強い香辛料の匂いがした。城では見かけないお茶だ。椅子に大人しく腰掛けて飲むと、喉を焼くような甘さが身体を痺れさせ、そして一瞬後にはその余韻一切を残さず引いていた。その際に、身体を動かした後特有の疲労も、波に攫われたように消えていく。
「おいしい」
「よかった。今朝買って来てね」
「……ってまた勝手に抜け出して! よくなるものもよくならないぞそんな調子じゃ!」
「あはは。大丈夫だよ。お代わりあるからね」
 うん、と頷いて、黙ってシファカはお茶をすする。ジンは頬杖を付いて自分の顔を眺めている。そんな風にじろじろ眺めないで欲しいと思った。眺めても、別に面白いものがみられるわけでもないだろうに。
 出来る限り目をそらして沈黙していると、ジンが頬杖を付いたまま口を開いた。
「……なんで俺を見ないのシファカ」
 ぐ、と、お茶を喉に詰まらせる。
 小さく咳き込みながら陶器を置く。すると背をさするべく手が伸びてきた。その手を拒絶すれば、ジンが表情を曇らせる。
「……触れられるの、いや?」
「……そういうわけじゃ」
「俺の質問に答えてシファカ。どうして、俺を見ないの」
 見ないのではない。見ることができないのだ、と。
 シファカは答えることができなかった。
 きちんと目を合わせれば、泣き出してしまいそうな自分がいることに、気づいていたから。
 恐怖があった。
 単に、大事な人と似ているだけ、といわれること。
 それだけ、といわれることの落胆を、自分は知っていた。その言葉がジンの口から吐かれることをシファカは恐れた。この上ないほど。
 ジンが、かたんと席を立つ。
 亜麻の瞳が一瞬細められた。
「そうやって俺のことすぐ、シファカは見なくなるよね」
 ぐっと腕をつかまれる。視線だけははずしたまま、殴られるのではないかと身構えた。だが手はすぐに離れ、すっとそれはシファカの脇と膝の下に差し入れられた。抱き上げられる。
 身体を襲った浮遊感に、シファカはぞっとなった。
「な、なにす」
 どさ、と寝台の上に乱暴に落とされる。その拍子に、本が数冊寝台から滑り落ちた。弾力ある寝台は落下の衝撃をすって痛みこそ感じなかったものの、即座にのしかかってきた男の体の重たさに骨が軋みをあげた。
「じ、え、ちょっとジンなにする」
 ジンの手が、首筋を撫でる。ゆっくりと、指で頚動脈を確かめるように。
 その感触と、降り注ぐ彼のひやりとした眼差しに、シファカは総毛だった。いつもは笑顔に縁取られている端整な顔は、急に無機質なものとなって、恐怖を抱かせる。
「ジン」
「俺をずっと避けてるけど、どうして」
「ジン、やだ」
「何が嫌?」
「何がって」
「こうやって上に乗っかっていること? 尋問していること? 俺という存在が? ねぇシファカ――」
 さら、とジンの指が短くなったシファカの髪を梳く。もったいない、とおどけるように彼は言葉を口にして、頬を挟んで吐息がかかるほどの距離で目を覗き込んでくる。
「シファカは、何がいやなんだ? 俺を刺してしまったこと? それを思い出すから、俺と話したくない?」
「……あ、たし」
「何? 口に出していってよ。俺ね、焦ってるんだと思う。すごくすごく焦ってる。ちゃんと言ってシファカ」
「……上に、乗っかってるのが」
「違うでしょ。その前にいうことがあるから俺を見なかったんでしょ」
 シファカは、下唇を噛み締め、きつく目を閉じて顔をそらした。ジンを直視できなかったからではない。涙が零れるのを堪えるためだ。けれどもそんな努力は無駄で。まなじりを伝った水滴は、ジンの手のひらをしっとりと濡らす。
 ジンの、困惑の声が、熱っぽく震えて落ちてくる。
「――シファカ……」
「ねぇ、どうして放っておいてくれないの?」
「……だから」
「放っておけばよかったんだ。早く国から出て行けばよかったんだ。そうすれば、死に掛けるようなこともなかったのに。馬鹿だよジン」
 本当は正面向いて謝罪するべきは自分なのに。
 自分は幼くて卑怯で、そんな風にしか話を切り出せない。
 そんな人間なのに、どうして放っておかないのだろう。
「しんどい目に遭わなくて、すんだのに」
 そんな人間である自分を、放っておかない理由は。
「――シファカ」
 何。
「危なっかしいから? 私のことをそんなに気にかけるの? それとも」
 それとも。

「レイヤーナさんに、似ているから?」

 ジンの。
 呼吸が一瞬止まった。
 シファカは改めてジンを見つめ返した。至近距離で見つめる男の顔。あぁ、好きだな、と思う。
 今更だとは思うけれども、自分はこの人をはじめてみて、とても綺麗だと思った瞬間から、好きだった。
 とても好きだ。自分を包み込んでくる手も、身体も、こんな風に、自分の一言一言に、容易く動揺を見せてくれる顔も。
 けれどもその眼差しが、自分の背後に誰かを透かし見ていることは知っていたので。
ときどき亜麻の瞳が、懐かしむように細められることは知っていたので。
 その自分ではない誰かを見ている眼差しを、直視したくなかっただけだよ。
「何で、シファカが、レイヤーナの名前」
「うわごとで、私のこと、そう呼んでいたから」
 熱に浮かされる彼の世話を焼いている間、幾度も唇が動いていた。
 音がなかった。誰を呼んでいるのか判らなかったし、こちらも必死だった。
 だから、あの夜に、はっきりとその名前を聞き取って。
 あぁ、この人の名前を呼んでいたのだ、と思った。
「ねぇ、私そんなにレイヤーナさんに似てるの? だから放っておけないの? 身代わりなの? 私はジンの何?私、私は――」
 揺らめく影。嗤う人々。最初は妹だと思って近づいて、そうしてあっさりと、捨て置いていく。
 同じ双子なのに。
 身代わりにも、ならない。
「……身代わりなんて、真っ平だ」
 本当は、こんなことを言いたいのではないし、こんな風に彼を拒絶したいわけでもない。ただ、身代わりはどうしてもいやだった。他でもない、ジンであるからこそ。
「……誰が、身代わりだなんていったの」
「私が、誰かに似ているから、放っておけないんだって、ジン最初にいったじゃないか!」
 空いた手のひらで、瞼を覆い隠す。呼吸が苦しいのは、押さえつけられているからではなくて。
 口に出すのが怖かったことを、言ってしまったからだ。
「……大事な、人に、似ているから、私が気になるんだって。ジンは私にそういった」
「だからってなんでそれがレイヤーナに結びつくの」
 そんなの。
 女の直感に決まっている。
 あんなに甘く呼ばれる響き。
 とてもいとおしそうに紡がれていた音。
 今だって、懐かしそうな響きを、その名前は含んでいる。
「違うの」
「違わない、けど」
「だったら」
「シファカ」
 ふわりと、身体が浮いた。
 ジンの身体が下に入り、丁度膝の上に乗せられる形になった。シファカの頬にジンの胸が当たる。柔らかく抱きしめられ、子供をあやすような優しさで頭を撫でられた。こつん、と顎が頭の上に当たる。こめられる腕の力に、シファカの身体は自然とジンの身体に押し付けられる形になる。
 耳に届く、彼の心音に、さっとシファカの顔は朱に染まった。
「確かに、レイヤーナは俺の大事なひとだったけれどもね」
 ジンが口を開いたのは、ため息に似た吐息と共にだった。面をあげるとジンの微笑がある。彼はその微笑をわずかに苦々しいものに変えて、言葉を続けた。
「……そしてシファカが彼女と似ている部分を持っていたのも確かだけれども」
 続く言葉を飲み込んで瞼を伏せたジンを見つめながら、シファカは尋ねた。
「レイヤーナさんって……奥さんなの?」
「は? 奥さん? なんでどっからそんな発想」
 ぎょっと目を剥いたのはジンだ。本当に驚いたようで、今まで見たこともないおかしな顔をしている。
 その表情に、ほんの少し噴出して、シファカは答えた。
「婚礼の準備抜け出してきたんでしょうとかなんとか、ジン言ってた」
『婚礼の準備……ほったらかして、きたんでしょ……シノちゃんに、怒られるよ』
 確かに、そう口にしていた。
「……レイヤーナは俺の奥さんじゃないよ」
 苦虫を噛み潰したような渋い顔を見せて、ジンは低く呻いた。
「え?」
 てっきり、という言葉をシファカが口にする前に、彼が低い声音のまま続けた。
「俺の親友の奥さんだった」


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